反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

黄 晳暎(ファン・ソギョン)自伝。満州植民地企業経営者の父(扶養家の土地権利書窃盗、売買)、エリートキリスト教徒一家に育った母、一家は北での将来絶望ゆえに越南(支援の母の身内は北エリート)。参考資料、~植民地朝鮮における総督府の宗教政策~~。民衆の日常生活とかかわっていた非公認宗教が海外からの危険思想流入の通路になる(非公認宗教の教義の革命性⇒破壊性。と当時の内務省は警戒。統一教会問題に通じる。

 黄 晳暎(ファン・ソギョン、Hwang Sok-yong、황석영1943年1月4日 - )

 

 W。前回記事は日韓条約締結反対、自動車デモで逮捕された留置所で、元海兵隊員で建設労働の33歳「大尉」と出会って、ソウルから南の忠清南道太田、馬山、普州方面にともに日雇い労働をしながら放浪するまでを取り上げた。

 上記の行動軌跡は 

「知識家庭」に育ったファンソギョンが父母の望んだエリートコースから外れ19歳で発表した短編小説が新人文学賞以降、関心の向かう方向にひたすら邁進し結果的に作家としての社会経験、人生経験の幅を広げていく延長線上にあった。

(休学し家出~仁川の漁港へ18歳。1961年高校文藝賞入選「出獄する日」wタイトルを見ても問題意識の向かう方向が解る)

 

>今回は自伝、囚人1~境界を越えて~において

<北>からの越南の事情、と

ファンソギョン少年の目から見たリアルな朝鮮戦争の実態を確認する。

 普遍的に言えば今の

  @国内戦争における市民生活の実態とでもいうべきものになる。

朝鮮戦争第二次世界大戦の無差別爆撃(原爆投下はその極限)とか、民間人を盾にする地上戦とはかなり様相が違うようだ。

ファンソギョン自伝やその他の情報から推察すると

朝鮮戦争における韓国民間人の死者の大多数は補導連盟事件、パルチザン討伐のような国民同士の党派争いにおける殺人行為イデオロギー戦争)に基づくものと推察できる。参戦した軍隊は民間人を標的にしなかった。そういう意味では第二次世界大戦型の総力戦ではなかった。

>コレは狭い意味での政治の延長の、暴力手段、殺傷手段をもってする最も愚かな、個々人が止めようとすれば止められる政治行為である

>歴史は宗教やイデオロギーがそうした愚かな行為のエンジンになってきた事実を示している。

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     自伝1幼年1947年~1956年

W、叔母の夫の日本で法学を学んだ「主義者」(北支配党の幹部)がファンソギョン一家の越南を援助した。

 引用

「1947年5月ごろのことだった。私が5歳の時だ。

ある夜、私たちはとりあえず荷物をまとめて、私の叔母に当たる母の末の妹の家に向かった。母(W。敬虔なカトリック教徒~植民地時代、キリスト教が半島に浸透、抵抗の色彩もあった。北のキリスト教徒は迫害を想定し南に移ったものは多い。韓国の宗教でキリスト教の占める割合が多いののそのせいもある。)は越南することを心の中に秘めたまま、母の姉や弟たちに口外しなかった。

叔母の夫は学徒兵召集令状が届くといったん平壌に行き、そこから満州に逃げた。そして解放を迎えると保安幹部学校に入り、朝鮮戦争の頃は首相の副官を務めていた。

どこに国だったか外国大使だったこともあると聞いた。

後の叔母にあった時(W。ファンソギョン国家保安法違反承知で北訪問したとき再会)

二人の間に生まれた私のいとことも会い、後日談を聞かせてもらった。

 母が夫と子供たちとともに叔母の家に行ったのは、家族の中で彼女とだけ越南について相談していたからだった。

>叔母の夫は表面的に知らないふりをしていたが、自分の車に運転手をつけて出してくれ、その運転手に黄海道まで送るように指示をするほど、

>私たち家族が南に行くことに積極的に協力してくれた。

母が言うように「エリート」だったからこそ、北に重農できなかった妻の姉とその家族に手を貸してくれたのだろう。

いずれにせよ私の記憶では、車から降りて野原でハイキングのまねをしたことだけが残っている。

 夜、船に乗って川の下流から海に出た記憶もある。みな、湿気の多い船の厚板にうつ伏せになっていなくてはならなかった。38度線の警備隊に見つかると大変なことになるので誰も大声を出せなかった。

>それでもあの時はまだ警戒が緩い方で、船には私たち家族のほかに、南北を行き来する商売人も乗っていた。

  W。開城避難民収容所には日本人引揚者の子供たちの墓がたくさんあった。

>それから学校のようなところに、たくさん人が集まっていた。そこは開城避難民収容所だった。私たち家族はそこに3,4日とどまっていたように思う。

@運動場の外の野山に小さな墓のような形をした赤土の塊が集まっていて、その前にはしおれた花を刺したサイダー瓶があった。

@当時満州朝鮮半島の北側から、大勢に日本人家族が帰国の途についていた。その長い道のりを経てきた日本人の子供たちは、風邪をひいたり疫痢にかかったりするとすぐ命を落としたという。山の赤土の塊は、その子供たちの墓だったのだ。

丁度分断が始まるころ、山河を超えてきた記憶は、そうした抒情的な情景とともに幼い私の頭の中に残った。 

 母は家族の越南位ついて政治的な色を消そうとして、父(W。満州でタイヤ製造事業の経営者、解放後妻の故郷平壌に移った。満州植民地事業の経営者の経歴は日本人支配者との密な関係によって成り立つ。平壌に居つけば不利になり越南の道を選ぶしかなかった。)の仕事を見つけるためにソウルに引っ越したのだといっていた。両親は貴金属の類やソウルにきて自律に役立ちそうな物品を取り揃えて持ってきたようだった。ソウルにつくとすぐに、父が店を開いたり家を整えたりと、何か始めるためにまとまった金を準備していたようだった。⇒W。難民になれる人となれない人の境目は金品の多寡ともいえる。満州時代の両親は日本の敗勢の情報を得て貴金属類に替えていたのか。日本円は紙くず同然。今の日本の現状、将来を予測すれば、富裕層の資産は海外資産に分割している、だろう。そもそも銀行の投資は海外利得に分散。

 W。ところが

ある日、少しの間に解の部屋を空けたすきに、そのカネはすっかりなくなってしまった。

当時結婚したばかりの家主の娘が、盗んでいったに違いないということだった。

植民地企業家だった父(満州でタイヤ製造会社経営)は、満州時代の生活を回復させようと死ぬまで努力したが根を抜かれたまま何もかも失ってしまった彼としては、再生するのに限界があった。

  W。私たちは難民だった。

長い間二人の姉と私は、母の影響のもと、ここは臨時の住まいに過ぎないと心の底で想いながら成長した。

いつかは故郷に戻らなければならないということだった。

私たちは長い間、難民だった。

 朝鮮戦争が起こり戦後の復興が長引き、軍事独裁時代がつづくあいだ、北から渡ってきたもの。

猫の額ほどの狭苦しい半島の南に位置する場所が故郷でありながら、農業を捨てて都市に殺到した離農民。

そして生活の基盤としてはここはふさわしくないと、海外に流れていった移民者。

冷戦がはじまり互いに異なる体制の国に住んでいるために二度と戻ることもできず会うこともできなくなった韓国人。

みな難民だった。

 

 母方の祖父はメソジスト派の牧師であり神学校で学生たちを教えた。

草創期の開化派のほとんどはそうだったように啓蒙的な民族主義者であり

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引用

明治維新などの影響を受けて1870年代に朝鮮宮廷内の青年貴族官僚両班を中心に形成され、日本と結んで朝鮮のからの自主独立近代化を目指した。1882年壬午事変以後、清と結ぶ保守的な事大党と対立。」

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平壌で医学専門学校と高等普通学校の設立を主導する日度の有力者だった。牧師がどうして医学校を作ったのかと聞いたところ、母は「あの頃は病院も少なかったし病気になっても治療を受けらず亡くなる人が多かった」からだ、と誇らしげな感情と恨みがましい思いを交えて答えた。

 祖父は3,1独立運動平壌での主導者の一人だったので獄に入れられ、

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「1919年3月1日日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動

朝鮮キリスト教仏教天道教の各宗教指導者ら33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。

現在の大韓民国(韓国)では肯定的に評価され、3月1日を「三一節3·1절)」として政府が国家の祝日に指定しており、同日には現職大統領が出席して演説を行う記念式典が開催されるなどしている。」

吉野作造は『中央公論』などに朝鮮総督府の失政を糾弾し、朝鮮の人々に政治的自由を与え、同化政策を放棄せよとの主張を発表した。また孫文との交友で知られる宮崎滔天は運動を「見上げたる行動」と評価し、朝鮮の人々の自由と権利を尊重し、いずれは独立を承認すべきと述べている。この他石橋湛山柳宗悦なども運動への理解を表明している。」

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その後、

神社参拝反対運動によってふたたび投獄されて通算7年の獄中暮らしをした。

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植民地朝鮮における総督府の宗教政策 - CORE

引用

一九一一年の寺内総督暗殺未遂事件と称された「一〇五人事件」によって、総
督府がキリスト教を弾圧していることが欧米に伝えられたため、日本政府は、キリスト教弾圧という印象を払拭するために一九一二年、内務省主導の「三教会同」を開催した。

一九一五年総督府は「一方的な抑圧策だけではなく、日本のキリスト教団体を支援して朝鮮のキリスト教を牽制するという
懐柔策をも取り入れるようになったことを明らかにした。 

具体的には、一九三〇年代朝鮮農村社会の解体が深刻な問題になり、朝鮮人口の八割以上を占める農民層の離村が急増農民は主に「北鮮」・「満州」・「内地」などへ移住した。⇒W。農村地帯南部よりも工業もある先進地北部に離農民への吸収力があった。日本の植民地経営の残した施設も北に集中していた朝鮮北部⇔満州ルートの経済ライン。ある意味、ソウルの地図上の位置も北部のようなもの。

朝鮮戦争勃発前の南北事情を知るためにココは重要。北朝鮮軍の南進の動機は第二次世界大戦後の東西冷戦体制、東アジアのパワーバランスからだけでは推測できない。

であるなら余計に<南進は間違いだった>とする。

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このような状況下、総督府は、民衆の日常生活とかかわっていた非公認宗教海外からの危険思想流入の通路になることを防ぐため、その実態の把握に着手した。

非公認宗教の教義における革命性を問題にして非公認宗教の分裂・抑圧を強化するために用いられた。⇒W。ある意味、当時の特高警察的嗅覚は今日の統一教会問題に通じる。

>第五章では、日中戦争勃発後に行われた宗教政策として総督府が植民地朝鮮に神社を積極的に導入・拡大していく過程を追究した。⇒W。中国大陸と敵対関係になると、日本政治の選択肢が狭まり、イデオロギー的に硬直化する。コレは地政学的な必然性だ! 

 

具体的には、一九二五年の朝鮮神宮の設立(W。狂っている!)から始まる神社施設につき、日本敗戦までのその後の神社政策を追求した。

朝鮮での本格的な神社導入は南次郎総督期に始まる。

当初、総督府は、日本国外の神社はあくまでも在外邦人のためのものであり、植民地の人々にはすぐに受け入れられないと判断していた。

しかし、日中戦争勃発後、総督府は神社規則を改正し、朝鮮における神社制度の基盤を形成、全国に神社増設を展開した

この時期、朝鮮軍陸軍特別志願兵制の導入のため、朝鮮における宗教状況を調査し、総督府の宗教政策に対する見直しを提起した。
その結果、総督府は神社規則を改正し、神社を本格的に導入・増設するようになった。神社増設に当たって総督府は、新羅百済と日本の交流をあらわす神話などを利用し、神社を通して祭神の代理者=総督による朝鮮統治を正当化していったのである。 ⇒W。稚拙、無知そのもの!存在論依拠の右翼思想に凝り固まると社会科学性が喪失し、周りが見えなくなる。右翼が政権を長く握る国は衰退する!これは格言。

―寺刹令による仏教懐柔、三教会同を境としてキリスト教への抑圧策から懐柔策への転換、儒林の懐柔、非公認宗教団体への抑圧強化、神社増設――を順次に考察した。

 

 この検討を通じて明らかになったのは、保護期から神社増設までの総督府の宗教政策が抑圧策と懐柔策とを用いた「複線的」「重層的」なものであったことである。

統監府の対宗教(仏教)放任・懐柔策から、併合後には諸宗教(非公認宗教を含む)への抑圧策に移行し、これに懐柔策が並行していたのである。

こうした仏教、キリスト教儒教および儒林、非公認宗教に対する総督府の政策は総督府への協力者を獲得するためのもので、懐柔が必要とされたのである。

 

日本固有の神社については在留日本人にのみ関係するものとされ、

総督府が神社信仰を植民地民に本格的に強制するのは一九三六年の神社規則の改正後のことであった。⇒W.1936年2,26事態。

                      引用終わり

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「そのために暮らし向きが悪くなり、

専門学校に進学し日本に留学していた母は帰郷しなければならなかったからだ。そのころ仲人を通じて結婚話が舞い込み父と会うことになった。

 

 は三代続きの中農の一人息子。寡黙な人なので自分自身に関する話を直接聞いた覚えがない。⇒W。満州植民地戦略企業(タイヤ製造)の経営者であった。

~~若い時、相次いで両親を亡くし、姉の婚家であ延安、白氏の下で暗い青春時代を送った。義兄の白氏は堅実な人ではなくかけ事に手を出してしまい、代々受け継いできた土地を少しづつ売り払うようになった。

>父はある夜、他の人が寝静まるのを待って、今の文箱に入れてあった土地の権利書を持って逃走した。⇒W。盗んだものが盗まれた。

それから平壌に行き土地を整理したカネで何年か学校に通ったが、カネが底をついたので20歳の頃、無一文のまま満州に渡った。⇒W。窃盗、詐欺である。裁判に訴えると当時、どうなったのか?

W。植民地時代の朝鮮半島の(地方)土地権利関係は日本の法律でどこまで保護されていたのか、怪しい。知っていつ限り、地方では土地所有が法的にあいまいになっていたところがあり、日本の民法に登記しなおす必要があったが、無知と過去の両班時代の土地所有にあいまいな風習から放置状態でその間隙をついて日本人所有地になった事例が多い。

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>そこで日本人の経営する工場に入り、「旋盤の仕事や自動車のエンジンを外して組み立てる仕事をしたあと、独立して店を開いた。

@最初は今でい云うカーセンターのような小さな自動車整備所だったがやがてタイヤを作る大きな会社に成長した。⇒W。当時日本本土のガラス工場などの工場作業は過酷な環境であり、朝鮮人労働者を多数使っていた。タイヤ製造工場の現場作業も過酷(天然ゴムの塊を鋳型に入れる過酷劣悪環境の作業だとおもう)。日本人労働者は就労忌避するので中国人や朝鮮人労働者が主体だった、とおもう。

ファンソギョンの父は北支配地では終生不利な立場に追いこまれたままだった、その意味で越南は正しい判断。