反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第5回 図表、中ソ改革推移。ロシア国民所得分布。外貨金準備残高推移。タックスヘイブン度。中ソ比較経済改革史序説:鄧小平とゴルバチョフの時代。浅川あや子July 2014。

       序3 中ソ経済改革の比較に関する主要研究
>先行研究が論じている中ソ経済改革の政策成果に大きな相違が生じた要因を,大別して
1.経済構造と初期条件要因,
2.政策要因,
3.その他の要因の3 つに分類して整理し,最後に小括する。
 
       序3.1 経済構造と初期条件要因
W。1.経済構造と初期条件要因,は省略する。
改革の絶対的前提条件は中ソともにスターリン主義支配体制であり、この絶対的所与の条件の下で経済構造の「効率化」を行うことは共通の課題。
また内外の国情の違いも大きいが、ソ連の置かれた経済構造と初期条件を主因として、ゴルバチョフの改革の失態が引き起こされた、とも思えない。ゴルバチョフ等は、国情から遊離して、上から「主体的に」経済改革→政治改革の道を自ら進んで選択したのである。故に、経済構造と初期条件要因,は従属要因である。
さらに、スターリン主義支配体制は権力を手放さない限り、資本主義政府よりも、ストレートに社会経済にコントロールが効きやすいという便利な特性がある。この肝心なところを曖昧にした。
 
>政策要因に大失態の原因を求める。
ゴルバチョフエリツィンの道以外の政治戦略を採用する余地は十分にあった。
特にゴルバチョフ重工業重視の加速経済改革→成果上がらず→短期間の政治改革の創出は、改革の絶対的前提条件が、スターリン主義支配体制であるという現実を無視したものであった。
資本主義の政府であっても、世界戦争情勢でもない限り、ゴルバチョフのような急速に経済改革と政治改革を同時に推し進めることはできない。
ましてスターリン主義支配体制の長く続いたソ連に経済改革と政治改革をカオス状態への突入なしに、同時に推し進める社会経済条件はなかった。
上から無理やり「革命情勢」のような非常事態を作り出したのにもかかわらず、状況を放置し、結果、クーデターーが勃発し、さらに輪をかけた無能エリツィン(最高会議議長)が権力の集中する大統領の座に就いた。
その道筋をあえてつけたのがゴルバチョフであり、引き継いだエリツィンは、オリガルヒ(金融寡頭支配者)の牛耳る経済体制を、完成させた。
ゴルバチョフ時代の5年間に中国流の改革の道もあった(ソ連における具体的な方法は、不明)
中国的な改革の道筋は国家の資産、国民の生活労働社会福祉を長い目で見て守る道でもあった。
中国共産党は経済発展の役割を終えると、やがて人民の中にメルトダウンしていくとみているからだ。現中国国家内の民族の独立はあるかもしれないがそれはそれで世界史中国史の歴史の歩みである。
以上のような大きな仮定に立つと、ゴルバチョフエリツィンは完全に道理の合わない政治の道を短期間にまい進し続け、国家の資産、国民の生活労働社会福祉をあまりにも大きく傷つけた、と断定できる。
 
プーチンは保守的国家主義者であり、合理主義的エリツィンである。
ゴルバチョフエリツィンの15年間の作った歪な経済体制を引き継いだプーチン体制に対して、EU,米国(従属覇権日本)はバブル崩壊通貨危機以降、低成長高インフレ高失業を絶対に是正できず、金融帝国主義の侵略性に活路を見出し、民族戦争(ウクライナ)通貨戦争(サウジ原油増産=ルーブル相場低下)を仕掛けている。
しかし、1998年のようなルーブル通貨危機は発生しないだろう。
当時とはロシアの経済力、国内政治環境も大きく違っており、こう着状態はかなり長期化する。
*引用NEVER。プーチン大統領は年次記者会見で、「外部経済環境についての最悪シナリオでは、現在の状況が約2年続くこともあり得る」と警告。
プーチンの支持基盤はGDP所得93%を占める所得低位層であり、EU、米国金融帝国主義の攻勢は結果的にプーチン国家主義支配の基盤を固める役割を果たすだろう。問題はタックスヘイブンへの資本逃避による経済不調である。
(E)ロシア国民の所得分布
約1600億円      60人     人口比        GDP比 16%
570万円        211万人   1,5%        20%          
260万円        788万人   5,5%        34%    人口比上位7%の所得はGDP70%
13,2万円       1億3100万人 93%         30%
イメージ 1
(F)ロシアの相手国別直接投資残高 2007年末残高 億ドル) 
キプロス 354,2億ドル
オランダ(W。この国も似たようなもの)  352,5億ドル
ドイツ          44,9億ドル
英国領バージン諸島 36,4億ドル
スイス          34,4億ドル
 
米国           28,8億ドル
フランス         16,2億ドル
英国           15,5億ドル

           
<表序1 中国の経済体制改革の推移(1978~1992 年)>
1978年12月  中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(11期3中全会)開催,改革・開放政策開始
1980年     農業改革(農家生産請負制)の展開 工業企業等で利潤留保の実験
1984年10月  党12期3中全会で「経済体制改革に関する決定」採択,「社会主義商品経済論」が公認される
          都市・工業部門で改革開始 工場長責任制の実施 利潤上納から納税制へ(利改税)二重価格 体系の導入
1986年12月  企業破産法を採択(1988年11月から施行)
1987年10月  中国共産党第13回大会開催,「社会主義初級段階論」を採択→私営企業が法的に公認される            国営企業で経営請負責任制が実施される。
         価格改革の実行→副食品価格の自由化
1988年4月  「国営企業法」を採択(1988年8月施行)
1989 年6 月4 日の天安門事件
1992年2月   鄧小平の南巡講話→改革・開放の加速
          7月「国有企業経営メカニズム転換条例」を施行・・・14項目の経営自主権を付与
   10月   国共産党第14回大会開催,「社会主義市場経済論」を確立。計画経済体制を否定


     表序2 ソ連ペレストロイカ期の経済体制改革・政治体制改革の推移(1985~1991 年
1985年3月  ゴルバチョフ ソ連共産党書記長に就任
1986年2月  第27回党大会 社会・経済発展の加速化路線の採択
         ゴルバチョフ書記長 根本的改革の課題を提示
         11月「個人労働活動法」採択
1987年1月1日 企業の権限拡大に関する経済実験を深化。すべての企業で新経営方式を採用
       1月 ゴルバチョフ書記長 政治改革を提議…党内の根強い抵抗にあう
       6月 党中央委員会総会で「経済管理の根本的ペレストロイカの基本命題」を採択
          最高会議で「国有企業法」採択(1988年1月施行)
1988年5月   「協同組合法」採択
       6月 第19回党協議会 党と国家の分離が最大の課題に。ペレストロイカは新段階(第二段階)へ
     6月 最高会議(ソビエト)議長制へ移行。ゴルバチョフ 最高会議議長に就任。 権力の中心を「国家」へ
1989年  3月  党中央委員会総会 賃貸借,個人副業,自作農を正当な制度として初めて位置づける
       5月 人民代議員大会 新しい「議会制」の展開→最高会議の開設
       12月 第二回人民代議員大会 ルイシコフ,アバルキンの93年からの市場改革案(穏健改革案)採択
1990年2月   党中央委員会拡大総会で党の指導的役割」規定を憲法からは除外する。 一党制放棄政治改革
         質的に新しい段階に。市場経済への移行が,「計画的市場経済」という表現で承認される
        「人道的で民主的な社会主義」の政治綱領案が提議される
        3月臨時人民代議員大会 大統領制導入→共産党の地位低下を加速。複数政党化進行
        ゴルバチョフを大統領に選出
        「所有法」採択
1990年5月   ルイシコフ首相 最高会議で市場経済への移行を報告(調整市場経済への移行構想)→
       消費財価格の引上げ→民衆の不満により撤回
       エリツィン ロシア最高会議議長に就任ロシア連邦共和国 主権宣言
       6月「企業法」採択
       7月第28回党大会 「計画的市場」経済から「調整市場」経済にいくことを決める(政府案)
       保守派の停滞。シャターリン案(「500日プログラム」)作成
       10月最高会議 政府案とシャターリン案の折衷案である
       「国民経済の安定化と市場経済移行の基本方向」採択。市場経済の導入を決定
       12月 4日最高会議 憲法改正を再度行うことを議決。内閣を大統領直属にするなど大改革行われる
 12月17日第4回人民代議員大会 ゴルバチョフの方針 統制色の濃いものに→市場経済改革の方針から後退
       シェワルナゼ外相辞任
1991年7月  「民営化法」「外資法」採択
       8月クーデター 共産党解散
       12月ゴルバチョフ大統領辞任 ソ連邦消滅

    序3.2 政策要因 
 W。上記の序3.1 経済構造と初期条件要因の違いがあるのは当たり前で、以下は改革主体のあり方に切り込んでいる。
**以下の7 点に集約することができ
るであろう。すなわち,
第一に改革の順序の違い。
第二に,共産党および国家の役割の違い。
第三に計画システムの崩壊。
第四に改革を主導した主体の違い。
第五に非国有部門の発展があり,
第六に国有企業改革の成果の違い。
 
*第一の改革の順序の違いは,更に2 つの論点に分けることができる。
つまり第一の論点は,農業部門の改革が,工業部門の改革に先立つべきなのか否か
*中国は農業部門の改革から,ソ連は工業部門の改革からスタートした。
農業の場合,所有や努力,報酬のつながりが明確で,生産の増大に結びつきやすい。正に中国はそのような改革成果を享受した。
 一方,ソ連では工業から改革が着手されたが,工業改革は即座に生産増大には結びつかず,成果が出にくいという相違があったという。
 
*W。肝心なところ!→二番目の論点は,政治改革が先か,経済改革が先かという問題である。
ソ連では政治改革が経済改革に先行し中国では最初に経済改革が行われた。
ソ連では政治改革によって強固な政治的コントロールが除去され共産党が弱体化したため,一貫した政策の実行が不可能になってしまった。
また政治改革によって経済組織が依存している政治的軸が弱められた結果,経済は急速に制御できなくなっていったのである。
W。経済改革がうまくいかない原因を政治構造に求め、なし崩しに上からの政治改革先行!もっとも当初の改造計画の絵図が急進的生産力主義で間違っている。
W。商品経済を下から徐々に浸透させるさせる道はあったはずだ。
 
>>またNolan(1995)によると,中ソ両国は,改革開始時点で大きな相違と同時に類似性も数多く有しており,両国ともに急速に成長する可能性があったが,政策選択の違いにより改革成果に大きな相違が生じた
すなわちソ連では,国家の行政機構を破壊するような政治改革が行われたことにより経済改革がさまたげられたのだ,と主張している。
  ↓W.同じ要因。改革時期に党と行政=スターリン主義国家権力を手放すか維持するかの問題。
     与えられた絶対条件であるスターリン主義体制を前提にするというのがリアリズムの政治。結果的に多     くの民衆の利益も守る。
  ↓
第二の政策的要因は,共産党および国家の役割の違いである。
Li(1994)によると,中国の市場化改革は,共産党の指導のもと既存の国家機関を通して行われた。
これに対して,ソ連では共産党や既存の国家機関は経済改革の妨げであると考えられ,政治改革が先に行れた。
また中国の市場化改革では,共産党によるイニシアチブが肯定的役割を演じたが,
一方のソ連ではグラスノスチの進展とともに,共産党は自信と正当性を失いやがて消滅してしまった。
更にChow(1993)は,政治的権力は分権化され,地方(省)は権限を持つようになったけれども,共産党は中国を支配し続けているとして,
政治制度においては抜本的変革はなされなかった,と中国の改革の特徴を述べている。
*同様に共産党の支配を中国の改革成功の要因としてみなしているのが Ferrero(2001)である。
*彼は,国家所有や大規模産業の党によるコントロールを放棄しなかったことと
党による管理職の任命やキャリア・所得をコントロールし続けたことの2 点を,中国の成功要因とみている。
*なぜならば,ノーメンクラツーラの間では,政治的レント=(利得、役得)割り当てのためには、基幹部門の国有企業が不可欠であるとみなされていたからであり,党による管理職任命等は,個人の党への忠誠を失わせないために不可欠であった。
中国において党への忠誠は,国有企業内での利益を得るための前提条件であるからである。W.政治のリアリズム!
>逆に,ソ連では,経済的機会の提供者としての共産党が衰退したことが,ペレストロイカ失敗の原因であったとみている。
中国が分権化を行いつつも党中央がコントロールを維持し続けていたことと,地方官僚の任命やキャリアをコントロールしていたことを中国の成功要因とみなしている。
  ↓党と国家の権力権限は重複してた。
>国家の役割についても, Li(1994)は,ソ連はあまりにも早く国家の役割を弱めたのに対して,中国では国家は改革に積極的に関わり,経済を統制する役割を演じたと,両国の相違を指摘している。

第三の要因として,計画システムの崩壊もあげらている。
ソ連では市場メカニズムが機能する前に,中央集権的システムが崩壊し,不足と大幅な工業生産の低下を招来したが,中国では,市場は中央集権的計画部門と併存する形で徐々に拡大していった。いわゆる双軌制である。
ソ連ではペレストロイカ期に指令システムの衰えが進行したが,それを他の調整メカニズムに置き換えることができなかった。W。絶対に無理だった。
*計画も市場もない無秩序な状態は当然の如く,経済パフォーマンスの大幅な悪化を引き起こした。
一方,中国では,市場メカニズムによる指令システムの漸進的な取り替えが行われたと,その違いを指摘している。
>中国では<移行の過程での計画部門の維持がアンカーとしての役割>を果たしていたため,比較的安定していたとの見解を表明している。
 
第四の政策要因として研究者が注目するのは,<改革を主導した主体の違い>である。

中ソ両国において,改革を主導した主体の違いを指摘する先行研究は少なくない。
中国で改革のイニシアチブをとったのは農民や地方政府等であり,従って「ボトム・アップ」型であった。
これに対して,ソ連でイニシアチブをとったのは党最高指導部内の<ゴルバチョフを支持するグループ>であり,従って「トップ・ダウン」型であったと指摘している。
W。党内の見解が割れた中でのトップダウンは迷走する。経験不足人材にも問題がある。実務派でしか解決できない問題が山と出現する。
ソ連の改革が中国のように自立したものとならなかったのは,
都市住民も農民も変革を好まず,リスクをとりたくなかったからであるとして,改革はゴルバチョフをはじめとする党最高指導部によって行われた「上からの革命」だった,とソ連の改革を特徴づけている。
ソ連では都市住民は職の保証を失うことを恐れて改革には及び腰で,農民もリスクをとりたくなかったが,
中国では初期段階から,政治指導者や地方官僚,都市住民,農民らによる改革に対する強い支持があったのである。
 
第五の要因として,非国有部門の発展が指摘されている。
中国では郷鎮企業,私企業,個人企業,外資企業等から成る非国有部門の発展を許容したことにより,経済的パフォーマンスが著しく向上した。
>例えば,Brus(1993)によると,中国では,農業を除く総雇用に占める非国有部門のシェア1989 年には58%,総生産に占める非国有部門のシェア1990年には45%小売販売高に占める非国有部門のシェア1988 年には60%にのぼり
非国有企業(特に郷鎮企業)の発展が経済に大きな「市場的」影響を及ぼしたという
*さらにWoo(1994)は,非国有部門が改革期に著しく成長した点を,<郷鎮企業=W。地方住民の労働生活福祉の面倒をみる一種共同体>の工業生産額>に占めるシェアが1978 年の9%から1991 年には31%に,郷鎮企業の工業労働に占めるシェアも1978 年の29%から1991 年には47%に急増したデータで示した。
*こうした非国有部門の発展は,Chen et al.(1992)らによると,農業改革によって生まれた高い所得や貯蓄,余剰労働力が,郷鎮企業の資本や労働資源となり,そのダイナミックな成長へとつながっていったという。
やがて郷鎮企業の発展は,市場活動の範囲を拡大し,国有企業に競争的圧力をもたらした。
一方,ソ連では農業経済が小さく,資本集約的で柔軟性に欠けていた
それゆえにソ連では,農村工業が国有部門に競争的派生効果を与える可能性は低かったのであった
国有企業の改革成果の違いが,六番目の政策要因にあげられている。
*すなわち,中国では,国有企業に大幅な経営自主権を与え,利潤留保を認め,成果主義的な経営請負契約を行った。
こうした政策が企業経営者の利潤追求インセンティブを大いに刺激し,企業の生産拡大,生産性の向上,TFP の伸びにつながった。
W?この程度のことが実行できないのはスターリン主義党と国家の弱体化求心力の低下に根本原因。
一方,ソ連でも国有企業に対して様々な自主性が付与されたが,価格改革,利潤分配改革等の補完的制度改革が伴わなかったため有効に機能しなかった。
 
最後に第七番目の政策的要因として,研究者は,対外経済開放の効果にも注意を払っている。
事実,中国における経済特区の開設や外国企業との貿易権の拡大,合弁の推進等の
対外経済開放政策は,経済成長に大きく寄与したとの指摘が多くの先行研究にみられるのである。
W。問題山積!いずれはっきりする。

           中国からみたソ連ソ連からみた中国
       第1章 中国からみたゴルバチョフ改革
   
    1.2 ゴルバチョフの経済体制改革
    1.2.1 「加速化発展戦略」の実施
1985 年ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは,西側諸国との経済格差や経済停滞に危機感を抱き,経済的立ち後れを取り戻すために機械工業部門に投資を優先的に振り向け,経済を加速的に発展させる「加速化戦略」を1986 年2 月の第27 回ソ連共産党大会で採択し,実行した(表序2 参照)。
*この「加速化戦略」の内容は,2000 年末までの15 年以内に国民収入と工業総生産額を2 倍にし,労働生産性を1.3~1.5 倍にして,一人当たり実質収入を60-80%増加させるものであるが,その実態は依然として総生産額を追求する重工業優先の発展戦略であった。
*陸南泉(2007a)の見解によれば,経済体制改革の初期段階で行ったこの加速化発展戦略が,誤りの第一歩であったという。
加速化発展戦略は,ソ連経済停滞の原因を深く分析することなく,国情から遊離した結果,ソ連は危機から脱却しないばかりか却って国民経済の崩壊を加速した。
*また,この頃さらに先鋭化してきた消費財不足の問題を
*解決するためには,重工業優先ではなく軽工業の優先的発展へと経済構造を調整すべきであったが,実態にそぐわない加速化発展戦略を実行して改革の基礎の不安定化を招いたとして,先行研究は経済面での政策の誤りを厳しく批判している。
 
     1.2.2 「根本的ペレストロイカ」の空転
*この「ペレストロイカ」という言葉は,当初経済管理の再編に関して用いられていたが,次第に言論の自由を意味する「グラスノスチ」(情報公開)や政治的民主化,歴史の見直しなど社会生活全体の刷新を意味するものへと拡充されていった。
最高会議(ソビエト)では「国有企業法」が採択された。
この「基本命題」=ペレストロイカは「国有企業法」と対となる規程で,国有企業を独立採算の経済主体とするためには経済管理も根本的に再編する必要があるとの認識から,行政的経済管理を経済的指導方式に改めようとするものであった。
さらに1986 年11 月には<個人の副業を正式に認める「個人労働活動法」>が,
88 年5 月には,消費財生産やサービス業,流通業に携わる市民による協同組合の結成を認める<「協同組合法」が制定>された。
これら2つの法律は,国有企業のみの一元的システムを改め所有の多元化を図る第一歩ともなる画期的なものであるが,こうしたソ連の経済体制改革措置に対する黄立茀(2003)の見方は大変厳しい。
W。個人の副業を正式に認める「個人労働活動法」、協同組合法」は国民に配られた株券買い占めの温床となった。
*事実,黄は,ゴルバチョフ以前のソ連の経済体制改革は,中央集権的計画経済体制の枠組維持を目的として,この体制に「補修」を行うことを目的としていたのに対して,
ゴルバチョフの上述の改革措置は旧体制,すなわち高度に中央集権的な管理体制を「打破」しようとしたものである,と断じている。
そしてゴルバチョフの経済体制改革が苦境に陥った根本的原因を,中央経済管理権の下部への委譲や経済管理機構の簡素化等,既得権益者の利益に触れたことにあるとみている
つまり,改革は既得権益層の激しい抵抗にあったがゆえに「空転」し進展しなかったというのである。
 
 ソ連のこうした実践に対して,中国では労働人口の絶対多数を占める農民が計画経済体制の既得権益者ではなかったゆえに経済的補償を必要とせず,中国の改革コストは低かった,と黄は述べている
ソ連政府の中央集権的管理体制を改革して企業に経営権を委譲し,市場メカニズムを導入しようとした試に対して,楊磊(1995)と熊小奇(1992)の見解はさらに注目に値する。
*まず楊は,経済体制改革の中で,<市場を主体>(W。もともと無理筋)とする<混合経済へと急速に転換したことが経済を機能不全に陥れ,深刻な経済危機を引き起こした要因であるとみている。
   W。ショック療法の大間違い
       ↓
ゴルバチョフ政権が進める改革では,袋小路に迷い込んで急速に市場を主体とする混合経済へと転換した結果,国有経済が絶対的比重を占めていたために市場メカニズムが確立できず,改革の過程で以下にあげるような特殊な情況が出現したという。
*それは第一に,市場を主体とするものの,経済的基礎は国有経済であり,
*第二に,行政権力を基礎とする計画は廃止するけれども,市場メカニズムは制約を受けるためにその役割を発揮できず
*,第三に縦方向の情報ルートは断ち切るものの横方向の情報連関は未だ確立していないという事態が生じたのである。
これはゴルバチョフ改革が中途半端であるがゆえに旧体制も機能せず,市場メカニズムも確立できないという情況が出現したために,ソ連経済に混乱と危機がもたらされたとする見方である。
熊は経済体制改革の混乱と経済危機の深刻化の原因を,ゴルバチョフの誤った政策実施によるものと判断している。
すなわち,ソ連の当時(1980 年代後半~90 年代初)の生産力は,西側の発展した国家の水準に達していなかったので,この時期の生産力に適合した中央集権的管理制度が一定の範囲と程度まだ必要であったのに,それを改革するという過ちをゴルバチョフは犯したと批判しているのである。
また童書興(1991)は,高度に中央集権的な行政命令体制を改革し,権限の委譲を行うべきであるが,中央の権威を根本的に否定すべきではないと述べている。
*ここから,中国人研究者は,権限の委譲と中央の権威の否定を急ぎすぎたことが,ソ連における経済的混乱の要因となったと推論していることが読み取れる。
*以上の通り,ソ連が中央集権的管理体制を急激に改めようとしたことに対して,総じて中国側の評価は大変厳しいことが見て取れる。

       (1)農業改革の立ち遅れ
序章でも強調した通り,中国の経済体制改革は農村から始まった。すなわち,中国の農業分野では1980 年代より個別の農家に生産物の生産を請け負わせる「農家生産請負制」を中心とする各種の請負制が全国で実施され,農村改革が進展した(表序1 参照)。
農村における生産請負制は農民の生産意欲を大いに高め,食糧生産額も飛躍的に増大し,農村改革は大きな成功を収めた。
  張傑(1993)は中国の農村改革の成果として,以下の3 点をあげている。
第一に農業生産の停滞状態を終わらせ,農業生産を増大させたこと。
第二に,人民公社の流れを汲む郷鎮企業等の非国有経済が急成長し,軽工業の発展を促進したこと。
第三として,農村改革の成功が都市工業発展のための市場を作り,都市改革のための良好な外部環境を創り出したことである。
経済体制改革を農業から開始した中国とは対照的に,ソ連は改革を農業からではなく工業から開始した。
この戦略選択が適切ではなかったと主張する中国人研究者は少なくない。
 
*例えば,張傑(1993)はソ連が農業から改革を開始しなかった理由として,2 つの観点をあげている。
第一に,ソ連の集団農業は低効率ではあったが比較的安定しており,農民の現状を改変したいという要求は,中国と比較して余り切迫感がなかった。
第二にソ連の農業は機械化が進み,分業も高度化していたため,家庭を単位とする農家生産請負制のような改革は受け入れられなかったということである。
>けれどもこうした事情があったとしても,ソ連経済の現状を考慮すれば先に農業改革を行うべきであった,というのが中国側に多い見方である
その代表的見解は,陸南泉(2007b)の論考である。
陸は,ソ連農業は長年の政策上の誤りにより立ち遅れた状態にあり,当時のソ連では食料や生活に必要な消費財の供給が非常に逼迫していたため,市場の需給問題を解決するために,
改革当初の数年間重点は農業問題の解決に置かれるべきであったがゴルバチョフ政権はそうはしなかった
このことが経済体制改革の進展に否定的な影響を与えたと述べている。

        (2)企業改革の問題点
ソ連では前述の通り,1987 年6 月に「国有企業法」を採択し,88 年1 月より全ての国有企業において同法が施行された。
この「国有企業法」は,独立した商品生産者としての企業の権限を拡大し,市場メカニズムを活用して効率の欠如した国有企業を改造し,経済に活力を与えることを目的としていた。
しかしゴルバチョフが根本的ペレストロイカの核心と位置づけたこの国有企業改革は,様々な矛盾や問題点を抱えていたため,所期の目的を達することなく挫折してしまった。
この国有企業改革失敗の要因に関する議論は多様であるが,ここでは3 つの論点に絞って検討することにする。
(a)企業改革と企業を取り巻く外部環境の改革が整合的ではなかった,
(b)企業自身が抱える問題,
(c)企業改革に対する既得権益層の抵抗,の3 点である。
 
  
 
   (a)企業改革と企業を取り巻く外部環境の改革が整合的ではなかった。
高度な国有化体制の下では,創造的な精神をもつ企業や起業家を創り出すことができないし,競争から来る経済的原動力や発展は生まれ難いという主張である。
こうした状況の下,企業に経営自主権を与えたところでかえって計画体制が混乱し,計画経済体制の内部メカニズムが破壊されてしまう結果,
*投資が減少して生産が急減し,賃金の増加はコントロールを失い,不足は日増しに深刻化したと張は述べている。

>中央集権的管理体制をこの時期に一気に改革するのは時期尚早である,との議論も出てくるのである。
   
 
            (b)企業自身が抱える問題
企業は与えられた経営自主権を行使して<効率的経営>を行い,<拡大再生産のための投資>を行うのではなく,W。政治が安定的に機能しない中では拡大再生産投資の経営環境はない。
独占的地位と競争メカニズムの働かない状況を利用して自己の利益の最大化を図り,増大した利益を従業員らの賃金やボーナスとして分配した。
こうした従業員の貨幣収入の増大が,激しいインフレを招いた(固定価格の下でのインフレは,行列や品不足の形で表れた)という。
*これは曹駿(1999)が指摘するように,企業に自主権を与えると同時に,企業が経済的責任を負うようなメカニズムや懲罰制度を導入すべきであったが,そうしなかったために企業の勝手な行動を抑制できなかった結果であろう。
   
 
          (c)企業改革に対する既得権益層の抵抗
先に述べたとおり,ゴルバチョフ既得権益層の改革に手をつけた。要するに,企業に経営権を委譲したことにより,中央幹部や部門省の利益が大きく失われたのである。
とりわけ部門省の抵抗が大きく,李建民(1990)は,依然として行政的手法で企業を管理・拘束し,新経済メカニズムをボイコットした結果,改革措置が十分実施できずに同メカニズムが元の形を失った(例:国家発注)ことを報告している。
さらに,「国有企業法」に規定された賃金改革も,社会の大多数を占める労働者の「安定した収入」や「一律の待遇」といった利益を損なうものであったという。
こうした社会各層の改革に対する大きな抵抗を指摘した上で,ソ連では非国有経済が発展していなかったため,
*利益が損なわれる既得権益層に補償することができなかった結果,改革は人々に支持されなかった
,ということを強調する中国側の文献も何点かある。
*他方,中国では非国有経済(郷鎮企業外資企業等)の発展により,経済体制改革の過程で利益を失っ人々に就職や収入等の新たな経済的チャンスを与えて補償した結果,改革が支持されたという意味で,両国の改革における非対称性が強調されている。
*こうした中国側の見解は,国有企業改革を行うためには,まず非国有経済を発展させて利益を失う人々に経済的補償を行い,改革でこうむる損失を緩和して改革に対する支持を取り付ける必要のあることを強く示唆している。
*中国人研究者によって指摘されたソ連の国有企業改革における問題点の多くは,中国の企業改革の際にもみられた現象であることである。
これは,ソ連経済体制改革の問題を指摘しつつ,中国の経済体制改革の問題を暗に語っているとも考えられるのである。
つまり,中国自身を映し出す鏡の役割として,ソ連ゴルバチョフ改革を評価していると推測されるのである。
     
     
 
            (3)経済危機の深刻化
*1988 年の労働生産性が4.8%,89 年,90 年のそれがそれぞれ2.3%,-3%であるのに対して,住民
貨幣所得は1988 年が9.2%,89 年13.1%,90 年16.9%と急激な伸びをみせたのである。
これは前述したように,「国有企業法」の実施により大幅な自主性を付与された国有企業が,企業に留保される増大した利潤を従業員の賃上げやボーナスの支払いに回した結果であった。
消費財生産はそれほど増えなかったため(1988 年には5.1%,89年5.9%,90 年6%増)(同上),この過剰購買力は隠れたインフレ圧力となった
経済危機が深刻化したことが,人々の改革に対する自信と社会主義制度に対する信頼を失わせ,経済体制改革失敗の直接的もしくは間接的要因となった,と指摘する論考は比較的多い。
*経済体制改革を行う際には,経済を発展させて人々に実利をもたらし,改革に対する支持を得ることの重要さを強調しているのである。

             1.3 政治体制改革への転換
「国有企業法」を中心とする経済体制改革は,既得権益を失うことになる中央官僚機構や保守派党機関の激しい抵抗にあい,事実上骨抜きにされてしまった。
こうした経済体制改革の阻害要因となっている官僚機構や党機関にメスを入れ改革の主導権を取り戻すために,ゴルバチョフは政治体制改革へと乗り出した。
>1988 年6月に開かれた第19 回党協議会において党と国家の分離が課題となり,最高会議(ソビエト)議長制へと移行し,ゴルバチョフは最高会議議長に就任した(表序2 参照)。
つまり,権力の中心が党から最高会議へと移行したのである。
1989 年の5 月には初の複数候補制による人民代議員選挙が行われ,人民代議員会議と最高会議という二重構造の議会制度が形作られた。
>1990 年2 月には党中央委員会総会において根本的な政治体制改革が示され,改革は質的に新しい段階に入った。
「人道的で民主的な社会主義」の政治綱領案が提起されたのである。
この政治綱領案では「党の指導的役割」を憲法から削除し,一党独裁制の放棄,複数政党制の容認,党と国家の分離等が打ち出されている。
この年には共産党の指導に代わって強力な権限をもつ大統領制が導入され,ゴルバチョフが初代大統領に。
この様に次々と政治体制改革を進めて,ソ連共産党が政権に対してコントロールを失うことになったことが,ゴルバチョフ改革失敗,ひいてはソ連崩壊の要因になったと考える中国人研究者は非常に多い。

          1.3.1 ゴルバチョフの改革理論
ソ連では改革を行って「社会主義を改善する」のではなく,社会主義を捨て去る方向へと進んでしまった。
これは中国側に言わせると,「改革理論の誤り」ということになる。
第二の点は,ゴルバチョフが経済体制改革には堅固な政治的基盤の保証が必要であることを理解せずにその基盤を弱めたため,経済体制改革は行いがたかった,というものである。
  
 
  中国が考える経済体制改革に必要な政治的基盤とは,4 つの基本原則。
すなわち①社会主義の道,②人民民主主義独裁,③共産党の指導,④マルクスレーニン
主義と毛沢東思想,の堅持である。
これら4 つの基本原則のうち,とりわけ「社会主義の道」,「共産党の指導」,「マルクス・レーニン主義の指導思想」をソ連が放棄したことが,
経済体制改革の失敗につながったとみなしていることが,多い。
 
第三点は,社会主義体制モデルの選択に際しては,国情至上の原則と社会主義の根源追求の原則(「求本原則」)に従うべきであったが,ソ連の実践はこの原則から逸脱していたというものである。
ゴルバチョフソ連の実際の情況から遊離し西側のやり方を引き写した結果,改革は社会主義の方向を失った,と曹駿は批判している。
社会主義体制の「資本主義化」や「西洋化」を中国が忌避し,イデオロギッシュな観点からゴルバチョフ改革をみている証左といえるであろう。
 
中国におけるソ連(ロシア)研究の第一人者とも言える陸南泉の別の見方を紹介することにしたい。
陸は明示的には述べていないが,ゴルバチョフ改革失敗の根本的原因を,ソ連の伝統的体制,すなわち<スターリン型の社会主義体制に見いだしている>
つまり,ソ連期,マルクス主義に対して硬直化した教条主義的態度をとり,理論的タブーが存在したことは,体制改革の進展を難しいものにし,改革を通して社会主義を新しい状況に適応させることができなかったと述べている。
さらに注目すべきは,陸の以下のような指摘である。
*すなわち,ソ連では改革理論に対する自由討議を認めず,すぐに政治的レッテルを貼るので改革理論は発展し難く,改革も深化し難かった。
改革理論についての議論や自由討議を認めることで改革理論を進化させていれば,中央集権的管理体制の除去や共産党の指導の排除のような過激な改革措置の実施は避けられたのではないか,
との含意を,陸(1996)の論考から汲み取ることができるのである。
 
ソ連期に発展させることのできなかった改革理論の具体例として,<<所有制の問題>>を多くの中国人研究者が取り上げ論じている。
*例えば魏東海(1997)によると,ソ連では公有制と市場経済を対立させ,経済体制改革とは公有制を全面的に改めることであると考えたという。
これに対して中国では,理論的に公有制には異なる形態が存在し,その他の所有形式(例えば,郷鎮企業や個人企業,外資企業の様な非国有経済)も社会主義経済に必要な補足であると解釈した,と魏は述べている。
*つまり,教条主義的な考えに囚われて所有制理論について討議することがなく,所有制の多様化,多元化を図れなかったことが,陸南泉(1996)の言う「(社会主義制度の下で)市場経済への移行に向けて改革の方向を確立できなかった」原因の一つであると推察される。
   
 
 
       1.3.2 政治体制改革がもたらした危機と混乱
経済体制改革が深まり発展していく過程で,強大な抵抗にあい苦境に陥ったため,局面打開を図ろうとして,ゴルバチョフが改革の重点を経済領域から政治領域へと移したことは,先に述べた通りである。
この経済体制改革を一時棚上げして政治体制改革を進めたことと,この期間にゴルバチョフが実際に行った政策に関して,先行研究の議論が集中している。

   <中国側が誤った政治体制改革政策であると考える論点は,筆者の総括によると以下の4 つ>
それは第一に,
ゴルバチョフが「民主化」と「グラスノスチ」の下で中央集権的管理体制の改革を行ったことにある,と先行研究がみていることである。
経済体制改革の抵抗が主として政治体制から来ていることを認識したゴルバチョフは,
1988 年以降,「歴史の見直し」「グラスノスチ」「民主化」運動を始め,「世論の多元化」,「政治の多元化」もしくは「多党制」の確立を行い,高度に中央集権的体制を弱めようとした。けれども「民主化」と「グラスノスチ」の下でこうした改革を行ったところ,
次のような情況が出現したと林水源(1991)らは報告している。
①古い経済主体が麻痺状態に陥る一方で,新しい経済活動の主体(つまり真に独立した自主権を持つ企業)が形成されず,経済的混乱が引き起こされた,
②政治体制改革プロセスは管理主体,すなわち政権中枢の機能不全を招き,伝統的体制の多くの弊害が除去されないばかりか,かえって先鋭的な社会衝突を引き起こした(例:民族衝突,ストライキ・デモの頻発,犯罪の猖獗等)
>>要するに,ソ連は中央集権的管理体制を弱めようとして改革を行ったところ,政治的にも,経済的にも国家の機能不全を引き起こし,社会的危機,民族的危機をも招来してしまったのである。
節度のない「民主化」,際限のない「グラスノスチ」の結果,人々の間に反ソビエト体制,反共産党感情が巻き起こり,党と政府は権威を損ない,社会全体が無政府状態に陥って,安定的な環境は失われ,この結果経済体制改革は推進しがい状況に陥ったという。
 
>>第二の論点は,
1990 年2 月に党中央委員会拡大会議で「共産党の指導的役割」を憲法から外し,一党独裁制を放棄し,多党制を実行したところに誤りがあったというものである。
共産党の指導を放棄することは,社会主義制度を放棄するにも等しく,ソ連の経済体制の政治的保証を失うものであると黄丹(2003)は論じている。
*政治的保証を失った経済体制改革は,推進しがたいという訳である
 
>第三は,党と政府の分離を行い,権力の中心を党からソビエト(最高会議)へと移行させたことであるとする。
すなわち,党政分離の過程で,行動が速すぎて綿密さに欠け<「権力の真空」>が生じたという
党政分離の後,ゴルバチョフは一切の権力をソビエトに返すと同時に,行政機関を簡素化し,人員を大幅に削減した結果,政府はかなり弱体化し,経済や経済体制改革の重大な問題は「三不管」の状態に,
①党は権限がなくて管理できない,
②最高会議は力がなくて管理できない,
③政府は管理する方法がない,情況に国家は立ち入ってしまったと指摘されている。