反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

ポラニー「大転換」再考。ポラニーの論点は市場自由主義の根源的批判ではなく、それを拡張するファシズム普遍論と新自由主義に至る。

*カール、ポラニーの「大転換」関連の記事は前回で終了するつもりであった。
ところが、大著に張り付けたタブを引きはがしながら、ページをめくっていると、今まで記事の中でのポラニー批判をもっと深める必要があるのではないか、想いなおした。
>結論的にいえば、
(1)ポラニーの『大転換」の自己調整的市場批判の方法は「産業革命」の以前の{社会の中に経済が埋め込まれた状態}から、(互酬、再分配、家政)関係を抽出する基本視座から、資本の原始的蓄積期の<土地><労働><貨幣>の人間にとって本源的3大生産要素の商品化の反人間性を浮き彫りにするものであった。
 コレに対する『日記』の批判は、これらの本源的生産要素を各々<土地価格、地代>、<労働力商品賃金>、商品貨幣としての特定の商品→金銀→貨幣記号物と云う具体的で限界ある特殊商品として、認識計算することで経済学は成立しているのであって、ポラニーのような批判は、資本主義の根幹への批判ではなく、産業革命以前の社会の反人間性(ヨーロッパの歴史的人口推移グラフを提示)に蓋をして、そこに何か牧歌的な社会経済関係が成立していたかのような錯覚を引き起こさせることを前提とした資本主義の道徳的倫理的批判にすぎない、とするものであった。
 
 
 上記のポラニー批判の触りは金子勝の「市場」によれば次のようになる。
*ポラニーを超えて(W。超えなければならない存在であるポラニーを超えていなかった、から「日記」は再論している。)
「ポランニーは労働・土地・家系。と云った本源的生産要素を『擬制的(フィクション)商品と呼ぶが、せいぜいのところ、資本主義以前の人類学的考察から本来商品でないものが商品化されたと云う以上の意味をもちえない。
宇野弘蔵も限界ある労働力の商品化を経済原論において、資本主義の均衡循環の一方の要素としてしているので、宇野の影響を受けたものは、この点のポラニーに論法に引き寄せられる。「本来商品でないものが商品
化された~云々」は宇野弘蔵の言葉、と記憶している)」
 
 さすが金子勝は経済学者だけあって、「反俗日記」のような批判にとどまっていないで、具体的な本源的な3大生産要素の商品化の限界とそれに対する制度と政策の具体的措置を指摘をしている。
 
「実際、ポラニーは、本源的生産要素がいかなる意味において市場化の限界を抱えているのか、
あるいは市場化の限界を処理するために資本主義社会は今なる制度やルールを必要としているのかという点に関して、ほとんど分析していないからである。
(上記の次元さえ、ポラニーには無理筋なのに、下記のような本格的経済分析には及ばない。ポラニーの本質は新古典派経済学の知識内での<経済史を語る>ジャーナリストである。「大転換」の経済思想の本質はコレである。)
問題は財やサービスの性質に内在して、本源的生産要素がいかなる限界を抱えているかという点にある。」
 
 金子勝はその辺を十分に感知している。
「もちろんこうした問いかけが必要となるのは、主流は経済学の公共財の理論との違いを明確にしなけれなならない。」
W。経済学の一部では日本の方が欧米よりも進んだ研究がなされている。ノーベル経済学賞受賞のステグリッツの序文を読むとつくづくそう思う。
 
>ポラニーを超える一つは金子勝指摘しているごく当たり前の制度、政策を知ることでもある。コレをしないで前に進むのは間違いだった。
「反俗日記」は、気の赴くまま云いたい放題を書き記す場にしないつもりで公開している。学びの場でもある。同調者を集める場では絶対にない。
 
 
 そういう意味もあって、金子勝「市場」岩波書店 1999年を最初から読んでみた(ポラニーに関する記述はごく一部)。
 
>率直なところ、経済思想のスーパーマーケットを何も買わず短時間で一巡りさせられて、<なんだかなぁ~>の感がした。
学者さんには、こういう書き方が目立つようになってきた。コンピューター情報処理的である。
文脈に読者をワクワクさせるダイナミズムを埋め込むことができないのは、いったいなぜなのか?外国系の翻訳文献にはソレを偶に見つけることができる。
翻訳思想の伝統の限界なのか、日本語で考えることの限界なのか。
この欠乏感がある限り、金子の云う「いま我々に求められている学的営為は、外国文献の紹介中心と云うアカデミズムの在り方を壊してゆくことである。日本の現実は、借り物の思想が通用しない(時代)状況」にこたえることは難しい。
 が未知のことが羅列されているので、次回はタブを貼って気になったところを抜き書きする。
 
 ポラニーの人類経済学的思考パターンは、現代の反人間的側面を開花させながら進展していくグローバル資本制の複合体に対する反発が、江戸時代封建秩序の曲解再評価をうみだしている状況と似ている。実際に、大衆心理は前途に大きな漠然とした個的不安を抱えると、後戻りできない過去の「共生社会」を美化し安らぎを求める。閉そく感は、どこかに出口を求める。
良いとか悪いとかの問題や、一種のエンターテイメントを排除した歴史的事実がどうであったのか、と云う視点から従来の普遍化した定説を検証することも必要である。
 
>金子の「市場」の構成。
第1章 戦後の知的状況と市場理論
人間の認知能力の限界 
金子「新古典派経済学の『合理的的経済人』の仮定」は現実に裏切られることになる」
W。現実に裏切られても、マクロ的には国家と国民に付けを回す。
取引所モデルと他者排除性
金子「市場モデルに出てくる人間は、他者との関係を『競人』にすべてあづけているがゆえに、『他人に関係なく自己利益を追求する』ことができる。
金子「用いるゲーム理論は、次のような弱点を抱えている。
その基礎にある(社会)契約説の持つ弱点をそのまま引き継いでいる。」
W。確かにオバマバブル崩壊に対して、巨額の金融資金をつぎ込んだ結果にもかかわらず、海外資本輸出にまい進するグローバル企業を社会契約違反だと非難した。
>「それは原初のルールの設定いかんで結果が異なる、と云う点である。」
「これまで新古典派経済学は、その極めて単純素朴な人間観を棚上げにして『経験科学』を自称してきたが、ゲーム理論になるとその道具性は一層高まり、極めて融通無碍(むげ)なものになる。
>極端にいえば、明らかにしたい結果を導けるように、原初状態とゲームの設定すれば、良いことになる。」
W。冷戦体制崩壊後、最初に世界基準、ルールを設定したものが、濡れ手に泡で儲かる仕組みが、アメリカンスタンダードの『強制』をバックに世界市場で出現した。ステグリッツには、その最盛期はとっくに過ぎた、という真っ当な認識がある。
W。米国内グローバル企業の行動原理がとっくの昔に変わってしまったので、減税しようが大金をつぎ込んで再建しようが、資本輸出を増大させる。
その方がもうかるのだから。もっとも、そういう国内事情があるから、政府はアメリカンスタンダードを他国国民経済に押し付け超過利得獲得を目指す。←TPP、戦争法案。アベ等の国体政治化する国家ーグローバル複合体
は進んで従属することで覇権を求めているのである。日本愛国党赤尾敏の日の丸星条旗路線のつもりで高揚感一杯の彼等に対する従属や属国批判はカエルの面に何とやらのごとし。米軍世界戦略の下請け、2軍批判
も日本国民が自腹を切っているのだから、実情とは違う。美しい言葉でいえば「米軍の軍事負担をシェアする」つまり一種の米軍への軍事ボランティア、想いやり、なのである。想いやり予算の次は身体を張った想いやりなのである。こうして、この破廉恥な行為から得られる全ての得をかっさらうのは国体政治化する日本国家グローバル資本複合体なのである。そこにインクルードされたがっている人々は多いと云うは永田町(霞が関)政治地図に反映されているのではないか。
 
設計主義的市場主義
金子「(論争の発端) ミーゼス→生産手段が公有化された下では、生産財を交換する自由市場が成立いしない。自由市場がなければ価格機構も存在せず、価格がなければ『経済合理的な』経済計算もできない。それゆえ社会主義計画経済は、市場経済のような効率的資源配分はできないと云う主張である。
 
Wもこの問題は、ソ連崩壊、中国改革開放を特集したとき、考えた。直接的なコスト計算のできない労働価値説によって経済運営はできない。簡単な参考資料を集めた。基礎資料なのでいづれ公開する。
ソ連当局は、一応コストパフォーマンスで財の生産と配分をけってしていたようだ(佐藤優情報。ソ連の経済運営は近代経済学であり、マルクス経済学は政治思想の専門分野とされていた。なお、昔、労働力商品を含めた市場効果を前提とする社会的必要労働の価値法則の貫徹を基準にしたソ連論をやっていたことは頓珍漢だった。)
 
W。ところが、設計主義的市場主義によるミーゼス批判である。
「オスカーランげ→取引所モデルを逆手にとって、せり人のいちに中央計画経済党虚kを置き換え、この当局がちょうどせり人のように、価格と生産量を調整して行けば、効率的資源配分が実現できると反論した。
>つまり決算期に財が過剰なら価格を引き上げ、不足なら価格を引き上げると云うように計算価格を思考錯誤的に調整して行けば、一般均衡が得られる。」
W。この程度のことは、いわゆる社会主義経済当局は≪ある程度≫実行していたと想うが、指令する一方で臨機応変にやられていなかった可能性がある
ソ連当局の統制品目は1200~1300と金融寡頭支配者登場を分析した本に書かれていた。
いづれにしても、ある経済発展段階までは、こうした手法は有効に機能するが、生産慮の発展によって経済がサービス化していく段階では、経済計算が、嘘っぽくなる。
 
「この論争がもたらした結論は、新古典派経済学によって極めて皮肉なものであった。
ランげは示したことは、
>完全競争の前提が実際には成り立たない市場経済よりも、社会主義計画経済の方が新古典派一般均衡論を理想的に満たすことができると云う点にあったからである。」
 
「よく古典派の一般均衡論モデルは『完全情報』仮定が問題なのだと批判されているが、実はそこに本質的な問題があるのではない。」
(W。新古典派経済学でも結局は政府に置き換えられると金子は云う。確かに「大転換」へのステグリッツの持論を展開した長い序文を読みこむと、結局、市場の間接的管理者は賢明な政府の政策しかないと云うところに落着するにおいがぷんぷんする(W。注1。前回記事ステグリッツの東アジアにおける経済発展に政府の果たした役割高評価。)。「小さな政府」を標榜する者も結局は金融資本の種の規制緩和はするが、大きな政府を選択している。
ラニーは民主的政府云々とするだけでそれさえまともに考えず、ロバートオーェンの社会主義を持ち出すのだから怠慢と云うしかない)
 
金子「確かに取引所からせり人を取り除いた瞬間に、全ての人々が、他者の情報を完全に知っていると云う仮定を置かざる得なくなる(W。ステグリッツはそのように仮定した、自らの新古典派経済学を越えようとしたのではないか)
>そのような<強い個人の仮定>(W2。(注)金子の強者、弱者は文字通りのものではなく、抽象化の不可欠な政治経済思想モデルに生身が耐えきれるかどうかの概念。耐えきれない抽象モデルは、裂け目を生む)はあまりにも非現実的だ。
>しかし、取引所モデルでは、元々すべての人々がせり人と通してしか他者に結びついていないことである。
*つまり、元々この取引所モデルは、他者との関係をすべてせり人にあづけているために、せり人がいた方が円滑に機能するようにできているのである。
**そしてこのせり人は<政府>に置き換えられても同じことである。
W。リアルにいえば、改革開放後の中国の急速発展やかつてのニィーズ諸国の<開発経済発展>における国家の役割なのだが、本質的に開発発展以降も政府の経済過程への介入は、「完全競争の前提が実際には成り立たない市場経済」よりも、機動的経済運営ができる、という現実認識が広がっているのではないか。

 <注1>『大転換』 ジョセフ、ステグリッツ序文
「もっとも成功裏に発展を遂げた世界に一部である東アジアにおいて、政府はくすることなく中心的な役割を果たし、そして明示的に、また暗黙裡に、社会の結束を維持することの重要性を認め、社会的人的資本を保護するだけでなく、その価値を高めた。
この地域の至るところで、急速な経済成長のみならず、貧困の著しい減少も見られた。共産主義の失敗が市場システムの方が社会主義よりも優れていることを劇的な形で証明したとすれば、
東アジアの成功は、政府が積極的な役割を果たしている経済の方が、自己調整的市場よりも優れていることを劇的に証明した。
(東アジア危機の)機会をとらえて、市場のさらなるフレキシビリティー(柔軟性)を要求した。
市場の柔軟性とい用語は<社会的政治的安定性を高め、それによって経済的安定性を提供してきたある種の社会契約を排除するための学問上の隠語である。」
 
 <注2> 引用 金子勝「市場 第1章 戦後の知的状況と市場理論
 W。耳の痛くなるような総括である。
 
「ここで云う、強い、弱いと云う概念は、個人の性格を表しているのではない。もちろん良く使用される社会的強者か弱者と云う分類でもない。
>理論の出発点となる人間像にどれだけ負荷がかけられるか否かと云う意味である。
『高い負荷をかける』とは、現実の人間的行為として、持続的に取ることのできない現実離れした仮定を置くと云うことだ。
>つまり高い負荷に耐えれる人間を『強い人間』そうでない人間を『弱い人間』と考えるのである。
 
 云うまでもなく、理論家が『理想』と考える美しい理論モデルを作り上げるには、それを満たすような人間像をあらかじめ設定してしなうのが最も簡単な方法である。しかし、それでは循環論法に陥ってしまうので、理論家はあまり現実離れした人間像の設定を避けようとする。
>所がなかなかそれがうまくゆかない。
 理論モデルをできるだけ美しく見せるためには簡素化が必要だ。
するとどこかで現実の人間のある部分を捨象せざる得ない
一見現実的に言えても、よく考えると、極めて非現実的な仮定を置くことがある。
そして、理論家が、その現実の中に登場する個人に高い負荷をかけざる得なくなった瞬間に、そこから理論がほころび現実によって裏切られてしまう。」

 
第3章 アダムスミスにおける同感の役割
第3章 ハイエクにおける歴史と個人
 
Ⅱ市場とコミュニティー
第1章 ウェーバーマルクス:再論
第2章 企業社会における『共同性」の内実
第3章 市場の匿名性と暴力性     W参考になる 次回
第4章 所有することの限界 ポラニー<土地><労働><貨幣>論の展開。概略は文中に示した。
終章  市場原理主義の暴走    W参考になる 次回
 

(2)ポラニーの主要論点は深読みすると、市場原理主義への批判の根拠を提供するかもしれないが、皮肉なことに、彼のその論拠を<止揚>(高度な修正)したのが、新自由主義の政策である、といわざるえない。
ラニーの主要論点そのもの中に、新自由主義への道筋が隠されている。
ラニーの歴史の結節点に関する肝心な論考(ニューディール社会主義ファシズム、二重の戦い)は、今日に拡張すると新自由主義を肯定するものである。日和見の中間主義者、超現実主義者、時代の空気感の体現者常識家ポラニーが、指摘した<懸念>を通貨の商品化によって、「解消した」のが新自由主義である。
彼は当時の社会民主主義者の政治的立場でさえなかった。資本家的自由主義者であった。
訳者らは多分これを知っていて市場原理の批判者した方が都合がいいから、故意に勘違いしているのである。
カール・ポラニー―市場自由主義の根源的批判者(野口)は眉唾ものである。
 
引用 15章 市場と自然 P340~P342は事実上の危機に時代の労働者は戦いすぎたらファシズムがもたらされると云う事実上のファシズム擁護論である。社会民主主義系の労働者の組合運動さえ支配体制を揺るがし
大衆に不安感を醸成し最後にファシズムを選択させると云うとんでもない議論である。
当然、そのような国々ではどんな戦いをすればいいのかと云う問題出てくる。また、ファシズムの危険性は普遍的世界的なのだと云う。
自由貿易がはらむ経済的自由自足の関係を述べて~
この項を次のように結論付ける。
「実際には自給自足及びファシズムいづれも、ひとたび一般の人々が差し迫った危機の兆候を感知すると、その究極的な原因が取り除かれない限り(W。時代的にそれは不可能だったのでこの限定は無効)潜在的恐怖は存在し続ける。~~
 無数の国際会議が開かれて平和の牧歌的風景を演出し、さらに十指にあまり自由貿易の原則を宣言した
しかしこれらはすべて無駄だった。
度の国民見、原料や食料の調達先を自前で確保できなけkれば、あるいはそれらを軍事的手段で確実に獲得することができなけらば、健全な通貨や堅実無比な信用を通じても自国を絶望的状態から救いだすことはできないと云うことを忘れていなかったのである。
確かにこのような首尾一貫した考え方は全く筋が通っており、またこうした基本的な考え方が各国政府の根本方針となった。
  危機の源泉は取り除かれていなかったのだ。
そうだとしたら、どうして恐怖を鎮めることなど期待できようか。
 
 W。ここから先に、ファシズム普遍性論が始まる
「大部分のファシズム批判者は、コレと同様の錯誤に陥り(W究極的な原因を取り除くことは不可能な時代状況であるので錯誤も何もあったものではない)ファシズムを政治的な正当な存在根拠を欠いた一種の奇形とと考えた(W。8月25日のEテレではナチスが十八万人の障害者をガス室で殺害した現場訪問のドキュメンタリーが放映されていた。しかもそれがユダヤ人大量虐殺を本格的に始める予行演習だった、と云う)
~~
>実際のいところ、イタリア同様ドイツにおいても大戦直後の事情を考慮すれば、ボリシェビキ革命が成功する可能性はほとんどなかった。
>>しかし同様の根拠から(W。大衆の時代的危機感)、労働者階級、労働組合、労働者政党も、緊急事態になれば
>>契約の自由と市的財産権の不可侵性を絶対のモノとしてうたう市場のルールを無視する可能性があったことも、確実に示すことができるだろう。
 
W。ここから先は新自由主義政策の観点を満開させている!
>>もしそうした事態が実際に起これば、おそらく投資に冷水をは浴びせ、資本の蓄積を阻害し、賃金を利益率が上がらないほどの高さに保ち、通貨を危険にさらし、信頼度を弱め、企業活動をマヒさせるなどして、社会に対してきわめて有害な作用を及ぼすに違いないのである。←W。ステグリッツも批判する今日のIMF路線
共産主義革命が起こるかもしれないと云う実在しない危険ではなくて、労働者階級がおそらくは破滅をもたらす鑑賞を強行する可能性があると云う否定し難い事実こそが潜在的恐怖の源泉であり、この恐怖が決定的な時に噴出し、パニックのうちにファシスト政権をもたらしたのである。←危機の時代における保険の感性(予防的反革命)がファシズム潜在的根拠としている。
W思っていることをそのままあけすけに語れるところが彼の持ち味でもある。
 
>人間に対する危険と自然に対する危険は、敢然と区別できるものではない←W。ショックドクトリン。
労働者階級と小脳の市場経済に対する反応はともに保護主義をもたらした。~~
しかし重要な相違があった。
   
非常の場合、ヨーロッパの農業経営者と小農は市場経済を擁護したのに対して、労働者階級のやり方は、それを窮地に落とし入れた。
←W。人間の本源的要素である土地所有者=食料を生み出す生産手段の持ち主と労働力商品だけしか持ち合わせず大量失業と上の危機が迫る労働者をどうれるに置いて比較できない。
W。ポラニーの<土地><労働><貨幣>の本源的生産要素のフィクション商品化への批判はあくまでも産業革命以前の社会との比較の上であり、抽象論であったことがはっきりとわかる文脈である!
これでどうして、市場自由主義の根源的批判者といえるのか!
 
>本来的に不安定なこのシステムに生じた危機は、左右両翼による保護主義運動によってもたらされたが←W。本当にそんな単純なに二分対立で時代の危機が生じたのか?あり得ない単純化である。金融資本の過剰蓄積、過剰生産世界市場の不均等発展はどうしても視野に入れたくないらしい!
 
  W、以下はポラニーの産業革命以前の非商品的土地、労働、貨幣評価を基準とする世界観から、当然生み出される結論である!社会民主主義者でさえない。大転換の最後にロバートオーェンを評価したのはうなづけるが、ポラニーに思想的実像はは理想主義者でさえない。市場自由主義の根源的批判者とする深読みする方向が間違っているのである。
 
>土地に結びついた社会層は市場システムを妥協する傾向があったのに対し、広範な労働者を束ねた階級はちゅうちょなく市場のルールを破り、アカラサマに挑戦したのである。←世界史の過程さ勝手に書き換えているようである。ファシズム擁護論と云わなければならない。あんたたちがルールを破るからファシズムがもたらされた、と。

 
 
 
  
 
   第15章 市場と自然
W。自由貿易市場経済に付きまとう経済的自給自足の問題
時代は変わっても本質的な問題は付きまとう。現状にひきつけてラニー思考を深読みすることが大切
 
EUの共通農業政策欧州共通農業政策とは 知恵蔵
TPPと日本農業 W。米韓FTAでは米は例外品目。日本も多分同じ処置になる。問題はそれ以外。
米韓FTAと韓国農
*米韓FTAで韓国農業は悪影響を受けていない/「農業経営者」TPPセミナーhttp://www.foodwatch.jp/primary_inds/35694 
 
<米韓FTA毒素条項」はデマ>
~「それらのほとんど(W。ほとんど?)がインターネットで流布されたデマであり、米韓FTA不平等条約(W。今頃、見た目の不平等条約なんて存在しないよ。結果の不平等なのである。)ではないことを説明した。」
 
<韓国農家にFTA悪影響の実感なし
>W。強調部分は離農者多発、農地売却農業企業への賃貸し農村解体の現実を指示している。
アジア金融危機IMF管理下以降、「北」との民族分断状態を背景にした民主化の陰で、グローバル金融資本の主導の下、IMF型の資本と労働の再編が進行し、特定工業製品輸出経済体制に特化して経済急成長してきた。それに見合って、財政負担の大きくなる韓国農業は離農促進、農業法人企業化を目指して再編され、農地賃貸しが増加してきた。
離農支援、農地を担保とした年金の拡充企業と農村を結び付ける一社一村運動など特色のある政策についても解説した。
さらに、現地農家の生の声を紹介。FTA以前に独自の取り組みで生き残り、成長を目指すという農家の考えを伝えた。また、FTAの影響はあるかと農家に問うと、一般に「私は影響を受けていないけれど、友達は影響を受けている人がいると言っていた」というように、ムードとしての影響はあるものの、自身の経営の中で実感している人にはほとんど出会わないという感触を伝えた。
>今後の中韓FTAでは地続きで気候も類似しコストも低い相手となるため、それへの対応が正念場。」
W。目指せ!ニポンの韓国化!
 
韓国農業の悲鳴 米韓FTA発効2年http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=27183 
 ポラニーがここで語っている食糧安保の問題は未だにシンプルな自由貿易体制に付きまとっている。
バランスオブパワーの上に成立しているTTPのようなシンプルな自由貿易の枠組みが、どこまで信用できるかと云う問題である
二度の世界戦争の発火点であり主戦場になったEUはさすが、この点を弁えて、共通農業政策によって、自国農業を保護している。この問題はよく云われているような、もし戦争が起こったら、などという架空のシナリオ以前の、リアルな国際政治におけるその国の政府の交渉力の問題である。
 
>食料自給率が低く人口の多い日本のような国は、そのぜい弱性を補うために、「同盟国の軍事的重荷をシェア」(北沢洋子 1. ドイツの軍事化)
 したり、自衛軍を、「外交政策立案者にとって、最もパワフルな道具」(同)にしなければならない政治力学が働く。

   
 
  ポラニー第15章 市場と自然 本文引用
自由貿易は、1846年に穀物法をめぐる保護主義との戦いに勝利したのだが、80年後に同じ問題でもう一度、戦い、今回は敗れた。
 そもそも市場経済には、それが始まった時から、経済的自給自足の問題が付きまとっていた
それゆえ経済的的自由主義者は、戦争の亡霊を掃き清め、無邪気にも自分たちの主張を不滅の市場経済と云う前提に基づいて再構成した。自分たちの議論が、自己調整的市場のようなぜい弱な制度にその安全を託す国民の危険がいかに大きいものであるかを示しているにすぎないことに、彼らは気づかなかったのである
 
 1920年代の経済的自給自足運動は、本質において予言的であった。すなわちそれは一つの秩序の消失と云う事実に対処する必要性を指摘していたからである。既に第一次世界大戦がその危険をはっきりと示していたのであり、人々はコレに対処すべく行動した。
しかし、人々が実際に行動したのは10年後であったから、この原因と結果の関係は理屈に合わぬものとみなされた。
>『過ぎ去った危険に対して、なぜ身を守らねばならないのか』と云うのが当時の多くの人々の考え方であった。」

ラニー「大転換」を読むと、新自由主義は戦前の体制の継承であり、冷戦時代の渦中で自然に形成された、とわかる。 そして冷戦体制を突破して一気に世界に拡大した。その意味でこの本体を理論として、とらえることは多分野に渡り、容易ではない。 
<終わり>