反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第3回「遥かなる革命~ロシアナロードニキの回想~。新しい革命的世代の代表者である10歳20歳年下の新囚人の彼との間にあの越え難い溝、あの相互の心理的無理解は存在しなかった。

                              第2巻
      第1版序文
「1921年12月に拙著『忘れ得ぬ事業』つまり単行本第一巻が出版されれから3日後に、1915年国外に残してきた草稿を私は受け取りました。
~~
今回の刊行の運びとなったシュリッセルブルグ要塞監獄(W、人民の意思党専用監獄)に関する本書、つまり第2巻『生活の時計が止まった時』のテキストをすでに5月に印刷所に渡すことが可能になったわけでした。
 
><一日目>この章は1910年のけ視野直しを入れることなく一気にわたしから流れ出し、この本を書くきっかけになったモノです。
 
W。異様ともいえる臨場感あふれるシーンと心理描写を冷静な客観的な覚めた筆致で時系列の体験をつづっている。一遍の名作小説であり、日本的基準でいえば、最高レベルの純文学である。
 
2年後の1913年春にやっと私は次のような章の中で、シュリッセルブルグ要塞監獄における体験をさらに書き継ぐ仕事に戻ったのでした。
すなわち「ハンスト」、「肩章」、「脅迫の下にあって」、「約束違反」、「生活の恐怖」、「母」及び「出獄を控えて」がそれでした。
 
    第一章   一日目
非常に臨場感はふれる血肉の通った絶妙のハードボイルド小説タッチで出来事が描かれて入いる。絶対的行動者ならではである。面白いが残念ながら、割愛
 
    第2章   最初の数年
割愛、同上。 厚い壁を隔てた独房同士のモールス信号のような人民の意思党収監者同士の会話。
ロシア語のアルファベット図表の縦横を想定する。縦横交差する特定アルファベットが浮かび上がる。最初の信号は縦配列の順番をたたく。次の信号は横配列の信号をたたき、その音の回数を受信する側は、アツファベットを特定する。
>日本語の<あいうえお>では厳しい。ただし、極限状態でも連絡しあってきた。アルファベット表音文字と表形文字との違いである。日本語は付加体列島原住民外との共通性は見出しづらい。ソレに自覚的かどうかの問題である。現代コリアン文化は、この辺が意識され、改善されている。中国語はもともと、主語動詞配列であり、漢字は台湾と違って簡略化されている。
 
    第3章  銃殺
割愛
人民の意思党員 ミナーコフ。ムイシキン銃殺。
 
    第4章  獄中の親友
 
    第5章  懲罰房(1887年
「最初の数年間、わたしは、以上で無意味な環境の中に陥ってしまった大部分の新入りと同じように、打ちひしがれた状態にあった。
そのころ唯一の逃げ道は、手足を縛られた人間の運命に忍従して、沈黙していることだと想われた。
>しかしこの気分の中には、あらゆる抵抗や闘争は不可能で無駄だと云う意識だけがあったのではない。
ーー別の意識もあったのだ。
わたしのように、かつて、思想のために屈辱と苦難と死に耐え抜いたキリストの像に魅せられたことのある人、幼年時代や青年時代にキリストを理想と考え、その生涯を自己犠牲的愛の手本と仰いだ事のある人なら、
人民解放の事業のために有罪判決を受けて生きながらえながの墓場に投げ込まれたばかりの革命家の気分はわかるだろう。」
 
>裁判の後、受刑者の心をとらえるのは特別な感情である。穏やかな澄み通った心になっているので、離れ去っていくことどもに恋々としがみついていたりせず、迫りくるものの避け難い事を十分に意識しつつ、しっかりと前を見つめているのだ
 
>幼時から意識的にも無意識的にもわたしたちに植え付けられているキリスト教の思想や、あらゆる思想的苦行者たちの物語は。このような受刑者に、人間が試されてるときが来たと云う喜ばしい意識を起こさせる。それは束の間にすぎゆくも個人のためにではなく、人民、社会、未来の世代のために思想的幸福を勝ち取ろうと全力を傾ける闘士として彼の精神の不屈さと彼の愛の力が試されるときが来たという意識なのだ。
 
わたしは扉を叩いて看守長を呼んでもらいたいと頼んだ。
「何の用かね?」扉の引き窓を開けると彼はぷんぷんしながらたずねた。
「二人で話したのに、一人だけ罰すのは不公平です。」と私は云った。
「わたしも超罰房へ連れていててもらいたい。」
「よろしい」--対して考えもせず看守長は答えると扉を開けた。
 この時始めて私は夜の光ーーわたしたちの墓穴の壁にかかっているいくつかの小さなランプーーに照らされた監獄の内部を見たのだ。~~
縦に並べられた棺のように立っている40の重苦しい黒い扉があり、それぞれの扉も向こうにはそれぞれ苦しんでいる囚人である同志がいるのだ。
あるものは死にかけているし、あるものは病みに衰えたり自分の順番を待っているのだ。
 自分の『ため息の橋」を通って階段のところまで行った途端に、隣人の声が上がった。
『ヴェーラが懲罰房へ連れて行かれるぞ!」~~
すると数十の手が、『我々も連れて行け!』と云う叫びとともに扉を激しく叩き始めた。
私を不安に駆り立てた暗い、あたりの様子の中で、自分では見えない人たちの聞き覚えのある声や聞き覚えのない声、わたしがもう何年も聴いたことのない同志たちのの声は、わたしの心の中から苦しいほどの、激しい喜びを呼び起こした。
わたしたちは別れ別れになっているけれども、団結している。別れ別れになっているけれども、心は一つなのだ!
看守長はきちがいのようになった。
 
 
        第6章  紙 (1887年)
わたしが逮捕されてから5年が過ぎ、獄中生活の最初のつらい3年間が終わった。
>その時私たちは始めて紙を与えられた。
コレは一つの事件だった
 しかし、最初はお祭り気分でウキウキしたものの、ソレが過ぎてみると、さて、この紙をどう使ったらいいのか、そこに何を書いたらいいのか、と云う疑問がわいてきた。
~看守長は通し番号を付けたノートを渡しながらこういった。
『終わったら返してもらうよ。替わりのを渡すからね』
このことは、書かれたものを監獄当局が、それから刑務局が読むことを意味していた。そこで祭日の代わりに平日がやってきたのだった。
 わたしたちのとぼしい書庫には散文に詩にしろ文学の本は全然なかった。
 
ソレで、自分のノートに最初に書きいれたのは、ネクラーソフの叙事詩『ロシアは誰に住みよいか』か等の次のような断片だったことを覚えている。
  
  この世の中で
  自由な心のために
  二つの道がある。
  秤にかけよ、 誇らしい力を
  秤にかけよ、 ゆるぎない意思を
  どちらの道を行ったら良いのか
 
何人かの友人を経て、ロパーチンが壁をたたくやり方で自作の詩を伝えてきた。
 
 
  呪われてあれ!
  はじめてこれらの円天井を見た日よ
  自由の最後の幻影よ
  永遠に別れを告げた日よ
 
     呪われあれ
     苦しみのために母が私を生んだ日よ
     愚かしさの優しさの中で
     わたしをすぐさま殺さなかった日よ
 
誕生日などの記念する日の9月17日にロバーチンが私に送ってよこした感動すべき書簡詩をもらうことがあった。
 
  よし君は地獄の墓の円天井の下に
     埋葬されようとも
  けれども君はここでも我ら兄弟愛に
     包まれている
  よしや肉親を、親友を、よのなかを
     君は奪われようとも
  けれども君はここではあいさつを受けないわけではない
     君は一人ぼっちではない!
 
 
        第7章 M、Fグラチュフスキー
 自由の身にある人たちに良く見られるような神経系の幾分かの乱れと云った場合静寂と云うものは個も増しい結果をもたらすものであり、神経の平衡を取り戻す素晴らしい手段である。
 ところが、永遠の静寂、無限に永い、無限に続く死のような静寂というものは恐ろしい。(W,わけ、も常用する。翻訳日本語だな。批評社の校正が足りないのだろうか?悪文の代表選手に他人のことは言えないが。しかしいい悪いの判断はできる。和田春樹訳ではひっかるところなくす~とよめる。此方の方が原文に忠実。フィグネルは名文家)
 
<このページはびっしり和文で埋め尽くされている。ほとんど直訳にちかいのではないのか。和文回顧録はこういう長いセンテンスにしない。このあたりのページは全部、5行以上の文章である>
 
人間の神経をとことんまで台無しにしてしまうためには、おそらく、コレ以上に強力な手段はないだろう。
長期の静けさは聴覚を甘やかし、時がたつにつれて聴覚はますます鋭敏となり、ますます興奮し易くなり、次には普通の音がたまらなく強い音強い音に想われて、もはやその音に会えることはできなくなるのだ。
そして、どんな奇妙であるにせよ、物音が微々たるものであればある程、反射運動はいよいよ強まるのだ。
 
           第8章  看守長ソコローフ
省略
 
 
           第9章   ハンスト
一致した決議ができないことが明らかになった時、わたしたち5名からなる少数派の発起人は、多数派の意見を無視してハンストを始めようと決議した。そして実際私たちはハンストをはじめた。
 
 このことによって私たちは大変な間違いを犯してしまった。
多くの歳月がたって初めて、私はわたしたちがやったことのすべてを理解した。わたしたちン決議は正しくなかったし、容認し難いものだったと云うこと、監獄内では、もし残りの同志たちがどう関せず、そこへ進むことを欲しないならば、こういう講義は個人的にも集団的にもやってはならないのだ。
ハンストはその成り行きの中で必ず他の人たちを巻き込むことになる。
ーー彼らの意に反して巻き込むことになるからなのだ。何かを勝ち取ろうとして隣でハンストをやっていることに、耐えられるものだだれ一人いないわけなのだ。賛成であれ不賛成であれ、一日早いか一日遅いかはともかくとして、友情や同情から抗議に加わるわけにはいかなくなるだろう。
 
 ところでハンストと云うものはわたしの理解しているところによれば、全然やらないか、最後までやりぬく決意を持ってやるか、いずれかにしなければならないのだ
同情心からだけ人々を彼らの意に反して死まで引きずっていくということ。
(W。この監獄は自己犠牲精神あふれる人民の意思党員だけが収監されている状況でのフィグネルの反省である)
 
ハンストが私たちによって始められるや否や、前には不賛成だった人たちが直ちにそれに加わった。わたしたちには秘密に彼らは、反対することができる間は反対しよう。だが、わたしたちが始めたなら、加わろうと決めいていたことが分かったのだ。
~このようにほとんどが団結した。
~~
数日たつと一人がめまいがし、もう一人が起き上がれなくなった。
ブツィンスキーの場合は血の混じったおう吐がおこった。
ナルイシキン手当てするのを拒んだ。
こうした出来事があった後、誰かがハンスト中止を提案し、監獄の東北側に入っていた者たち全員の多数決で提案が採決された。
 
残ったのはユルコフスキー(前日の記事にある野獣派人民の意思党)とわたしだった。
ユルコフスキー壁を叩き私がやるとおりにやる、と伝えてきた。わたしのほうはそれにこたえて、こういった。
ーー最後までやり遂げるのが私の習慣となっています。大多数の決定を自分にとって義務的なものと考えていないので、抗議を続けることにしまう。--
 
W。結局、フィグネルが死ぬなら、自殺すると二人の同志が伝えてきて、同志への不信感と挫折感いっぱいにハンストを中止した。そしてその教訓は冒頭にあるが、その境地に達したのはずっと後だった。こういう精神の持ち主が人民の意思党の行動の真ん中にいた。
政治的分類としては、生粋の行動派急進民主主義者の特徴である。
 「最後までやり遂げるのが私の習慣」(フィグネル)のような精神構造のヒトは日本でも真ん中にいた。運動の経験が淘汰し、そういう人たちを育てたのか、元々そういう精神構造のヒトが引きつけられ寄り集まって相乗効果を発揮したのか
不良っぽい人もいた、体育会系もそれなりにいた。思い悩む、いわゆる真面目なタイプは、いそうでいて、あまりいなかった。普通のヒトは、人民の意思党タイプの行動に遭遇すると、思い悩み逡巡するはずだ。そこが昔から課題であり続けた。
 しかしながら、この課題は、その時代の社会経済構造の在り方に結び付けて考えるのが、正解である。
前回の資料で挙げた(2) 『テロとその党の破産(アゼーフ事件によせて) トロツキー/訳 西島栄』の視点は大いに参考になる。当時のロシア社会民主労働党の人民の意思党観、その後継政党の社会革命党観であるが、レーニンの「何をなすべきか」「一同志にあてた手紙」とはずれがあるように思う。
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   *この課題は次のようにまとめることができる* 歴史ブロック視点アベ等のズレにも適応できる
<その時代の国際的な経済構造の中のその国の特性、に沿っているが、ねじれやずれの生じる独自性ある歴史ブロックとしての政治構造>
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>もう一つの大事な視点がある。
行動派急進民主主義思想の源流を古代ギリシアアテネやスパルタに求めることができる
アテナイ民主政の出発点で、地縁血縁の結びつきにある住民集団の実存が、党派争いの元になる、として、地域を分割して、地縁血縁の結びつきができない様に、お互いに離れた地域どうしを一つの戸籍の所属地とする。
こうして抽出された個々人の戸籍を一市民の所属であり、権利と責任主体と確定する。こうして人工的に生まれた権利責任主体(デモス)が、アテナイ市民、兵士として、プリニュスの丘の集会に参加し、例えばこれから行う戦争について提案者は提案し、出陣する兵士が議決する。
従って、デモスは日本で通常云われているような民衆などと云うあいまいな概念とは次元が違う
デモスを民衆とぼんやりと理解するから、個々人の権利主体、行動責任主体の実存がはっきりしなくなる。
デモクラシーの語源は、こうしたデモスの支配と云う意味である
 
ロシア人民の意思党の行動原理の源流をここに認めることができる
 
>更に、スパルタの二人王にも、行動の原理がある
突撃する密集歩兵集団の弱点である最右翼の陣取ることは、スパルタ王の最大の名だった。(左に盾を持チ、右手に槍をもった密集軍団では盾は歩兵同志の身体を防御し合うが、最右翼には防御する盾がない)
戦陣の王が倒れるともう一人の王がその名誉を引く継ぐのが掟がスパルタの掟だった
スパルタは滅亡するまでキッチリと二人の王がいた。
コレはアテナイ民主政のちょうど裏返しであり、そこにアテナイと同じ性質の、状況に流されない純化した行動原理を見る。
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W。それにしてもフィグネルの心と体は頑健にできている。
 
「わたしは食物を取らなかった9日間を通じて、飢餓は私にどんな苦しみを与えず、私は全く苦しみを感じなかった。~わたしは自分のなかに何も異常なものを認めなかったわたしは寝台に静かに横たわって読書していたのだ
わたしの頭は申し分なくさわやかだったので、モリエールの戯曲をフランス語で愉快に読み~~
唯少しづつ弱ってくるのが感じられ、9日後は一般に長い間、病臥していおるときに目がかすんでくるように、動くと目がかすむようになった。
>こうしたわけで、ハンストを続けようとする私の決意は忍耐力も何らかの克服と云うことも必要でなかった。
~たぶん、肉体的な苦しみが全然なかったと云う点で役割を果たしていたのは、最初から私が持っていた平静でゆるぎない決意だったろう。
 
W.「身体は大きな試練を被らなかった」としているが神経系がやられて脱力感に見舞われたようだ
それにしても、エネルギッシュな御人である.。後にフィグネルが精神的に威嚇すると監獄当局の高官もおもわず、後ずさりしている。精神力で相手を威圧できるヒトである。
 
        第12章  N,Dポヒトーノフ
N,Dポヒトーノフは教養があり高い知性を持っていたが、特別なエネルギーにも性格の力にも恵まれていなかった。
彼は気立ての優しい人であり、友情を支えを必要とし、享楽主義への傾向を持っていた。--彼は人生のと人生のあらゆる楽しみを愛していたのだ。かなり甘やかされたわがままなところがあり、禁欲主義の気配などこれぽっちもなかった彼にとって、おそらく監獄ではどの人よりも辛かっただろう。彼の生活は苦しみにみ満ちたものだった訳で、破局を持って終わったのだ
 
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ポヒトーノフは発狂してしまった。
1895年~精神科医なら、少なくとも1年か2年和えに精神病の兆候が彼に表れているのを発見したに違いがない。
~こうして12年前に知識欲に富んだ発達した頭脳と快活で活動的な気質を持った魅惑的な若々しい青年として監獄入りしたのだったが、今彼は運び去られていくのであり、肉親に見せることさえ約束されていたのだ。
1897年4月4日彼は死んだ。
 
 
       第16章  文通 1897年
遅ればせながらの喜びは喜びとならないわけで、13年もたってから私たちが文通を許された時、わたしは喜びを感じなかった。
13年もたつうちに肉親のものたちはだんだん何処か遠くの方へ去って行った。わたしたちの生活は別れ別れになってしまい、遠ざかれば遠ざかるほど相互にますます離れていった。彼ら肉親のものたちは、あたかも死んだかのようだった。--久しい、絶望的な別離は死に似ていないだろうか?
  最初から私たちに文通の権利を奪われているのでなかったなら、ソレはとても幸福だっただろう。肉親のものたちとのつながりは生者の世界とのつながりだっただろう。
~~W。許可された文通は年に二回。おまけに手紙は当局に返却。
 
わたしにとって近しい人たちの筆跡を見るのは楽しい。受取った手紙に目をやると、わたしの心の中にはたちまち筆者の姿が浮かび上がり、そこから連想されて、その人の精神的風貌も本質的特徴をおびてあらわれてくるのだ。
このような条件の中では、手紙を受け取ると云うことは、気分の高揚ではなく不安を呼び起こした。
わたしの心はざわめきはしたが、しかし何か楽しいことを期待するときに心をワクワクさせるような興奮によってではない。決してそうではない!
ソレは忘れる必要のなる心配の種と云うものであった。記憶を呼び覚ます煩わしいものが不意に外部から飛び込んできて、心の平安をやぶってしまうのだ。
~~
 つまり手紙からは何一つ良いことを期待することはできなかった訳で、ほったらかしておけ!とばかり急いで封が切られるようなことはなかった。手紙の出現と云う事態になれる浮揚があったし、手紙の内容に対して心の準備をする必要があった。だから3,4日たってからやっと封が切られると云った具合だった。
わたしたちの場合、手紙は必ず重苦しい気分を呼び起こすにきまっていると予測されたので、
例えば、ロパーチンは、もし食事前に手紙を受け取ったとしたら、食欲を損なうことはすまいとして手紙を脇に置き、
食事がすむと、今度はまた、食後の休憩を乱すまいとして読まなかった訳だ。
 
W。収監者同士、こういった微妙な心のひだを、運動に出たとき、独房の壁を叩くの暗号通信によって、お互い話し合っていたのだろう。
 
  <監獄中を回覧された妹オリガ(政治犯として流刑の経験あるナロードニキ)の手紙とは?>
わたしたちは誰もかれもかたずをのんでそれを呼んだのだった。
 
「心を揺り動かしショックを与えることになったかもしれない様な前置きは一切抜きに妹は、わたしたちがしごくありふれた状況の中で、あたかも私たちがたったいま別れたばかりだとでもいうように、コレが最初の手紙ではなくて13年に渡る別離の間に書くことができたかもしれない何百通もの手紙のなかの、少なくとも三百一通目だったとでもいうように「、私に話しかけてきたのだ。
 
 W。手紙の具体的内容は省略。肉親の個人的な事情を語る手紙は、通信を途絶された長期獄中政治犯の獄外の肉親への心配が不安を掻き立てる原因となっていた。その流刑経験のある妹はその状況をくみとり社会的内容を検閲をかいくぐる巧みな文章で具体的に書いてきた。
 
「手紙に内容はどれもこれも社会性を帯びていて、そこには生活の息吹が感じあられ、若々しい健康な声が聞かれた。
~~
しかし、それはーーこの最初の春告鳥はーーこの種のものでは唯一のもにだった。コレ以外にはこの種の手紙を私は受け取らなかった。
この手紙が刑務当局に許可されたとするならば、おそらく、妹が社会的話題を家庭生活のいろいろな出来事やマルクス主義についての家族の会話など、すこぶる巧妙に絡み合わせて書いたにすぎないだろう。
~~
  もう一人の同志の家庭にはもっと悪いことがあった。その家庭は完全に崩壊していた。
母親はすでに精神病で長年にわたって精神病院に入院していた。
地主である父親は僻地にある自分の所有地で独り暮らしのうち重病になって死にかけていた。他人たちが遺産のことを考えながら彼を取り巻いていた。
二人の姉妹は憎しみ合っていて、お互い合うこともできなくなっていたし、彼女たちから相手にされなかった三番目の妹は社会的階層の最下層に堕ちてしまった。
 こうしたことはすべて生活の中で長年の間に次第に作り出されていったわけなのだが、しかし今や、
囚人の頭上にハンマーの一撃のように、一振りで落ちてきたのだった。
 
 アントーノフの母親の手紙は素朴で心のこもったモノだったが、彼女は読み書きができなかったので、口で話したことを書き取ってもらわなければならなかった。
彼女は一人暮らしについてこぼし、息子と別れて暮らしていることについてこぼし、自分の老年の頼りなさについて語り、悲しみを述べた後で必ず『だけど、どうしようもないものさね!』とつけくわえるのだった。
 
 ところで私たちはどうだろう?
どんなふうに、そして何について書くことができただろう?
同志たちについて、監獄の建物について、自分の監房について、監獄の仕切りについて書くことは禁じられていた。手紙に内容に対する刑務当局の検閲態度は滑稽なまでう疑い深いモノだった。
自分たちの心の片隅を開くことに危惧を覚え、またあれもこれもふれることを禁じられている状況の中では、わたしたちの手紙はあまり心のこもったモノにならなかったのは不思議ではない。
手紙はよそよそしい不自然なものになってしまったし、大判の便せん一枚を埋めるに足りるだけの内容を何とか絞り出すためには、しばしば長い間書きあぐねなけれればならなかった。
 
 13年の間に親族の繋がりは弱まってしまい、追憶はぼやけ、『肉親たちに対する関係は変わってしまった。変わってしまったと云うより、悪化した、とさえ私はは云いたい。
私の愛するおじが死んだとき私が感じたのは、ただ哀惜の念にすぎなかった。この哀惜の念がどんなに冷淡な純理性的なものだったか、と云うことを告白するのは難しい!
 監房の中で私と一緒に暮らしてきた可愛らしい小鳥がけいれんを起こして倒れ、そして死んでいったとき、私は本当に悲しみを味わった。小鳥はよくなれていて、私の肩に止まったり、手から<ななかまど>の実をついばんだりしていた。私の机の上でさえずり、水道の流しの中で水浴びをしながら楽しそうに水を四方に跳ね返したりした。
 小鳥が死んでからと云うもの私はまるまる2週間も泣いていたし、小鳥が眠るときにいつも止まっていた区議を涙せずに見ることはできなかった。この涙を止めるために、看守長に、しばらく別の監房に移してもらいたいと頼まなければならなかったのだ。
そうなのだ!親しみのあるしみじみとした手紙は書かれなかったのだ。
 
 石のように硬くなった私の心を開いたのは、やっと1903年になってからだ。(W。逮捕されて17年が過ぎている)
その年私は母が病気で死にかけているという知らせを受け取ったのだった。押してもう決して母に会うことはできないだろうと感じたのだった。
~そうだ手紙は喜びではなく重荷だったのだ!
 
       第23章 わがヴェニアミン
 古いシュリッセルブルグ囚人である私たちは、カルポーヴィッチよりも、ある人は10歳、ある人は20歳またはそれ以上も年上だった。
このことだけでもすでに、彼に対する私たちの関係を、蒸すことに対するそれとして決定づけたわけなのだ。わたしたちは活きの良い人々に飢えていたので、彼に対して特別にやさしい態度を取った。
私たちにとって彼の『青春の清さ』、ロパーチンに言わせれば、
わがヴェニアミンが瞬く間もなしに獄則を破った際に見せた迅速果敢さ(フィグネル強調)<例えば猫の様に柵におじ上り隣の檻の中へ飛び移った)は、私たちが侵犯する習慣を失ってしまったような障害物など何らものともしないと云った血気、少年のようないいたずらっけと云った者に似た何か魅力的なものを持っていた。
 
精神的な面からみて私たちと新しい革命的世代の代表者である彼との間に、新しい囚人が要塞監獄に思いがけず到着したと云う知らせを受けたときに恐れた、あの越え難い溝、あの相互の心理的無理解は存在しないと云うことだった。
 
     続く