反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第3回 姨捨 太宰治 青空文庫より全文引用

   第3回 姨捨 太宰治 
W注釈 捨←おばすて 捨て←うばすて 
 
 前回に続く
酔っていた。笑い笑い老妻とわかれ、だらだら山を下るにしたがって、雪も薄くなり、嘉七は小声で、あそこか、ここか、とかず枝に相談をはじめた。かず枝は、もっと 水上 みなかみの駅にちかいほうが、 淋 さびしくなくてよい、と言った。やがて、水上のまちが、眼下にくろく展開した。
「もはや、ゆうよはならん、ね。」嘉七は、陽気を装うて言った。
「ええ。」かず枝は、まじめにうなずいた。
路の左側の杉林に、嘉七は、わざとゆっくりはいっていった。かず枝もつづいた。雪は、ほとんどなかった。落葉が厚く積っていて、じめじめぬかった。かまわず、ずんずん進んだ。急な 勾配 こうばいは這ってのぼった。死ぬことにも努力が要る。ふたり坐れるほどの草原を、やっと捜し当てた。そこには、すこし日が当って、泉もあった。
「ここにしよう。」疲れていた。
 かず枝はハンケチを敷いて坐って嘉七に笑われた。かず枝は、ほとんど無言であった。風呂敷包から薬品をつぎつぎ取り出し、封を切った。嘉七は、それを取りあげて、
「薬のことは、私でなくちゃわからない。どれどれ、おまえは、これだけのめばいい。」
「すくないのねえ。これだけで死ねるの?」
はじめのひとは、それだけで死ねます。私は、しじゅうのんでいるから、おまえの十倍はのまなければいけないのです。生きのこったら、めもあてられんからなあ。」生きのこった
ら、牢屋だ。
 けれどもおれは、かず枝に生き残らせて、そうして卑屈な復讐をとげようとしているのではないか。まさか、そんな、あまったるい通俗小説じみた、――腹立たしくさえなって、嘉七は、てのひらから 溢 あふれるほどの錠剤を泉の水で、ぐっ、ぐっとのんだ。かず枝も、下手な手つきで一緒にのんだ。
接吻 せっぷんして、ふたりならんで寝ころんで、
「じゃあ、おわかれだ。生き残ったやつは、つよく生きるんだぞ。」
 嘉七は、催眠剤だけでは、なかなか死ねないことを知っていた。そっと自分のからだを 崖 がけのふちまで移動させて、 兵古帯 へこおびをほどき、首に巻きつけ、その端を 桑 くわに似た幹にしばり、眠ると同時に崖から滑り落ちて、そうしてくびれて死ぬる、そんな仕掛けにして置いた。まえから、そのために崖のうえのこの草原を、とくに選定したのである。眠った。ずるずる滑っているのをかすかに意識した。
 寒い。眼をあいた。まっくらだった。月かげがこぼれ落ちて、ここは?――はっと気附いた。
 おれは生き残った。
 のどへ手をやる。兵古帯は、ちゃんとからみついている。腰が、つめたかった。水たまりに落ちていた。それでわかった。崖に沿って垂直に下に落ちず、からだが横転して、崖のうえの 窪地 くぼちに落ち込んだ。窪地には、泉からちょろちょろ流れ出す水がたまって、嘉七の背中から腰にかけて骨まで凍るほど冷たかった。
 おれは、生きた。死ねなかったのだ。これは、厳粛の事実だ。このうえは、かず枝を死なせてはならない。ああ、生きているように、生きているように。
 四肢 萎 なえて、起きあがることさえ容易でなかった。 渾身 こんしんのちからで、起き直り、木の幹に結びつけた兵古帯をほどいて首からはずし、水たまりの中にあぐらをかいて、あたりをそっと見廻した。かず枝の姿は、無かった。
 這いまわって、かず枝を捜した。崖の下に、黒い物体を認めた。小さい犬ころのようにも見えた。そろそろ崖を這い降りて、近づいて見ると、かず枝であった。その脚をつかんでみると、冷たかった。死んだか? 自分の手のひらを、かず枝の口に軽くあてて、呼吸をしらべた。無かった。ばか! 死にやがった。わがままなやつだ。異様な憤怒で、かっとなった。あらあらしく手首をつかんで脈をしらべた。かすかに脈搏が感じられた。生きている。生きている。胸に手をいれてみた。温かった。なあんだ。ばかなやつ。生きていやがる。偉いぞ、偉いぞ。ずいぶん、いとしく思われた。あれくらいの分量で、まさか死ぬわけはない。ああ、あ。多少の幸福感を 以 もって、かず枝の傍に、仰向に寝ころがった。それ切り嘉七は、また、わからなくなった。
二度目にめがさめたときには、傍のかず枝は、ぐうぐう大きな 鼾 いびきをかいていた。嘉七は、それを聞いていながら、恥ずかしいほどであった。丈夫なやつだ。
「おい、かず枝。しっかりしろ。生きちゃった。ふたりとも、生きちゃった。」苦笑しながら、かず枝の肩をゆすぶった。
 かず枝は、安楽そうに眠りこけていた。深夜の山の杉の木は、にょきにょき黙ってつっ立って、 尖 とがった針の 梢 こずえには、冷い半月がかかっていた。なぜか、涙が出た。しくしく 嗚咽 おえつをはじめた。おれは、まだまだ子供だ。子供が、なんでこんな苦労をしなければならぬのか。
 突然、傍のかず枝が、叫び出した。
>「おばさん。いたいよう。胸が、いたいよう。」笛の音に似ていた。
 嘉七は 驚駭 きょうがくした。こんな大きな声を出して、もし、誰か 麓 ふもとの路を通るひとにでも聞かれたら、たまったものでないと思った。
「かず枝、ここは、宿ではないんだよ。おばさんなんていないのだよ。」
 わかる 筈 はずがなかった。いたいよう、いたいようと叫びながら、からだを苦しげにくねくねさせて、そのうちにころころ下にころがっていった
ゆるい 勾配 こうばいが、麓の街道までもかず枝のからだをころがして行くように思われ、嘉七も無理に自分のからだをころがしてそのあとを追った。一本の杉の木にさえぎ止められ、かず枝は、その幹にまつわりついて、
「おばさん、寒いよう。 火燵 こたつもって来てよう。」と高く叫んでいた。
 近寄って、月光に照されたかず枝を見ると、もはや、人の姿ではなかっ
た。
髪は、ほどけて、しかもその髪には、杉の朽葉が一ぱいついて、獅子の精の髪のように、 山姥 やまうばの髪のように、荒く大きく乱れていた。
 しっかりしなければ、おれだけでも、しっかりしなければ。嘉七は、よろよろ立ちあがって、かず枝を抱きかかえ、また杉林の奥のほうへ引きかえそうと努めた。つんのめり、 這 はいあがり、ずり落ち、木の根にすがり、土を 掻 かき掻き、少しずつ少しずつかず枝のからだを林の奥へ引きずりあげた。何時間、そのような、虫の努力をつづけていたろう。
ああ、もういやだ。この女は、おれには重すぎる。いいひとだが、おれの手にあまる。おれは、無力の人間だ。おれは一生、このひとのために、こんな苦労をしなければ、ならぬのか。いやだ、もういやだ。わかれよう。おれは、おれのちからで、尽せるところまで尽した。
 そのとき、はっきり決心がついた。
 この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。ひとから、なんと言われたっていい。おれは、この女とわかれる。

 夜明けが近くなって来た。空が白くなりはじめたのである。かず枝も、だんだんおとなしくなって来た。朝霧が、もやもや木立に充満している。
 単純になろう。単純になろう。男らしさ、というこの言葉の単純性を笑うまい。人間は、素朴に生きるより、他に、生きかたがないものだ。
 かたわらに寝ているかず枝の髪の、杉の朽葉を、一つ一つたんねんに取ってやりながら、
おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。生きて行くためには、愛をさえ犠牲にしなければならぬ。なんだ、あたりまえのことじゃないか。世間の人は、みんなそうして生きている。あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがいじゃない。
ひるすこし過ぎまで、かず枝は、たっぷり眠った。そのあいだに、嘉七は、よろめきながらも自分の濡れた着物を脱いで、かわかし、また、かず枝の下駄を捜しまわったり、薬品の空箱を土に埋めたり、かず枝の着物の泥をハンケチで拭きとったり、その他たくさんの仕事をした。
 かず枝は、めをさまして、嘉七から昨夜のことをいろいろ聞かされ、
「とうさん、すみません。」と言って、ぴょこんと頭をさげた。嘉七は、笑った。
嘉七のほうは、もう歩けるようになっていたが、かず枝は、だめであった。しばらく、ふたりは坐ったまま、きょうこれからのことを相談し合った。お金は、まだ拾円ちかくのこっていた。嘉七は、ふたり一緒に東京へかえることを主張したが、かず枝は、着物もひどく汚れているし、とてもこのままでは汽車に乗れない、と言い、結局、かず枝は、また自動車で谷川温泉へかえり、おばさんに、よその温泉場で散歩して転んで、着物を汚したとか、なんとか 下手 へたな嘘を言って、嘉七が東京にさきにかえって着換えの着物とお金を持ってまた迎えに来るまで、宿で静養している、ということに 手筈 てはずがきまった。
嘉七の着物がかわいたので、嘉七はひとり杉林から脱けて、水上のまちに出て、せんべいとキャラメルと、サイダーを買い、また山に引きかえして来て、かず枝と一緒にたべた。かず枝は、サイダーを一口のんで吐いた。
 暗くなるまで、ふたりでいた。かず枝が、やっとどうにか歩けるようになって、ふたりこっそり杉林を出た。かず枝を自動車に乗せて谷川にやってから、嘉七は、ひとりで汽車で東京に帰った。
あとは、かず枝の叔父に事情を打ち明けて一切をたのんだ。無口な叔父は、
「残念だなあ。」
 といかにも、残念そうにしていた。
 叔父がかず枝を連れてかえって、叔父の家に引きとり、
「かず枝のやつ、宿の娘みたいに、夜寝るときは、亭主とおかみの間に蒲団ひかせて、のんびり寝ていた。おかしなやつだね。」と言って、首をちぢめて笑った。他には、何も言わなかった。

 この叔父は、いいひとだった。嘉七がはっきりかず枝とわかれてからも、嘉七と、なんのこだわりもなく酒をのんで遊びまわった。それでも、時おり、
「かず枝も、かあいそうだね。」
 と思い出したようにふっと言い、嘉七は、その 都度 つど、心弱く、困った。

  <終わり>

学生時代

1928年昭和3年)、同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二名義で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無限奈落』を発表するが連載は1回で終了。津島家の反対を受けたと推測されている[9][10]。この頃、芸者小山初代(1912-1944)と知り合う

小山初代


小山藤一郎とキミ(旧姓吉沢)の長女として北海道室蘭に生まれる。1922年大正11年)、父が失踪したため、母子家庭となり、一家で青森に移住。母は置屋「野沢屋」で裁縫師として働く。
1925年大正14年)3月、南津軽郡大鰐町の大鰐尋常小学校を卒業し、母の勧めで料亭「玉屋」(野沢屋の後身)に仕込妓(しこみこ。芸妓の使い走り)として住み込むようになる。1927年昭和2年)9月、客のひとりで当時旧制弘前高等学校の1年生だった津島修治(太宰治)と馴染みになる
930年昭和5年)9月30日、太宰の教唆により玉屋から出奔して上京。東京市本所区東京都墨田区)東駒形で太宰と同棲する。11月9日、太宰が初代の件と非合法左翼活動の件を理由に実家から分家除籍されたことに伴い、太宰の長兄・津島文治により青森へ連れ帰られ落籍される。11月29日、太宰がカフェの女給田部シメ子心中未遂事件を起こす。これに対して初代は激怒した。12月、太宰と仮祝言を挙げる。ただし津島家の意向により入籍は許されなかった。
1931年昭和6年)2月、再び上京し、太宰と共に品川区五反田にて新所帯を持つ。以後、翌年7月まで太宰に従って川崎想子という偽名のもとで非合法左翼運動に関与。
1936年昭和11年)、太宰が薬物中毒治療のため武蔵野病院に入院。この間、太宰の義弟(当時画学生だった小館善四郎)と姦通を犯す。
1937年昭和12年)3月初旬、太宰に姦通が露見。太宰からの私信の一節を誤解した小館が、既に姦通が露見しているものと早合点し、初代との関係を太宰に告白してしまったことによる。この後、太宰と共に谷川温泉付近でカルモチンにより自殺を図ったが未遂に終る。帰京後の6月、叔父吉沢祐五郎を仲に立てて正式に太宰と離婚。太宰から餞別30円を受けて青森に帰京し、青森市郊外の浅虫温泉で家業の魚屋を手伝う。
やがて家族に無断で北海道に渡り、道内を転々とする。この時期、処女と偽って若い男と結婚したとの説もある。
その後、九州出身の軍人の勧めで満州に渡り、青島に住む。軍属の世話係をしているような男の愛人になり、荒んだ生活を送っていたといわれる。
1942年昭和17年)初秋に一時帰国。東京杉並区井伏鱒二宅を訪れ、約1週間逗留した後、浅虫の生家に帰って1ヶ月以上滞在。浅虫で小館に逢い「早くいい人を見つけて結婚しなさい」と勧める。
再び井伏宅を訪れ、1週間余り逗留した後、井伏夫妻からの反対を押し切って再び青島に渡る。当時、顔面神経痛を患っていた。
1944年昭和19年7月23日、青島で死去。享年33。8月23日、白木の箱に納まって帰国。彼女の死は1945年(昭和20年)4月10日に、井伏から太宰に伝えられた。

   W.参考資料

「大和物語:姨捨(をばすて)」の現代語訳

太宰治『姥捨』紀行(谷川温泉) 2014年9月15日

大和物語
時の貴族社会の和歌を中心とした歌物語で、平安時代前期『伊勢物語』の成立後、天暦5年(951年)頃までに執筆されたと推定されている。登場する人物たちの名称は実名、官名、女房名であり、具体的にある固定の人物を指していることが多い。
通常では、内容は173段に区切られる。約300首の和歌が含まれているが、『伊勢物語』とは異なり統一的な主人公はおらず、各段ごとに和歌にまつわる説話や、当時の天皇・貴族・僧ら実在の人物による歌語りが連なったいわばオムニバスの構成となっている。
第140段までの前半は(物語成立の)近年に詠まれた歌を核として、皇族貴族たちがその由来を語る歌語りであり、
>>141段からの後半は、悲恋や離別、再会など人の出会いと歌を通した古い民間伝説が語られており、説話的要素の強い内容となる。二人の男から求婚された乙女が生田川に身を投げる「生田川伝説」(147段)、「姥捨山伝説」(156段)などである。また『伊勢物語』にあらわれる「筒井筒」と同じ話が『大和物語』にも出てくるなど、『伊勢物語』の影響は色濃い。『後撰和歌集』や凡河内躬恒の『躬恒集』、『檜垣嫗集』、『公忠集』などの和歌が『大和物語』に出てくることから、これらの作品も『大和物語』と何らかの関係があろう。」
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>W。参考資料
「前4世紀、ギリシアの哲学者。アレクサンドロス大王との逸話で知られる。犬儒派の一人で、ヘレニズム時代のコスモポリタニズムの先駆ともされる。」
前4世紀のギリシア犬儒派キュニコス派)の代表的な哲学者。ソクラテスの流れをくむアンティステネスに学び、プラトンアカデメイア学派を批判して、自由で自足的な生活を求め、敢えて犬のような生活を理想としたので、犬儒派と言われた。彼のポリス社会の理念を否定する思想は、後のコスモポリタニズムの先駆となった。ディオゲネスは、あなたはどこの国の人かと尋ねられると、「世界市民(コスモポリテース)だ」と答えたという。ポリスという国家社会に依存しない生き方を理想とする、ヘレニズム時代のコスモポリタニズムの先駆者と言える
 ディオゲネスには逸話に事欠かない。彼は地位を求めず、家を捨てて樽にすみ、不用のものの全てを虚飾として身につけず「犬のような生活」をした。彼の「シンプル・ライフ」を追求する言動は、貴族的なプラトンへの当てつけであった。ディオゲネスが昼間、ランプを灯して町中を歩き回り「わしは人間をさがしているのじゃ」と言ったという。
 最も有名な話は、アレクサンドロス大王が樽のディオゲネスの前に立って「何か所望のものはないか」と尋ねたとき、「そこを一歩動いてわしの陽なたからどいてほしい」と答えたという話。彼は子どもが手のひらで水をすくうのを見てコップを捨て、パンのくぼみにスープを入れるのにならって椀を手放したという。虚飾を捨て、「自足」することを理想とした彼の生き方を見たアレクサンドロスは、もし自分が大王でなければ、ディオゲネスであることを望んだであろうと語った。
     
 アレクサンドロス大王ディオゲネスを訪ねて「何なりと望みのものを申して見よ」と言ったのに対し、ディオゲネスが「どうか、わたしを日影におかないでいただきたい」と言ったという話は、プルタルコスの『英雄伝』(対比列伝)のアレクサンドロス伝とラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』に出ている有名な逸話である。
 また、ラエルティオスに依れば、アレクサンドロス大王が彼の前に立って、「お前は、余が恐ろしくないのか」と言ったとき、それに対して彼は、「いったい、あなたは何者なのですか。善い者なのですか、それとも、悪い者なのですか」と訊ねた。そこで大王が、「むろん、善い者だ」と答えると、「それでは、誰が善い者を恐れるでしょうか」と言った。ディオゲネス・ラエルティオス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』中 岩波文庫  p.166>
 なお、イタリア=ルネサンスの巨匠ラファエロの『アテネの学堂』にもディオゲネスが、アテネの学堂の前の階段の日だまりで横たわっているように描かれている
Episode 哲学者にして奴隷
 ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』によると、ディオゲネスの父は、ある国で質の悪い通貨を鋳造し、贋金造りの罪で国外追放になった。別の説ではディオゲネス自身が贋金造りだったともいう。また、彼はアイギナ島へ航海中にスキルパロスという海賊に捕らえられ、クレタ島に連れて行かれて売りに出され奴隷になった。奴隷として売りに出されたとき、触れ役の者がお前にはどんな仕事ができるかと訊ねると、堂々とした態度で「人びとを支配することだ」と答えた。そして立派な衣装を身につけたコリント人のクセニアデスを指さして、「この人におれを売ってくれ。彼は主人を必要としている」とも言った。クセニアデスは彼を買い取り、コリントに連れ帰り、自分の子どもたちの監督に当たらせ、また家のこといっさいを彼に委ねた。ディオゲネスが家事全般をうまく取りしきったので、クセニアデスは「よい福の神が舞い込んだぞ」と喜んだという。ディオゲネス・ラエルティオス『同上書』 p.171>
 ディオゲネスはこの他にも面白く、またすごいことを言っているが、ここでは引用できないので、『ギリシア哲学者列伝』(中)をご覧いただくしかない。

>W。参考資料「老人の歴史」パットセイン 東洋書林
「もう一人の哲学者(W。狂ったソクラテス、BYプラトン
引用
犬儒派ディオゲネスは96歳まで生きた。
犬儒派は人間的世事への犬のような婿関心でそう呼ばれた。(ディオゲネスの傍らに犬がいる)しかしそうした無関心は称賛だけでなく軽蔑をもたらした。
この像はギリシアのオリジナルローマ時代の複製。」

   続きは加筆して別掲載した。