反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

黄 晳暎(ファン・ソギョン)自伝Ⅱ火焔の中へ。日本の学術論文引用「アメリカが実弾を提供し、日本はモノを売り、韓国は人間の血を売った」 コレは韓国人自身によるベトナム戦争の総括の一つである。」

    W。1966年8月。強制招集迫り海兵隊に志願

W。参考資料大韓民国国軍のベトナム参戦 - Wikipedia

     韓国ベトナム参戦の時系列

1964年  米国大統領が友好国25カ国に南ベトナムの支援を要請。韓、豪ニュージーランドKeith Holyoake - Wikipedia

12年間在職。国葬古い農家出身、地元のさまざまな農業組合に参加し、政治への関心、「自発的組合主義」

タイ、フィリピン(マルコス)派兵。

1965年 

  • 1月26日 - 韓国国会が第2次派遣同意案を可決
  • 3月16日 - 建設支援団(鳩部隊) W.労働派遣は貴重な外貨獲得手段
  • 8月13日 - 国会第3次派遣(戦闘部隊)動き可決
  • 10月14日 - 第2海兵旅団青龍部隊)リイン上陸

    @1966年 

    • 4月19日 - 首都社団(猛虎部隊)第26連隊本隊クイニョン上陸

  • 海兵隊第2陣清瀧部隊としてベトナム戦争に参戦。ファンソギョン。

    ******

 自伝、引用 W。海兵隊に入隊志願したのは日韓条約反対デモ逮捕の留置所で一緒になり、南道を共に放浪労働した「大尉」の影響だろう。海兵隊に志願しなくても戦争難民であふれかえっていた首都ソウルの若者は首都師団猛虎部隊~現地での戦争犯罪問題視~としてベトナムに派兵。混乱ソウルの問題がそのまま、ベトナムに持ち込まれ非人間的行為に及んだ?

「ある日帰宅すると中学生の弟が交番の巡査が持ってきたと1通の召喚状を差し出した。私が再度に渡る身体検査の通知に応じなかったので

「即刻、警察署に出頭せよ」というもので応じなければ、検挙もあり得るという。かなり高圧的な内容だった。

放浪している間に身体検査の通知が何度か送られてきたのだ。

どこかで3回目の身体検査をを受けなければ懲役6か月になり、強制招集されるとも書かれていたので困ったなと思った。

そこで街中で見かけた「海兵隊では奇数月に一定数の志願者を入隊させています」とのポスターに応じて、そのまま海兵隊司令部を訪ね、入隊書を提出した。それからしばらくして知能テストと身体検査があり、その月のうちに入隊通知書が遅れれてきた。(街頭勤務の際に軍用車両の番号を全部記憶しなければならないなど、米国海兵隊とは違うようだ。」

「私はこうして青春の前半部に別れを告げたのである」

W。コレに続く海兵隊での派兵前の訓練の様子の記述は途切れ、<国家保安法違反>の獄中生活に移る。そこで時系列でいえば、27年も後の獄中生活は後回しにして、ベトナム派兵直前の記述を取り上げる。

        派兵1966年~1969年

  • 4月19日 - 首都社団(猛虎部隊)第26連隊本隊クイニョン上陸、
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  一度海兵隊を経験したものは一生海兵隊

                ~在ニューヨーク洗濯屋の韓国人主人~

引用開始

「前半8週間、歩兵になるために4週間の訓練を受けると、誰もが荒くれた海兵隊の男に生まれ変わる。

そこの生活は一見アメリ海兵隊の教育方法を踏襲したものだが、内務班では日本陸軍式の過酷な「気合」と「バット」殴打日常だった。強い一体感を身に着けさせるため、同期生と戦友愛を強調し、他の部隊を烏合の衆とみなす教育が下士官によってほとんど毎日繰り返された。~~W。韓国開発独裁時代、官僚実務を担ったのは、日本統治時代の現地官僚だった護送船団方式李承晩時代から総督府系の役人に実務依存。日本の戦後経済の制度設計しレールに乗せたのも戦前の統制経済を経験した官僚+戦時中追放されていた労農派学者たち~~

 内務班では兵士を鼓舞するスローガンが目立った。

例えば、「一度回形態を経験したものは一生が海兵隊」などはもう古典級であり「戦友よ、今日ももくもくお疲れさま」とか「鬼神もとらえる海兵隊」「無敵の海兵隊」などの文字が躍っていた。

若者は「陸海空のうち最強部隊は海兵隊だ」とのどが潰れるほど叫び、2か月もすると何時しか強い帰属意識と連帯感を持つようになる。

私は北朝鮮を訪ねて帰国できずにドイツやアメリカを放浪していた折、

>向かいの洗濯屋の主人が訪ねてきて、この地にも海兵隊戦友会支部の集まりがあるので顔を出して何か「いい話」をしてくれないかと依頼された。

>それに対して私は承知のように、北朝鮮を訪問した「不純分子」なのだから構わないかと尋ねると彼の返事が傑作だった。

一度海兵隊を経験したものは一生海兵隊なのだから海兵隊に不純分子がいるはずがない。と実に簡単明瞭に言うのだ。

わたしは委託教育まで受けたので(W。日韓条約反対デモの逮捕歴)教育機関だけでほぼ1年経験してから本体に配属された。当然一等兵卒だった。だからすぐ下に新兵が入ってくるまでは、先輩兵の服装を整えるのはみな私の仕事になった。明け方4時ごろになると自然に目が覚める。そして先輩兵の靴と弾帯を磨き、軍服のアイロンかけをする。起床した先輩兵の靴が輝いてなければ、ここに来いと言われ、その場で靴底をなめさせられる。また「爆撃実施」の命令が下ると、直ちに実施と復唱して、両手を後ろてに組んで頭を地面にひれ伏し海兵隊で「元山爆撃」と称する体勢になるのだ。

 ~~ついに二人の新兵が来て下僕暮らしは終わった。今度は朝夕の出退時間帯に、繁華街での交通整理を命じられた(W。米国海兵隊とは明らかに違う憲兵隊の様相もあり内務が厳しいのはそれなりの理由がある~。)服装検査のたびに手厳しく指導され、動作が鈍いと数時間もうでを広げて立たされたり、宙づりにされたりしてやっと現場に出かける。

ここで主要軍用車の番号を正確に覚えねばならなかった。

~数か月過ぎると、かなりまともな軍隊生活がはじまった。海軍司令部の守衛勤務を命じられたのだ。

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W。ファンソギョンの記述から米国の海兵隊とは位置づけが違うようなので韓国海兵隊を検索してみた。

参考資料

徴兵制~韓国の軍隊制度 | 韓国の軍隊 | 韓国文化と生活|韓国旅行「コネスト」

引用
海兵隊」が軍隊の中でも上下関係が特に厳しく訓練が過酷なことから、そのステイタスは韓国国内で一目置かれているほど。また海兵隊出身者同士の絆は、たとえ訓練時期が異なろうとも同じように強いものがあります。海兵隊出身として有名な芸能人ではヒョンビンユン・シユンなどがおり、最近では楽童ミュージシャンのイ・チャンヒョクSHINee(シャイニー)のミンホなど、海兵隊に志願入隊する芸能人が増えていることでも話題を呼んでいます。」

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W。結局放浪の旅や禅宗寺入山は、徴兵までの身辺整理の意味合いもあったのではないか。自身の自由奔放な精神と軍隊生活は相いれない面があるまして1964年から始まった韓国軍のベトナム派兵は承知していた。首都ソウルの入隊した若者が優先的にベトナム派兵されていたことも知っていただろう。

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W。参考資料

大韓民国国軍のベトナム参戦 - Wikipedia

RIETI - 戦後韓国における高度成長の起動と展開―「漢江の奇跡」―

W。1980年のGDPの急激な落ち込み(マイナス成長)は朴独裁後、全斗煥クーデター、光州事態が影響している。

W。1997年98年の落ち込みはアジアNIES通貨危機(急激な通貨下落)⇒民主政権誕生IMF管理下。

図1:韓国の経済成長率

引用

1970年代に入ると重化学工業化が進み、後に機械工業化が進んだ。それに伴い、労働賃金も上昇し始め、家計部門の収支安定化が実現され、耐久消費財の普及が行われた。というものの、高度成長という実態と「大衆消費社会」の到来には時間的なずれが存在した。即ち、高度成長に遅れた形で、家計の耐久消費財の購入が実現されたのである。これが外需依存型経済成長戦略とともに、日本に比べて長期間にわたる高度成長を可能としたことは強調すべきであろう。」

⇒W。高度経済成長時期に資本は将来の需要に明るい展望をもって設備投資を大拡大するが、その生産力が稼働する時期には需要の中軸である家計の耐久消費財需要はいきわたり購入意欲は成熟化し資本の生産過剰傾向が始まる。この時期は同時に資本も過剰になり、土地投機(列島改造)熱がたかまり原油の値上がりが同時進行した場合、異常なインフレになる。

 韓国経済は資本の設備投資拡大時期よりも家計の耐久消費財需要が遅れたため設備過剰が先延ばしになった。日本の内需拡大型高度経済成長と違って韓国経済は外需依存型経済成長であったため内需の本格的拡張は遅れた。

W。しかし、上記のみの指摘はその国のその時代の人口構成、社会構成を抜きに分析している。朝鮮半島南部は朝鮮戦争休戦時、人口の8割が農民だった。しかも内戦であったために避難民のソウルなど都市部集住、疲弊した農村部に流動的潜在的な過剰労働人口も相当の割合でいた。

 しかし、その過剰労働人口を吸収する資本を拡大再生産する生産過程はベトナム派兵前までの開発独裁時代には未成熟だったベトナム特需(兵士給与、技術者作業員の給与、米軍関係需要、日本の賠償金)によってようやく韓国の財閥資本の基礎が築かれ始めた。他方、米国農産物の供与によって、農産物の価格上昇が抑えられ、疲弊したままの農村部の過剰労働人口は都市へ工場へ流動化し、低賃金過重労働が長期間持続することで(耐久消費財需要の遅れ)、勃興する財閥系資本の超過利潤を与え続けた。

 

図2:輸出入の対GNI比(経常)

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W。重要参考資料 

   ↓

Title 韓国経済へのベトナム戦争の影響 : 韓国における「NIEs的 ...

 

上記はベトナム派兵前の韓国経済。派兵後の特需、さらには韓国経済のキャッチアップまでを丁寧にトレースした論文である。残念ながらコピペ防止になっているようだ。

                        時間不足で未読。

         W。読了。問題点、

 A)韓国の社会構成(都市と農村)の視点が全くない。~人口ボーナスの視点日本の高度経済成長の労働基盤も結局コレ! 

 B)李承晩時代より朝鮮総督府系の役人が政府、地方自治体の実務を担っていた。

朴政権の開発経済政策は戦前の日本の統制経済の手法戦後日本の護送船団方式の官製金融財政政策に倣ったもの。アングロサクソン新大陸系以外の資本主義国の経済発展政策は官の主導性とその中身が重要。

 C)アングロサクソン新大陸系の国家運営、経済政策社会政策は、その他の地域では不適切、ということが、韓国、台湾、中国の経済史を見れば一目瞭然。特に米国流民主主義は世界にとって一つのイデオロギー(国体)に過ぎない。

 

 注目点列挙

ベトナム派兵の経緯とその動機

ベトナム派兵による特需の増大

③経済援助

技術導入及び資本財の輸入による設備投資の拡大

輸出の持続的拡大

輸入の急拡大による貿易赤字

~~総括。韓国経済における的発展の基礎形成~~

 初めに

アメリカが実弾を提供し、日本はモノを売り、韓国は人間の血を売った」

コレは韓国人自身によるベトナム戦争の総括の一つである。」

そのほか貴重な資料が載っている。貼り付けられなかった。

 

ファンソギョン自伝。あの騒ぎの中で水道と電気が止まらず供給されたのは、不思議なことだ。W。戦争は自然の大災害と次元が違う、人間が発生源だ。だから、朝鮮戦争規模の人的物的ダメージを受けているときでもソウルの水道と電気は通じていた。ルールある殺し合い。だったら、戦争以外の別のやり方があるだろうに。

   幼年時代朝鮮戦争) 

「学校に通い始めて3,4か月くらい経った頃の頃、朝早く凄まじい雷のような音が何回か聞こえてきたかと思うと、大人たちが異常に慌てふためき始めた。

学校に行くと、先生から今日は早く変えるように言われた。

永登浦駅に着くと人々が突然ばらばらと四方に散り、近くの消防署からサイレンの音が聞こえた。自転車の乗ってやってきたおじさんが、街路樹の下の自転車を止めてを振りながら私を呼んだ。「ぼく、こっちに来なさい。そんなところでいると銃で撃たれるよ」

 わたしは何が起こったのかわからないまま木の下に行った。次々と飛行機が行きかい、まるで太い竹の棒で床板をたたいているような音がうるさく響いた。

飛行機の音が遠くなると人々は店舗が並ぶ軒下に沿って歩みを図るように進んだり走ったりしていた。

 姉たちが学校で聞いてきた話によると戦争が起こったとのことだった。

~~

   W、市民生活と無関係に遂行される内戦の軍事作戦

~~敵の大量殺傷を狙ったリアルな攻防戦では大自然災害のときの公的救助活動の場合とは違って市民は自己防衛するしかない状態に放置される。市民にとって突然の「大災害」なのだが、異常事態に対する主導権は治安警察を含めた軍事機構に移る。軍隊は敵と戦う機構であり、市民を守らない⇒緊急事態法~~

*******

   引用に戻る

 「翌日から家の前の通りに避難民が押し寄せてきた。

父が言ってきいてみると、京畿道の北部地域から川を越えてきたとのことだった。

 軍人を満載したトラックが列を作って反対方向に進んでいた。

夕方になると、嵐の到来を知らせるかのように遠くから砲声が聞こえてきた。その不穏な気持ちを掻き立てた。

 ~~

 私たち家族が避難の途に就いたのはソウルが占領された後だったか、前だったか、確実なことは解らない。

ただある夜、心臓がチジミ上がるような爆音が続けて聞こえてきたことを覚えている。

それは後で知ったのことだが、漢江鉄橋を爆破する音だった。

南方の方に避難しようとして鉄橋を渡っていた車両が、すべて橋から滑り落ち、多くの人が無残な死を遂げた。

>当時の李承晩政府は、人民軍がソウル近くの政庁にいりミアリとうげをこえてやってくるまで、「ソウルは最後まで死守する。市民たちは動揺するな」という録音放送をずっと流し続けていた。

>そのくせ権力を持つものは自分たちだけでさっさと南の方に逃げて行ったのだ。

>そうしておいて撤収兵力がまだ漢江以北にいるにもかかわらず、漢江鉄橋を爆破してしまった。

>そのことで民心が怒り心頭に達するや、後に責任者だといって大将だったか誰だったか、一人の将校を銃殺したという。

 

 わたしたち家族は、雨の降る早朝家を出た。下の叔母は大田に夫の知り合いがいるからと、先に南の方に入っていた。

 私たちは仁川の方から戻ってくる避難民一行と出会った。仁川方面の様子を聴くと全員踵を返した。背でに人民軍が入ってきたという噂だった。

こうしてぐずぐずとしているうちに人民軍と国防軍が対峙する戦線に置かれるという状況におちいってしまった。

 広い道からぼんやり見える農家を訪ねて行って、そこで少しばかりのカネを払い一晩泊めてもらった。葦のござで家族全員が輪になって夕食を食べた。

 通り過ぎる軍用トラックの前の席には運転手と指揮官が乗り、後ろには兵士が乗っていた。前方に向かってしぃう銃を構えた変死が何人か一番前に立ち、残りは後ろに座っていた。みな完全武装し木の枝や草の葉っぱをつけた鉄兜を被っていた。

 ~~

大人たちはもう避難せずソウルの家に戻ろうと決めたようだった。大人たちは双方の前線が過ぎ去れた都心地に戻るつもりだった。

>私たちは道でであったほかの非難民一行と共に、近くの田んぼの縁にある水路の下に入って夜を明かすことにした。~私たちは排水トンネルの中で二晩過ごした。

 

      W「全員銃殺しろ」

 最初の朝早く、軍人が近づいてきた。

暗かったのでどちらの軍人なのか判別できなかった。彼らは懐中電灯で一人づつ照らし様子を探って去っていった。

2日目の早朝、別の軍人がやってきた。彼らは南、あるいは北の偵察隊か捜索隊だったに違いがない。

軍人は土管の中を懐中電灯で照らし、それを振りながらみんな出てくるように言った。

父は私を負ぶっていた。母は二人の姉の手を握り、私たちの横にぴったりとくっついて立っていた。私は父の背中に頭をつけていた。父の大きな息づかいが大きく聞こえてきた。 

 軍人の中で指揮官と思われる人が質問した。

「お前たちはだれを支持するか。李承晩博士か、金日成将軍か」

誰も勇気をもって答えるものがいなかったが、しばらくして誰かが金将軍だと答えた。

彼はすぐ軍人に連れ去られて暗闇に消えた。

再び返事しろと言われた。誰も返事しないでいると識者が言った。

「全員銃殺しろ」。そうしてカチッと弾を込める音が響いた

そのとき父が何かを言った。この瞬間の話は、母が後に何回も繰り返したのですごく鮮明に記憶に残っている。

「私たちは政治が解らない善良な市民です。どちらを支持していいのか教えてください」すると彼らは魔法にかかったように何か一席ぶった後、全員中にいるように言った。それ方付近で銃声が聞こえ、いち早く姿を消した。

 私たちは暗闇にぺたりと座り込んでいた。

私たちの他に何人か子供がいたが、不思議なことに泣いたりぐずったりするものは誰もいなかった。

母は彼らは国防軍の服を着ていたが、人民軍の偵察隊に違いないといった。

 朝見てみると、将軍を支持するといったその人は、農家で何か食べさせてもらっていたそうだ。

>まだ開戦初期だったこともあり、殺気立った南と北の兵士も、市民を傷つけたりしなかったのである。

 

     W。初めて人が殺されるのを見た。

 ソウル占領の経緯 ①<北占領下にファンソギョン一家戻る>⇒米軍仁川上陸②<米軍、南軍占領下>

③⇒中国義勇軍参戦<北占領>1951年1月4日1,4後退。ファンソギョン一家列車で南に避難。停戦までテグで生計④米軍再反抗、再び米軍南が占領、ソウルに戻る

中国人民義勇軍

1953年7月に停戦が成立

引用

前線がはるか南に移動した後に、やっと私たちは家に戻ることができたがその途中

私たちの家族といくつかのグループが小さな風呂敷包みやリュックサックを担いでは死に向かっていた。

母の横に沿って歩いていた私の手首を誰かがそっと握った。仰ぎ見ると、綿入れのズボンをはいた男だった。

私はそのまましばらく歩いていると、母はその男から私を引き離してくれた。

「おやおやどうしたのその服?」といいながら母は私のズボンをひっくり返してたくし上げるふりをした。ズボンの中に何も隠し持っていないことをわざわざ見せていたようだ。

真正面の人民軍の兵士たちが歩哨に立ち、仁川方面からくる人の検問をしていた。

黄色い軍服に幅広の赤い肩章をつけた彼らは銃身にいくつかの穴の開いている

ソ連製の「タバル銃」の画像検索結果

タバル銃を持っていた。

 私たちは列を作って順に通り過ぎて行った。すると前の方から叫び声が聞こえあっという間に、あるヒトが土手の下の田んぼに向かってダダダッと降りて行った。みんなびっくりしてみると私の手を握ていたあの男だった。彼は青々と育った稲が生えた田んぼにドボン飛び込んだ。土手の上に並んで立った二rの軍人が銃を撃ち続けた。その人はそのマン田んぼに倒れて起き上がらかった。

母は後に、タバル銃を持った軍人がその男のズボンを下ろすように言っていた、男は中に軍服を着ていたようだと話した。

 橋を渡って少しづつ工場地帯に入っていった。

爆撃でめちゃめちゃに破壊された建物が目についた。髪の毛のように絡まった鉄筋、コンクリートの塊と弾の跡が生々しく残った壁と割れた窓ガラス、まだ煙がくすぶる続けている崩れた屋根、それ方道端に粉々になっても得たトラックもあり、砲身が曲がったタンクもあった。

その上には服もなくなり黒く焦げた人の形だけになった、一体の死体がひっかかっていた。まつぉの後ろにも同じような姿をした物体が一つあった。

 戦争が通り過ぎて荒れ狂った町内に戻って感じたことは、2回目のソウル撤収の後に家に戻った時に感じたものと重なっている。

 

     W子供と戦争

 北朝鮮軍の軍人たちがことらに向かって行進してきた。

~ショートカットの女性兵士や背の低くまだ幼い私より少しばかり年上ぐらいの軍人もいた。

私は町内の子供たちと駅前まで行って、たくさんの人民軍兵士とタンクに乗っていた兵士を近くで見学した。タンクに乗っていた兵士たちは子供たちを呼んで一人づつタンクの中を見学させてくれた。

~~

 大人たちには過酷な歳月と思われたが、子供たちは、見た目には特に怖がったり悲しがったりしていないようだった。

それどころか、自分の仲間と一緒にいる戦場の子供たちは、むしろ喜々として楽しんでいるようにすら見えた。

いずれにせよ遊びの材料には事欠かず、飢え死にさえしなければ、学校に通うよりずっと面白いことがどんなにたくさんあったことか。

空腹だったり体調が悪かったり、悲しかったりしたときは、ちょっとだけ泣いてしまえばそれで済んでしまう。涙でに滲んだ目をさっとぬぐって振り返れれば、生きること自体が活気を帯びてくる。⇒W。反俗日記で何度も取り上げた坂口安吾堕落論」はここまでで終わっている。

 しかし、本当にそれだけなんだろうか。

まるで気づかないうちに凍傷にかかったように、成長するにつけて過ぎ去った日に受けた傷がふいに我慢できないほどうずき始めると、それこそ抜け出すことのできない痛みにもがき苦しむ人々を、私はしばしば見てきた。

私の友人もまた例外ではなかった。

今は故人となってしまったが、彼は一生家族と仲良く暮らすせず、社会にも適応できなかった。

   

  中国人民義勇軍参戦⇒軍慶尚南道テグに避難生計⇒米軍反撃によってW再びソウルに帰る。1953年、朝鮮戦争休戦が韓国の実質的な戦後の始まり、だった。南北分断は固定された。グローバル資本制の圧力と(経済地殻変動)~日本列島はユーラシア大陸側に沈み込んでいる、経済レベルで。ウクライナロシア地域とよく似ている~~東アジア情勢の激動状況によってどのように推移するのか。防戦に回っている中国の経済成長の停滞(中国専制政治史によれば帝国の覇権は伸び切った公共負担の重圧で綻びる)台湾の経済停滞の段階に達すると我慢も限界。東アジアの戦争事態が起こる。

 逆も真なり!戦争を絶えずしたがっている、戦争をするしかない社会経済構造にあるものは相手の<脅威>を強調する。

 引用に戻る

「わたしたちは、永登浦の破壊された工場や屋根裏と壁だけが残った官舎を仮校舎にして授業を受けた。

年に何度か行き種類もの予防注射をうち、米軍の対民奉仕の車がやってきてDDT散布をした。~そのころの予防注射は腸チフス天然痘結核(新型コロナウィルスに対する免疫と関係ある、と言われているなど

~~私は特に腸チフスの予防注射に弱かった。

全身がぞくぞくと悪寒に襲われ、夜になると体が電信柱のように伸びたり縮んだり深い絶望の縁に落ちたかと思うとそこから飛び上がったりした。

 学校に行く途中、粗末なバラックが建っている町内に、赤い縄を張り巡らせた区域を見かけることがあった。そこは電線業が広がった地域だといわれた。

>当時の伝染病はなぜか前線から勢いを強めて後方に移っていった。⇒W貴重な指摘である。第1次世界大戦の時のスペンイン風邪パンデミックはまさにそのものずばり。新型コロナはグローバリゼーション<ヒトモノ地球迅速移動>と都市空間が伝染形態と感染のるつぼ、だ。<欲望>の抑制手段がない限り収束はない。

 疫病が流行っていると大人たちがはなし、いくらも経たないうちに脳炎も広がり始めた。

 今考えてみると、あの騒ぎの中で水道と電気が止まらず供給されたのは、不思議なことだ。

もちろん戦争が都市全体を襲いながら近づいてくる何日間かは電機は止まりはしたが、それでも水道は出続けた。⇒W。電気よりもまず水!水道民営化?いかに人間生存の根本原理から外れているかわかる。

戦線が遠くに通り過ぎた後軌跡のように再び電気が通り、夜10時過ぎには節電だといって、すっかり明かりが消えていたような気がする。

W、その頼もしいインフラの灯りの下、家族そろって虱とりをした下りは割愛する。

W.戦争は自然の大災害と次元が違う、とわかった。人間が発生源だ。だから、朝鮮戦争規模の人的物的ダメージを受けているときでもソウルの水道と電気は通じていた。実にばかげているし滑稽である。ルールある殺し合い。だったら、戦争以外の別のやり方があるだろうに。

                     引用終わり

黄 晳暎(ファン・ソギョン)自伝。満州植民地企業経営者の父(扶養家の土地権利書窃盗、売買)、エリートキリスト教徒一家に育った母、一家は北での将来絶望ゆえに越南(支援の母の身内は北エリート)。参考資料、~植民地朝鮮における総督府の宗教政策~~。民衆の日常生活とかかわっていた非公認宗教が海外からの危険思想流入の通路になる(非公認宗教の教義の革命性⇒破壊性。と当時の内務省は警戒。統一教会問題に通じる。

 黄 晳暎(ファン・ソギョン、Hwang Sok-yong、황석영1943年1月4日 - )

 

 W。前回記事は日韓条約締結反対、自動車デモで逮捕された留置所で、元海兵隊員で建設労働の33歳「大尉」と出会って、ソウルから南の忠清南道太田、馬山、普州方面にともに日雇い労働をしながら放浪するまでを取り上げた。

 上記の行動軌跡は 

「知識家庭」に育ったファンソギョンが父母の望んだエリートコースから外れ19歳で発表した短編小説が新人文学賞以降、関心の向かう方向にひたすら邁進し結果的に作家としての社会経験、人生経験の幅を広げていく延長線上にあった。

(休学し家出~仁川の漁港へ18歳。1961年高校文藝賞入選「出獄する日」wタイトルを見ても問題意識の向かう方向が解る)

 

>今回は自伝、囚人1~境界を越えて~において

<北>からの越南の事情、と

ファンソギョン少年の目から見たリアルな朝鮮戦争の実態を確認する。

 普遍的に言えば今の

  @国内戦争における市民生活の実態とでもいうべきものになる。

朝鮮戦争第二次世界大戦の無差別爆撃(原爆投下はその極限)とか、民間人を盾にする地上戦とはかなり様相が違うようだ。

ファンソギョン自伝やその他の情報から推察すると

朝鮮戦争における韓国民間人の死者の大多数は補導連盟事件、パルチザン討伐のような国民同士の党派争いにおける殺人行為イデオロギー戦争)に基づくものと推察できる。参戦した軍隊は民間人を標的にしなかった。そういう意味では第二次世界大戦型の総力戦ではなかった。

>コレは狭い意味での政治の延長の、暴力手段、殺傷手段をもってする最も愚かな、個々人が止めようとすれば止められる政治行為である

>歴史は宗教やイデオロギーがそうした愚かな行為のエンジンになってきた事実を示している。

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     自伝1幼年1947年~1956年

W、叔母の夫の日本で法学を学んだ「主義者」(北支配党の幹部)がファンソギョン一家の越南を援助した。

 引用

「1947年5月ごろのことだった。私が5歳の時だ。

ある夜、私たちはとりあえず荷物をまとめて、私の叔母に当たる母の末の妹の家に向かった。母(W。敬虔なカトリック教徒~植民地時代、キリスト教が半島に浸透、抵抗の色彩もあった。北のキリスト教徒は迫害を想定し南に移ったものは多い。韓国の宗教でキリスト教の占める割合が多いののそのせいもある。)は越南することを心の中に秘めたまま、母の姉や弟たちに口外しなかった。

叔母の夫は学徒兵召集令状が届くといったん平壌に行き、そこから満州に逃げた。そして解放を迎えると保安幹部学校に入り、朝鮮戦争の頃は首相の副官を務めていた。

どこに国だったか外国大使だったこともあると聞いた。

後の叔母にあった時(W。ファンソギョン国家保安法違反承知で北訪問したとき再会)

二人の間に生まれた私のいとことも会い、後日談を聞かせてもらった。

 母が夫と子供たちとともに叔母の家に行ったのは、家族の中で彼女とだけ越南について相談していたからだった。

>叔母の夫は表面的に知らないふりをしていたが、自分の車に運転手をつけて出してくれ、その運転手に黄海道まで送るように指示をするほど、

>私たち家族が南に行くことに積極的に協力してくれた。

母が言うように「エリート」だったからこそ、北に重農できなかった妻の姉とその家族に手を貸してくれたのだろう。

いずれにせよ私の記憶では、車から降りて野原でハイキングのまねをしたことだけが残っている。

 夜、船に乗って川の下流から海に出た記憶もある。みな、湿気の多い船の厚板にうつ伏せになっていなくてはならなかった。38度線の警備隊に見つかると大変なことになるので誰も大声を出せなかった。

>それでもあの時はまだ警戒が緩い方で、船には私たち家族のほかに、南北を行き来する商売人も乗っていた。

  W。開城避難民収容所には日本人引揚者の子供たちの墓がたくさんあった。

>それから学校のようなところに、たくさん人が集まっていた。そこは開城避難民収容所だった。私たち家族はそこに3,4日とどまっていたように思う。

@運動場の外の野山に小さな墓のような形をした赤土の塊が集まっていて、その前にはしおれた花を刺したサイダー瓶があった。

@当時満州朝鮮半島の北側から、大勢に日本人家族が帰国の途についていた。その長い道のりを経てきた日本人の子供たちは、風邪をひいたり疫痢にかかったりするとすぐ命を落としたという。山の赤土の塊は、その子供たちの墓だったのだ。

丁度分断が始まるころ、山河を超えてきた記憶は、そうした抒情的な情景とともに幼い私の頭の中に残った。 

 母は家族の越南位ついて政治的な色を消そうとして、父(W。満州でタイヤ製造事業の経営者、解放後妻の故郷平壌に移った。満州植民地事業の経営者の経歴は日本人支配者との密な関係によって成り立つ。平壌に居つけば不利になり越南の道を選ぶしかなかった。)の仕事を見つけるためにソウルに引っ越したのだといっていた。両親は貴金属の類やソウルにきて自律に役立ちそうな物品を取り揃えて持ってきたようだった。ソウルにつくとすぐに、父が店を開いたり家を整えたりと、何か始めるためにまとまった金を準備していたようだった。⇒W。難民になれる人となれない人の境目は金品の多寡ともいえる。満州時代の両親は日本の敗勢の情報を得て貴金属類に替えていたのか。日本円は紙くず同然。今の日本の現状、将来を予測すれば、富裕層の資産は海外資産に分割している、だろう。そもそも銀行の投資は海外利得に分散。

 W。ところが

ある日、少しの間に解の部屋を空けたすきに、そのカネはすっかりなくなってしまった。

当時結婚したばかりの家主の娘が、盗んでいったに違いないということだった。

植民地企業家だった父(満州でタイヤ製造会社経営)は、満州時代の生活を回復させようと死ぬまで努力したが根を抜かれたまま何もかも失ってしまった彼としては、再生するのに限界があった。

  W。私たちは難民だった。

長い間二人の姉と私は、母の影響のもと、ここは臨時の住まいに過ぎないと心の底で想いながら成長した。

いつかは故郷に戻らなければならないということだった。

私たちは長い間、難民だった。

 朝鮮戦争が起こり戦後の復興が長引き、軍事独裁時代がつづくあいだ、北から渡ってきたもの。

猫の額ほどの狭苦しい半島の南に位置する場所が故郷でありながら、農業を捨てて都市に殺到した離農民。

そして生活の基盤としてはここはふさわしくないと、海外に流れていった移民者。

冷戦がはじまり互いに異なる体制の国に住んでいるために二度と戻ることもできず会うこともできなくなった韓国人。

みな難民だった。

 

 母方の祖父はメソジスト派の牧師であり神学校で学生たちを教えた。

草創期の開化派のほとんどはそうだったように啓蒙的な民族主義者であり

***

引用

明治維新などの影響を受けて1870年代に朝鮮宮廷内の青年貴族官僚両班を中心に形成され、日本と結んで朝鮮のからの自主独立近代化を目指した。1882年壬午事変以後、清と結ぶ保守的な事大党と対立。」

*****

平壌で医学専門学校と高等普通学校の設立を主導する日度の有力者だった。牧師がどうして医学校を作ったのかと聞いたところ、母は「あの頃は病院も少なかったし病気になっても治療を受けらず亡くなる人が多かった」からだ、と誇らしげな感情と恨みがましい思いを交えて答えた。

 祖父は3,1独立運動平壌での主導者の一人だったので獄に入れられ、

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「1919年3月1日日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動

朝鮮キリスト教仏教天道教の各宗教指導者ら33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。

現在の大韓民国(韓国)では肯定的に評価され、3月1日を「三一節3·1절)」として政府が国家の祝日に指定しており、同日には現職大統領が出席して演説を行う記念式典が開催されるなどしている。」

吉野作造は『中央公論』などに朝鮮総督府の失政を糾弾し、朝鮮の人々に政治的自由を与え、同化政策を放棄せよとの主張を発表した。また孫文との交友で知られる宮崎滔天は運動を「見上げたる行動」と評価し、朝鮮の人々の自由と権利を尊重し、いずれは独立を承認すべきと述べている。この他石橋湛山柳宗悦なども運動への理解を表明している。」

*****

その後、

神社参拝反対運動によってふたたび投獄されて通算7年の獄中暮らしをした。

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植民地朝鮮における総督府の宗教政策 - CORE

引用

一九一一年の寺内総督暗殺未遂事件と称された「一〇五人事件」によって、総
督府がキリスト教を弾圧していることが欧米に伝えられたため、日本政府は、キリスト教弾圧という印象を払拭するために一九一二年、内務省主導の「三教会同」を開催した。

一九一五年総督府は「一方的な抑圧策だけではなく、日本のキリスト教団体を支援して朝鮮のキリスト教を牽制するという
懐柔策をも取り入れるようになったことを明らかにした。 

具体的には、一九三〇年代朝鮮農村社会の解体が深刻な問題になり、朝鮮人口の八割以上を占める農民層の離村が急増農民は主に「北鮮」・「満州」・「内地」などへ移住した。⇒W。農村地帯南部よりも工業もある先進地北部に離農民への吸収力があった。日本の植民地経営の残した施設も北に集中していた朝鮮北部⇔満州ルートの経済ライン。ある意味、ソウルの地図上の位置も北部のようなもの。

朝鮮戦争勃発前の南北事情を知るためにココは重要。北朝鮮軍の南進の動機は第二次世界大戦後の東西冷戦体制、東アジアのパワーバランスからだけでは推測できない。

であるなら余計に<南進は間違いだった>とする。

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このような状況下、総督府は、民衆の日常生活とかかわっていた非公認宗教海外からの危険思想流入の通路になることを防ぐため、その実態の把握に着手した。

非公認宗教の教義における革命性を問題にして非公認宗教の分裂・抑圧を強化するために用いられた。⇒W。ある意味、当時の特高警察的嗅覚は今日の統一教会問題に通じる。

>第五章では、日中戦争勃発後に行われた宗教政策として総督府が植民地朝鮮に神社を積極的に導入・拡大していく過程を追究した。⇒W。中国大陸と敵対関係になると、日本政治の選択肢が狭まり、イデオロギー的に硬直化する。コレは地政学的な必然性だ! 

 

具体的には、一九二五年の朝鮮神宮の設立(W。狂っている!)から始まる神社施設につき、日本敗戦までのその後の神社政策を追求した。

朝鮮での本格的な神社導入は南次郎総督期に始まる。

当初、総督府は、日本国外の神社はあくまでも在外邦人のためのものであり、植民地の人々にはすぐに受け入れられないと判断していた。

しかし、日中戦争勃発後、総督府は神社規則を改正し、朝鮮における神社制度の基盤を形成、全国に神社増設を展開した

この時期、朝鮮軍陸軍特別志願兵制の導入のため、朝鮮における宗教状況を調査し、総督府の宗教政策に対する見直しを提起した。
その結果、総督府は神社規則を改正し、神社を本格的に導入・増設するようになった。神社増設に当たって総督府は、新羅百済と日本の交流をあらわす神話などを利用し、神社を通して祭神の代理者=総督による朝鮮統治を正当化していったのである。 ⇒W。稚拙、無知そのもの!存在論依拠の右翼思想に凝り固まると社会科学性が喪失し、周りが見えなくなる。右翼が政権を長く握る国は衰退する!これは格言。

―寺刹令による仏教懐柔、三教会同を境としてキリスト教への抑圧策から懐柔策への転換、儒林の懐柔、非公認宗教団体への抑圧強化、神社増設――を順次に考察した。

 

 この検討を通じて明らかになったのは、保護期から神社増設までの総督府の宗教政策が抑圧策と懐柔策とを用いた「複線的」「重層的」なものであったことである。

統監府の対宗教(仏教)放任・懐柔策から、併合後には諸宗教(非公認宗教を含む)への抑圧策に移行し、これに懐柔策が並行していたのである。

こうした仏教、キリスト教儒教および儒林、非公認宗教に対する総督府の政策は総督府への協力者を獲得するためのもので、懐柔が必要とされたのである。

 

日本固有の神社については在留日本人にのみ関係するものとされ、

総督府が神社信仰を植民地民に本格的に強制するのは一九三六年の神社規則の改正後のことであった。⇒W.1936年2,26事態。

                      引用終わり

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  ファンソギョン自伝に戻る

「そのために暮らし向きが悪くなり、

専門学校に進学し日本に留学していた母は帰郷しなければならなかったからだ。そのころ仲人を通じて結婚話が舞い込み父と会うことになった。

 

 は三代続きの中農の一人息子。寡黙な人なので自分自身に関する話を直接聞いた覚えがない。⇒W。満州植民地戦略企業(タイヤ製造)の経営者であった。

~~若い時、相次いで両親を亡くし、姉の婚家であ延安、白氏の下で暗い青春時代を送った。義兄の白氏は堅実な人ではなくかけ事に手を出してしまい、代々受け継いできた土地を少しづつ売り払うようになった。

>父はある夜、他の人が寝静まるのを待って、今の文箱に入れてあった土地の権利書を持って逃走した。⇒W。盗んだものが盗まれた。

それから平壌に行き土地を整理したカネで何年か学校に通ったが、カネが底をついたので20歳の頃、無一文のまま満州に渡った。⇒W。窃盗、詐欺である。裁判に訴えると当時、どうなったのか?

W。植民地時代の朝鮮半島の(地方)土地権利関係は日本の法律でどこまで保護されていたのか、怪しい。知っていつ限り、地方では土地所有が法的にあいまいになっていたところがあり、日本の民法に登記しなおす必要があったが、無知と過去の両班時代の土地所有にあいまいな風習から放置状態でその間隙をついて日本人所有地になった事例が多い。

**

>そこで日本人の経営する工場に入り、「旋盤の仕事や自動車のエンジンを外して組み立てる仕事をしたあと、独立して店を開いた。

@最初は今でい云うカーセンターのような小さな自動車整備所だったがやがてタイヤを作る大きな会社に成長した。⇒W。当時日本本土のガラス工場などの工場作業は過酷な環境であり、朝鮮人労働者を多数使っていた。タイヤ製造工場の現場作業も過酷(天然ゴムの塊を鋳型に入れる過酷劣悪環境の作業だとおもう)。日本人労働者は就労忌避するので中国人や朝鮮人労働者が主体だった、とおもう。

ファンソギョンの父は北支配地では終生不利な立場に追いこまれたままだった、その意味で越南は正しい判断。

 

朝鮮戦争前の朝鮮半島と日本列島の時事的な事件の時系列で挙げると、戦争勃発への推移がリアルにわかるが、ロシアウクライナ戦争は違う。資本主義の宿命(欲望)は本国における拡大再生産と相反する利潤率の傾向的低下、なので異なる政治経済体制の世界的攻防、衝突(第1次世界大戦型)が起こる。

 黄 晳暎(ファン・ソギョン、Hwang Sok-yong、황석영1943年1月4日 - 年譜

 「  1964年21歳。韓日会談反対デモに参加。逮捕、警察の留置所で出会った建設労働者(大尉と呼ばれる)とともに南道に行く。新灘津(W。忠清南道)たばこ工場の工事現場で日雇い労働(太田市)。

その後、清州、馬山~(W、慶尚南道)~(W。釜山に近い。1950年~保導連盟事件

1960年3月3.15義挙)。のちに頭部に催涙弾を打ち込まれた高校生の遺体が発見された馬山事件)、同年4月19日の学生革命の導火線。

1970年朴正煕政権は輸出振興のため馬山自由貿易地域を設定し、外国企業を誘致して成功を収めた。のちに設けられた中国の経済特区は、韓国や台湾自由貿易地域を参考

普州などを巡り様々な労働を体験してから禅寺に入るが、息子を探していた母親と出会い帰宅する。

1966年23歳 海兵隊に入隊(徴兵猶予期限が迫って海兵隊に志願)ベトナムに派兵される。

1969年23歳。5月海兵隊除隊。

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     囚人=自伝Ⅱ。W。引用文に見出しを付けた。注釈も入れる

「 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 - Wikipedia

W。ファンソギョンは市井の心を大切にする作家である。引用する日韓条約に関する意見はその立場から見た見解で、韓国の一般的な人の意見を反映している、と解釈する。

***

数年前から請求権問題に関する中央情報局部長のキムジョンピル(W。長く政治家として政界に関わった)と大平正芳外相の秘密メモの内容が報じられ、日韓会談に対する反対運動が社会各層に広がった。

徴用徴兵はもちろんのこと、国家と個人が植民地時代の被害の保障が、一括してフィリッピンの賠償金額の半分程度の3億ドルで妥結されるというのである。

いうなれば、「日韓国交正常化」させ、東北アジアに冷戦の最後の包囲網を完成させようとする米国の執拗なすすめと仲介によるものだった。

>日韓会談妥結以降、直ちにベトナム派兵が挙行され、米国の強力な影響力を知らされることになった。

パクチョンヒがユンボソンを排除して大統領に就任すると、米国のラスク国務長官が来韓し、日韓会談の内容が明るみになった。

3月ごろから「対日屈辱外交反対、全国民闘争委員会」が結成され、政界、教育界、宗教界、などから広範な反対デモが起こり、

1960年4,19革命(W李承晩追放)4周年記念日を起点とするデモが全国的に拡大した。

60年代の草創期の文化運動は、かつての宗主国日本の影響力が、アメリカの手引きで朝鮮半島に入りこみ

韓国の主導的勢力のほとんどが親日分子といった民族的危機に基づくものだった。⇒W.この辺のとらえ方が韓国の民主化民族主義の一致の原点。日本とは違う点である。日本では民族主義は右翼の専売特許状態。しかしその民族主義アメリカ隷属には関心がない。しかも日本でいう右翼とヨーロッパの移民反対、EU反対の右翼のアメリカに冷淡な姿勢とも異なっている。

日本の右翼は存在論的(ムード的主観的)な日本依拠(ここが絶対基準)によってイデオロギー的には基本的に無節操。また極端な政治主義、領域確保主義、国権主義の一方で経済的な無知、リアル政策論抜きの経済原理主義を特徴とするので、

@右翼が政権を長く担当すると日本経済は窮地に追い込まれる。

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引用に戻る

「そのころ私は複数の大学連合のデモ隊に加わった。~~

やがてデモ隊は京畿道庁裏庭への突入を開始した。

デモ隊が窓ガラスを割って突入しようとすると職員たちは逃げまどいデモ隊はとどまることなく、前進した。

学生や市民がトラックの運転席の屋根をたたいて「***へ行こう」と叫ぶと車はその方向に走り出した。「ゆっくり!」「とまれ!」と大声で叫ぶと車両はその通り動き、

~~通行人に運転できるものがいないかと呼びかけると

必ず何人かの軍隊経験者が現れるのだった。私たちの乗った車はそうして終日走る続けた。

 バリケードがあり憲兵と証警察が自動車と通行人を検問していた。

市民証を見せろというので学生だと答えると、すぐにあちら側に立てと命じた。

彼らは「腕を上げてつま先立ちなる姿勢」を何度も強要してから、近所の派出所に連行していった。

「お前たち車両デモをした帰りだろう」

わたしたちは胸を張ってそうだと応じ、警察は普段なら通行禁止でもビンタをくらわすのに、どうゆうわけは穏やかに対応してきた。

私たち3人は警察車両で連行された。

そこで非常事態宣言が布告されていることを知った。そして深夜まで調査を受け、留置所に収容され2日後に20日間の拘留処分を受けた。

 

>ここで初期の小説「客地」の背景となる世界に案内してくれた「大尉」というあだなの労働者の出会った。

~夕刻、大声で巡査と口喧嘩をしながら中年男はやってきた。

~~彼はうまそうにタバコを吸いながら斜めに寝そべり私に話しかけてきた。

「お兄ちゃん、自己紹介しよう。何人もいるわけじゃないし民主的にやろうぜ。おれはチャンっていうんだ」

私は頭を下げると男は「ところでどうして捕まった?」「デモをやったので」

「あの野郎ども!まだチョッパリ(日本人をさげすむ表現)時代のつもりなんだな」

わたしは彼にどうしてここにいると尋ねた。

「現場監督が伝票をちょろまかすから、いっぱつおみまいしてやったのさ」

~そのころの公共工事の現場ではほとんどワイロによる名目だけの入札制で、利権を得た下請け業者が植民地時の土木工事現場の構造が温存されていた。その後、70年代に鉱山を取材したときも事態は変わっていなかった。

>彼は除隊した海兵隊下士官だった。

工事現場で気骨があって経験豊富だから、一部の同僚が大尉の昇進させたのだ。

大尉は腕がよくさっぱりとした性格だったので、飯場関係者内での信用が厚くみんなが彼を古株の有能な人材と認めていた。年齢は33歳、肩ががっしり張った頑丈な体格で赤みががった日焼け顔であごひげを無造作に伸ばし俳優のバートランカスターに似ていた。

イカの群れを追って、南下すると秋が深まってくる。それからまた農村に戻り秋まで収穫を手伝う。黄金の草原でマッコリをのみ、あぜ道に寝そべって心行くまで昼寝をすると、もはや世の中にうらやましいものは無くなる。そして冬にはまた都市に舞い戻る。

狭い部屋を借りて、、街角やバスの終点や近所の市場の入り口の場所を抑え、ドラム缶と手押し車をととめて焼き芋屋を開く。

 わたしは大尉の話を聞いて胸が高鳴った。

生きるということは、それほど恐れることも苦しむこともなく、空を飛んでいる渡り鳥のように自由だと感じた。

生きてゆくことは、それ自体手応えのある喜びで、苦しい人生もすべてが自分の人性の一部なのだ。のどが渇き飢えたものの食事のように美味しく、すべての瞬間が輝く、そんな人生が他にどこにあるというのだろうか。

 わたしは大尉に連れて行ってもらうことにした。

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>W。日本側の韓国側の意見に反対する人たちは、敗戦日本資本主義の復興は 朝鮮戦争 - Wikipedia

の後方兵站地になることを契機に一気に朝鮮戦争半ばに日本の生産力は戦前のレベルに達した、という側面を見過ごしている。

朝鮮戦争において、太平洋戦争の何倍もの爆弾が投下された。

>韓国側の犠牲者もあらゆる形をとって多数でた。1950年~保導連盟事件

 

朝鮮戦争北朝鮮軍38度線突破前)数年の朝鮮半島、日本列島の争乱、謀略>

W.第2次世界大戦直後、東西対立初期の東アジアの大戦争発生のリアルタイム時系列

W。ウクライナ、ロシア戦争前の状況と似ているところがある。

W。①しかし、北朝鮮軍の南進は、南朝鮮労働系の組織や各地の人民運動に目をつむれば(犠牲にすれば)回避できた。元の38度線に決着した南進は朝鮮半島の人々、中国義勇軍米国兵に犠牲を出すばかりで南進は得るものがなかった。

朝鮮戦争で一方的に物質的利益を甘受したのは日本資本主義と日本国民である。

>当時の東アジアの激動情勢は敗戦国の経済復興として異例の対外好環境だった。

いわゆる55年体制朝鮮戦争の多大な犠牲の上に増長した日本資本主義と日本国民経済の政治的上部構造として

③高度経済成長ベトナム戦争を通じて

@アベ的にいえば、戦争犠牲者や特攻隊の礎。対局でいえば日本国憲法下の平和。

しかしそれらは日本経済成長の大きな要因が東アジアの冷戦体制の枠内における朝鮮戦争ベトナム戦争特需という無機質なファクターであったというよりも手前勝手なイデオロギー的歴史解釈に過ぎない。

それで、今度も同じ位相のイデオロギー対処を国民レベルでやっているのが現状ではないか。

防衛力強化と平和選好対処を超える歴史的趨勢という大きな力が万力のように締め上げる

世界に二度挑戦し敗北したドイツEUNATOの仮面をかぶってウクライナを盾にロシア近辺まで攻め込んでいっている。これを戦略性があると言って良いのかどうか。

>日本は日米安保頼みの米国ハブの2国間、軍事戦略。

>台湾有事というが台湾に米軍は駐留していない。だから、拡大日米安保体制では台湾有事は「日本軍」出動イコールになる。そもそも台湾は中国共産党政権(台湾併合は党是。スローガン。民衆の心とは違う)と国民党が逃げ込んだ国民党の問題(党と党の比重もある)で、本質的に日本とは直接関係がない。中台は経済的な結びつきも強い。民進党台湾にとって経済と政治軍事のバランス、かじ取りが肝。

北朝鮮は王朝にような専制体制で自ら解体して韓国に合流した方が国民のためだ。中国の共産党専制支配は国益を守ることを前提に民主政権に転換した方が良い。ただし普通に考えるとプーチン政権のような空疎な民族主義せいけんができて、東アジア情勢は共産党政権時代よりも緊張する。

>コレの肝は日本国民の多くの富を米国に貢物としてささげる必然性があるということだ。防衛力強化の経済的な基礎はここにある。

④~~~国鉄民営化~~1985年プラザ合意受諾、日本バブル経済崩壊まで継続した。

⑤冷戦体制崩壊後、グローバル資本制に伴う世界市場の拡張と新興工業国の台頭によって

⑥日本資本主義を成長させてきた内外環境は大きく変わった。

@それ以降の日本資本主義の低経済成長は、水が高いところから低いところに流れるような、資本主義経済史の歴史的必然作用(反俗日記では何度も戦前戦後の日本資本主義の世界的立ち位置を数値で示して証明。それによれば日本資本主義は本来のファンダメンタルズにふさわしい位置に回帰しようとしている)の貫徹であって、政治の力や国民の頑張りによって、何とかなるものではなく、もがけばもがくほど国民経済に貧困が浸透する。

@無駄な背伸びはせず、質素、着実に規模にふさわしい政治、経済のパターンを国民間で合意すべきだ。鎖国日本が唯一門戸を開いた質実、合理、自由なオランダのような国造りが日本に最もふさわしい。

>東アジア諸国、韓国、台湾、中国の急成長は

>冷静客観的に見ると戦後日本の経済成長神話を吹き飛ばし

>資本主義とは何ぞや、ということを問うている。

@カネ(資本~よそから流入してもよい)、教育、風土(文化)などの一定条件がそろえば資本主義は地球上のどの地域でも発展する。

@それを目の当たりに証明しているのが上記諸国経済の急速発展である。

@資本主義の宿命(欲望)は本国における拡大再生産と相反する利潤率の傾向的低下、なので本質的にグローバル市場を求める。

自国の欲望が先細ると他国の欲望の喚起をねらって拡大再生産(超過利潤)の領域とする。

 

中国が攻めてくる、ロシアが侵略している。

>本当にそれだけか?

>逆の立場から考えてみる必要もある。

広いまだ開け切っていない中国市場やロシア市場で拡大再生産の自国での行き詰まりをカバーする、それらの国家資本主義独裁の規制を取っ払って自分たちの自由市場にしたいのではないか?

>近代以降の資本主義の歴史の視座から、ヨーロッパ東端と東アジアの情勢を見つめることが必要だ

残念ながらエレファントカーブがそのまま、あてはまり経済地殻の沈み込みが目立つのはこの二つの地域である。日本と旧ソ連地域の「中間層の所得増加率の停滞を下図から差し引く象の鼻の垂れ下がりはもっと高く修正されるという報告もある。それを根拠に経済地殻変動と反俗日記は称している。


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1948年4月3日

済州島四・三事件 - Wikipedia

在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体「西北青年会」⇒W。ファンソギョン客地 ほか五篇』高崎宗司訳、岩波書店、1986。金日成支配当初、北朝鮮西北地域の農村で発生した土地分配を恐れるカトリック地主による農民虐殺事件テーマの問題作。西北青年団は北から逃れてきた青年たちで結成された。    済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。」

   ↓1948年4月19日⇒抵抗は3年以上続く、金時鐘 - Wikipedia

1949年5月26日父の手配でクァンタルという無人島に水筒、炒り豆、五十銭紙幣、学生服を持って逃れる。4日待ってやって来た日本への密航に乗り込むW。この辺の事情は自伝小説に詳しい、脱出前後の模様は迫力ある臨場感同年6月5日に神戸沖(須磨付近)に単身上陸。吹田事件参画(参加者による詳しい証言、研究書が出版されている、国鉄吹田操車場の労働者と豊中方面から行進するデモ隊が結合した大衆行動。当時の時代の雰囲気が解る。)。当時朝鮮戦争の「実質的な勝利」に喜びを覚えるも、

朴憲永 - Wikipedia

朴憲永の処刑に衝撃し、「北共和国への祖国愛」「金日成首領さまへの尊敬」を失う。」

 

②W。済州島事態鎮圧のため出動を命じられた部隊の叛乱。

麗水・順天事件 - Wikipedia

1948年10月19日  朴正煕 - Wikipedia

1948年10月19日南朝鮮労働党に呼応した大韓民国国軍の党員将校が麗水・順天事件を引き起こすと、軍内党細胞であったことが粛軍運動により発覚し11月11日に逮捕ソウル西大門刑務所に送られた[38]。この際、転向して南朝鮮労働党の内部情報を提供したことと、朴正煕の軍人としての能力の高さを評価した白善燁元容徳金一煥ら軍内の要人の助命嘆願により武官免職と共に1949年4月に死刑を免れた。」

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 1949年10月1日、中華人民共和国中央人民政府設立

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  <上記の半島の事態に関連する日本列島での動き>

1947年2月1日 GHQによりゼネスト中止

二・一ゼネスト - Wikipedia

①1949年7月5日 国鉄初代総裁下山失踪⇒轢死

下山事件 - Wikipedia

②1949年7月15日 出勤時、国鉄三鷹駅無人列車暴走死傷事件

三鷹事件 - Wikipedia

③1949年8月17日 東北本線列車往来妨害事件。枕木に乗り上げ列車転覆

松川事件 - Wikipedia

午前3時9分頃、現・福島市松川町金沢)を通過中だった青森上野行き上り412旅客列車。

転覆地点付近の線路継目部のボルトナットが緩められ、継ぎ目板が外されているのが確認された。さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ25メートル、重さ925キロのレール1本が外され、ほとんどまっすぐなまま13メートルも移動されていた。

下山事件三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件翌日には内閣官房長官増田甲子七三鷹事件などと「思想底流において同じものである」との談話を発表[3]した。

捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対し、東芝松川工場(現・北芝電機労働組合国鉄労働組合国労)構成員の共同謀議による犯行と見て捜査を行った。

事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪別件逮捕され、松川事件についての取り調べを受けた。少年は逮捕後9日目に松川事件の犯行を自供、その自供に基づいて共犯者が検挙された。9月22日、国労員5名および東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名~~合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴されたが、無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関により隠されていたことで、死刑判決から5回の裁判を経て逆転無罪で確定した。

広津和郎

宇野浩二

両名以外に

吉川英治川端康成志賀直哉武者小路実篤松本清張佐多稲子壺井栄作家知識人の支援運動が起こり、世論の関心も高まった。

初代宮内庁長官田島道治昭和天皇との対話を書き残した『拝謁記』では、W昭和天皇「一寸法務大臣ニきいたが松川事件アメリカがやつて共産党の所為ニしたとかいふ事だが」「これら過失ハあるが汚物を何とかしたといふので司令官が社会党ニ謝罪ニいつてる」との昭和天皇の発言が記述されており、謀略説を裏付ける初めての史料と目されている

黄晳暎(ファン・ソギョン、Hwang Sok-yong、황석영)自伝。引用前説。韓国ではハングル、 中国では漢字(W簡略化された漢字を使用。) 日本語(カタカナ+当用漢字+ひらがな) 中国語(簡略漢字) 台湾(繁体字)

黄晳暎 - Wikipedia

  引用

「(ファン・ソギョン、Hwang Sok-yong、황석영(W.ハングル表記)1943年1月4日 - )は、韓国小説家。本名は黄壽暎(황수영、ファン・スヨン)。

いわゆる「ハングル世代(W。注)に属する作家の一人であり、21世紀に入ってからは欧米でも高い評価を受け著作の翻訳が進んでいる。2019年現在、世界28か国で87作品が翻訳されており、ノーベル文学賞候補として有力視される韓国作家の一人である。」

W。日本のノーベル賞受賞作家とは作家姿勢、作風がまるっきり違う。

小説家であると同時に公人。公人として民主化闘争に関わる、という姿勢。

作風は基本的に内面描写を抑制したハードボイルドスタイル。真骨頂は内面と行動を巧みに刷り込んだ映像的な光景描写。

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(1960年四月革命

~ファン・ソギョン、Hwang Sok-yong17歳ソウル京福高校2年生、ともにデモ参加した友人警察警備の銃弾で射殺(全国で200名以上の死亡者)

日本でいえば1960年安保世代。

親米反日李承晩大統領、ハワイに逃亡。

翌年、朴軍事クーデターにより「維新」(開発)独裁長期政権、始まる

ファンソギョンは60年代(1966年、23歳徴兵海兵隊として3年間ベトナム従軍)、

70年代、80年代(80年光州民主化抗争、活動拠点を光州に移していたが偶々ソウルにいたため逮捕を逃れチュジェ島に潜伏)一貫して作家活動を続けながら民主化闘争に関わってきた。

1990年ピヨンヤンで開かれた「第1回汎民族大会」に参加。47歳。

 

>1993年欧米で国内の民主化闘争支援したが帰国。50歳。国家保安法違反により懲役7年の実刑判決⇒1998年3月まで服役。

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W注①

www.asahi.com

 

W。日本では漢字と平仮名と片仮名、+縦書き、横書き+和訳困難用語

~~思考脳がIT時代に即応しない~~

韓国ではハングル、

中国では漢字(W簡略化された漢字を使用。)

日本語(カタカナ+当用漢字+ひらがな)

中国語(簡略漢字)

台湾(繁体字)W繁体字というのか!

W。なお、何気なく目にしている日本文字表記法には縦書き、と横書きの混在があり上記のカタカナ、ひらがな、漢字の混在、さらにはIT文化の混入によって英語の日本語訳に適当なものがないのでそのまま、英語表現を使っている場合も含めて以上4つの文字表現が日本人の頭の中にある。

言葉や文字は、コミュニケーションの手段であると同時に、民族のアイデンティティーのよりどころ」とすれば、日本人のコミュ事情とアイデンティティーはどうなっているのか?日本人同士、当たり前のことが世界的に見て希少事情戦後の現代化の渦中で文化の整理整頓は放棄され全部個別に修正し縦割りで取り込んでいるその個別縦割りを頭の中でつなぎ合わせるときに、不具合は出てこないのか?

その方面の専門家の研究はないのか?

縦書き・横書きが混在する国は日本だけですか?新聞・週刊誌にも混在してい... - Yahoo!知恵袋

 

引用

言葉や文字は、コミュニケーションの手段であると同時に、民族のアイデンティティーのよりどころ

~~朝鮮半島国有の文字「ハングル」朝鮮王朝第4代王・世宗(セジョン)大王(1397-1450)。~~

という役目も果たします。かつて漢字を使いながら、いまではほぼ完全にハングルにシフトした韓国も、そうした言葉の二つの側面を投影する歴史をたどってきました」

では、かつて用いていた漢字をやめ、ハングルにシフトした韓国の人たちは、漢字をどう見ているのか?

「韓国では朴正熙政権下の1970年代初め、『ハングル専用』と呼ばれる動きが一気に進み、公文書や教科書は、漢字ではなくハングルで全面的に表記されるようになりました。その背景には、日本による植民地支配時代に、朝鮮語の使用禁止や創氏改名が行われた記憶も密接に関係しています。植民地時代を契機に、ハングルには、民族の誇りを象徴するという意味がさらに強まりました。70年代にハングル専用の動きが強まったのは、50~60年代は朝鮮戦争軍事独裁政権の発足と政治的混乱が続き、70年代になってようやく自国の言語政策に注力する余裕ができたからだと思います」

 ――その流れは変わらず、現在に至っているのですか?

 「そうですね。いまの韓国社会で、漢字を見ることはほとんどありません。新聞もほぼ全面的にハングルです。漢字が読めない若者もどんどん増えています

>かつて小・中学校では必修科目として漢字の授業があり、私もそうして漢字を勉強した世代です。

@それも今や、選択科目のような扱いで、『漢字は勉強したい人がすればよい』といった具合です。この流れは、元には戻らないでしょうね。ただ、国民が使う文字はハングルだけでよいのか、漢字も併用すべきかを巡っては、70年代から現在に至るまで、なお論争があります」

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ハングルの仕組み

ハングル、一見何かの暗号のようですが、誰にでも読み書きできる。

ハングルは10の母音と19の子音、11の複合母音の組み合わせだけで構成される表音文字。仕組みさえ理解すれば、暗号が解読される。

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   韓国、PCローマ字入力よりハングル入力が主流

「なぜハングルのタイピングはローマ字式よりも、ハングル式の方がおすすめかといいますと、そちらの方が圧倒的に便利だからです!

なので、韓国の人もハングルでのタイピングを行うことが多いのだと思います。

日本語ではキーボードは「あいうえお」の日本語式よりローマ字方式の方が主流ですからちょっと不思議かもしれませんね。

しかし日本語は平仮名だけでも54文字と数自体も多いので場所を覚えるのも大変ですし、ローマ字方式の方が効率がいいかもしれません(Wはあいうえお入力で数十年前初期PCを覚えた(ワープロ後期の時代、ウィンドウズ、ソフト発売直前)。練習デスクを1週間もやれば普通覚える。いったん覚えると一文字で打てるから便利。今はローマ字入力。練習しないで使っているので画面を見ながら打てなくて入力しながら考えることがワンテンポ、遅れる、誤字脱字の修正も手間をかかる、文章表現にも怪しいところが垣間見えるが、時々面倒なのでそのままにしておく。ローマ字変換、カタカナ、ひらがな、漢字をPC操作中にやるのはPCを打ちながら考えることの妨げになっている。昔、PC入力の作家の文章は筆記文章(原稿用紙)と読む人が読めば、すぐわかる、といわれていた。~村上春樹さんの小説などは典型的なPC打ち込み文章ちがうかな。もっとも外国作品の読みすぎもある。

Wの場合は高校3年の夏に日本の綺麗な文章を打ち止めにして、翻訳の政治経済文書の読むことに特化することを決めた。特にマルクス関連の翻訳文章の影響からか日本語がめちゃめちゃになった。その一方で概念用語の一つ一つを忠実に訳した難解な日本文の方がトータルの文意はよくわかるから不思議だ。しかし、授業で英文で書かれた同じものを読めば実に簡潔、適切な表現なのはびっくりした。

日本はいまだにどこかグローバリズムに根本的なところで不適応なところがある

ハンコ文化をようやく役所が改めだした。現行の戸籍制度も本当に必要なのかどうか?統一教会の父母血統論(教会批判の権威、北海道大学教授の血統を父母に遡るのはその方が金を巻き上げる係属が多くなるからなどというのは日本の戸籍制度に基づくいい加減すぎる解説。)がすんなり通るのも戸籍、家の法制度が未だに利用されていることとどこかつながりがある。

本貫 - Wikipedia

朝鮮半島.しかし今はスルーされているはず。戸籍制度は改革されている、と反俗日記で取り上げた。日本の戸籍制度は今も利用されている(役所、戸籍課)。

沖縄にもある。

多岐にわたる日本語表現方法も情報交換やアイデンティティティーの在り方に奥底で影響を与えている。一言で言えば、余計なことに気を使いすぎて、それができる人とできない人で差異がつけられている。そういう手間はもっと大事な方に回した方が良い。

アベ国葬賛成の急先鋒の関西芸人が天皇家の「大喪の礼」を無知で「たいものれい」~~読み方として間違いではない。皇室慣用語を知らなかっただけの話。本人の自覚の問題。周りも教えてあげるべきだ。その時、の反応でその人が解る。~~とTVで言ったと馬鹿にする動画があったが、自分に言わせると、面倒、複雑な表現方法があるから、そんなどうでもいいようなことを知っていることでの差別化が生まれる。

シンプル化すれば裸と裸の人間同士の交流に近づく。意匠を一杯身にまとうとむき出しの人間性が隠される。生き抜く哲学とは意匠を身に着けることではない。

回りくどくぼかしてやっていてもあるころから態度が急変、無節操に功利的に立ち回るから厄介だ。

Wは見守り介護の人のグループホーム入所4か月にして危ない状態なのを知らされて、どうすることもできず切ない思いをしたが、突如、「人間は一人で死んでいくものだ」、というシンプルなフレーズが沸き上がってきて、「そうだあの人もオレも一人で死んでいくんだ」「じたばたするな」、という諦観と覚悟のようなものが蘇り、幾分か救われた思いがしている。日本人の属性に引きずられると個性がぼやけてきて勇気が湧いてこない。)ハングルは基礎となる文字は少ないですしハングル方式の方が便利です。

またハングルはローマ字表記の場合タイプする回数が、ハングル方式よりも多くなってしまいます。スピード重視の観点から言ってもハングル式の方がおすすめです!

最終的には好みの問題となりますが、あまりネイティブの人でもメジャーでない方法よりもこれから始めるのであればスタンダードな方法をおすすめしたいと思います。」

ファンソギョンの自伝は人間がむき出しになっている。バイタリティーがある。

自伝引用

「長姉はこうもいった。「母さんは結局、自分で自分の首を絞めたってことね。

やがて大人になりもの夏季という職業が賎業だと自嘲したこともあるが、いまではせんぎょうというよりもむしろ天職と考えるようになった。

それでも小説家は「学識者」ではなく、もともと市場の物売りのような市井の「商売人」であるべきだとの思いは変わりはない」

菊池寛 短編小説「マスク」、引用~スペイン風邪が日本に上陸したころ(1920年パンデミック最終便)を題材にした小説。新型コロナパンデミックへの世界的政策変更に対するマフフェスト。最後の下りは菊池寛の一ひねりも二ひねりもした人間観。

 マスク   菊池寛

W反俗日記」記事を再掲載する(2021年ワクチンを約1か月間をおいて2回接種~

2022年初春ワクチン3回目接種(6波)

⇒2022年夏、4回目ワクチン接種(7波)

WHOがオミクロン新系統の監視強化…南アなどで確認、「BA・2」の感染力上回る : 読売新聞オンライン

                                                   

注目部分引用

BA・4は3月30日までに南アフリカ英国などで計52例見つかった。BA・53月25日までに南アで27例が確認された。日本国内では見つかっていない

西浦博・京都大教授(理論疫学)らは、国内の第6波で主流だったBA・1に比べ、BA・4の感染力は1・49倍BA・5は1・4倍と推定し、1・21倍のBA・2を上回るとした。西浦教授は「日本に入れば置き換わりが進むだろう」と指摘する。」⇒W,なぜBA4オミクロン株(英国で検出。感染力やや強い)ではなくてBA5oミクロン株が大流行したのは不思議。

南アでは入院者数や死者数は急増しておらず、病原性は不明。」

「新系統が持つ変異は、ワクチンや薬の有効性を下げる恐れがある」

オミクロン株、さらに別系統を国内初確認 「組み換え」生じた変異株 [新型コロナウイルス] [オミクロン株]:朝日新聞デジタル

 

@4回目に接種したワクチンは<デルタ株スパイク>を対象に開発されたメッセンジャーRNAワクチンであり、上記の系統図を参照するとデルタ株とオミクロン株は枝分かれし別系統のスパイク形態を持っているのでワクチン効果は薄れる。

上記のような系統図は事前に知っていて接種を躊躇していたが、感染の可能性のある作業を継続しなければならない事情があって、接種に踏み切った。

オミクロン株のスパイクに対応したmRNAワクチンでなければ、ウィルスを大量被ばくしたときにスルーして気道に付着し侵入する。

BA.5」に効くコロナ治療薬は 抗ウイルス薬は変異前とほぼ同等:朝日新聞デジタル

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リバタリアン的放置主義に漂着した新型コロナ、パンデミック対策。

コロナ感染「全数把握」見直し、各自治体の判断で…重症リスク患者らに限定も

W。新型コロナウィルスの変異も抗体に対抗する進化ではなく、<コピーミス>で偶々、現状のオミクロンBA5に至っている。

引用

「現代の生物学における進化論は、チャールズ・ダーウィンの主著『種の起源』から始まりました。その基本的な考えに、ダーウィンの時代にはなかった遺伝子に関する知見を加えた現代の進化論のことを「ネオ・ダーウィニズムといいます。」

しかしこれは間違い。

「「キリンの首は、高所の葉を食べるために進化して長くなった」というのは間違い」

ダーウィン以前にもさまざまな進化論が唱えられていましたが、それは根本的なところでダーウィンの考え方とは違いました。それは、生物の進化に「目的」があると考えるか、進化は単なる「結果」にすぎないと考えるかという点です。ダーウィンの進化論は、後者でした。つまりそれ以前は、進化には目的があると考えるのが主流だったのです。」

「その説にしたがえば、たとえばキリンの首が長くなったのは、「祖先が高いところにある葉を食べるために首を伸ばしたから」ということになるでしょう。」

「でも、そうやって進化を起こすには、親の獲得形質が子に遺伝しなければなりません。」

生物の進化には、目的も方向性もない

ダーウィンは生物の進化に「目的」はなく、それは偶然の「結果」にすぎないと考えました。たまたま突然変異によって親と違う形質の子が生まれ、その個体が淘汰されずに生き残ることによって、進化が起こると考えたのです。

現在では、その突然変異が遺伝子のミスコピーによって起こることがわかっています。「ミス」ですから、そこに目的などありません。いつ起こるかわからない偶然によって、親とは少し違う形質の子が生まれるのです。親の形質は周囲の環境にうまく適応している(だからこそ親は子孫を残すまで生き残れた)のですから、突然変異を起こして親と違う形質を持った子は、当然ながら生き残りにくいでしょう。」

W。RNAウィルス遺伝子の本質的な非定在性=変異性の常態化と毒性の微妙なバランスがコレだけパンデミックを引き起こしている。

デルタ株がオミクロン株にトコロテン式に変異するのであれば、対応するワクチンも生成し易い。コピーミスによって枝分かれが活発だからワクチン開発はモグラたたき状態になる。

>治療薬は風邪ウィルスの治療薬がなく、対症療法に過ぎない今までの状況を想えば、本質的にできないだろう。

@季節性流行のインフルエンザは治療薬のようなものがあるらしいが、新型コロナは無理だろう。

@新型コロナの1年を通した感染の波は、一見季節性があるように見受けられるがエアコン多様など都市型生活の感染環境の影響だと思う。

@オミクロン株GA5が弱毒化の傾向があっても、次の新型コロナRNAのコピーミスの継続が弱毒化とパンデミック波の鎮静化に繋がるという理論的保証がどこにあるのか。

@世界的なパンデミック対策のリバタリアン的変更によって新型コロナパンデミックは世界的な弱者抹殺の道具になってきている。為政者の責任放棄である。

資本制国民国家成立以降、

ノブレス・オブリージュ - Wikipedia

は実質的に破棄されてきた。

ウクライナロシア戦争を継続させること、グローバル資本制支配層の現在将来的権益を守るためには各国の足手まといの弱者はこの際、切り捨てなければならない、という支配層の獰猛な下心が表に浮上してきた。パンデミックによって国民消費が冷え込んでいるのに物価高が進行しているので、市場が投機的色彩を帯びてきた。物価高で富裕層が値上がり分を全部持っていき、労働層の貧困化が絶対的なレベルになっていく、なのにウクライナ、ロシア戦争は継続しなけらばならない。軍拡は進めなければならない。

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日本のコロナパンデミック現状分析。データに基づいた分析。

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W。参考資料

www.mri.co.jp

新型コロナの致死率は着実に低下W?している

致死率はいまだインフルエンザを上回り、変異株の発生などに引き続き注視が必要

効果的なサーベイランスなどのためには法制度やシステム整備が必要

感染症法の区分を二類から五類に変えるだけでは対応する医療機関は増加しない⇒W。大人なら解るレベル。

五類相当に変更すると行政が法的に要請できる範囲が限定され、今後、感染力が増大した場合などは対応が困難となる。このため、現状の二類相当での運用を続けるべきであると考える。

現時点でも一般の医療機関における診療は妨げられておらず、むしろ、一般の医療機関において新型コロナ患者を診療することで診療費(保険料)が加算されている状況にある。今まで新型コロナ対応ができていなかった医療機関は、何かの課題(人的リソース・スタッフ育成、設備、医薬品の不足等)があって対応できていなかったとすると、分類を五類相当にすることで対応医療機関が増えるわけでない。

⇒W。町のお医者さんでも見てもらえる。事情を知らないにもほどがある。診療できるところはすでにコロナ患者を診ている。自分に知っている限り発熱外来をやらない診療所、病院は内科ではない(耳鼻咽喉科眼科外科など)、病棟が施設化している延命療養特化病院(一応総合病院の体裁)などそれそれ事情がある。町に一杯診療所があるのは日本医療の特性。一か所に集中してこなかったのは、自民党長期政権のゆがみ。看護師の数はそれなりに対して、医者の数が少なすぎるから町の個人病院まで患者が寄り付き、経営が成り立つ。

 

多くの医療機関で対応できるようにするためには、類型を変えるのではなく感染症法の改変が必要である。

 

措置の緩和に伴い感染者や死亡者が一定数増えるのは自明であるが、それがどの程度まで許容されるかは、感染状況によっても大きく異なり、現時点では共通認識が得られていない。

W。「今まで新型コロナ対応ができていなかった医療機関は、何かの課題があって対応できていなかったとすると、分類を五類相当にすることで対応医療機関が増えるわけでない。」

 

上記に示したとおり、新型コロナ対策において執るべき措置は、感染状況や時間の経過とともに変化する。法的な位置づけを変更するのは、どの程度までの感染者・死亡者を許容することができるか、国民の共通認識を得られてからにするのが妥当ではないか。

W。反俗日記ではコロナパンデミックの当初にスウェーデンの施設入所老人殺しに等しい無防備コロナ対策を批判してきた。

この対策は当地の福祉国家の維持のため裏側(命の選別~一定年齢以上の高齢者は手術は後回し、若い移民優先、コネ効かず。その結果死亡する人もいる)であり、その意味で健康な時に高福祉(教育費、医療費無料)を受けてきた国民とのある程度の合意はできていたとみた。そもそも上記の施設入所老人は普通入所後、2年ぐらいで死亡する。在宅介護制度が充実しているということだ。施設入所で長生きするよりも在宅で長寿する方が総福祉費用も安上がりで済む。

日本のコロナ対策転換は、煎じ詰めると<自分だけ、今だけ、カネだけ>の風潮を国家主義イデオロギーの枠にまとめ上げていく、というこれからの日本の空気感を加速させる大きなステップになる。<国家主義イデオロギーと自分だけ今だけカネだけの風潮は表裏一体のかんけいにある>。

そういう閉塞的な社会に創造的なエネルギーが湧いてくるはずがない。

 

COCOAはスマートフォンBluetooth機能を利用して、陽性であることを登録した人とのスマホ同士が1メートル以内に15分以上近接した場合、「陽性者との接触の可能性」があるとの連絡が来る、というシステムである。⇒W。見守り介護のために安上がりなので使ってみたがブルーツゥースはほどんど機能しない。常時起動させている人が圧倒的に少ない。

WEB情報をもとにした感染対策をするためには、個人情報の集中管理が肝。中国のコロナ対策は日常生活での活用の延長線上で実行している。

 

www.gentosha.jp

 W。新型コロナパンデミックへの世界的政策変更に対するマフフェストとも読み込める。最後の下りは菊池寛の一ひねりも二ひねりもした人間観が出ている。

菊池寛 - Wikipedia

1888年明治21年)12月26日 - 1948年昭和23年)

 見かけ丈だけは肥つて居るので、他人からは非常に頑健に思はれながら、その癖内臓と云ふ内臓が人並以下に脆弱であることは、自分自身が一番よく知つて居た。
一寸した坂を上つても、息切れがした。階段を上つても息切れがした。新聞記者をして居たとき、諸官署などの大きい建物の階段を駈け上ると、目ざす人の部屋へ通されも、息がはずんで、急には話を切り出すことが、出来ないことなどもあつた。
肺の方も余り強くはなかつた。深呼吸をする積つもりで、息を吸ひかけても、ある程度迄吸ふと、直ぐ胸苦しくなつて来て、それ以上は何うしても吸へなかつた。
心臓と肺とが弱い上に、去年あたりから胃腸を害してしまつた。内臓では、強いものは一つもなかつたその癖身体丈だけは、肥つて居る。素人眼にはいつも頑健さうに見える。自分では内臓の弱いことを、万々承知して居ても、他人から、「丈夫さうだ〱。」と云はれると、さう云はれることから、一種ごまかしの自信を持つてしまふ。器量の悪い女でも、周囲の者から何か云はれると自分でも「満更ではないのか。」と思ひ出すやうに。本当には弱いのであるが「丈夫さうに見える。」と云ふ事から来る、間違つた健康上の自信でもあつた時の方がまだ頼もしかつた。
が、去年の暮、胃腸をヒドク壊して、医師に見て貰つたとき、その医者から、可なり烈しい幻滅を与へられてしまつた。
医者は、自分の脈を触つて居たが、「オヤ脈がありませんね。こんな筈はないんだが。」と、首を傾けながら、何かを聞き入るやうにした。医者が、さう云ふのも無理はなかつた。自分の脈は、何時からと云ふことなしに、微弱になつてしまつて居た。自分
でぢつと長い間抑へて居ても、あるかなきかの如く、ほのかに感ずるのに過ぎなかつた。
医者は、自分の手を抑へたまゝ一分間もぢつと黙つて居た後、「あゝ、ある事はありますがね。珍らしく弱いですね。
今まで、心臓に就て、医者に何か云はれたことはありませんか。」と、一寸真面目な表情をした。
「ありません。尤も、二三年来医者に診て貰つたこともありませんが。」と、自分は答へた。
医者は、黙つて聴診器を、胸部に当てがつた。丁度其処に隠されて居る自分の生命の秘密を、嗅ぎ出されるかのやうに思はれて気持が悪かつた。
医者は、幾度も〱聴診器を当て直した。そして、心臓の周囲を、外から余すところないやうに、探つて居た。
「動悸が高ぶつた時にでも見なければ、充分なことは分りませんが、何うも心臓の弁の併合が不完全なやうです。」
「それは病気ですか。」と、自分は訊いて見た。
「病気です。つまり心臓が欠けて居るのですから、もう継ぎ足すことも何うすることも出来ません。第一手術の出来ない所ですからね。」「命に拘はるでせうか。」自分は、オヅ〱訊いて見た

いや、さうして生きて居られるのですから、大事にさへ使へば、大丈夫です。それに、心臓が少し右の方へ大きくなつて居るやうです。あまり肥るといけませんよ。脂肪心になると、ころりと衝心しょうしんしてしまひますよ。」医者の云ふことは、一つとしてよいことはなかつた。
心臓の弱いことは兼て、覚悟はして居たけれども、これほど弱いとまでは思はなかった。
「用心しなければいけませんよ。火事の時なんか、馳け出したりなんかするといけません。此間も、元町に火事があつた時、水道橋で衝心を起して死んだ男がありましたよ。呼びに来たから、行つて診察しましたがね。非常に心臓が弱い癖に、家から十町ばかりも馳け続けたらしいのですよ。貴君なんかも、用心をしないと、何時コロリと行くかも知れませんよ。第一喧嘩なんかをして興奮しては駄目ですよ。熱病も禁物ですね。チフスや流行性感冒に罹つて、四十度位の熱が三四日も続けばもう助かりつこはありませんね。」
此医者は、少しも気安めやごまかしを云はない医者だつた。が、嘘でもいゝから、もつと気安めが云つて、欲しかつた。これほど、自分の心臓の危険が、露骨にべられると、自分は一種味気ない気持がした。
「何か予防法とか養生法とかはありませんかね。」と、自分が最後の逃げ路を求めると、「ありません。たゞ、脂肪類を喰はないことですね。肉類や脂つこい魚などは、なるべく避けるのですね。淡白な野菜を喰ふのですね。」
自分は「オヤ〱。」と思つた。喰ふことが、第一の楽しみと云つてもよい自分には、かうした養生法は、致命的なものだつた。かうした診察を受けて以来、生命の安全が刻々に脅かされて居るやうな気がした。

 殊に、丁度その頃から、流行性感冒が、猛烈な勢で流行はやりかけて来た医者の言葉に従へば、自分が流行性感冒に罹ることは、即ち死を意味して居た。その上、その頃新聞に頻々と載せられた感冒に就ての、医者の話の中などにも、心臓の強弱が、勝負の別れ目と云つたやうな、意味のことが、幾度も繰り返へされて居た。
自分は感冒に対して、脅え切つてしまつたと云つてもよかつた。自分は出来る丈だけ予防したいと思つた。最善の努力を払つて、罹らないやうに、しようと思つた。
他人から、臆病と嗤はれやうが、罹つて死んでは堪らないと思つた。
自分は、極力外出しないやうにした。妻も女中も、成るべく外出させないやうにした。そして朝夕には過酸化水素水で、含漱うがひをした。止むを得ない用事で、外出するときには、ガーゼを沢山詰めたマスクを掛けた。
そして、出る時と帰つた時に、叮嚀に含漱をした
それで、自分は万全を期した。が、来客のあるのは、仕方がなかつた。風邪がやつと癒つたばかりで、まだ咳をして居る人の、訪問を受けたときなどは、自分の心持が暗くつた。自分と話して居た友人が、話して居る間に、段々熱が高くなつたので、送り帰すと、の後から四十度の熱になつたと云ふ報知を受けたときには、二三日は気味が悪かつた。
毎日の新聞に出る死亡者数の増減に依つて、自分は一喜一憂した。日毎に増して行つて、三千三百三十七人まで行くと、それを最高の記録として、僅かばかりではあつたが、段々減少し始めたときには、自分はホツとした

が、自重した。二月一杯は殆んど、外出しなかつた。友人はもとより、妻までが、自分の臆病を笑つた。自分も少し神経衰弱の恐病症ヒポコンデリアに罹つて居ると思つた。が、感冒に対する自分の恐怖は、何うにもまぎらすことの出来ない実感だつた。

 三月に、は入いつてから、寒さが一日々々と、引いて行くに従つて、感冒の脅威も段々衰へて行つたもうマスクを掛けて居る人は殆どなかつた。

が、自分はまだマスクを除のけなかつた
病気を怖れないで、伝染の危険を冒すなどと云ふことは、それは野蛮人の勇気だよ。病気を怖れて伝染の危険を絶対に避けると云ふ方が、文明人としての勇気だよ誰も、もうマスクを掛けて居ないときに、マスクを掛けて居るのは変なものだよ。が、それは臆病でなくして、文明人としての勇気だと思ふよ。」自分は、こんなことを云つて友達に弁解した。又心の中でも、幾分かはさう信じて居た。
 三月の終頃まで、自分はマスクを捨てなかつた。

もう、流行性感は、都会の地を離れて、山間僻地へ行つたと云ふやうな記事が、時々新聞に出た。

が、自分はまだマスクを捨てなかつた

もう殆ど誰も付けて居る人はなかつた。

が、偶に停留場で待ち合はして居る乗客の中に、一人位黒い布片ぬのきれで、鼻口を掩うて居る人を見出した。自分は、非常に頼もしい気がしたある種の同志であり、知己であるやうな気がした。自分はさう云ふ人を見付け出すごとに、自分一人マスクを付けて居ると云ふ、一種のてれくさゝから救はれた。自分が、真の意味の衛生家であり、生命を極度に愛惜する点に於て一個の文明人であると云つたやうな、誇をさへ感じた。
四月となり、五月となつた。

遉さすがの自分も、もうマスクを付けなかつた。

 ところが、四月から五月に移る頃であつた。また、流行性感冒が、ぶり返したと云ふ記事が二三の新聞に現はれた。

自分は、イヤになつた。四月も五月もになつて、まだ充分に感冒の脅威から、脱け切れないと云ふことが、堪らなく不愉快だつた
が、遉さすがの自分も、もうマスクを付ける気はしなかつた。日中は、初夏の太陽が、一杯にポカ〱と照して居る。どんな口実があるにしろ、マスクを付けられる義理ではなかつた。新聞の記事が、心にかゝりながら、時候の力が、自分を勇気付けて呉れて居た。
 

 丁度五月の半であつた。

市俄古シカゴの野球団が来て、早稲田で仕合が、連日のやうに行はれた。帝大と仕合がある日だつた。自分も久し振りに、野球が見たい気になつた。学生時代には、好球家の一人であつた自分も、此一二年殆んど見て居なかつたのである

その日は快晴と云つてもよいほど、よく晴れて居た。青葉に掩はれて居る目白台の高台が、見る目に爽やかだつた。自分は、終点で電車を捨てると、裏道を運動場の方へ行つた。此の辺の地理は可なりよく判つて居た。

 自分が、丁度運動場の周囲の柵に沿うて、入場口の方へ急いで居たときだつた。ふと、自分を追ひ越した二十三四ばかりの青年があつた。自分は、ふとその男の横顔を見た。見るとその男は思ひがけなくも、黒いマスクを掛けて居るのだつた。自分はそれを見たときに、ある不愉快な激動ショックを受けずには居られなかつた。
それと同時に、その男に明かな憎悪を感じた。その男が、何となく小憎らしかつた。その黒く突き出て居る黒いマスクから、いやな、、、妖怪的な醜くさをさへ感じた。此の男が、不快だつた第一の原因は、こんなよい天気の日に、此の男に依つて、感冒の脅威を想起させられた事に違ちがひなかつた。それと同時に、自分が、マスクを付けて居るときは、偶にマスクを付けて居る人に、逢ふことが嬉しかつたのに、自分がそれを付けなくなると、マスクを付けて居る人が、不快に見えると云ふ自己本位的な心持も交じつて居た

が、さうした心持よりも、更にこんなことを感じた。自分がある男を不快に思つたのは、強者に対する弱者の反感ではなかつたかあんなに、マスクを付けるこに、熱心だつた自分迄が、時候の手前、それを付けることが、何うにも気恥しくなつて居る時に、勇敢に俄然とマスクを付けて、数千の人々の集まつて居る所へ、押し出して行く態度は、可なり徹底した強者の態度ではあるまいか兎に角自分が世間や時候の手前、やり兼ねて居ることを、此の青年は勇敢にやつて居るのだと思つた。此の男を不快に感じたのは、此の男のさうした勇気に、圧迫された心持ではないかと自分は思つた。
             

                     『菊池寛全集第二巻』高松市発行より

おうちでまなぶ菊池寛|高松市

ロシア、ウクライナ戦争の背景についての探求

ウクライナの現代言語状況と言語問題 

http://file:///C:/Users/sasaki/OneDrive/%E3%83%87%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97/%E6%96%87-(74)-4%20(1).pdf

 

W。図録ウクライナを引用する。

ウクライナゼレンスキー大統領は、ドニプエロペトロフスク州クルィヴィーイ・リーフ市にユダヤウクライナW。ユダヤ人はポーランド支配時代に、西部地域に支配層として集住、ドイツ軍の侵攻とともに東に逃げた、と思われる。)として生まれた。「東部出身のために母語はロシア語。元々ウクライナ語は苦手で俳優業(W。TV芸人コメディアン。北野武監督の才能のないビートたけし、のような存在。俳優は過大評価)メディアではこれまでロシア語を使用してきた。大統領当選以降はウクライナ語の特訓を受け、会見等ではほぼウクライナ語のみでこなしている」という(ウィキペディアによる)。』

 

 

図録▽ウクライナの地域別人口・民族・産業・所得水準

http://honkawa2.sakura.ne.jp/8990.html

 

面積: 603,500 km² 韓国 約10万k  約5000万人
人口
: 
4413万 (2020年)  W大きな潜在能力のある国
天然資源農産物、旧ソ連時代有数のコンビナートも保有しているが
独立後一貫してロシアよりGDP下位、長期不況
きちんと国の形ドニエプル川をはさんで歴史的文化的言語的に東、(中央、西)に分裂している
@事情を知れば知るほどもともと一つの国にまとめ上げるのは無理筋!とこの際、きちんと分かれて、そののちに仲良くやれば良い。
分離し「結合」。もっとも理論上のことで、戦争前からすでにウクライナ事態に深く介入している第三者(ロシア、欧米)がそうさせない。
 
のちに挙げる解説文では両者の和平交渉で事実上の分割案で歩み寄る気配もあるが(解説文を読み込むと分割案はウクライナ欧米側の前線を維持するための時間稼ぎとわかる)欧米が許さない、という
 
ウクライナ政権に戦争を解決する主権がない(対欧米、国内合意達成できる統治力)
 
@ゼレンスキー政権欧米(NATO)国内武装勢力傀儡政権である
アメリカの意向次第だろう。
>しかし戦争放火者の米国はアフガニスタンから撤退し、経済不況、コロナ渦、政治混乱を抱え、民主党政権(軍産共同体予算100兆円計上=日本の国家予算と同規模)は戦争を止められない。むしろ戦争継続しなければ経済が立ち行かない状態=軍産複合体にある。
 
国境線の変更は許さないと解説しているが朝鮮半島、インドパキスタンベトナムはどうなんだということになる。
@結局、戦争をとことん推し進めて力で決着がつくまで放置、ということになるが、
 
>この戦争は冷戦構造崩壊の最終章の1ページであると同時に
 
>第3次世界大戦的事態の導入口になっているという反面がある。
 
@特に東アジア情勢の悪化に連動することが必至だ。
 
コロナ渦も収束していない状況
>第1次世界大戦時のスペイン風邪アメリカ風邪)流行と同じ現象。
当時、最も金融資本力が急速発展したアメリで動物媒介のパンデミック型ウィルスが生まれた。
2019年新型コロナは中国で発生した。偶然の一致ではない
資本制生産過程の急速な発展のモチベーション庶民レベルの野蛮活力がある。
庶民レベルの野蛮活力は
日本のように歴史的に庶民生活様式が型にはまった極東の列島では公害問題になって表れた。
 
 ウクライナ1990年の独立時のGDPを100とすると、2009年の75%にとどまっている。
EUに入ってNATOの軍事力を受け入れたら、このような長期経済下落状態がなんとかなると、考えてしまうのは、拙速、短絡であって、恵まれたインフラを活用できないのは、国内政治に大きな問題があると、普通は考える
 
ウクライナは過去も現在も一度たりとも国としてまとまり自律性を発揮したことがなかった。
後に挙げる詳しい解説文を読み込めば黒海アゾフ海沿岸と内陸地方の封建時代の在り方に問遠い要因を求めることができる。
     ↓            ↓
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ウクライナの封建時代はドンコサック(地方軍事共同体)の群雄割拠の地だった。
日本史でいえば加賀、越前の国衆支配の状態
W.上記の定義は詳しく調べると勘違いだった。
W。ウクライナ地域は
W。地元領主の農民への人的物的収奪関係という封建支配が自主的に定在する内外政治環境に恵まれなかった。
W。なぜならば、この地域を日本型封建時代、ヨーロッパ型封建時代に支配したコサック(トルコ語、自由な略奪者)はモンゴル系、オスマントルコ系の<ルーシ>村略奪に対抗する自警組織として発足し、自らも外部に対する<伝統的な経済行為>として略奪をする軍団の中央主権集合体として本質を維持したまま、ポーランド、ロシアなど外勢によってその軍事力を買われて登録封建領主として安堵された者であった。
>その地域支配の形態をざっくりといえば、モンゴル型の支配である。
>だから、地元住民(特に農民)への濃密な封建的徴税支配はなく生産関係は自由に任せておく。反面、地元の生産力向上に役立つことは何もしない。
@以上によってウクライナ地域に歴史的荒廃期(停滞期というよりも経済的政治的文化的下降期)が当然、発生している。
 
だったら、近隣のポーランドオスマントルコ、ロシアの覇権に対して反抗したり従属し限定的自治権を得たりの繰り返しの歴史になる。
結局、近隣強大勢力の従属変数がであり歴史的過疎地域と総括できる。

 

reki.hatenablog.com

   引用する

トルコ語「分捕り品で暮らす自由人」を意味する「コサック」

W。モンゴル型の<伝統的経済行為>略奪者に自警団の集合体レベルで抗力するためには敵と同じ次元の野蛮を身に着けるしかなかった。封建領主的な領内住民保護に至らなかった。多分この地が歴史的に過疎地域(支配関係の流動地域)だったせいだろう。農民レベルでは自警団程度で保護されれば済み地道に暮らせる平和があった。

ザポロージュ・コサック(東部、ヨーロッパ最大の原発立地)はウクライナのコサックの中心地

ドニエプル川両岸に広がるコサック地帯を「ウクライナ」と呼ぶ

コサックという生き方

コサックの男は亜麻布の長袖の上着を着てだぶついたズボンをはき、髪は1房の毛を残して全部剃っていました。満州族の辮髪に似ていますね。

Railway Story | WOWOWオンライン

フメリニツキーの反ポーランド蜂起

ボフダン・フメリニツキーの半生はごくありふれたコサックの生き方で、登録コサックになってポーランドのために戦い名を上げ、領地を得て経営し、経済的には不自由ない暮らしをしていました。

⑤モスクワ公国の保護下に

登録コサックは貴族化し、一般コサックは農奴化し経済格差が拡大。モスクワは一般コサックに肩入れし対立を煽って武装蜂起させ、ヘーチマンがコサックを弾圧するとヘーチマンを捕らえてシベリア送りにするなどして内部対立を深め、モスクワへの従属体制を強化していきました。

マゼッパはピョートルの命令に逆らいスウェーデン軍に合流しモスクワと戦うことを決意。

@カール12世からは、ウクライナの保護とモスクワからの自由を得るまでは和睦しない約束を取り付けました。

マゼッパはモスクワへの反感が強いコサックの大部分は自分に味方をすると信じていましたが、一般コサックの大部分は大領主で貴族の味方マゼッパを快く思っておらず、予想に反して大部分がモスクワに付きました。

この戦いはモスクワ軍の圧勝に終わり、スウェーデン・マゼッパ連合軍は約9,000の死傷者を出して壊滅。大北方戦争はこうしてスウェーデンの野望が絶たれ、モスクワが帝政ロシアを成立していくに至ります。

⑧5. ヘーチマン国家の終焉

ロシア第一次露土戦争の勝利によりオスマン・トルコと結んだキュチュク・カイナルジ条約によって黒海沿岸の領土を獲得し、クリミア汗国の宗主権の蜂起を認めさせロシアの保護下にした事実がありました。

これにより、オスマン・トルコとクリミア汗国との対決に必要だったコサックの利用価値がなくなったのでした。

コサックたちはロシア軍に編入させられたり、アゾフ海の沿岸に入植して定住したり、トルコ領に移住したりしました。

W。ナルホド!ドンコサックの発祥の地はウクライナドニエプル川をはさんで右岸と左岸。核となったのはザポロージュ、コサック(アゾフ海沿岸の州)

ドン地方のドンコサックはモスクワとの戦いに敗れて入植したのだ。

W。クリミア地方のタタール人の国(モンゴル統治形態)は17年革命以降のスターリン主義体制で解体されタタール人の過半は東に強制移住させられた。レーニンの父の母はカルムイク人ロシア人の血を半分ずつ引いていた」

ロシア内のウリヤノフスク州の位置の位置図

シンビルスクは1668年ステンカ・ラージンの乱で戦場となり、1ヶ月にわたって2万人の反乱軍に包囲された。プガチョフの乱ではエメリヤン・プガチョフが逮捕後に収監された場所でもある。この反乱を題材にしたプーシキンの「大尉の娘」では主人公・ニコライの実家がある町という設定。

ロシアの国境が東のシベリア方面に拡大するにつれ、国境の軍事都市としての役割は終わったが、ヴォルガ川の水運に恵まれた地方の拠点都市として成長。カザン県アストラハン県に属していたシンビルスクは1796年に都市として登録されシンビルスク県の中心となる。」

 

ja.wikipedia.org

第一次世界大戦と『帝国主義論』

引用

1914年に第一次世界大戦が勃発した時、レーニンオーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィアに居た[81]ロシア帝国オーストリア=ハンガリー帝国は敵国同士となったため、ロシア国籍のレーニンは逮捕され、少しの間収監された」

社会主義者による1915年9月のツィンマーヴァルト会議と1916年4月のキーンタール会議に出席し、全ヨーロッパでこの「帝国主義戦争」を、プロレタリアートが貴族階級・ブルジョワ階級に立ち向かう「内乱」へと転化するよう、各国の社会主義者に呼びかけた」

1916年7月には『資本主義の最高の段階としての帝国主義帝国主義論)』の執筆を完了した[31]。翌1917年の9月に出版されたこの著作でレーニンは、帝国主義が資本家による利益追求の結果として生じる国家独占資本主義の産物であると論じたW。金融寡頭制の支配のリアルな実態を数値を挙げて指摘し、資本の世界的な過剰蓄積と国内消費の過小の矛盾によって<今的な表現でいえば階級格差>先発し超過利潤を得る内外システムのある英米仏型の資本制後発の資源と植民地が乏しく国内貧窮度が激しいドイツなどの資本制の型の違いが、世界市場の再分割をせまる世界戦争を不可避にしていると指摘しているのであって、国家独占資本主義の概念は第2次大戦後のケインズ経済政策との関連で論じるのが通例だ。現代貨幣理論(MMT)は国家独占資本主義の政策の一種とみている。

国家と独占資本が一体化していたら、国家を握る資本制支配層の思惑で世界戦争もある程度コントロールできる。コントロールできないのはなぜかと論じているのが帝国主義である。したがって、欧米の傀儡ウクライナに主権はないに等しいのだから、欧米が戦争を止めようと思えば止められる。

やらない要因を探ればグローバル資本主義の本質が鮮明になる

結局、支配層の利得、身分を毀損しないで戦争を継続すれば

儲かる世界システムがあるからだ。確立しているとは言わないが!

@しかしその儲けは

@国民多数から、

@金融寡頭制支配層への資産の移転に過ぎない!コレが現実だ!

レーニンの時代は帝国主義戦争によってロシア、ドイツの政権が変わった。

第二次世界大戦によってソ連東欧、中国の体制は生まれ、植民地反植民地は独立した。)との指摘はない。その上で、競争と衝突は今後もエスカレートし、大国間の戦争は帝国主義政権がプロレタリア革命によって打倒され、社会主義政権が樹立されるまで継続すると予想した

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以上のような地政学的、歴史的立ち位置の地域住民が21世紀になって、独立変数であろうと志せば、疑似アフガニスタンのような事態になるのは、ある意味当然のことである!

取り巻きあるいは内部に入りこんだ覇権勢力独立変数になることを許さない。
エマニュエルトッドの戦争前のウクライナ評価はウクライナに大状況を動かすような積極的な決定権はない、ということだった。言い換えると、外部の大きな力に依存し期待し、従属し良いように扱われるということだ。
 
>インフラ資源特化のロシアも110%。バルト3国、東欧の経済地殻にベラルーシ、ロシア、ウクライナの地殻がめり込んでいる。
この現状に資産増加の機会とみる中間層は危機感を抱きEU入りしたがっているが、
@その想いがプーチンやゼレンスキーの強権ポピュリストによって民族主義偏重を与えられ単線的な軍事解決の狭路に追いやられてきた
 
@欧米その他の金融資本支配層も過剰資本、過剰生産のはけ口に困って新興国群の市場を従属下に置きたいので自国民の生活を犠牲にしても、戦争を継続させる魂胆である。
 
@帝国の戦争の時代は先発金融資本制のグループと後発資本制のグループが世界市場の再分割をむぐって争う。
@民主主義だとか、人権、民族独立、主権確立
帝国の戦争を争う二つのグループの間のイデオロギー的意匠の違いに過ぎない。
戦争をしたがるものはもっともらしい言葉を使う。
>しかし戦争の危機への対処で、それらの意匠ははげ落ちてくる。
@服や下着を剥した本体は同じ帝国の覇権を争い庶民の生活健康命の犠牲を強いる金融資本の寡頭支配である。
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旧ソ連地域の経済地殻変動を証明する図表。
20120927ruua
>帝国の戦争の時代の底流に世界的な不況がある。なのに戦争は止められず世界に波及拡大する。
ウクライナロシア戦争は合成の誤謬=帝国の戦争の時代、の始まり。
IMF
【図解】実質GDPの推移
 

ウクライナ主要産業は農業と鉄鋼業である。

資源立地の性格の強い鉄鋼業については、「石炭は、ドニエプロペトロフスク州、ドネツク州、ルガンスク州にまたがって広がるドネツ炭田で産出される。また、鉄鉱石は、ドニエプロペトロフスク州、ザポロジエ州、ポルタヴァ州が主たる産地である。そして、これらの資源基盤に隣接する形で、鉄鋼業が東ウクライナの各都市に集積している」

ウクライナ粗鋼生産量は、日本鉄鋼連盟の調べでは2013年に32,824トンと、中国、日本、米国、インド、ロシア、韓国、ドイツ、トルコ、ブラジルに次ぎ、イタリア、台湾を上回る世界第10位である(2014.3.16HP)。鉄鋼・鉄鋼製品の輸出先は、ロシアとトルコが上位2位を占めており、そうした意味からもロシアとのつながりが深い。

 ウクライナ中部から南部にかけては肥沃な黒土地帯が広がっており、ウクライナは昔からヨーロッパの穀倉地帯として小麦の生産で有名だった。近年は小麦の他、とくにとうもろこしの生産拡大が目覚ましくなっている。ウクライナは消費量の割に生産量が多いため、世界の主要穀物輸出国の1つとなっている。小麦は、世界第6~8位程度の輸出国、ともろこしは、米国、アルゼンチン、ブラジルに次ぐ主要輸出国となっている。

 こうした産業配置から、所得水準も東部が西部より1割以上高くなっている

キエフ市を除西部の所得水準を計算すると2699米ドルとなり、これと比較すると東部の所得水準は約4分の1高い。

所得水準はキエフ市に次ぐレベルとなっているザポロジエ州であるが、これは、欧州最大の原子力発電所といわれるザポロジエ原子力発電所が立地しているためだと思われる。

ウクライナ・コサック - Wikipedia

Wコサックとは日本史でいえば国衆に相当するのかな?

ドン・コサック軍 - Wikipedia

プガチョフの乱1773年 - 1775年)はみなドン・コサックによる蜂起である。

弾圧行動としてよく知られたのは、ロシア第一革命中にオデッサで起きた戦艦ポチョムキンの反乱で、ドン・コサック軍が市街において民衆の武力弾圧を行い大勢の死傷者が出た

「コサックの国家」を自認する人の多いウクライナ~~

静かなドン - Wikipedia

長編小説、ロシア内戦期のドンコサックの群像。ロシア文学で一番面白かった。重厚なパノラマ風の文学的描写は、一転して劇画調の会話体、平易文でグイグイ場面をすすめる力業に魅了される(ドフトエフスキーにもこういうところがある)。

ただし、リアル描写のディテールは盗作ではないかとうわさされている。内戦従軍中のショーロホフは死んだコサック日記を手に入れ修正して長編に入れた確かに実体験しなければ描けないあまりにも生々しいシーンが多すぎる。ヘミングウェイのスペイン内戦従軍体験も元にした小説よりもウクライナ頭部からドン川地方の荒涼とした風景や地域住民の生活感が滲み出ている場面が続く。展開が面白い。

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ドンコサックは

15世紀後半以降、リトアニア大公国内のウクライナと呼ばれるドニプロ川の中下流域の広域におけて存在したコサックの軍事的共同体、またはその共同体の系統をもつ軍事的組織.

①当初はポーランド・リトアニア共和国へ従属したが、

②17世紀半ばに自らのコサック国家の編成を経て、

18世紀以降にロシア帝国への従属を強めていった。

ザポリージャ州の位置

なお、国内第3位の所得水準はポルタヴァ州であるが、

これは、この州が石油、天然ガスの資源に恵まれ自動車産業、石油精製業などの工業立地も進んでいるからである。

ポルタヴァ州の位置

そして、これら3地域に次いで所得水準が高いのが工業シェアが高いドネツク州とドニエプロペトロフスク州のドニエプル工業地域である。

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W。包括的な視点から解りやすく、専門的にウクライナ地域の歴史、安全保障、今後の展望を解説している。

www.nira.or.jp

W。注目すべき論点を張り付ける

「      ウクライナ危機の歴史的背景

ロシアの大統領ヴラジーミル・プーチンは~ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は、単一のナロードだと主張している。ナロードというロシア語は英語ではpeopleと言い換えられる。このように3民族を一体のものとする理解は、通常ロシアの大国主義と受け止められている

 まずは、こうした考え方が出てくる背景を説明し、戦争を始めたプーチン大統領たちが何を考えて単一のナロードだと主張しているのかについても述べる。

(1)キエフ・ルーシとその分裂

キエフ・ルーシの繁栄と衰退

ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人に共通するのは次の3点である。

1に、3民族ともに東スラブ人であり、言語的に近い

2に、10世紀から11世紀にかけて繁栄したキエフ・ルーシという共通の歴史的起源を有する。

3に、ビザンツ帝国からキリスト教を、より特定していえば正教を、キエフ・ルーシの時代に受容した。

最終的には13世紀のモンゴルの侵入によってキエフ・ルーシの中心であったキエフは荒廃する

 

その後、モンゴルとの関係の濃淡によって、東西のルーシが別々の発展を遂げることとなった。

モンゴルの影響を特に強く受けたのが東ルーシ、すなわち今日のロシアである⇒W。東欧」を含むヨーロッパ新大陸北米などのロシア嫌い、差別の根源にモンゴルの影響の残滓やバチカンカソリックの影響力の及ばないギリシャ正教がある。ユダヤ人の一部はこれに便乗しロシア忌避を過激化している=過去の反俗日記、参照。これに対して、影響が相対的に小さかったのが西ルーシ、すなわち今日のウクライナベラルーシである。⇒Wの解説にはウクライナ内のモンゴルの影響の濃淡で東と西の分裂があったようにみる誤解があった。

東ルーシにおいては、有力になったモスクワ公国が周辺を征服してロシアを建設していく。

西ルーシでは、14世紀にモンゴルが後退した後、その空白をリトアニア大公国が埋めていった。リトアニア大公国は、今日の民族概念でいえば、リトアニア人とベラルーシ人の連合国家であったと大雑把には言うことができる。このリトアニア大公国は、最終的には今日のウクライナまで、黒海のすぐ近くまで拡大した。

   ウクライナポーランド

拡大する東西のルーシは16世紀に衝突した。

これがリヴォニア戦争である。ロシアのイヴァン雷帝⇒W,「戦艦ポチョムキン」ハイライトはウクライナオデッサの階段の虐殺と黒海艦隊水夫の反乱。「イワン雷帝」の映画を撮った。は、内陸国としてでは成し得ない繁栄を求め、海への出口を、バルト海への出口を求めてリトアニア大公国に戦いを挑んだ。この戦争でリトアニアは辛うじて勝利したものの、財政的にも破綻してしまい、ポーランドと合同することとなった。合同と言っても対等ではなく、ポーランドが優位に立ち、リトアニアはそれまで支配下に置いていたウクライナポーランドに差し出した。

ウクライナポーランド支配下に移されると、急速にポーランドが進む。ポーランド化とは、ラテン化、カトリックのことである。

 W。以下は今後の歴史展開においてソビエト時代の民族政策の肝でありソ連邦の急速な解体の遠い原因になるので詳しくのせる。

この解説文はレーニンの民族政策のように誤解しているがドイツ社民党マルクス主義の資本蓄積論の影響を受けたレーニンに解説文にあるような機械的な民族政策は基本的にない。

20世紀初頭、ロシア革命当時の包括的な世界論を展開したのは「帝国主義論」であり末尾にこう記した。帝国主義戦争を内乱に転化せよ!

また、「国家と革命」において主要国の統治形態を分類し当該国の革命戦略を簡単に記しているが、ヨーロッパ規模の連続革命は論じても民族独立を組み込む視点はなかった。

この時代、自由放任資本制の発展形態である金融寡頭制は主要国内で階層格差を拡大させ

他方で労働階層の組織が曲りなりにも進んでいたので主要国内の労働者の決起が革命の焦点だったのであり、縁辺や植民地の民族運動は民族主義運動家の手に委ねられていた。

スターリンは民族問題を独立して取り上げているが、民族自立を世界革命戦略に位置付けたものは粛清された=スタンガリエフ。

後で詳しく論じる機会がある。

端的に言って指導の集中と責任の分散という党の組織原理民主集中制などと称される)を国家統治機構にそのまま当てはめたとき、一番手っ取り早い手法は、

各民族単位を機械的に分類し民族籍を与え機械的に分けた民族国家の指導層の自己責任統治に委任し

@中央ー地方を貫く行政官僚機構の系列を通じて党中央が指導権を把握する。ゆえにこの行政的な官僚指導系列がマヒすると、広域領域民族国家の連邦国家は直ちにバラバラになり、ポピュリスト政治家に民族主義を煽る温床を提供しただけに終わる。旧ユーゴ史ラビア内戦、ロシアウクライナ戦争の政治構造は同じだ。W流に言えばスターリン主義体制とそのソ連東欧的な崩壊過程(ユーゴも同類)民族主義を煽るポピュリスト政治屋の台頭を許し、不毛な相互対立によって庶民が苦しめられ犠牲になった。

>中国の支配体制は中央ー地方を貫く権力系列の指揮権を暴力を発動し手放さなかった天安門事態

スターリン主義体制がスターリン主義体制の本質を貫き、社会民主的な幻想をはねつけた。国家暴力装置を把握する党-軍が血を流す政治を敢行した。

@党が文化大革命潜って理論的政治的軍事的に鍛えられたがゆえにこうした方向の政治ができた。

@しかし、改革開放以降、経済発展の渦中で階層分解が進み支配層の政党に経済的にも肥大した党官僚層に再び文化大革命の時代のような自己変革は問われている。

自分たちが率先してやらなければ

外国との戦争の中でスターリン主義体制の転換が発生する。

その時にソ連邦崩壊時のような人々が作り上げてきた資産が一部のものに簒奪される。

先発国際金融寡頭制はウクライナ、ロシア戦争に連動し、急速台頭した中国資本の世界市場からの分離を戦略としている。

ウクライナロシア戦争は東アジア情勢の戦争的激動に飛び火する

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この背景には16世紀当時の反宗教改革がある。

ヨーロッパでになる改革が進み、プロテスタントカトリックが攻められていたところ、カトリック側が巻き返そうと反宗教改革が起きた。正教の信徒たちが暮らしていたウクライナカトリック勢力拡大の格好の対象であった。⇒W。日本にも反宗教改革使徒がやってきた。出アフリカの現世人類は南米で出会った!カソリックは原住民をだまし討ちにして虐殺する手助け、動機となった。

カトリックポーランドの下で、ウクライナのエリートは次第にポーランド化し、カトリックしていくことになる。

とは言え、

@庶民はそう簡単に改宗できないため、庶民向けには東方帰一教会(あるいはユニエイト教会、グレコカトリック教会とも呼ばれる)という折衷宗教が認められ広がっていく。折衷とは、つまり正教の典礼は維持し、その代わりローマ教皇の権威を認めるということである。

@このように、エリートはカトリックに、

@庶民は東方帰一教会に改宗させるという政策がかなり強制的に進められていった。

(2)ロシア帝国下のウクライナ

ポーランド反乱からロシアの支配下

こうしたポーランド支配に対し、17世紀にはボフダン・フメリニツキーを主導者としたコサックの大反乱が起きた。このコサックの反乱をモスクワ大公国は支援し、その結果、ポーランドはある程度押し出されることになり、ウクライナ中央部を北から南に貫通して黒海に注ぐドニエプル川の東側、すなわちドニエプル左岸はロシアの領土となった。

この地はマラルーシ、すなわち小ロシアと呼ばれた。小ロシアという呼称はしばしば蔑称と理解されるが、決してそうではなく、小というのは中核という意味である。ギリシャにおいて本土を小ヘラスと呼び、ヘレニズム世界を大ヘラスと呼んでいたように、小という語は文明の中心を意味している。

 ポーランドオスマン帝国も後退したため、辺境としてのウクライナの重要性は失われていき、特権も廃止されていく。その後19世紀初頭に導入されたマラルーシ総督府も、1856年には廃止された。総督府の廃止が意味するのは、ウクライナロシア帝国の内地と同様に取り扱われるようになったということである。かくしてドニエプル左岸は、帝国の内側に取り込まれた。

このようにロシアの下に入ったドニエプル左岸に対し、ドニエブル右岸はまだしばらくはポーランド支配下にあり続けた。右岸がロシアに併合されたのは、18世紀末のポーランド分割によってである。ロシア、プロイセンオーストリアは、共通の敵であるポーランドを分割し、この結果、ロシアはリトアニアベラルーシ、ドニエプル右岸を支配下に置いた。

ロシアの支配と東スラブ大家族イデオロギー

そもそも右岸ウクライナポーランドに長く支配されていたため、貴族やエリート階級は完全にポーランド化していた言語も完全にポーランド語であり、宗教もエリートはほぼ完全にカトリック化していた。そこでロシア政府は、ポーランド分割で右岸ウクライナを併合した当初は、直接統治するのではなく、ポーランド人貴族に任せるという方針をとった。しかし、1830年ポーランド反乱が起き、ポーランド人貴族に支配を任せられないと判断すると、次第に介入を深めていった。

右岸ウクライナの農民・庶民は、2世紀以上に及ぶポーランド支配にもかかわらず、言語、習慣、宗教などの点で、東スラブ的な特徴を保っていることを発見した。こうした庶民のアイデンティティーがまさに統治に利用されることとなる。

つまり、ウクライナの従来の支配階級はカトリックポーランドだが、ウクライナの農民は正教の信徒であり、われわれロシアと同じであるとして、ウクライナにおける支配階級と農民との対立を煽(あお)るという、今日的に言えばポピュリスト的な性格を帯びた政策がとられるようになった。

いわく、右岸ウクライナでは、ポーランド人やユダヤ人が経済的に優越、何世紀にも渡って庶民を搾取してきた、その庶民はわれわれと同じロシア人である、われわれは同じロシア人である庶民を助けるのだ、という具合にポピュリスト的な主張がなされていく。つまり、東スラブの3民族は家族であり、皆ロシア人であるという考え方は、支配者たるポーランド人・ユダヤ人の搾取から、ロシア人を解放しなければならないというイデオロギーと結びついていた。このイデオロギーはスラブ派のものでもある。

ウクライナ人エリートは、この東スラブの大きな家族論を基本的に受け入れた。受け入れたのみならず、「われわれ小ロシア人こそが本物のロシア人である」という考えにまで至った。小ロシア人から見れば、大ロシア人とは、ロシア帝国の内地に住み、ポーランド人ともユダヤ人ともほとんど接さず、彼らとの闘争を経験していない苦労知らずばかりである。

これに対して小ロシア人たちは、数世紀にわたってポーランド人やユダヤ人と戦ってきた自分たちこそが真のロシア人である、と自負した。

これは周辺民族主義である。すなわち、中心に住んでいる者たちは本当の戦い・苦しみを知らないのであって、辺境で戦う自分たちこそ当該民族の中心であり本家だと主張する考え方である。例えばウクライナ西部のウクライナ人は、しばしばこのような論理を用いて首都キーウ(キエフ)を批判し、キーウではなく辺境の自分たちこそがウクライナアイデンティティーを守るために戦っていると主張する。

 

 ウクライナアイデンティティーの登場

やがてロシアの帝政が終わりに近づくと、東スラブ大家族イデオロギーに限界が訪れる。すなわち、ウクライナ人は大ロシア人とは違う、ウクライナ人と大ロシア人は、それぞれ異なる別個のアイデンティティーを持っている、との考え方が登場した。このような考え方はウクライナ主義と呼ばれるようになる。ウクライナ主義を確立するためには、それまでは単に会話言語と思われていた小ロシア語、つまりウクライナ語を文章語として確立していかなければならないしたがって、ウクライナ語を文章語として確立する運動も展開されていく。

 このウクライナ主義の運動を支持したのは、おおむね左派、すなわち左翼勢力や協同組合運動などである。また、右派に分類される、ロシア正教会の聖職者の一部からも支持された。

それに対して、東スラブ人は1つの家族だという考え方は、支配層である地主たちや地方自治の指導層によって支持されていた

新しい対抗関係が発生したと言える。

革命を起こしたボリシェヴィキは左派であり、当然、ウクライナ主義の考え方を取り入れた

十月革命後、旧支配層は一掃され、東スラブ3民族は家族だという考え方は、その支持者を失った。

@この結果、生き残ったのはウクライナ主義であり、これが共産党政権の下で政策化されていくことになる。

    3)ソ連時代の政策とその評価

  民族アイデンティティーの客観性と一義性

ロシア人はロシア人、ウクライナ人はウクライナ人、ベラルーシ人はベラルーシ人というように、それぞれ別個の民族とされ、ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国、ベラルーシ・ソヴェト社会主義共和国、と民族名を冠された個別の共和国をソ連邦内で持つこととなった。このような形で共和国を持った民族は東スラブの3民族だけではなく、ソ連邦内には民族名を冠された15のソヴェト社会主義共和国が形成されていく。

 ソ連の連邦制の特徴は、民族領域連邦制

ある民族は、文化的な自治ではなく、領域的な自治を行わなければならない。領域的な自治を行うためには、当然、自らの領域と自治政府を持たなければならない。領域と自治政府を持つためには、住民のアイデンティティは曖昧模糊(もこ)としたものであってはならず、住民は公式に確定された民族籍を持つ必要がある。⇒W。中国も民族籍をはっきりさせる。

どの民族に帰属するかという問題を、主観的に決めるのではなく、客観的かつ一義的に確定させるという点である。実際に、ソ連において、個人の民族的な帰属先は民族籍として客観的に決定されていく。こうした確定の在り方は、後に中国共産党によって受容され、民族識別工作と呼ばれることとなった。⇒W。政治指導の集中、責任の分散はレーニン「何を成すべきか」におけるボリシエェビキ党の組織原則。コレを国家統治機構にに当てはめたものといえよう。ただしこの責任性を持たされた民族領域国家の統治は、大衆への自治政府領域国家共同体幻想を育むものであったから中央の指導の集中が欠如すれば早急に民族連邦は消滅に向かう。コレはリアルな政治力学であった。

    客観化・一義化の問題点

ソ連は、本来は文化的な集団であるエスニック集団を人工的に民族と位置づけ

領域を与え

自治政府を与えたために

かえって民族というカテゴリーを政治化してしまい、

この政治化によってソ連は崩壊に導かれたと理解されている。さらに言えば、旧ソ連諸国も今なお民族主義に苦しめられている。

W。ユーゴスラビア内戦も共産主義者同盟の上記の政策が災いした側面がある。

ボリシェヴィキを率いたレーニンの民族政策により、アイデンティティーの重層性は否定された。W??スターリンに民族問題に関する著書がある。ただしそれは民族主義的偏向に対する批判に主眼が置かれていたと思う。レーニンにはない。ただし指導の集中、責任の分散という党組織論を民族領域国家と単一機械的な民族性の広大な国家統治機構に当てはめた。したがって、東欧ソ連圏諸国に同じような方式は取り入れられなかった。広い中国は取り入れた。官僚制の肥大、硬直化と人工的な民族領域国家の形成は不可分のものだった。中国共産党は改革開放の渦中でも党と軍、行政統治機構の不可分一体化という要を手放さなかった。ソ連指導部はスターリン主義統治体制、経済体制が社会民主主義的に修正できるとして渦中で国家資産の即席資本家による簒奪を許し、今日のプーチンウクライナ侵攻に至った。資源や重工業に依存する経済政策も間違っていた。

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すなわち、ロシア人であるならばウクライナ人ではなく、ウクライナ人であるならばロシア人ではない、ということになった。

重層性を否定しつつ人工的にばらばらの民族を作っていったことは、今日のトラブルの大きな原因と言っても過言ではない。

確かに、一般的に民族とは近代になって作られたものであり、ロシア人やウクライナ人だけが人工的に作られたというわけではない。

しかしながら、社会主義的な多民族国家の場合、民族領域連邦制と民族識別工作という政策によって

非常に急速に民族を作ったためその人工性が極めて目立つという結果になった。

しかも、ソ連の場合、それらの民族に連邦構成共和国などといった疑似国家を持たせたため、より分裂しやすくなったと考えられる。

個別の民族を超えたソヴェト人民としての意識を持てるよう、ソ連政府は努力していた。⇒Wソ連圏?の大国意識?とは言え、民族領域連邦制は個々の民族の分離傾向を刺激し、個別の民族であるという意識を強く持たせる政策であり、1つの国家を維持する向きとは逆のベクトルに力を加えるものと言える。

  プーチンは何に怒っているのか

Wレーニン機械的な民族分類とその領域国家を与えたというのはデマで出来上がった政治理論である。

レーニン以降、のスターリン主義支配体制が広大な領域国家を独裁的に統治するために一番手っ取り早く地域の人々に響き効果の上がる方法を選んだ党組織と国家統治機構の混同である。

プーチンをはじめとする右派の論客たちは、しばしば「ウクライナ国家を作ったのはレーニンである」と述べる。この非難には、彼らが持つ2つの認識が含まれている。

第1に、いわば民族識別工作で東スラブの3民族を人工的に分断したということであり、

第2に、ウクライナ人の民族分布よりも広い領域をウクライナ・ソヴェト社会主義共和国に与えたというものである。

 上に述べたように、ソ連は急速かつ人工的に民族を作り上げ、諸民族に自治の単位を与えた。そのことがソ連分裂のポテンシャルを内包させ、実際にソ連は分裂することになった。

こうした事態が、ロシア帝国ソ連のような巨大国家の方が良かったと考えるプーチンのような人々を怒らせている

 

このようにソ連自体の民族カテゴリーを拒絶するプーチンたちが考えるロシア人の範囲は、ソ連時代のそれよりも拡大している。彼らは、彼らの考える「ロシア人」を捉える際に、言語を基準としていると考えられる

すなわち、彼らにとってロシア人とはロシア語話者を指す。

ロシア語を話す者をロシア人とみなすことは、

ソ連時代に「ロシア語話者のウクライナ人」という概念が存在していたこととは鋭い対立を見せる。

プーチンたちは、同じ言語を話す者は同胞だと考え、ロシア語を話す同胞を軍事的な手段も含めて助けるのは当然だ、という発想で行動していると考えられる。

    2.安全保障上の動機

(1)ウクライナNATO加盟阻止

文書による確約

NATO拡大に対するロシアの限界線

現加盟国が賛成するならどの国でも望めば加盟させるという門戸開放の方針は、軍事同盟としては破格の大雑把なものであり、NATOの「向かうところ敵なし」という時代の精神を反映⇒W。NATOEUなどの金融寡頭制がのさばる帝国の広域軍事同盟であり、時代精神とは帝国戦争の時代の空気感である。しているのであって、NATO自身が主張するような国際法上の主権尊重とは関係がないとみるべきである。

ウクライナおよびグルジアNATO入りすることへのロシアの反対は非常に強硬なものであった。

その後に起きた2008年夏の南オセチアをめぐる戦争、2014年のクリミア併合が明らかにしたのは、ロシア指導部のグルジアウクライナに対する執着が、旧ソ連のバルト諸国や黒海沿岸のルーマニアブルガリアなどに対するよりも比較にならないほどに強いということであった。結果として、NATOの拡大は鈍化した。

 2018年以降、列強による超音速ミサイルの開発が本格化すると、プーチン政権のNATO拡大に対するアレルギーはいっそう酷くなった。超音速ミサイル開発に先鞭をつけたのはロシアであるが、こうしたミサイルをNATO諸国が開発し、仮に加盟国となったウクライナハルキウ近辺に発射基地を作ったとしたらどうなるか、とロシアは警戒している。超音速ミサイルは、モスクワまで45分で届くという。

   選挙での人気取りに使われる軍事同盟

 このようにNATO拡大に対するロシアの危機感が高まり、拡大に伴う危険が増す一方、NATO加盟問題は選挙における支持動員の手段とされてきた。

W。民主政からファシズム政治体制が生まれるのは歴史的事実である。

丸山真男アメリカ型民主主義の内部にファシズム化の契機が埋め込まれていると指摘している。反俗日記過去記事参照。今のアメリカ政治に今までになかった異常現象が続発している。

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そもそも、アメリカのブッシュ大統領

ウクライナでは、ヴィクトル・ユシチェンコ政権が、オレンジ革命2004年)以後に経済が非常に悪化した際に、歴史問題等のイデオロギー的な争点で支持を獲得しようとし、その一環としてNATO加盟問題を利用した

グルジアのミヘイル・サアカシヴィリ政権も、バラ革命2003年)の当時は人気があったが、2007年にトビリシでのデモを力で弾圧して人気を落とし、翌2008年夏にNATO加盟への展望をにらんで冒険主義的な南オセチア政策を打ち出してロシアと戦争になった。

2019年にウクライナ憲法が改正され、憲法上の中立主義が放棄されて、代わりにNATO加盟が書き込まれた。

これも、ウクライナでの大統領選挙にあたり、現職のペトロ・ポロシェンコ大統領が、ゼレンシキー候補(現大統領)に追い上げられたため、何とか挽回したいとの願望からNATO問題を持ち出した結果である。

いずれの国でも、国内的な人気取りのために、選挙に勝つために、NATO加盟という軍事的な問題を使っている。安全保障の問題は、とりわけ危機が高まっている状況においては慎重な取り扱いを必要とするはずだが、

@実際には危機に反比例するかのように

@国内的なポピュリズムのアピール材料となっている。

これは非常に危険な傾向であり、発言には二重三重に気をつけねばならないと考える。

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W。政治の本質は奴は敵だ!奴を殺せ!

W.政治家は世の中の森羅万象を全部わかっているように語る

w。グローバル資本制下、政治家の質が下がっている。

                              埴谷雄高

(2)ドンバスの分離

  ユーロマイダン革命と暴力

こうした暴力事件で特徴的なのは、革命派(マイダン派)が事件の様子を録画し、自らソーシャルメディアに盛んに公開していたことである。

当人たちに罪悪感はない。むしろ良いことをしているつもりだからこそ、凄惨な動画を撮って公開に及んでいたというべきである

かくして、ソーシャルメディアに暴力行為とその結果としての死体が数多く映し出されることになった。

 これらのグロテスクな映像は、クリミアおよびドンバスの人々に、「明日は自分たちがこの暴力の標的になる」と思わせた。

暴力から逃げなければならないという切迫した恐怖感が、ウクライナからの離脱を彼らに決意させたと考えられる

ところが、西側のユーロマイダン革命の理解からは、暴力と恐怖の要素が抜け落ちている。

革命の混乱に乗じてクリミアおよびドンバスの親露派が分離運動を行ったとの解釈がよく見られるが、クリミアおよびドンバスの住民たちは、民族主義者の暴力を目の当たりにし、ともかくそこから逃げようとしたというべきである。

焦点は暴力にあり、もはや、親露か親欧米かという論点は吹き飛んでいた。

しかし、ドンバスでは内戦が起き、暴力はさらに拡大した。

ウクライナ政府側は反テロ作戦と銘打って戦い、分離勢力はロシアの支援ネオナチと呼ぶかどうかはともかく、右翼活動家は増えている

彼らを生み出したのは、反テロ作戦と呼ばれるドンバス戦争である。彼らを反テロ作戦の参加者として社会的に敬い、多少の逸脱行動は見逃す文化が発生した。戦場にいた彼らを通じて、日常生活の場にも暴力が持ち込まれている。

現在、ロシアのウクライナ侵攻によって、暴力はさらに拡大している。

この戦争は、これまでのドンバス戦争とは桁違いの規模で右翼活動家を生み出すと予想される。

   ドンバス、とりわけドネツク

ウクライナ政治の中心にあったドネツク州が分離運動の中心になった経過

2014年春にドネツク州庁舎を占拠したのは反マイダン急進派である。

彼らはウクライナからの分離とロシアへの併合という要求を掲げ住民投票を準備し始めた。彼らは従来のエリートではなく、むしろエリートを排除して、下から社会革命を遂行しているつもりであった。

 プーチン政権はクリミアを併合したが、ドンバスはウクライナに残しておいた方が良いと判断していたため、当初はドンバスでの分離運動に冷淡であった。

しかし内戦が始まり、さらには民間航空機が撃墜されると、さすがに放置できなくなった。プーチン政権の対ドンバス政策は次のようなものであった。1に、ドンバスおよびルガンスクの両人民共和国が滅びない程度に援助する。

2に、両共和国をロシアに併合せず、ウクライナを連邦化することで、ウクライナに復帰してもらう。

3に、両共和国から急進派を排除して社会革命的な要素を取り除く

ドンバスには、ウクライナの内側からNATO加盟を阻止してほしいというのがプーチン政権の期待であった。

 この期待を実現するはずだったのが、20152月に調印された第2ミンスク合意である。

この合意はドンバスにウクライナ内で「特別な地位」を与えるとの内容を含んでいた。

ゼレンシキーが勝利した2019年大統領選挙に前後して、

ロシアは、ドンバスの住民にロシア国籍を付与するようになった。

これはウクライナの内側からNATO加盟を阻止しようとする政策を、プーチン政権が放棄し始めたことを意味しており、危険な兆候であった。

さらに、201912月にパリで両大統領が初めて(今のところ唯一)顔を合わせた際、ゼレンシキー大統領が、議会選挙でも大勝した後だったにもかかわらず、2ミンスク合意を履行する意図がないプーチン大統領に伝え、これがロシアに平和的解決を諦めさせたきっかけであった3.今後の展望

(1)戦争の落としどころ

    和平交渉の行方

 ロシアとウクライナは、開戦後の2月末から和平交渉を行ってきた。

3月末イスタンブールでの会談では、クライナ憲法を改正して非同盟中立条項を復活させる点では、両国間で大方の同意が達成された。

そもそもウクライナNATO加盟は現実的ではなかったため、妥協してもウクライナが失うものはない。

他方、ロシアが要求するクリミア領有と、ドンバスの両人民共和国の独立承認は、イスタンブール交渉でも深刻な争点となった。

 ただし、クリミアが将来ウクライナに戻ると信じるウクライナ人はあまりおらず、ドンバスが実際に戻れば、文字通り爆弾を抱え込むようなものである。

ゆえに時間をかけて交渉すれば、領土問題についてもある程度の接近は可能だったと考える。

 しかし、領土問題でウクライナが妥協することについては、ウクライナを支援する西側諸国からの抵抗が大きいだろう。力による一方的な国境線の変更を認める余地は、西側諸国には極めて小さい

 さらに、交渉を難しくしたのは、キーウ(キエフ)近郊のブチャなどで発生した虐殺である。202243日にこの事件が表面化し、それまでの交渉はすべて白紙に戻されてしまったされてしまったため、当面はブチャなどでの虐殺の真相解明を求める必要がある。

 

W。この解説文の和平交渉の流れから感じるのは

@3月のウクライナ憲法に中立条項を書き込む、戦線を立て直すための時間稼ぎに過ぎなかった、とみる。

@そもそも、独立後のウクライナ国家内のクリミア、ドンバスは実質的に分離しているので重要問題に関する国民的合意を確立する国内状況は一貫してなかった。

@したがってゼレンスキー政権には憲法に非同盟条項を書き込める統治力はない。やろうとすれば失脚する。それよりもぬくぬく英雄気取りでいたい。ポピュリスト政治家なんて所詮その程度。

@一方、この解説文を読んだだけでプーチン日和見主義、強権ポピュリスト政治家ぶりがよくわかる

   どう解決するか

私自身の考えでは、例えば国連管理の下で、クリミアとドンバスにおいて住民投票をもう一度行い、その結果、分離という意思が示されたなら、分離させた方が良い。何よりも重要なのは正常化である(同意する!が~~)。

W。解説文の流れに沿って考えると、無理筋とわかる。

w。人間は動物だから。

ドンバス戦争で対ロシア強硬派が大量に生まれた。

そして侵攻したロシアへの憎悪は大拡大し公選分子を大量生産した。

欧米その他は高度兵器、弾薬、大量資金供与を継続する。戦争継続で焼け太りが生まれる構造。

@唯一の停戦の希望は進行した本国ロシアでの厭戦気分の蔓延、プーチン政権打倒。

 

この戦争は武力決着の時期まで長引き、世界を戦争事態の政治経済軍事に覆う。

とくに東アジア情勢が緊迫化しアブノーマル事態に突入する。

日本の金融政策はすでに長い間、アブノーマル政策を実行中である。

アベノミクスの本人の事態もこの時代の空気の中で発生しているとみている。

次にやれることは日本円を擦りまくる高橋是清的金融財政政策しかない、と思う。

29年世界不況~5,15事件から4~5年の高橋是清政策の息継ぎ期間があって、2,26事件に至った。

歴史は螺旋階段上にくりかえす。今あるのは過去の積み重ね、将来は今の積み重ね。