反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

大阪市廃止分割の住民投票の実録、と評価、教訓。

僅差で通称「大阪都構想」なるものが否決された。投票日当日の朝、ウォーキングの帰り、マイクを使用している宣伝カーを見かけたので、おやっと思った。いったん帰宅し、予定していた室内運動をして、投票所に行くと、ナント投票所の学校門の両サイドに賛成派と反対派の運動員が左右二手に分かれてたむろしていた。賛成派のユニフォームのオレンジ色の半そでTシァツ姿の運動員の数が圧倒的に多く、一人が旗を掲げ6~7人はいただろうか。全員40歳前の男性のようだった。反対派は初老の二名が「反対」を印刷されたプラカードを二人で持っていた。さえない印象がした。
反対派のヒトに「投票日当日も運動はしても良いのか?」と尋ねると選挙ではなく住民投票なので、当日の運動への規制もないという。選挙当日に物情騒然たる状況が予想される中、市民生活に具体的で大きな影響を及ぼす重大な案件に対して判断をゆだねられていいものか、と強い懸念を覚え、怒りがわいてきた。
 というのは、通称、都構想なるものを具体的に丁寧に検討し、全貌をつかむためには、相当な知識が必要となる。そればかりでなく、問われている内容に対する経験値が高い方が全貌がリアルにわかり易くなる。
     
 
   <反対派各党派の公示期間中の活動評価>
>町中の宣伝活動では共産党系のものが目立った。末端活動への動員力がある。また。参加者は、日頃からこうした活動スタイルに慣れており、前に踏み出すことができる。
主張を聴いていると、党派色があり、やり過ぎると逆効果になる可能性があると見た。宣伝内容は上手いとは思えなかった。もっと、理屈に沿って諄々と説くべきであり、有権者には、それに答える力がある。ココを重視していないようだ。啓蒙も必要なのに扇動色が目立つ場合があった。活動量に比べてどの程度の効果があったのか、関心がある。しかし、共産党の活動量が、反対運動を底支えしていた。
 
自民党は宣伝カーからの説明はきちんとやっていたが、支持者は選挙と同じような投票行動には集中しても、支持者を動員しての大衆宣伝活動はしない。そういう方針で臨んでいるようであった。
 
>公明は終盤に宣伝カーを繰り出していたようだが、日頃の選挙活動の宣伝カーの活動の足元にも及ばなかった。得意の期日前投票に精を出していたのではないか。コレは自民党にもいえることである。
町角の張られているポスターも住民投票の賛否と直接の関係のない意味不明のものであった。2~3割は賛成票に流れたのではないか。
 
民主党社民党系は末端に、こうした政治問題で動ける者を日頃つかんでいないことが、最大の弱点だが、特定のキャラを動員して、強固な反対派活動を展開していた。
公示終盤に気付いたが、「いしん」賛成票は、投票率が上がって、若者が動員されたことによるものと思われ、おそらく僅差の賛否の分かれ道は、民主党系、社民党系の政治イデオロギーの大枠に収まる人たちが、危機感を抱いて反対票を投じたためではないかと想像する。
 
 
 
 
 まず、住民投票に至る過程への理想的な筋道があって良いはずであった。
この案件は議会の二つの専門部会で詳細に検討されてきて、そこでの質疑で具体的な実務方面を含めて、一定の信ぴょう性のある数値を含めた通称「大阪都構想」問題点が明らかになり、反対多数で否決されている。
 
 問題は、この専門部会の議論の内容の公開がないことである。
ダイジェストでも良い、専門部会の議論の推移が公開されると、投票公報で「「いしん」のクローズアップしている都構想実現で4000億円が生み出されるなどと云う数値の根拠はもっと具体的に明示されなければならないはずだった。
専門知識の必要とする財源問題は、都構想のメインテーマであり、有権者側も、厳正な姿勢で理解する必要があった。「いしん」の一貫した戦略都構想が大阪の問題を根本的に解決する根本的な方策(橋下あいさつ文であるという改革ムードを煽ることであった
 
>ただし、橋下徹市長の公報冒頭に記された、あいさつ文の内容を吟味すると、「大阪の問題を、都構想で根本的に解決するのか、今のままで我慢するのか」としか結論付けていない
 
根本的に解決すべき状況認識では慎重な云い回しが、際立って>いる
裏返すと、その程度の状況認識であれば、大阪市だけの制度改革は必要なく、政策展開で改革は行えるはずと見るのが当たり前の政治感覚である。急進的な私でさえ即座に、そう思ったのだがら。
>ところが、住民投票の僅差の現実は、理性的判断以外の無定形な情念が大衆規模で働いたと見る方が正解である。
なお、前回の記事に対するコメント氏への答えは、文言を逐一問題にしていくと、とんでもない見当違いのものであったが、敢えてそうしかなった。文脈としてまとまっているし、一つの見識と見たからだ。
しかし、橋下「いしん」的改革をやっているうちに何とかなるでは、社会科学による予見は必要ない。大阪市大阪府と云う対象が限定されており、その気になればわかり易い結論が導き出される。
明治新など何の関係もない歴史上の問題系にすりかえて云々しようとしているのだから、よっぽど余裕のある暇人とお見受けする。戦争の現場に置き換えるとよくわかる。いい加減な戦局の見通しを立てると、部隊は壊滅する。後で述べるが橋下徹は「都構想」の実務レベルの大きな欠陥には気づいていた。議会の部会で慎重に討議を重ねてきて浮かび上がった事実は覆しようがなかった。分かっていて大衆扇動のアイテムにしていたのである。
 
引用。
人口減少や少子高齢化で右肩上がりの成長が見込めないこの時代増税や借金という形で皆様がたに負担をお願いすることなく、徹底した改革で税金の無駄遣いをやめる
そこで生み出したお金を、医療や福祉、教育の充実に充て、住民サービスをよくする。もっと住みやすい大阪にする」
 
政権交代は支持したが、ケチケチ路線で大きな税源が生み出されるとか、行政のどこかに埋蔵金が埋まっているなどと云うのは全部、ほら話の類だと思って相手にしなかった。
日本経済全体でみると、合成の誤謬が生まれる。コレは典型的な経済縮小路線である。なお、リフレ派の政策が正しいとは云っていない。
政権交代前の民主党結成された当時のみんなの党が盛んにこのような基本政策の方向を示していた。その結果がどうだったか、という政治の現実によって検証された結論を尊重すべきなのに、橋下徹市長は相変わらず、同じ政治路線を提唱している。
 
>確かに今の日本の内外の現実に根ざした、一つの処方箋ではあるが、このような方策は経済活動を委縮させ、税収減になることは、民主党政権交代以降の事実が指し示している。
 
みんなの党の分裂も、政治家と政局の問題ように見えるが、根本的には縮小経済路線に対する国民の大きな限界ある支持が、「いしん」と二分されたことにあるもともと、大きくならない政治のパイを二つの党が分けあったのであるみんなの党との協力をすすめるみん党シンパの古賀茂明に対して橋下が食うか食われるか、といった姿勢は同じ政治のパイを争っているという狭い範囲ではただしい。石原等と合併した大局的判断が間違っていただけだ。
 
>しかし、こう語る人物が地方自治体の長である、現実が招く混乱を見据える必要がある大阪地方自治、地方政治に混乱が続いてきたのは当たり前だ。行政のトップに立つ者や議会第一党が、常に前のめりの全体主義運動の指導者であり幹部であるからだ。最低限の弁えさえ持ち合わせていないのが「いしん」支持者である。
 
>更にあいさつ文から大阪「いしん」の決定的な誤りを見出すことができる。現実から遊離した過剰な改革志向
を提示し実行しようとする人災である。
 
「大阪の問題」にたいして、「都構想で根本的に解決」をぶち当てているところは、なんとなくイメージ的にはわかり易いが、専門的に実務的に検討すると、メリットよりもデメリットの方が圧倒的に多くなる、ということは素人でも真面目に考えると解ることである。
投票公報を素直に読めば、反対派の見解の方がはるかに的確に的を射ていおり、説得力がある。事実をありのまま示しているからだ。
 
大阪都構想仔細に検討する必要があり、それなりの知識を要するが、普通の有権者が時間をかけ、本気で検討すれば、分かってくる問題である
 
何よりもハッキリとした数値と事実という判断材料が目の前にあるからだ。
終いにはフト思いついて政令指定都市堺市まで出向き見聞したが、市政はうまく回っており、首長には知恵とアイデア指導力がある、とおもった。かなり強引な手法だが<千の利休>と<与謝野晶子>結びつけた<利晶の杜>などと云う観光施設を生み出し、ウィークデーなのに人でにぎわっている。スターバックや和食チェーンを呼び込み大仕掛けな施設ではなく分相応にやっている。マイナス思考ではなく前に具体的に踏み出し仁徳天皇天皇稜以外の強引ではあるが行政が主導して一種の文化を創造している。
堺市は産業、交通、文化教育、観光資源など政令指定都市の財源権限の恩恵を受ける用件が全部そろっている。そこの有権者政令指定都市の廃止分割に賛成することは、長期にわたってあり得ない
「まずは大阪市から」などと云うのは、政治運動体のレベル論理であり、真面目な政党の呼び掛ける制度改革や政策とは何の関係もない。
 
とすれば、都構想は、大坂の問題だけを問い、市を廃止し分割する案件への住民投票である。後の市町村は今後とも、直接的にとも関係がない。
 
 堺市長に比べて橋下市長は、都構想に駆けずり回り、任期中の辞職再出馬、そして今回のふって湧いたような住民投票。かなりのカネが費やされ、無駄をなくすのは自らの政治行動を正すことである。それも承知していたと云わなければならない。
名建築構造物でもある市立美術館、博物館を売りに出そうとしたり、国立文楽劇場に対する補助金はカットしたという。細かいことになるが、町角の市の掲示板には、市主催の博物館や美術館のイベントポスターを一切貼らなくなった。コレ、本当に経費の削減になるのかどうか?

 
 
 1)今回の僅差否決を受けて、橋下記者会見がマスコミによって、クローズアップされているが、橋下個人の去就など、どうでもいい問題である。
しかし、注目すべき発言がある。ここまでいうとは予想しなかったが、以前から橋下のキャラクターの複雑さには注目していた。ただし、橋下の発言を最初から最後まで聞いたことがない。元々あのようなキャラには関心が向かわない。
   
 
    産経新聞 5月18日(月)7時55分配信
大阪都構想「反対」 橋下氏、政界引退表明「たたきつぶされたW。さっそく政権に迎合か?」■「権力なんて使い捨てでいい」
僕みたいな政治家が長くやる世の中は危険。ハンドルを握ってはいけない。ワンポイントリリーフ。権力なんて使い捨てでいいし、敵をつくる政治家が世の中にずっといるのは害だ。それが健全な民主主義というものです
 この発言自体、まだその向こうに奥があり、端的には手の込んだ手口で、己を大きく見せる格好をつけすぎと見るのが正解で、ストレートには受け止め難いが、その時点の感情の吐露であることは間違いない
 
 大阪市の幹部の橋下キャラの複雑さ述べているのを読むと、ナルホドとその観点もありだなと思った。やはり、そういう重層的な人格でなければ、大衆を引き付けることはできない。多面性のキャラがあるから、押してたりひいたりの自己演出ができる。
 作家の高橋源一郎は絶版されているものも含めて橋下本をすべて読破したと、講演で語っていた。
作家は、異常なもの複雑な事態に想わず引き寄せられ、興味を抱き解釈を施したがるものらしい。自分にはそういう感性を忌避する傾向があるので、作家の意見をなぜか尊重してしまう。
高橋は講演で橋下に話が及ぶと突然、「橋下さんは自分の支持者を心の中ではバカにしていると思いますよ」と云いだした。わたしはいぜんから、少しはそういう視点から橋下を「眺めていた」のでそのあとの説明を聞こうとしたが、尻切れトンボに終わった。
 ベニトムッソリーニのキャリアは知る人ぞ知る、イタリア社会党共産党はここから分化)の機関誌「前進」の編集長で、レーニンもその才能を注目するイタリアの活動家で「なぜムッソリーニ」と別れてしまったのか、というほどだった。
ムッソリーニはもと教師だったのだが、青年活動家として粗暴な一方で、政治哲学方面に精通した理論家で雄弁家でもあったヒットラーは1920年代後半から30年代のベルサイユ体制とワイマール憲法状況が生み出した人物だが、1920年代半ばにローマ進軍で政権を奪ったムッソリーニは、その独自の才能で己の権威とファシスト党を押し上げていった。
 
 
 前回の記事で、橋下「いしん」を全体主義の運動体の今日的日本版と規定したのは、橋下のキャラにムッソリーニを重ね合わせたこともあった。もっともそこまでの集中力、政治センスは、橋下にはまるでなかった。
 
>そこで、「(12月の)市長任期後は政治家はやりません。政治家は僕の人生で終了です」と述べ、政界引退を明言した(産経配信記事より)などと、う回戦術とでもいうべき今後の政治スタンスを打ち出している
 
>「いしん」の会の住民投票における中身を語らず、そろいのオレンジの半そでTシァツのユニフォームを着てムードを煽る運動スタイル、運動員の若さ、根拠なき熱狂は、橋下政治家引退発言によって、鎮まるわけではない。
政治か引退発言でフリーになった橋下は逆に、大胆な言動で、こうした鎮められない熱狂の運動体への影響力を有効に確保することもあり得る。早くも今後のメディア露出を前提とした発言を記者会見の場で確保した、とも受け止められる。
 
20代30台の60%が、賛成したという事実は、あらかじめなんとなく予測していたが、思いの他の数字だった。
 
憲法改定=戦争事態に一体化させる政治宣伝には感覚的に疑問を感じていた
同時にもっと多様で現実的な事柄を提起しなけらばならないのではないか。「身体を張って~云々」など論外、空回りするだけである。世代間で日頃吸っている空気が違うような気がする。彼らの過半は仮に軍事衝突が発生しても、一部は排外主義的に騒ぐが、かなりの部分はあっけらかんとしているのではないか。体制(時代の生み出す空気感)に従順であるということである
>橋下「いしん」の政治運動は大阪都構想という、普通の有権者が真面目に考えて行くと具体的なことが目に前に見えてくるコレほど分かり易いむちゃくちゃな大テーマであるにもかかわらず僅差持ち込んだ。
>まして、憲法問題には、大阪都構想のような普通の有権者が検討を重ねていけば、具体的な数字や事実が目の前に出現すると云ったものではない。
政治幻想の世界の物語に意見を持つと云うのは、日本国民は戦時体制以外に一回も経験したことがないのではないか。

2)今回の住民投票のリアルな実態、僅差の結果は憲法改定への動きに大きな影響を及ぼすのは必至である。この程度のことは最初からわかりきっているから、植草一秀の記事にある、憲法改定問題が、大阪市廃止分割問題よりも上位にあり、憲法改定反対をする人たちは、反対と書かなければならない、という見解を自民から共産までそろった反対陣営に分裂を持ち込むものあると特別に批判した。
>仮に住民投票憲法改定問題を持ち込むと、この僅差の賛否の差は逆転していたというのが見立てである。そのような生きた政治に対する現実感のまるっきりかけた政治評論を繰り返していると、自分たちの戦いの幅を勝手に狭めていることになる。
若者(と云っても年齢層は幅広いが)にもっと浸透するやり方があるのではないか。戦争に反対するのは絶対にに間違ってない。しかし、少なくとも世代間の吸っている空気の違いを際立たせるような、カタストロフィー史観は少しは慎んだ方がいいのではないか。もっと他にやり方があるはずだ。
いつの間にやら政府の歳出のうち、防衛費は5%越えになっていて驚いた。クリントン大統領時代の米国の防衛費は5%~3%に下げら、IT革命とともに消費大国米国を前提にニューエコノミー現象を煽った。
この事実を知った時、びっくりした。
今の日本の防衛費は異常であり、国債の利払い償還費が、23%にも達していることを含めて、国民経済を圧迫していることは間違いない。この辺の事柄をすっ飛ばしては、ダメだと思う。生活、労働、命。健康と憲法改定ー戦争反対を必ずリンクさせて語り継ぐ必要がもともっとある。身体を張って云々意気込んでもいったい何をするのかと云えば、デモに二、三回参加したところで、身体を張ったとはいわない。
ようするに、各々の立場を活用する、ということではないか。知あるものが身体を張るのは、一番最後で良い。知を活用することだ。
>庶民には二枚腰三枚腰が必要なのではないか?
生きていく限り戦いは続く。リアルな生活基盤から発しない絶望の淵に自ら追い込む危機感は、反転して一切の放棄につながってきたのが過去の現実だったと総括する。
大きな書店の店頭には内田樹の対談本がたくさん並んでいた。政治漫談にすぎないのだが、多くのヒトの心境もあの辺にある。それと一部の危機感とは、かなりづれている。内輪でさえコレである。高橋源一郎憲法を守ろう集会における発言も、わかっていて私小説をしゃべっていると見た。憲法関連の話題は最後の方の敗戦直後の小学校6年生の教科書も民主主義話だけだった。
 
>おしゃべり過多の中から、橋下「いしん」は生まれたのである。
それで扇動した当事者は、「僕みたいな政治家が長くやる世の中は危険。ハンドルを握ってはいけない。ワンポイントリリーフ。権力なんて使い捨てでいいし、敵をつくる政治家が世の中にずっといるのは害だ。それが健全な民主主義というものです」などとう危険で、不健全な民主政の世の中を自ら作り出しておいて、回戦術の転身を図っている。
ココまでの自意識があれば「単純な支持者はバカに見えるのは当たり前だ」
しかし、橋下の言説、行動の欠陥さえ、分からない、あるいは分かろうとしなかった支持者の層が存在する。これに対して時代の危機感を一方的に押し出しても、距離間は狭まらない、コレが僅差に終わった住民投票の最後の教訓である。