反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本の地域共同性やコミュニティは、市場原理やグローバリズムへの対抗軸として機能しない。他者排除、上意代行下達のムラの刻印は、その時代の要請に沿って、東アジア東端の付加体列島原住民の身体、社会、文化、~

           「市場」金子勝  岩波書店 1999年
   第3章 市場の匿名性と暴力性
<信用と共同性>
自立性の要求と共同性の要求を同時に抱える近代的人間の分裂市場とコミュニティの問題(金子勝
>W。日本ではキリスト教的コミュニティ(地域共同体)は存在せず他者排除性の強い上意代行下達ムラ「社会」>。*年貢ムラ請負がここまで徹底し、支配層の統治にとって、手間のかからず、都合のよい地域は世界中どこを探しても日本列島以外に存在しない。日本近世を特集したとき(江戸時代論佐々木準之助、土一揆から太閤検地刀狩りをへて、一揆研究)の結論である。列島の地政学的位置も大いに影響している。
 
 従って、金子がこの著書で掲げる共同性やコミュニティをよりどころとした、「市場」グローバリズムへの対抗は欧米の歴史に実在してきた基礎的社会関係、ソレがもたらす価値判断を基準にして、問題と課題を設定するもので、欧米論理としては筋が通っているが、日本の歴史現状では、空回りしている
 日本的地域共同性やコミュニティは、市場の原理やグローバリズムへの対抗軸として実際に機能しない
その根源的理由は、冒頭のマーカー部分に挙げた。
他者排除性の強い上意代行下達ムラ「社会」>の刻印は、その時代要請に沿って、東アジア東端の付加体列島原住民の身体、社会、文化、伝統の中に連綿と刻み込まれてきた。
  

  引用。 丸山真男  kim hang 「帝国の閾」より。 
W。引用の前半に、さらっと共同体とムラ社会の大きな違いを提出している。社会構造の違いもあるが、共同体の中核になる倫理道徳、宗教イデオロギーの問題である。日本にはムラ社会はあっても、共同体は存在しなかった社会的伝統的文化的に、身体的にも日本列島に存在してこなかった社会経済関係は再創造するにしても、戦いの拠点とはなりえない。なお、そうした戦いは外からのラッピングと内なるあらゆる戦いの一部であり、否定していない。大きな限界を知らねばならぬ。
 
 引用の後半は金子が「市場」グローバリズム批判の方法としている日本版近代的人間の具体的な所在を明らかにしている。課題の設定それ自身が東アジア東端付加体列島原住民向きではなく欧米的なのである。官僚と政府がTPPを明治維新~敗戦に続く「第三の開国」と今もって認識しているのだから、この引用文で丸山が提出した問題は形態変化するだけで本質的に現状に適応できる

「『国際社会』は即自的に地球に存在したのではなくて、発生の由来(キリスト教共同体corpus christianum)から云っても、また近代国際社会の構造(主権的国民国家が平等の立場と権利で『外交』を路利結ぶ社会)から云っても、本来はヨーロッパ文化圏を前提とした歴史範疇である。
 
(W。丸山→あらゆる政治の問題は歴史の範疇である~W。ゆえに、共同体を日本の歴史に沿って読み替えるとムラ社会と云うのが本質をついており、この適切な政治用語から課題を設定しなければならない)
 
 東洋は古来、インド、イスラム、中国と云ったいくつかの文化圏の併存とその間の云わば偶然的な交渉と接触はあったけれども、ヨーロッパ世界とパラレルな意味での統一的な『アジア文化』なるものも、『国際関係』の19世紀末に至るまで存在しなかった。
 
(W。言い換えると、日本列島原住民は周囲を大海に囲まれ、近隣民族は比較的温和で、自然と食糧事情に恵まれ、閉じこもり平和状態の歴史を送ることができた。ヨーロッパの『国際関係』なるものはキリスト教的内外暴虐と血で血を洗う内乱内戦、民族戦争の結果、ようやく成立した。列島原住民の価値判断の機銃都はできない。)
 
 日本も中国も、西欧諸国のように、所与として『国際社会』の中で近代的民族意識を徐々に成長させたのではなく、ある歴史的時点において、云わば一体として外から迫ってきた『国際社会』に対して、否応なく『世界』と『我』の意識に目ざまされ、国際的環境との調整の問題に急激(丸山強調)に直面したのであった。」

「人が弱いのは群れられないからではなく、群れるから弱いのだ。」 竹中労
*この言葉が響き渡る機会を直視する必要がある。ソレは「自立」では、代替えできない状況である。

   <酔って死んじゃあ、男じゃねぇ!> 国定忠治
W。刑場に引き出される前の役人とのやり取り
「忠治よ!おまえも年貢の納め時だなぁ。手も足も利かなくんなっちまってざまぁねぇやなぁな」

 「うるせぇ、こちとら、伊達や酔狂で、博徒をやってんだよ!小役人が偉そうな口を利くんじゃねぇやい」

「はは、普通は伊達や酔狂ではやらねぇというんじゃねぇのか?
全く学がない奴はやだねぇ」

 「だから、おめぇら、小役人は出世しねぇのよ。 まぁおいらの気持ちは大樹さま程じゃねぇとわかんねぇかもな

「盗人猛々しいとはお前の事だ。よりによって公家様の名をかたるとはいい度胸だ。
な~んて、言っても、お前も今日限りだせいぜいほざくんだな。」

 「けっ」

「ほら最期の酒だ。もう一杯いくか。」

 「じょうだんじゃねぇや。 こちとら男を看板にいきてきたんだ。 磔が怖くてよ、酒を何杯もかっくらって
  酔っちまったらどうすんだい。
  酔って死んじゃ、男じゃねぇ!、てっよ」
 
 
 
 だから、日本国家ーグローバル資本複合体の国体政治化による他者排除性の強い上意代行下達ムラ「社会」の収納過程が必然的に大きな問題を発生させる政治軍事経済状況への外部からのラッピングによるさらなる閉塞状態創出(政治選択肢の狭隘化)に連動する内部からのあらゆる戦いの大道を歩む中での一部の戦いとして金子の指摘するような、共同性やコミュニティの再創造の戦いが取り組まれる。
金子の指摘するような『反転』は、内部からのあらゆる手段を駆使した戦いの一部にすぎない。
 
 
 ここがこの著書の最大の弱点となっているから、何度読み返しても、文脈からは、閉塞しか感じない取り扱っている問題と課題は巨大であるが、金子の文脈の醸し出す世界は、狭くて窮屈である。
国家機構によって人為的に作り出された「市場」の原理の問題点やその発展形態であるグローバル資本制の問題点、課題を一杯挙げているが、<もう一つの世界を創造>することができない。コレは金子勝の言説一般に共通する欠点である。
 
 金子の外国翻訳の思考パーンを避けて日本状況にこだわると云う手法は、卑近にいえば、みみっちい窮屈な現状の日本的小市民世界の視野から、グローバリズムの世界を読み解き、対抗軸を探し求めることになるので、どうしても行き詰ってしまう。
<もう一つの世界>がなければ、人々は力強い戦いができない。
<もう一つの世界>は選択された基本概念と事実の提示を含む文脈によって創造されるものである。
新古典派経済学の内容は<合理的経済人>のモデルは本当にそんな幼稚な次元が現代的経済理論の出発点とは信じ難く、単なる洗脳イデオロギーのアイテムとしか思えないが、金子勝「市場」の解説を辿れば、この経済学説は<一つの世界>の形成を目指しているものと考える。政治経済の事実が先行して、経済理論は後からついてくる、と云うのが実体であった。経済理論によって、経済の現実が生まれたのではなくて、現実問題への処方箋、解説、言い訳、誤魔化し、エンターテイメントとして現代経済学は発展してきた。コレが事実である。
今のグローバル資本制を統一的総合的な経済理論で解き明かす磁場を歴史は提供していない。

       金子勝著 「市場」
手形~銀行券=銀行券もその背景に何らかの共同性を担保する必要があった。
 
W。金子勝「市場」の指摘する数々の市場グローバリズムの事実は、全部リアルな現実であり、しかも、1999年から、米国バブル崩壊以降の世界情勢とアベ政権の安保法制、TPP事態を予告しているほどの先見性がある。
現実に踏まえたまともな経済学者である。
しかし、何度も指摘するが文脈の中で<もう一つの世界>を読者にかいま見せる事が全くできていない。
その端的な理由その1は、丸山真男の引用文を用いて、批判した点に尽きる。
グローバル資本制の「市場」の公共領域や果ては身体までの浸食に対する対抗軸の拠点は日本では、「再創造」するにしても、セフティネットの張り替えの政策であるにしても共同体やコミュニティではない。
日本的各種のムラは国家ーグローバル資本複合体の国体政治化によって、一部がインクルードされ萎縮し収納される必然にある。
日本国民経済の歴史的衰退傾向がそうさせる。
この状況に対する外部からのラッピング作用による閉塞状態のさらなる増進による社会経済矛盾の増大と、コレに対する内部からのあらゆる戦いの歴史過程が進んでいく。
金子の指摘する方策はあらゆる戦いの一部であるこういった状況への「改良」の仕方を日本国家ーグロ資本複合体に教えているのである。それはそれで良しとできるが、そんなものを飲み込んで日本内外の時代状況は変わる。
2020年東京オリンピック開催は一つの目安になろう。←このまま推移すると10%消費税増税後の経済状況が
五輪にせバブルで先送りされ、問題点を拡大するだろう。
政治状況は、目の前の事実を見てもわかる。
橋下大阪維新は、維新の党と別な道を選択しようとしている。
こんなことは、最初からわかり切ったことで、何かあらかじめきちんと決められた政治コースを忠実に歩んでいる感がする。
橋下大阪維新はグローバル資本制の意を忖度する日本的ファシズム政党(中間層と若者の不安感、根拠なき危機感熱狂、が政治基盤)であり、地域と国にとりついた疫病神である。引きはがして処分しない限り何度でも鎌首をもたげる。次世代の党、田母神と連動する輩であり、アベ等の別働隊である。
全ての政治軍事経済問題は日本国家ーグローバル資本複合体の国体政治化に収斂しよう。それはファシズム軍国主義への回帰では絶対になく、大多数の国民収奪機構の維持拡大を絶対的目的としている。
 
その2。小市民的イデオロギーでは日本は変えられない。
そいう言説ではダイナミズムを埋め込むことができない。
<もう一つの世界>を開示できない。

金子の指摘する論点は一つ一つを取りだすと真っ当なものである。
第3章 市場の匿名性と暴力性     W参考になる 次回
    信用と「共同性」
W。ここで挙げている手形~~銀行券の発展段階における銀行券の信用の背後に「その地域の旧権力者、有力地主、有力商人であり、彼らが信用関係を担保する地域的な『共同性』をになっていた。W。ここまでは藩の紙幣発行、明治政府への三井などの有力商人の後援など多少の歴史的事実を含んでいる。
 
 ところが、以下は日本の実際の歴史には存在しない欧米の事実関係に乗り移って信用と「共同性」を解説している。特殊日本の信用と「共同性」では、純粋に説明できからである。日本の信用と「共同性」は内乱に勝利した維新政府の国家暴力と年貢のムラ請負統治体制によって形成された、と云って過言でない。
>「つまり地方銀行による銀行券の発行の自由な発券システムは、このような地方名望家への信頼をバックにしていたのである。
>「しかし、やがて全国的市場が形成されると名望家への信頼を背景とするが故につ法銀行券の流通に限界が生じる。」
上記のような説明と繰り返していると、「市場」自由主義の正当性を間接的に証明しているようなものだ。小市民的論法である。
 
  貨幣の匿名性と暴力性
マルクスの貨幣の物神性を運用し、次のような指摘に進む。
「貨幣は、社会的共同性に基づいて貨幣を貨幣として信任することが不可欠になる一方で、
その信任の基礎となる『共同性』が崩れると、たちまちのうちに無関心の暴力性を発揮する、というアンビバレントな性格を持っているのである。W。アンビバレント一つの物事に対し、相反する価値が共に存し、葛藤する状態のことをいう。(この場合の葛藤する両義性とは<貨幣の持つ信用と『共同性』>(←小市民の国民国家的理解)と<貨幣の匿名性と暴力性>←物神性(国家ーグロ資本複合体のモチベーション。小市民は今だけ、カネだけ、自分だけのアパシーへ。)
 
「それゆえ、今日のように、金融自由化政策によって貨幣の世界を市場に任せれば任せるほど、市場が『無限に』信用を買う題する可能性を秘めているがゆえに、人々の信用が揺らぎ、貨幣が暴力性を発揮して市場をマヒさせる潜在的危険性を増幅させてゆく。」
 
「しかしこうした事態に直面する度に、中央銀行の最後の貸し手機能や、その他の金融的セーフティネットが形成されてきた。
>しかしグローバリゼーションは、それを限界づける。
覇権国の通貨が国際決済通貨を大いするしかないが、覇権国の経済力が衰退してしまえば、基軸通貨の信認を裏付ける『共同性』の基礎も持たなくなるからだ。
>人々の信認が崩れてしまうと、貨幣による匿名性の暴力は凶暴性を増すことになる。
>貨幣は『自立性』と『共同性』の矛盾が埋め込まれた集約点であるがゆえに、そうした現象が生じる。
 
小田実も貨幣の持つ合理性を指摘していてなるほどと感心した覚えがある。確かに人と人の関係性の拡大が貨幣関係に代替えできるのだから合理的現実的である。ここまではわかる。しかし、「共同性」とは、市場の共同性信用性のことではないか。ソレが揺らいだり崩壊したりすることへの不安が先行すると、危機的時代の反政府活動の幅は狭まる。ギリシア政府はIMFハンブルグのヨーロッパ中銀に真っ先にひざを屈しなければならない。
 
>そう考えるとマルクスの貨幣フェティズム論は、少なくとも一方向しか語っていない。
(W。国家ーグロ資本複合体の国体政治化の本質は貨幣の物神のごとく崇拝であり、その反映は、今だけ、カネだけ、自分だけアパシーとその急激反転化小市民的倫理は『共同性』など余計なことを追加して考える。また金子の基本視座の「共同体」が、日本の歴史と違って欧米のモノだから、理屈が漠然としている)
 
>『共同性』を支える基盤が崩れてしまうと、人々の間に存在する『共同主観』さえ危うくなるからである。
>それゆえ、公共性を担保する金融セーフティーネットが構築されてくるのだが、市場のグローバル化は、
世界中央銀行も世界中央政府も存在しないがゆえに、それを形成する『共同性』が極めて危ういのである。」
W。新手の金融強硬論の登場である。『共同性』が極めて危ういのは良いことである。
 
>「覇権国家システムが揺らぐとき、市場は著しく不安定化する。
①世紀末(W。19世紀のイギリスの大不況)、②大恐慌(W。1930年代)そして現在の『危機の25年』(W。意味不明)がそうである。
①、②は金融資本帝国主義の不均等発展に基づく世界市場の再分割の視点抜きに分析できない。
それが戦後世界体制となり、冷戦体制崩壊後、東アジアにその一部を残存させつつ、米国バブル崩壊、EU金融危機と通じて、新たな金融帝国主義の世界市場の再分割の時代に突入している。
残存する戦後世界体制は一掃されるであろう。この政治経済軍事過程の全地球一体化(統合)と世界の多極化の(分裂)要因は同時進行する。
マルクス資本論」は資本主義の原理と当時の現実を並列して批判的に示しているのみである。
宇野弘蔵が「経済言論」に抽象化したように、資本主義の価値増殖運動は内在的に自己解体するシステムを持たず循環的に永続していく。世界中央銀行も世界中央政府は国家グローバル資本複合体政府を世界的に一掃することによってしか、出現しない。
国体政治化していくのは日本だけではない。先進国はすべてそういう方向に進む。