反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

太宰治「姨捨」について

>根本的には文中で太宰治の発する歴史的使命=理念そのものの在り方が問われるが周回遅れの太宰治私小説的ヴ、ナロードは挫折したという見方もできる。
詳しくは「反俗日記」の<ロシアの夜>~人民の意思党の監獄囚の日記を取り上げた記事を参照
 
姨捨」を読むと、なぜ三島由紀夫太宰治を忌み嫌ったのか、なんとなくわかる。
つまり三島由紀夫がコインの片側とすれば、太宰はちょうど反対側でぴったり合う。
作法世渡り術として、大胆に自分の弱みをさらけ出すことができる太宰は強い人である。
この小説の太宰に弱者の論理は見出せない
小山初代さんも鉄火肌のひとだったのではなかろうか。
庶民レベルでは作中のような心中には至らず、うだうだと泥沼化し何とかなったり、回れ右をして引き返す

成瀬巳喜男 - Wikipedia

の映画などにそういう庶民的世界が連綿と描かれており、太宰のような際立った男女世界はなく、本質的に弱虫なWの好みに合う。庶民の生きざまはみんなそうだ。
 
戦前戦後のある時期まで作家(文壇~出版社)と読者にこういった徹底した自己破滅、自作自演型作法を受け入れる市場関係がありこの時点の太宰には時代背景も手伝って、次のような独白となる。
この部分に三島由紀夫的世界のちょうど反対側の強い人太宰の「「思想的世界」が開示されている。
  ↓        ↓
 
私には、私としての信念があったのだ。けれども、それは、口に出して言っちゃいけないことだ。それでは、なんにもならなくなるのだ
    ↑              ↑
W。初代さんとの結婚に思想的営為という動機が働いていたと云っても世間的に、収まりがつかない。(選ばれしものの恍惚とそれへの自己否定)
 W。そこで自己の論理を抽象的に語りだすしかなかった。これも太宰の真実の告白である。
        ↓
「私は、やっぱり歴史的使命ということを考える。自分ひとりの幸福だけでは、生きて行けない。私は、歴史的に、悪役を買おうと思った
ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す。私は自身を滅亡する人種だと思っていた。私の世界観がそう教えたのだ。強烈なアンチテエゼを試みた。滅亡するものの悪をエムファサイズしてみせればみせるほど、次に生れる健康の光のばねも、それだけ強くはねかえって来る、それを信じていたのだ。
私は、それを祈っていたのだ。私ひとりの身の上は、どうなってもかまわない。反立法としての私の役割が、次に生れる明朗に少しでも役立てば、それで私は、死んでもいいと思ってい。誰も、笑って、ほんとうにしないかも知れないが、実際それは、そう思っていたものだ。私は、そんなばかなのだ。私は、間違っていたかも知れないね。やはり、こかで私は、思いあがっていたのかも知れないね。それこそ、甘い夢かも知れない。人生は芝居じゃないのだからね。おれは敗けてどうせ近く死ぬのだから、せめて君だけでも、しっかりやって呉れ、という言葉は、これは間違いかも知れないね。一命すてて創った 屍臭 ( ししゅう ) ふんぷんのごちそうは、犬も食うまい。与えられた人こそ、いいめいわくかもわからない。われひと共に栄えるのでなければ、意味をなさないのかも知れない。

W.選ばれしものの恍惚と太宰の論理による使命感が、小山初代さんとの結婚に太宰を向かわせ、もともと無理な結婚の時代背景も手伝った太宰は初代さんも活動に巻き込んでいる自然的破綻を前にして、この論理の筋道を、双方の責任をもって決着させるのは心中しか手段はなかった。
初代さんに死ぬことで責任を取ろうとする決断があったから、自己の思想的破綻を自覚した太宰も呼応した
自死できる覚悟のない初代さんならば、思想的破綻をした太宰の思いだけが宙ぶらりんにさらされ、次のような太宰の到達点も生まれなかった・
↓                    ↓
おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。生きて行くためには、愛をさえ犠牲にしなければならぬなんだ、あたりまえのことじゃないか。世間の人は、みんなそうして生きている。あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがいじゃない。」
 太宰の心中を通じての到達点は
>心中する覚悟のできる初代さんの存在があってこそのモノである。
①心中する覚悟のできない初代さんを自分と一緒に死に向かわすことは無理心中の犯罪であり、世間からも大きな非難を受ける。
②また、心中できない初代さんに暴力をふるうことも世間でよくある家庭内暴力である。
太宰が「姨捨(おばすて)」というタイトルは妻の不貞を心中という形で自己清算する決意を持ちながらも普通に健康的な精神を垣間見せる初枝さんの存在にたいして太宰の背負った罪を、姨捨説話に託したものである。説話では姨を山に捨てようとして背負われた背中から山道に迷わぬように健気に木の枝を折るオバに姨捨を思いとどまって山を下り、家の床下に隠し最後は苦難を抱えた男はオバの知恵に、救われた。
初代さんは生き返った。太宰も死なずに、心中を契機に新境地を開いた。

ただし、日本的特殊世界の窓から眺めるだけでは太宰の愛別の位相は相対化できない。
 
こういう小説殺法が受けるのは、
他のルートによる営為の幅が狭く、深さが浅く←当時のロシアと比較してみるとよくわかる~~、日本的特殊事情がある。
相対化しなければ、この太宰的作法からの抜け道はない。

この時点で太宰の言う歴史的使命は同じ選ばれしものの階層(余計もの)のロシア人民の意思党戦士のストイズムと自己犠牲精神の足元にも及ばない

しかし、究極のところ<女とかくめい>に切り縮められたが、それに先行したヴナロードと同じ位相の失敗は太宰にある。太宰はロシア農民への思い入れと思想的啓もうに失敗したナロードニキのように初代さんの世界とは相いれず、逃げ出した。
 
それなのに「生きて行くためには、愛をさえ犠牲にしなければならぬなんだ、あたりまえのことじゃないか。世間の人は、みんなそうして生きている。あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがいじゃない。」とは。
 
この太宰の心境を思想的<転向>のジャンルにい入れて収まりを付けるのは間違いで、もっと卑近、通俗の精神世界で説明できる。
だから太宰は賢明にもそれを自覚し、その後も敗北感を引きづり、深めた。
 
太宰の行き詰った精神世界の抜け道は古代ギリシア、ローマの世界をベースにした世界観で補強するしかない。
 
>太宰らの精神は中世的愛別の世界が近世、近代を通じて底流に、1930年代の太宰らの精神世界にひょっこり姿を現したものといえよう
そして今も追い詰められた愛別必至の関係は、形を変えて繰り返さている。
>その場合、太宰の「姨捨」状況はまだ救いようのある世界に思える
深沢七郎の「楢山節考」のおりんばあさんの納得づくの姥捨て山行はない
初代さんでもおりんばあさんでもないが、説話姨捨物語のように人間の生きようとする姿は健気である。
 
太宰的アンビバレントを抱える人物は存在する。

>初代さんの覚悟がないのに太宰のように姨捨ができるのか?
>おりんばあさんの納得がないのに姥捨てができるのか?
>初代さんでもなくおりんばあさんでもないからできない。
そして人間の生きようとする姿は本質的に健気で心打たれるから、みんなもがいている!

>それで初代さんでもなく<おりんさん>でもなく、太宰でもない人たちに共倒れの悲劇が訪れる。
今の状況である。
>そこに悲劇の結末を迎える必然性がある。

Wは正直なところこの姨捨を読んでいる最中嫌になって投げ出した。
記事にしようとトライしたらここには本当のことが提示されている、と感じた。
よくできた小説である。芸術作品である。
太宰の文中の次の一節は心の中に響き渡る。
私は、間違っていたかも知れないね。やはり、どこかで私は、思いあがっていたのかも知れないね。それこそ、甘い夢かも知れない。」

太宰の「姨捨」は現在に通じる問題提起をしている。
人間の本性が垣間見える。
 
ガス管くわえててあっけらかんと死んだ川端康成、や妻に死なれ身寄り乏しく自死した江藤淳なども太宰治と一列に並ぶ。
サヨナラだけが人生だ。人生足別離。
8世紀の詩人、干武陵(ウブリョウ)の 「歓酒」。
勸君金屈卮
滿酌不須辭
花發多風雨
人生足別離
人間は最後に一人で死ぬ。
死という事実は平等である。
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語の真の意味での「人間死ぬときは一人である」状況を体現するのは、<孤立死>である。
ヒト一人が死ぬと、確かなことが二つある。
一つは個人の生の終わりに伴って、<世界>は終わる。
がしかし、それでも世界は続く。
老人は、「モノに生まれ(宇宙の始原的物質)モノとして死ぬる(物質として宇宙に還る)」という自覚を持つ戦闘的な唯物論者であると同時に、「個人の終わりによって世界は終わる、死ぬまでシジフォス」とい実存主義者。
 
最後の最後までシジフォスたらん。
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ヴェーラ・フィグネル著『ロシアの夜』
反俗日記  2015/12/4(金) 午後 5:43
 
 wacwacの上記記事の重要個所書き出しと修正 2019年10月23日
<「遥かなる革命~ロシアナロードニキの回想~」田坂訳1980年批評社発行>
問題意識、課題は、最近の連投記事の底流にあるものを引き継いでいる。
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アメリカンセンターのページに記載されているこの記事に出会ったときのホームページネームは直訳で<アメリカの大使館>。
合衆国憲法修正第2条をめぐるアメリカ革命史における正規軍と民兵の状態、ソレを政治思想の方面に拡張し正面から論じた、国家と市民と武装の関係から生まれる市民の武装権抵抗権そして革命権まで至った問題意識。
>そこに何事か多くの事を語れる世界に通じるコア、原理がある、と痛感し、日本ではどうだろうか、と想像した。

 この『論文』の作者はアメリカの専門家であり、ソレを翻訳する日本の学者が最後の部分を修正したとみている。
両者の合作であるが、論法に違いがある。
ずっと原理原則論を深めていき、抵抗権武装、果ては革命権の用語さえ出しているのに、最後の結論部分で正面から政治思想の問題としてきた論法の落としどころに窮して、最後は日本的な用語のすり替えや、極めて現実的な問題を提出して、銃規制の曖昧な展望で締めくくっている。

 「冬の兵士」 反戦イラク帰還兵の会証言や諸々の解説の底流に、上記の国家(連邦軍、州兵)と市民の武装の問題を見出すことができる
引用しなかったが、冒頭の解説はハッキリ、それとわかる論法が展開されている。米国市民社会に浸透する軍隊関係と州兵、連邦軍自衛隊関連は同列ではない。
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そもそも自衛隊日本国内の呼び名は警察予備隊自衛隊へ)で、海外ではフォース=軍を使用している。
>こういった国家基本法制用語の言い換えによる縛りがほどけたときに
>国民的政治意識もぐちゃぐちゃになる可能性が潜在している
>その場合、この事態は日本的市民の生活労働厚生の権利意識の瓦解に結合するものと考える。
>ドイツのアフガン派兵に見られる軍事化と
こういった日本の状況は歴史において社会経済の枠組みにおいて大きく違っている。
両国の政府、当局は軍隊を外交のアイテムに使うとしても、両者は違ってくる。
 
どこが違うのか、という指摘も日本の識者たちによって散々なされてきたが、
ほとんどの指摘は両国の戦前戦後を通底するリアルな歴史や経済発展程度に解消し
リアル実存する個々人の具体的生活労働条件に対峙した個人の自律性の獲得の如何の問題として突き詰めていない
政府と当局あるいは市民社会を相対化できる<自律性>がリアルな生活労働場面で<身体に密着して存在>していたならば、アベ等が国民多数が言いうところの<自衛隊>の軍事力を世界規模の展開と実行に使っても、それはそれでその分野だけの政治の延長としての軍事として突き放して理解し、その紆余曲直、正邪を冷静に問うことができ、生活労働市民社会分野においてこれまで獲得してきた諸権利を特殊緊急事態だからといって安易に放棄することはない
 ところが日本市民社会の政治感覚ではそうなっていない。
自衛隊」が戦争法案に基づいて海外で強度の紛争状態や戦争状態において軍事力を実際に行使すると国内政治風土、民心は一気に今まで曲りなりに獲得した諸権利の一斉放棄に連動するする可能性がある。そんな脆弱性が日本の民主主義制度、空気、諸団体には内在している。
 現状と将来において日本の政治風土に嫌韓蔓延しているが、韓国の1990年代以降の民主主義の制度空気諸団体38度線での南北分断休戦状態、徴兵制にもかかわらず紆余曲折はありながらも獲得した民主主義構造はたとえその事態が日本への排外主義にまみれていたとしても、手放していない。日本の民主主義にそれができるかどうかが問われている。
よく指摘されているように、西洋史における民衆は血を流して獲得した民主諸権利を簡単に手放さないが(この文脈は使いたくないが民主主義は古代ギリシア、ローマ、中世ルネッサンス宗教革命、内外戦争の歴史を経て血を流してうみだされた理念と実行力であり東洋その他は専制体制しか生み出しえなかった。換言すると戦争と民主主義は真っ向から相反するものではない。ヒットラームッソリーニは世界戦争と後発民主体制が生み出した。)日本の民主主義制度と諸権利は帝国主義戦争の敗北と引き換えに日本占領米軍事力を背景に、日本民衆の所に振ってきたような状態だった。民衆は戦争敗北感と同時に不徹底にアメリカ民主主義を受け入れた。
 天皇制打倒、ブルジョア市民革命を綱領的に目指した戦前の日本共産党やそのほかの勢力、人士にとって戦後の民主主義制度と諸権利は、政治の筋道として一見、振ってきたとは言えないが、GHQは半封建社会構造を一掃する解放軍だった。であれば当然にも朝鮮戦争事態の切迫に連動した、GHQ政策の転換=レッドパージ、戦前戦争主導勢力の復活措置によって、分裂し後方兵站基地化した日本へのかく乱や抗議行動に転換せざる得ない。
 東西体制崩壊以降の今に至って問われているのは資本制の野獣的搾取原理への規制の戦いの歴史アメリカでは1930年代大恐慌に対するニューディールまでその方面の規制政策は未熟。巨大な開発資本制がそれを可能にしたという特殊性があり、その継承形態が規制の必要なグローバル資本制段階をリードしているのだから、イデオロギー的にもミスマッチ状態を引き起こしている。)を意図的に修正し段階的暴走形態に達したグローバル資本制の経済下部構造が地球規模で加速度的に階級分解し流動する圧倒的多数住民の労働生活の都合、要求に答えられるかどうかである。
 応えられていない厳しい現実を住民は実感しているがゆえに
近代史の国民国家形成と政治経済危機におけるもっとも初歩的で原始的な共同政治幻想に過ぎない民族排外主義に住民が螺旋的に回帰する。
 そしてその結果は歴史の中で確認済み。
国民国家と国民多数派の自傷行為であった。
徴税機能は国内外のマネー移動に対応できず、国民多数派は民族排外によるフラストレーションの解消と引き換えに足元で進行し続ける相対的貧困化を甘受する。
それが目新しく原理原則的に思え、直近の社会民主主義政策や社会主義「革命」は嫌悪の政治構造物となる。
世界的金融サービス経済を主活動舞台とするグローバル資本制支配層は国民国家をすり抜ける活動形態を具体的に規制の対象に措定し政策を打つ社会民主主義よりも<近代史の国民国家形成とその政治経済危機におけるもっとも初歩的で原始的な共同政治幻想に過ぎない民族排外主義>を選考する。
 
 日本の政治風土はアメリカ民主主義の根幹(自立した個々人の結びつき、市民、タウン、国家と武装の関連)をスルーしてきた。
同時に白井聡が指摘するように朝鮮戦争事態を通じて戦前国体に通底する戦後の国体が形成され戦後世界体制の未だに残存する東アジア情勢において強化されつつある。
ただしこの辺の事情は韓国朝鮮側の事情、さらには米国、中国事情と連動するダイナミズムでとらえなければ俯瞰的に認識することはできない。
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NHKカルチャーセンターの学者さんのネアンデルタール人に関する連続講演のアーカイブを記事にし、自分なりの意見を少し添えた。
最終回に期待していたが、それまでの講演内容を前に進める議論は一切なく、ばかばかしくてスイッチを切った。
 実証性のある具体的データが少なすぎるので、ネアンデルタール人を云々しても、その底には現生人類の状態に関するイデオロギー的判断のニュアンスが付きまとう。
原始的な石器の槍で追い詰めた大型草食動物を最後にしとめる方法が、一日に4000カロリーも必要とする強靭な肉体を駆使した格闘で、最後にロディオ状態で致命傷を負わせる、生きざまに対してこの学者さんは野蛮としてきた研究史差別だと云うがネアンデルタール人の生きざまはどう考えても、動物的であり、野蛮性にあふれていると云って良い
ネアンデルタール人がニューヨークの街頭でスーツを着こんで歩いていても現代人と錯覚しても不思議ではないと云うが、こういうポピュリズム的見方を導入する米国人文学系の研究姿勢にあざとさしか見いだせない

 もっといえば、現生人類の今の状態の方が動物的で野蛮でさえある
科学と文明の利器、物質的条件に恵まれている現生人類の状態と、大型草食動物と格闘せざる得ない様な環境と生きざまにあったネアンデルタール人の状態を横一列に並べると、現生人類の今までの状態の方が、動物次元からは逃れる部分が多いが、ずっと野蛮である。
世界のGDPの総計の15倍以上のマネーが世界をまたにかけてカネ儲けのネタを求めて好き勝手に蠢いている現状において、その何分の一を全人類の視野に立って使えば、防げる災厄はあまりにも多すぎると空想するが、現代の人類がやったことは大恐慌と国民経済の破壊に基づく世界戦争による国民経済の破壊によるマネー資本の価値破壊と富の平準化であった。支配層は世界戦争に国民を大動員し戦力化する必要に迫られ社会厚生を充実せざる得なかった。アベはこの点を戦前体制賛美する形でその著書「美しい国日本」で強調している。
コレこそ、野蛮そのもの、本質的野蛮ではないか。
ショックドクトリン、悲惨便乗型資本主義、低強度戦争状態の世界的散布、国家ーグローバル資本複合体の非人間的なカネもうげシステムの維持拡大を修正させることが最大の課題である。
ソレに向けた付加体日本列島原住民としての、固有の課題がある。
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「フィグネルの回想録は次代の読者の思考と行動の資料となることを念頭に置いている。コレが、大部の本を書くモチベーションである。」
重要個所の引用
 以下の赤色マークアンダーラインのフレーズをWは機会あるごとに思い出すことが多い。
「  第25章  肩章
どうしてあなたは私から文通を奪うことができるのですか私はどんな過失も犯していません。(W、警務当局と、監獄当局の権限の違いをフィグネルはついている』
『あなたは手紙の書きなおしを拒否しています。だから我々はあなたから文通を奪うのです』
~~
訓令は実施されるだろう。旧制度は復活するだろう。--我々が我慢できないだろう。同志たちーー彼らはどうなるのだろう?
 その先はすでに自分の問題だが、おまえはあらゆる結果に耐えることができるか?
軍法会議あるいは孤独の恐怖、発狂そして死ーー悔やまないか?後悔しないか?こういった一切に立ち向かうだけの力がお前にあるのか?
看守長は脅迫しているにすぎないのだと云う疑問の余地を残さないようにするために、私は口きく。
『それではあなたは、私から文通を奪うのですか?』
『その通りです』
考えが稲妻のように走り、あらゆる疑問を投げ捨てる。
『行動してみて初めて自分の力が分かるのだ』
とっさに私の両手が上がり、看守長の両肩にふれ、力任せに彼から肩章をもぎ取る。
『何をするのです?』と叫ぶと、棒から飛び出し、狼狽した騎兵曹長は、もぎ取られた肩章を拾おうと床の上の這い回る。
~ただちに私は旧監獄に連れ去られるだろうと考え、大急ぎで同志たちに何をやったかを知らせる。
   
    第26章  脅迫
内務次官憲兵副長官
「どうしてあなたはこういうことをやったのですか?」
情状酌量などごめんこうむります。私がもう20年も在獄していることを忘れていただいて構いません。一切の個人的動機を排除して、監獄全体のために意識的抗議し問題提起をします」
~~
自分とだけ向き合いながら、自分の運命を真っ正面から迎える覚悟を心の奥に固めていった。覚悟しなければならなかった、死ぬ覚悟を、あるいはどこかの独房に一人ぼっちで幽閉される覚悟をしなければならない、堅固でなければならない、石のように堅固でならなくてはならない
>石とならなくてはならない。コレ以外のことは考える必要がない。
同志たちの同情は必要でない。他の人たちにも自分自身にも心を動かすものは何一つ容認すべきではない。
>心を動かしたりやわらげたりするような一切のものを圧殺しなけれなならない。
~~
絶えず軍法会議を予期し。死に直面しているのを感じていた。絶えず死を予期し死を迎える準備をしていた。
その時に押されおののくことがないように覚悟しておかなくてはならなかったのだ。
そして4週間に渡って夜も昼も四六時中続いたこの体験は破壊的作用をもたらした。
>私は運命が私に自己を発見する機会、
想いきった反撃のための力を発見する機会を与えてくれたことを、
一種の特別に邪悪な喜びとして喜んでいた。
>『僕たちの中の誰ひとりともう激しい抗議をやる能力を失っていますね』
と云ったトリゴーニの言葉は、今では心の中に痛みを呼び起こさなかった。
私はこの宣言を撃破したのだ。
私はやったのだ。能力をもっていたのだ。
>そして期懲役の判決を受けた私には、抗議ゆえに絞首台の上で死ぬことは最良の最後だと想われた。
老齢のために死ぬなんてーー本当は恐ろしいことではないだろうか?--

W。一転、上記の自己を突き放し、外側からみていく
厳しい環境に置かれ決起した自分を突き放してみつめるもう一人の自分がいる。
太宰治を遥かに超える文学魂をここに見る。

*つらい獄中生活に耐えつつ、投獄以前ににも尽くしてきた自由の理念のために尽くすと云う思想にどんなにしがみつこうとも、やはりそれは受動的な無力状態なのだ。
なんと云う静止状態、なんと云うマヒ状態だろう!
人間の中にある最良のものである一切が奥深く追いやられてしまい、現れることのできないーー秘められたもの圧殺されたもの、それはあたかも存在しないかのように思われる。
 
 自分に対して同志に対して疑いを持ち始める
自分のところに残っている10人の人たちは監獄の壁によって隠された全人類であるから、人類の中に存在する一切の素晴らしいもの、一切の崇高なものを忘却し始め、偉大なものに対する感覚を喪失する。
意欲や愛を育むものは何もなく、それらにとって出口なく、それらの根はたちきられている
そして生活、ミスぼらしい、惨めな、沈潜した生活が果てしなく続くーー監獄のベッドの中で死に至るまで!

*そうではない。絞首台の上で死ぬ方がましだーー無為のうちではなく、行動の中で親友のため、同志たちの抗議の中でーー

ところがどうだろう?またしても死ぬ機会を奪われてしまったのだ!
覚悟を決めることを余儀なくされ、疲労困憊させられ、精神的に痛めつけられ、そして生きることが残された。
日または日が、週または週が過ぎていった。
~監獄の暗がりの中では何もかもが誇張されゆがめられた輪郭を持つようになる。
生活は様々な幻影に満ちたものであるが、
わたしたちのところでは生活全体がことごとく幻影そのものだった。