ウクライナの現代言語状況と言語問題
W。図録ウクライナを引用する。
『ウクライナのゼレンスキー大統領は、ドニプエロペトロフスク州クルィヴィーイ・リーフ市にユダヤ系ウクライナ人(W。ユダヤ人はポーランド支配時代に、西部地域に支配層として集住、ドイツ軍の侵攻とともに東に逃げた、と思われる。)として生まれた。「東部出身のために母語はロシア語。元々ウクライナ語は苦手で俳優業(W。TV芸人コメディアン。北野武監督の才能のないビートたけし、のような存在。俳優は過大評価)やメディアではこれまでロシア語を使用してきた。大統領当選以降はウクライナ語の特訓を受け、会見等ではほぼウクライナ語のみでこなしている」という(ウィキペディアによる)。』
http://honkawa2.sakura.ne.jp/8990.html
引用する
①トルコ語で「分捕り品で暮らす自由人」を意味する「コサック」
W。モンゴル型の<伝統的経済行為>略奪者に自警団の集合体レベルで抗力するためには敵と同じ次元の野蛮を身に着けるしかなかった。封建領主的な領内住民保護に至らなかった。多分この地が歴史的に過疎地域(支配関係の流動地域)だったせいだろう。農民レベルでは自警団程度で保護されれば済み地道に暮らせる平和があった。
②ザポロージュ・コサック(東部、ヨーロッパ最大の原発立地)はウクライナのコサックの中心地
③コサックという生き方
コサックの男は亜麻布の長袖の上着を着てだぶついたズボンをはき、髪は1房の毛を残して全部剃っていました。満州族の辮髪に似ていますね。
④フメリニツキーの反ポーランド蜂起
ボフダン・フメリニツキーの半生はごくありふれたコサックの生き方で、登録コサックになってポーランドのために戦い名を上げ、領地を得て経営し、経済的には不自由ない暮らしをしていました。
⑤モスクワ公国の保護下に
⑥登録コサックは貴族化し、一般コサックは農奴化し経済格差が拡大。モスクワは一般コサックに肩入れし対立を煽って武装蜂起させ、ヘーチマンがコサックを弾圧するとヘーチマンを捕らえてシベリア送りにするなどして内部対立を深め、モスクワへの従属体制を強化していきました。
⑦マゼッパはピョートルの命令に逆らい、スウェーデン軍に合流しモスクワと戦うことを決意。
@カール12世からは、ウクライナの保護とモスクワからの自由を得るまでは和睦しない約束を取り付けました。
マゼッパはモスクワへの反感が強いコサックの大部分は自分に味方をすると信じていましたが、一般コサックの大部分は大領主で貴族の味方マゼッパを快く思っておらず、予想に反して大部分がモスクワに付きました。
@この戦いはモスクワ軍の圧勝に終わり、スウェーデン・マゼッパ連合軍は約9,000の死傷者を出して壊滅。大北方戦争はこうしてスウェーデンの野望が絶たれ、モスクワが帝政ロシアを成立していくに至ります。
⑧5. ヘーチマン国家の終焉
ロシアが第一次露土戦争の勝利によりオスマン・トルコと結んだキュチュク・カイナルジ条約によって黒海沿岸の領土を獲得し、クリミア汗国の宗主権の蜂起を認めさせロシアの保護下にした事実がありました。
これにより、オスマン・トルコとクリミア汗国との対決に必要だったコサックの利用価値がなくなったのでした。
コサックたちはロシア軍に編入させられたり、アゾフ海の沿岸に入植して定住したり、トルコ領に移住したりしました。
W。ナルホド!ドンコサックの発祥の地はウクライナ、ドニエプル川をはさんで右岸と左岸。核となったのはザポロージュ、コサック(アゾフ海沿岸の州)
ドン地方のドンコサックはモスクワとの戦いに敗れて入植したのだ。
W。クリミア地方のタタール人の国(モンゴル統治形態)は17年革命以降のスターリン主義体制で解体されタタール人の過半は東に強制移住させられた。レーニンの父の母はカルムイク人とロシア人の血を半分ずつ引いていた」
「シンビルスクは1668年にステンカ・ラージンの乱で戦場となり、1ヶ月にわたって2万人の反乱軍に包囲された。プガチョフの乱ではエメリヤン・プガチョフが逮捕後に収監された場所でもある。この反乱を題材にしたプーシキンの「大尉の娘」では主人公・ニコライの実家がある町という設定。
「ロシアの国境が東のシベリア方面に拡大するにつれ、国境の軍事都市としての役割は終わったが、ヴォルガ川の水運に恵まれた地方の拠点都市として成長。カザン県やアストラハン県に属していたシンビルスクは1796年に都市として登録されシンビルスク県の中心となる。」
第一次世界大戦と『帝国主義論』
引用
「1914年に第一次世界大戦が勃発した時、レーニンはオーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィアに居た[81]。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は敵国同士となったため、ロシア国籍のレーニンは逮捕され、少しの間収監された」
「社会主義者による1915年9月のツィンマーヴァルト会議と1916年4月のキーンタール会議に出席し、全ヨーロッパでこの「帝国主義戦争」を、プロレタリアートが貴族階級・ブルジョワ階級に立ち向かう「内乱」へと転化するよう、各国の社会主義者に呼びかけた」
「1916年7月には『資本主義の最高の段階としての帝国主義(帝国主義論)』の執筆を完了した[31]。翌1917年の9月に出版されたこの著作でレーニンは、帝国主義が資本家による利益追求の結果として生じる国家独占資本主義の産物であると論じた⇒W。金融寡頭制の支配のリアルな実態を数値を挙げて指摘し、資本の世界的な過剰蓄積と国内消費の過小の矛盾によって<今的な表現でいえば階級格差>先発し超過利潤を得る内外システムのある英米仏型の資本制と後発の資源と植民地が乏しく国内貧窮度が激しいドイツなどの資本制の型の違いが、世界市場の再分割をせまる世界戦争を不可避にしていると指摘しているのであって、国家独占資本主義の概念は第2次大戦後のケインズ経済政策との関連で論じるのが通例だ。現代貨幣理論(MMT)は国家独占資本主義の政策の一種とみている。
国家と独占資本が一体化していたら、国家を握る資本制支配層の思惑で世界戦争もある程度コントロールできる。コントロールできないのはなぜかと論じているのが帝国主義論である。したがって、欧米の傀儡ウクライナに主権はないに等しいのだから、欧米が戦争を止めようと思えば止められる。
やらない要因を探ればグローバル資本主義の本質が鮮明になる!
結局、支配層の利得、身分を毀損しないで戦争を継続すれば
儲かる世界システムがあるからだ。確立しているとは言わないが!
@しかしその儲けは
@国民多数から、
@金融寡頭制支配層への資産の移転に過ぎない!コレが現実だ!
レーニンの時代は帝国主義戦争によってロシア、ドイツの政権が変わった。
第二次世界大戦によってソ連東欧、中国の体制は生まれ、植民地反植民地は独立した。)との指摘はない。その上で、競争と衝突は今後もエスカレートし、大国間の戦争は帝国主義政権がプロレタリア革命によって打倒され、社会主義政権が樹立されるまで継続すると予想した
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以上のような地政学的、歴史的立ち位置の地域住民が21世紀になって、独立変数であろうと志せば、疑似アフガニスタンのような事態になるのは、ある意味当然のことである!
「ウクライナの主要産業は農業と鉄鋼業である。
資源立地の性格の強い鉄鋼業については、「石炭は、ドニエプロペトロフスク州、ドネツク州、ルガンスク州にまたがって広がるドネツ炭田で産出される。また、鉄鉱石は、ドニエプロペトロフスク州、ザポロジエ州、ポルタヴァ州が主たる産地である。そして、これらの資源基盤に隣接する形で、鉄鋼業が東ウクライナの各都市に集積している」
ウクライナの粗鋼生産量は、日本鉄鋼連盟の調べでは2013年に32,824トンと、中国、日本、米国、インド、ロシア、韓国、ドイツ、トルコ、ブラジルに次ぎ、イタリア、台湾を上回る世界第10位である(2014.3.16HP)。鉄鋼・鉄鋼製品の輸出先は、ロシアとトルコが上位2位を占めており、そうした意味からもロシアとのつながりが深い。
ウクライナ中部から南部にかけては肥沃な黒土地帯が広がっており、ウクライナは昔からヨーロッパの穀倉地帯として小麦の生産で有名だった。近年は小麦の他、とくにとうもろこしの生産拡大が目覚ましくなっている。ウクライナは消費量の割に生産量が多いため、世界の主要穀物輸出国の1つとなっている。小麦は、世界第6~8位程度の輸出国、ともろこしは、米国、アルゼンチン、ブラジルに次ぐ主要輸出国となっている。
こうした産業配置から、所得水準も東部が西部より1割以上高くなっている
キエフ市を除く西部の所得水準を計算すると2699米ドルとなり、これと比較すると東部の所得水準は約4分の1高い。
所得水準はキエフ市に次ぐレベルとなっているザポロジエ州であるが、これは、欧州最大の原子力発電所といわれるザポロジエ原子力発電所が立地しているためだと思われる。
Wコサックとは日本史でいえば国衆に相当するのかな?
プガチョフの乱(1773年 - 1775年)はみなドン・コサックによる蜂起である。
弾圧行動としてよく知られたのは、ロシア第一革命中にオデッサで起きた戦艦ポチョムキンの反乱で、ドン・コサック軍が市街において民衆の武力弾圧を行い大勢の死傷者が出た
「コサックの国家」を自認する人の多いウクライナ~~~
長編小説、ロシア内戦期のドンコサックの群像。ロシア文学で一番面白かった。重厚なパノラマ風の文学的描写は、一転して劇画調の会話体、平易文でグイグイ場面をすすめる力業に魅了される(ドフトエフスキーにもこういうところがある)。
ただし、リアル描写のディテールは盗作ではないかとうわさされている。内戦従軍中のショーロホフは死んだコサック日記を手に入れ修正して長編に入れた。確かに実体験しなければ描けないあまりにも生々しいシーンが多すぎる。ヘミングウェイのスペイン内戦従軍体験も元にした小説よりもウクライナ頭部からドン川地方の荒涼とした風景や地域住民の生活感が滲み出ている場面が続く。展開が面白い。
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ドンコサックは
15世紀後半以降、リトアニア大公国内のウクライナと呼ばれるドニプロ川の中下流域の広域におけて存在したコサックの軍事的共同体、またはその共同体の系統をもつ軍事的組織.
①当初はポーランド・リトアニア共和国へ従属したが、
なお、国内第3位の所得水準はポルタヴァ州であるが、
これは、この州が石油、天然ガスの資源に恵まれ、自動車産業、石油精製業などの工業立地も進んでいるからである。
そして、これら3地域に次いで所得水準が高いのが工業シェアが高いドネツク州とドニエプロペトロフスク州のドニエプル工業地域である。
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W。包括的な視点から解りやすく、専門的にウクライナ地域の歴史、安全保障、今後の展望を解説している。
W。注目すべき論点を張り付ける
「 ウクライナ危機の歴史的背景
ロシアの大統領ヴラジーミル・プーチンは~ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は、単一のナロードだと主張している。ナロードというロシア語は英語ではpeopleと言い換えられる。このように3民族を一体のものとする理解は、通常、ロシアの大国主義と受け止められている。
まずは、こうした考え方が出てくる背景を説明し、戦争を始めたプーチン大統領たちが何を考えて単一のナロードだと主張しているのかについても述べる。
(1)キエフ・ルーシとその分裂
キエフ・ルーシの繁栄と衰退
ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人に共通するのは次の3点である。
第1に、3民族ともに東スラブ人であり、言語的に近い。
第2に、10世紀から11世紀にかけて繁栄したキエフ・ルーシという共通の歴史的起源を有する。
第3に、ビザンツ帝国からキリスト教を、より特定していえば正教を、キエフ・ルーシの時代に受容した。
最終的には13世紀のモンゴルの侵入によってキエフ・ルーシの中心であったキエフは荒廃する
その後、モンゴルとの関係の濃淡によって、東西のルーシが別々の発展を遂げることとなった。
モンゴルの影響を特に強く受けたのが東ルーシ、すなわち今日のロシアである⇒W。東欧」を含むヨーロッパ新大陸北米などのロシア嫌い、差別の根源にモンゴルの影響の残滓やバチカンカソリックの影響力の及ばないギリシャ正教がある。ユダヤ人の一部はこれに便乗しロシア忌避を過激化している=過去の反俗日記、参照。これに対して、影響が相対的に小さかったのが西ルーシ、すなわち今日のウクライナとベラルーシである。⇒Wの解説にはウクライナ内のモンゴルの影響の濃淡で東と西の分裂があったようにみる誤解があった。
東ルーシにおいては、有力になったモスクワ公国が周辺を征服してロシアを建設していく。
西ルーシでは、14世紀にモンゴルが後退した後、その空白をリトアニア大公国が埋めていった。リトアニア大公国は、今日の民族概念でいえば、リトアニア人とベラルーシ人の連合国家であったと大雑把には言うことができる。このリトアニア大公国は、最終的には今日のウクライナまで、黒海のすぐ近くまで拡大した。
ウクライナのポーランド化
拡大する東西のルーシは16世紀に衝突した。
これがリヴォニア戦争である。ロシアのイヴァン雷帝⇒W,「戦艦ポチョムキン」ハイライトはウクライナオデッサの階段の虐殺と黒海艦隊水夫の反乱。「イワン雷帝」の映画を撮った。は、内陸国としてでは成し得ない繁栄を求め、海への出口を、バルト海への出口を求めてリトアニア大公国に戦いを挑んだ。この戦争でリトアニアは辛うじて勝利したものの、財政的にも破綻してしまい、ポーランドと合同することとなった。合同と言っても対等ではなく、ポーランドが優位に立ち、リトアニアはそれまで支配下に置いていたウクライナをポーランドに差し出した。
@ウクライナがポーランドの支配下に移されると、急速にポーランド化が進む。ポーランド化とは、ラテン化、カトリック化のことである。
W。以下は今後の歴史展開においてソビエト時代の民族政策の肝でありソ連邦の急速な解体の遠い原因になるので詳しくのせる。
この解説文はレーニンの民族政策のように誤解しているがドイツ社民党マルクス主義の資本蓄積論の影響を受けたレーニンに解説文にあるような機械的な民族政策は基本的にない。
20世紀初頭、ロシア革命当時の包括的な世界論を展開したのは「帝国主義論」であり末尾にこう記した。帝国主義戦争を内乱に転化せよ!
また、「国家と革命」において主要国の統治形態を分類し当該国の革命戦略を簡単に記しているが、ヨーロッパ規模の連続革命は論じても民族独立を組み込む視点はなかった。
この時代、自由放任資本制の発展形態である金融寡頭制は主要国内で階層格差を拡大させ、
他方で労働階層の組織が曲りなりにも進んでいたので主要国内の労働者の決起が革命の焦点だったのであり、縁辺や植民地の民族運動は民族主義運動家の手に委ねられていた。
スターリンは民族問題を独立して取り上げているが、民族自立を世界革命戦略に位置付けたものは粛清された=スタンガリエフ。
後で詳しく論じる機会がある。
端的に言って指導の集中と責任の分散という党の組織原理(民主集中制などと称される)を国家統治機構にそのまま当てはめたとき、一番手っ取り早い手法は、
各民族単位を機械的に分類し民族籍を与え機械的に分けた民族国家の指導層の自己責任統治に委任し
@中央ー地方を貫く行政官僚機構の系列を通じて党中央が指導権を把握する。ゆえにこの行政的な官僚指導系列がマヒすると、広域領域民族国家の連邦国家は直ちにバラバラになり、ポピュリスト政治家に民族主義を煽る温床を提供しただけに終わる。旧ユーゴ史ラビア内戦、ロシアウクライナ戦争の政治構造は同じだ。W流に言えばスターリン主義体制とそのソ連東欧的な崩壊過程(ユーゴも同類)が民族主義を煽るポピュリスト政治屋の台頭を許し、不毛な相互対立によって庶民が苦しめられ犠牲になった。
>中国の支配体制は中央ー地方を貫く権力系列の指揮権を暴力を発動し手放さなかった=天安門事態。
スターリン主義体制がスターリン主義体制の本質を貫き、社会民主的な幻想をはねつけた。国家暴力装置を把握する党-軍が血を流す政治を敢行した。
@党が文化大革命潜って理論的政治的軍事的に鍛えられたがゆえにこうした方向の政治ができた。
@しかし、改革開放以降、経済発展の渦中で階層分解が進み支配層の政党に経済的にも肥大した党官僚層に再び文化大革命の時代のような自己変革は問われている。
自分たちが率先してやらなければ、
外国との戦争の中でスターリン主義体制の転換が発生する。
その時にソ連邦崩壊時のような人々が作り上げてきた資産が一部のものに簒奪される。
先発国際金融寡頭制はウクライナ、ロシア戦争に連動し、急速台頭した中国資本の世界市場からの分離を戦略としている。
ウクライナロシア戦争は東アジア情勢の戦争的激動に飛び火する。
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この背景には16世紀当時の反宗教改革がある。
ヨーロッパでになる改革が進み、プロテスタントにカトリックが攻められていたところ、カトリック側が巻き返そうと反宗教改革が起きた。正教の信徒たちが暮らしていたウクライナはカトリック勢力拡大の格好の対象であった。⇒W。日本にも反宗教改革の使徒がやってきた。出アフリカの現世人類は南米で出会った!カソリックは原住民をだまし討ちにして虐殺する手助け、動機となった。
@カトリックのポーランドの下で、ウクライナのエリートは次第にポーランド化し、カトリック化していくことになる。
とは言え、
@庶民はそう簡単に改宗できないため、庶民向けには東方帰一教会(あるいはユニエイト教会、グレコカトリック教会とも呼ばれる)という折衷宗教が認められ広がっていく。折衷とは、つまり正教の典礼は維持し、その代わりローマ教皇の権威を認めるということである。
@このように、エリートはカトリックに、
@庶民は東方帰一教会に改宗させるという政策がかなり強制的に進められていった。
(2)ロシア帝国下のウクライナ
対ポーランド反乱からロシアの支配下へ
こうしたポーランド支配に対し、17世紀にはボフダン・フメリニツキーを主導者としたコサックの大反乱が起きた。このコサックの反乱をモスクワ大公国は支援し、その結果、ポーランドはある程度押し出されることになり、ウクライナ中央部を北から南に貫通して黒海に注ぐドニエプル川の東側、すなわちドニエプル左岸はロシアの領土となった。
この地はマラルーシ、すなわち小ロシアと呼ばれた。小ロシアという呼称はしばしば蔑称と理解されるが、決してそうではなく、小というのは中核という意味である。ギリシャにおいて本土を小ヘラスと呼び、ヘレニズム世界を大ヘラスと呼んでいたように、小という語は文明の中心を意味している。
ポーランドもオスマン帝国も後退したため、辺境としてのウクライナの重要性は失われていき、特権も廃止されていく。その後19世紀初頭に導入されたマラルーシ総督府も、1856年には廃止された。総督府の廃止が意味するのは、ウクライナがロシア帝国の内地と同様に取り扱われるようになったということである。かくしてドニエプル左岸は、帝国の内側に取り込まれた。
このようにロシアの下に入ったドニエプル左岸に対し、ドニエブル右岸はまだしばらくはポーランド支配下にあり続けた。右岸がロシアに併合されたのは、18世紀末のポーランド分割によってである。ロシア、プロイセン、オーストリアは、共通の敵であるポーランドを分割し、この結果、ロシアはリトアニア、ベラルーシ、ドニエプル右岸を支配下に置いた。
ロシアの支配と東スラブ大家族イデオロギー
そもそも右岸ウクライナはポーランドに長く支配されていたため、貴族やエリート階級は完全にポーランド化していた。言語も完全にポーランド語であり、宗教もエリートはほぼ完全にカトリック化していた。そこでロシア政府は、ポーランド分割で右岸ウクライナを併合した当初は、直接統治するのではなく、ポーランド人貴族に任せるという方針をとった。しかし、1830年にポーランド反乱が起き、ポーランド人貴族に支配を任せられないと判断すると、次第に介入を深めていった。
右岸ウクライナの農民・庶民は、2世紀以上に及ぶポーランド支配にもかかわらず、言語、習慣、宗教などの点で、東スラブ的な特徴を保っていることを発見した。こうした庶民のアイデンティティーがまさに統治に利用されることとなる。
つまり、ウクライナの従来の支配階級はカトリックのポーランド人だが、ウクライナの農民は正教の信徒であり、われわれロシアと同じであるとして、ウクライナにおける支配階級と農民との対立を煽(あお)るという、今日的に言えばポピュリスト的な性格を帯びた政策がとられるようになった。
いわく、右岸ウクライナでは、ポーランド人やユダヤ人が経済的に優越し、何世紀にも渡って庶民を搾取してきた、その庶民はわれわれと同じロシア人である、われわれは同じロシア人である庶民を助けるのだ、という具合にポピュリスト的な主張がなされていく。つまり、東スラブの3民族は家族であり、皆ロシア人であるという考え方は、支配者たるポーランド人・ユダヤ人の搾取から、ロシア人を解放しなければならないというイデオロギーと結びついていた。このイデオロギーはスラブ派のものでもある。
@ウクライナ人エリートは、この東スラブの大きな家族論を基本的に受け入れた。受け入れたのみならず、「われわれ小ロシア人こそが本物のロシア人である」という考えにまで至った。小ロシア人から見れば、大ロシア人とは、ロシア帝国の内地に住み、ポーランド人ともユダヤ人ともほとんど接さず、彼らとの闘争を経験していない苦労知らずばかりである。
これに対して小ロシア人たちは、数世紀にわたってポーランド人やユダヤ人と戦ってきた自分たちこそが真のロシア人である、と自負した。
これは周辺民族主義である。すなわち、中心に住んでいる者たちは本当の戦い・苦しみを知らないのであって、辺境で戦う自分たちこそ当該民族の中心であり本家だと主張する考え方である。例えばウクライナ西部のウクライナ人は、しばしばこのような論理を用いて首都キーウ(キエフ)を批判し、キーウではなく辺境の自分たちこそがウクライナのアイデンティティーを守るために戦っていると主張する。
ウクライナ・アイデンティティーの登場
やがてロシアの帝政が終わりに近づくと、東スラブ大家族イデオロギーに限界が訪れる。すなわち、ウクライナ人は大ロシア人とは違う、ウクライナ人と大ロシア人は、それぞれ異なる別個のアイデンティティーを持っている、との考え方が登場した。このような考え方はウクライナ主義と呼ばれるようになる。ウクライナ主義を確立するためには、それまでは単に会話言語と思われていた小ロシア語、つまりウクライナ語を文章語として確立していかなければならない。したがって、ウクライナ語を文章語として確立する運動も展開されていく。
このウクライナ主義の運動を支持したのは、おおむね左派、すなわち左翼勢力や協同組合運動などである。また、右派に分類される、ロシア正教会の聖職者の一部からも支持された。
それに対して、東スラブ人は1つの家族だという考え方は、支配層である地主たちや地方自治の指導層によって支持されていた。
新しい対抗関係が発生したと言える。
革命を起こしたボリシェヴィキは左派であり、当然、ウクライナ主義の考え方を取り入れた。
@十月革命後、旧支配層は一掃され、東スラブ3民族は家族だという考え方は、その支持者を失った。
@この結果、生き残ったのはウクライナ主義であり、これが共産党政権の下で政策化されていくことになる。
3)ソ連時代の政策とその評価
民族アイデンティティーの客観性と一義性
ロシア人はロシア人、ウクライナ人はウクライナ人、ベラルーシ人はベラルーシ人というように、それぞれ別個の民族とされ、ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国、ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国、ベラルーシ・ソヴェト社会主義共和国、と民族名を冠された個別の共和国をソ連邦内で持つこととなった。このような形で共和国を持った民族は東スラブの3民族だけではなく、ソ連邦内には民族名を冠された15のソヴェト社会主義共和国が形成されていく。
ソ連の連邦制の特徴は、民族領域連邦制
ある民族は、文化的な自治ではなく、領域的な自治を行わなければならない。領域的な自治を行うためには、当然、自らの領域と自治政府を持たなければならない。領域と自治政府を持つためには、住民のアイデンティティーは曖昧模糊(もこ)としたものであってはならず、住民は公式に確定された民族籍を持つ必要がある。⇒W。中国も民族籍をはっきりさせる。
どの民族に帰属するかという問題を、主観的に決めるのではなく、客観的かつ一義的に確定させるという点である。実際に、ソ連において、個人の民族的な帰属先は民族籍として客観的に決定されていく。こうした確定の在り方は、後に中国共産党によって受容され、民族識別工作と呼ばれることとなった。⇒W。政治指導の集中、責任の分散はレーニン「何を成すべきか」におけるボリシエェビキ党の組織原則。コレを国家統治機構にに当てはめたものといえよう。ただしこの責任性を持たされた民族領域国家の統治は、大衆への自治政府領域国家共同体幻想を育むものであったから中央の指導の集中が欠如すれば早急に民族連邦は消滅に向かう。コレはリアルな政治力学であった。
客観化・一義化の問題点
ソ連は、本来は文化的な集団であるエスニック集団を人工的に民族と位置づけ、
領域を与え、
自治政府を与えたために、
かえって民族というカテゴリーを政治化してしまい、
この政治化によってソ連は崩壊に導かれたと理解されている。さらに言えば、旧ソ連諸国も今なお民族主義に苦しめられている。
W。ユーゴスラビア内戦も共産主義者同盟の上記の政策が災いした側面がある。
ボリシェヴィキを率いたレーニンの民族政策により、アイデンティティーの重層性は否定された。W??スターリンに民族問題に関する著書がある。ただしそれは民族主義的偏向に対する批判に主眼が置かれていたと思う。レーニンにはない。ただし指導の集中、責任の分散という党組織論を民族領域国家と単一機械的な民族性の広大な国家統治機構に当てはめた。したがって、東欧ソ連圏諸国に同じような方式は取り入れられなかった。広い中国は取り入れた。官僚制の肥大、硬直化と人工的な民族領域国家の形成は不可分のものだった。中国共産党は改革開放の渦中でも党と軍、行政統治機構の不可分一体化という要を手放さなかった。ソ連指導部はスターリン主義統治体制、経済体制が社会民主主義的に修正できるとして渦中で国家資産の即席資本家による簒奪を許し、今日のプーチンのウクライナ侵攻に至った。資源や重工業に依存する経済政策も間違っていた。
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すなわち、ロシア人であるならばウクライナ人ではなく、ウクライナ人であるならばロシア人ではない、ということになった。
重層性を否定しつつ人工的にばらばらの民族を作っていったことは、今日のトラブルの大きな原因と言っても過言ではない。
確かに、一般的に民族とは近代になって作られたものであり、ロシア人やウクライナ人だけが人工的に作られたというわけではない。
しかしながら、社会主義的な多民族国家の場合、民族領域連邦制と民族識別工作という政策によって、
非常に急速に民族を作ったため、その人工性が極めて目立つという結果になった。
しかも、ソ連の場合、それらの民族に連邦構成共和国などといった疑似国家を持たせたため、より分裂しやすくなったと考えられる。
個別の民族を超えたソヴェト人民としての意識を持てるよう、ソ連政府は努力していた。⇒Wソ連圏?の大国意識?とは言え、民族領域連邦制は個々の民族の分離傾向を刺激し、個別の民族であるという意識を強く持たせる政策であり、1つの国家を維持する向きとは逆のベクトルに力を加えるものと言える。
プーチンは何に怒っているのか
Wレーニンが機械的な民族分類とその領域国家を与えたというのはデマで出来上がった政治理論である。
レーニン以降、のスターリン主義支配体制が広大な領域国家を独裁的に統治するために一番手っ取り早く地域の人々に響き効果の上がる方法を選んだ。党組織と国家統治機構の混同である。
プーチンをはじめとする右派の論客たちは、しばしば「ウクライナ国家を作ったのはレーニンである」と述べる。この非難には、彼らが持つ2つの認識が含まれている。
第1に、いわば民族識別工作で東スラブの3民族を人工的に分断したということであり、
第2に、ウクライナ人の民族分布よりも広い領域をウクライナ・ソヴェト社会主義共和国に与えたというものである。
上に述べたように、ソ連は急速かつ人工的に民族を作り上げ、諸民族に自治の単位を与えた。そのことがソ連に分裂のポテンシャルを内包させ、実際にソ連は分裂することになった。
こうした事態が、ロシア帝国やソ連のような巨大国家の方が良かったと考えるプーチンのような人々を怒らせている
このようにソ連自体の民族カテゴリーを拒絶するプーチンたちが考えるロシア人の範囲は、ソ連時代のそれよりも拡大している。彼らは、彼らの考える「ロシア人」を捉える際に、言語を基準としていると考えられる。
すなわち、彼らにとってロシア人とはロシア語話者を指す。
ロシア語を話す者をロシア人とみなすことは、
ソ連時代に「ロシア語話者のウクライナ人」という概念が存在していたこととは鋭い対立を見せる。
プーチンたちは、同じ言語を話す者は同胞だと考え、ロシア語を話す同胞を軍事的な手段も含めて助けるのは当然だ、という発想で行動していると考えられる。
2.安全保障上の動機
(1)ウクライナのNATO加盟阻止
文書による確約
NATO拡大に対するロシアの限界線
現加盟国が賛成するならどの国でも望めば加盟させるという門戸開放の方針は、軍事同盟としては破格の大雑把なものであり、NATOの「向かうところ敵なし」という時代の精神を反映⇒W。NATOはEUなどの金融寡頭制がのさばる帝国の広域軍事同盟であり、時代精神とは帝国戦争の時代の空気感である。しているのであって、NATO自身が主張するような国際法上の主権尊重とは関係がないとみるべきである。
ウクライナおよびグルジアがNATO入りすることへのロシアの反対は非常に強硬なものであった。
その後に起きた2008年夏の南オセチアをめぐる戦争、2014年のクリミア併合が明らかにしたのは、ロシア指導部のグルジアとウクライナに対する執着が、旧ソ連のバルト諸国や黒海沿岸のルーマニア、ブルガリアなどに対するよりも比較にならないほどに強いということであった。結果として、NATOの拡大は鈍化した。
2018年以降、列強による超音速ミサイルの開発が本格化すると、プーチン政権のNATO拡大に対するアレルギーはいっそう酷くなった。超音速ミサイル開発に先鞭をつけたのはロシアであるが、こうしたミサイルをNATO諸国が開発し、仮に加盟国となったウクライナのハルキウ近辺に発射基地を作ったとしたらどうなるか、とロシアは警戒している。超音速ミサイルは、モスクワまで4、5分で届くという。
選挙での人気取りに使われる軍事同盟
このようにNATO拡大に対するロシアの危機感が高まり、拡大に伴う危険が増す一方、NATO加盟問題は選挙における支持動員の手段とされてきた。
W。民主政からファシズム政治体制が生まれるのは歴史的事実である。
丸山真男はアメリカ型民主主義の内部にファシズム化の契機が埋め込まれていると指摘している。反俗日記過去記事参照。今のアメリカ政治に今までになかった異常現象が続発している。
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ウクライナでは、ヴィクトル・ユシチェンコ政権が、オレンジ革命(2004年)以後に経済が非常に悪化した際に、歴史問題等のイデオロギー的な争点で支持を獲得しようとし、その一環としてNATO加盟問題を利用した。
グルジアのミヘイル・サアカシヴィリ政権も、バラ革命(2003年)の当時は人気があったが、2007年にトビリシでのデモを力で弾圧して人気を落とし、翌2008年夏にNATO加盟への展望をにらんで冒険主義的な南オセチア政策を打ち出してロシアと戦争になった。
2019年にウクライナ憲法が改正され、憲法上の中立主義が放棄されて、代わりにNATO加盟が書き込まれた。
これも、ウクライナでの大統領選挙にあたり、現職のペトロ・ポロシェンコ大統領が、ゼレンシキー候補(現大統領)に追い上げられたため、何とか挽回したいとの願望からNATO問題を持ち出した結果である。
いずれの国でも、国内的な人気取りのために、選挙に勝つために、NATO加盟という軍事的な問題を使っている。安全保障の問題は、とりわけ危機が高まっている状況においては、慎重な取り扱いを必要とするはずだが、
@実際には危機に反比例するかのように
@国内的なポピュリズムのアピール材料となっている。
これは非常に危険な傾向であり、発言には二重三重に気をつけねばならないと考える。
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W。政治の本質は奴は敵だ!奴を殺せ!
W.政治家は世の中の森羅万象を全部わかっているように語る。
w。グローバル資本制下、政治家の質が下がっている。
(2)ドンバスの分離
ユーロマイダン革命と暴力
こうした暴力事件で特徴的なのは、革命派(マイダン派)が事件の様子を録画し、自らソーシャルメディアに盛んに公開していたことである。
当人たちに罪悪感はない。むしろ良いことをしているつもりだからこそ、凄惨な動画を撮って公開に及んでいたというべきである。
かくして、ソーシャルメディアに暴力行為とその結果としての死体が数多く映し出されることになった。
これらのグロテスクな映像は、クリミアおよびドンバスの人々に、「明日は自分たちがこの暴力の標的になる」と思わせた。
暴力から逃げなければならないという切迫した恐怖感が、ウクライナからの離脱を彼らに決意させたと考えられる。
@ところが、西側のユーロマイダン革命の理解からは、暴力と恐怖の要素が抜け落ちている。
革命の混乱に乗じてクリミアおよびドンバスの親露派が分離運動を行ったとの解釈がよく見られるが、クリミアおよびドンバスの住民たちは、民族主義者の暴力を目の当たりにし、ともかくそこから逃げようとしたというべきである。
焦点は暴力にあり、もはや、親露か親欧米かという論点は吹き飛んでいた。
しかし、ドンバスでは内戦が起き、暴力はさらに拡大した。
ウクライナ政府側は反テロ作戦と銘打って戦い、分離勢力はロシアの支援をネオナチと呼ぶかどうかはともかく、右翼活動家は増えている。
彼らを生み出したのは、反テロ作戦と呼ばれるドンバス戦争である。彼らを反テロ作戦の参加者として社会的に敬い、多少の逸脱行動は見逃す文化が発生した。戦場にいた彼らを通じて、日常生活の場にも暴力が持ち込まれている。
現在、ロシアのウクライナ侵攻によって、暴力はさらに拡大している。
この戦争は、これまでのドンバス戦争とは桁違いの規模で右翼活動家を生み出すと予想される。
ドンバス、とりわけドネツク
ウクライナ政治の中心にあったドネツク州が分離運動の中心になった経過
2014年春にドネツク州庁舎を占拠したのは反マイダン急進派である。
彼らはウクライナからの分離とロシアへの併合という要求を掲げ、住民投票を準備し始めた。彼らは従来のエリートではなく、むしろエリートを排除して、下から社会革命を遂行しているつもりであった。
プーチン政権はクリミアを併合したが、ドンバスはウクライナに残しておいた方が良いと判断していたため、当初はドンバスでの分離運動に冷淡であった。
しかし内戦が始まり、さらには民間航空機が撃墜されると、さすがに放置できなくなった。プーチン政権の対ドンバス政策は次のようなものであった。第1に、ドンバスおよびルガンスクの両人民共和国が滅びない程度に援助する。
第2に、両共和国をロシアに併合せず、ウクライナを連邦化することで、ウクライナに復帰してもらう。
第3に、両共和国から急進派を排除して社会革命的な要素を取り除く。
ドンバスには、ウクライナの内側からNATO加盟を阻止してほしいというのがプーチン政権の期待であった。
この期待を実現するはずだったのが、2015年2月に調印された第2ミンスク合意である。
この合意はドンバスにウクライナ内で「特別な地位」を与えるとの内容を含んでいた。
ゼレンシキーが勝利した2019年大統領選挙に前後して、
ロシアは、ドンバスの住民にロシア国籍を付与するようになった。
これはウクライナの内側からNATO加盟を阻止しようとする政策を、プーチン政権が放棄し始めたことを意味しており、危険な兆候であった。
さらに、2019年12月にパリで両大統領が初めて(今のところ唯一)顔を合わせた際、ゼレンシキー大統領が、議会選挙でも大勝した後だったにもかかわらず、第2ミンスク合意を履行する意図がないとプーチン大統領に伝え、これがロシアに平和的解決を諦めさせたきっかけであった3.今後の展望
(1)戦争の落としどころ
和平交渉の行方
ロシアとウクライナは、開戦後の2月末から和平交渉を行ってきた。
3月末のイスタンブールでの会談では、ウクライナ憲法を改正して非同盟中立条項を復活させる点では、両国間で大方の同意が達成された。
そもそもウクライナのNATO加盟は現実的ではなかったため、妥協してもウクライナが失うものはない。
他方、ロシアが要求するクリミア領有と、ドンバスの両人民共和国の独立承認は、イスタンブール交渉でも深刻な争点となった。
ただし、クリミアが将来ウクライナに戻ると信じるウクライナ人はあまりおらず、ドンバスが実際に戻れば、文字通り爆弾を抱え込むようなものである。
ゆえに時間をかけて交渉すれば、領土問題についてもある程度の接近は可能だったと考える。
しかし、領土問題でウクライナが妥協することについては、ウクライナを支援する西側諸国からの抵抗が大きいだろう。力による一方的な国境線の変更を認める余地は、西側諸国には極めて小さい。
さらに、交渉を難しくしたのは、キーウ(キエフ)近郊のブチャなどで発生した虐殺である。2022年4月3日にこの事件が表面化し、それまでの交渉はすべて白紙に戻されてしまったされてしまったため、当面はブチャなどでの虐殺の真相解明を求める必要がある。
W。この解説文の和平交渉の流れから感じるのは
@3月のウクライナ憲法に中立条項を書き込む、戦線を立て直すための時間稼ぎに過ぎなかった、とみる。
@そもそも、独立後のウクライナ国家内のクリミア、ドンバスは実質的に分離しているので重要問題に関する国民的合意を確立する国内状況は一貫してなかった。
@したがってゼレンスキー政権には憲法に非同盟条項を書き込める統治力はない。やろうとすれば失脚する。それよりもぬくぬく英雄気取りでいたい。ポピュリスト政治家なんて所詮その程度。
@一方、この解説文を読んだだけでプーチンの日和見主義、強権ポピュリスト政治家ぶりがよくわかる
どう解決するか
私自身の考えでは、例えば国連管理の下で、クリミアとドンバスにおいて住民投票をもう一度行い、その結果、分離という意思が示されたなら、分離させた方が良い。何よりも重要なのは正常化である(同意する!が~~)。
W。解説文の流れに沿って考えると、無理筋とわかる。
w。人間は動物だから。
ドンバス戦争で対ロシア強硬派が大量に生まれた。
そして侵攻したロシアへの憎悪は大拡大し公選分子を大量生産した。
欧米その他は高度兵器、弾薬、大量資金供与を継続する。戦争継続で焼け太りが生まれる構造。
@唯一の停戦の希望は進行した本国ロシアでの厭戦気分の蔓延、プーチン政権打倒。
この戦争は武力決着の時期まで長引き、世界を戦争事態の政治経済軍事に覆う。
とくに東アジア情勢が緊迫化しアブノーマル事態に突入する。
日本の金融政策はすでに長い間、アブノーマル政策を実行中である。
アベノミクスの本人の事態もこの時代の空気の中で発生しているとみている。
次にやれることは日本円を擦りまくる高橋是清的金融財政政策しかない、と思う。
29年世界不況~5,15事件から4~5年の高橋是清政策の息継ぎ期間があって、2,26事件に至った。
歴史は螺旋階段上にくりかえす。今あるのは過去の積み重ね、将来は今の積み重ね。