獄中の石川議員小沢事務所の2名を応援するため記事を連載しています。
東京地検特捜のやっているのは用意周到な政治弾圧を本質とするものである。だから予め、事件全体の筋書きが想定されており、その線にそって証拠や供述が得られるような方向で捜査は進展してきている。当然、捜査の政治的目的はハッキリしている。
小沢氏の政治的影響力を失墜させ民主党から小沢路線を排除することである。
民主党が国民の多くの願いを実際に受け止め自民党に代わる政党の布陣を敷くことができるようになったのは他でもない小沢一郎氏が代表に就任してからである。
それまでの民主党は黄色い嘴をした輩のピーチクパーチクが先行することが多く、実際に自民党と対抗できる政党ではなかった。
特捜が小沢周辺を猟犬のように嗅ぎまわり、案件を見つけ出したのは昨年の西松建設、大久保秘書逮捕以来である。この事件は裁判の内容を見て行くと特捜の当初、描いた筋書きどうりの証拠、供述が得られず、事件に広がりを持たすことができず、最悪の結果として、夏の衆院選において小沢氏の陣頭指揮のもと民主党が圧勝し、自民党が少数野党に転落してしまった。
国民は特捜の目論みによりも自分たちの地に足の着いた生活と意見を大切にして自民党を拒否した。
政権に就いた民主党に昨年大した成果を上げられなかった特捜は再度襲いかかっている。
どうして特捜の突出が可能なのか?
権益が侵されそうになっている利権癒着勢力にとって最大の武器か地検特捜である。
官僚の中枢、財務官僚ができるのは順法的サボタージュや政治家籠絡だけである。官僚はしょせん超高級事務屋にすぎない。自衛隊が反乱すれば本物のクーデターである。
合法的に反乱して打撃を与えることができるのは特捜しかない。この組織は任意捜査権、逮捕権、取り調べ権、訴追権を有し、言わば公安警察の機能と検察の機能を併せ持つ、日本で唯一の組織である。
先進諸外国に地検特捜の様な特殊権限をゆする組織があるのか?
アメリカなどは各地方の検事のトップは住民の選択権が担保されているだろう。治外法権の様な権力組織が存在していれば当然、仕事として権力行使が行われるが、その場合、住民の監視が具体的権限として担保されていなくては常に当該組織が暴走し、住民の権利を浸食する恐れが想定される
だからチェック機能が必要なのである。そうでなければ民主主義が侵害され一部機能停止になる。官許の民主主義になってしまう。
繰り返し指摘しているように地検特捜はGHQの肝いりで戦後混乱期の不正物資隠匿に迅速に対処するため設立されたものである。警察機能と検察機能を併せ持つ機関が存在しなけれ戦後混乱に迅速果敢に対応できなかった。その際GHQが国民の監視機能を担保しなかったのは占領者として当然のことである。
以上から地検特捜は本来であればとっくの昔に解体再編されていなければならない組織である。
それが今までできなかったのは日本人が戦後一貫して経済活動を最優先して民主主義を抽象的な憲法論議の枠内に押しとどめ具体的な諸法律論議に深められなかったからだ。
こうした領域の問題は専門家や法的不備によって被害を受けた者の間では問題視されてきたが一般の国民的論議にはならなかった。ここでは立ちいる時間はないが日本の司法には民主主義ではない部分がたくさんある。
今地検特捜がやっていることは自分たちの時代遅れな国民のチェックのない特殊権限を利用し利権癒着勢力の新政権誕生によって侵されそうになっている既得権を擁護していること、これである。
この政治的本質故に今回の特捜の小沢攻撃は必ず起訴に至るしか出口はない。彼らにここで引き下がる選択肢はあり得ない。逮捕さえあり得るのではないか。これが日本の民主主義の現状である。官許の民主主義だ。
最後に。
いわゆる金権政治批判に応えておきたい。
1)戦前の出口なしの長期不況下、金権政治批判が蔓延し、結局、官僚と軍部の台頭、政党政治の衰退に至った事実がある。これを主導したのはマスコミであった。狭い政治が日本を選択肢のない立場に追い込んでいった。
今目の前にあるのは、形は違うが同じ事態の進行と考える。金権批判の果てに狭量な政治が台頭すれば国益、国民益は損なわれる。そして国民生活は打撃を受ける。自由な言論も制限される。
2)国家政治家の政治生活に国民の日常的生活で得られた常識的倫理観を直接当てはめ裁断するのは分かり易い論理ではあるが誤りである。関連はあるが区別もしなければならない。
アメリカでは先ごろ企業団体献金の制約が最高裁判事多数によって解除された。
ロビー活動も活発である。
こうした国と付き合っていくために日本の政治家が狭量な政治にとらわれていていいのか、という疑問がある。ダイナミックな世界情勢の進展が予想される中、小さな政治をやっていると日本は簡単に飲み込まれてしまうだろう。
3)いついかなる時も、適応できる絶対論理としての政治とカネに対する庶民的常識論は特定の状況下では落とし穴にはまる論理であることにきずかなくてはならない。
小泉政治は多くの庶民が支持したが、結果として支持した多くの庶民に災いをもたらした。
小泉の登場時点で拍手したり引きつけられたりした人々は今回の事態でも自分の政治判断が誤っているのではないかと自分を疑ってみることが必要である。
国民の多数の判断が正しいとは限らない、と疑うことができるのも民主主義のいいところである。
4)これからは大きな物語の始まる時代である。潜在的経済力を持つ新興国の台頭で日本にとって世界情勢は今後厳しい局面の連続が予想される。
日本政治には大きな物語が必要と考えるが、小さな物語では足元の問題さえ解決できないだろう。今回の事態もマスコミ宣伝は大きな物語の進行を助けるために庶民を小さな物語にくぎ付けにしている。特捜の情報をそのまま垂れ流しているとそうなるしかない。
5)自民党の政権時代のマスコミの報じるスキャンダル的情報に無批判的に追従しておいて立場が逆転したらマスコミ批判をする。こんな得手勝手な立場をとったことはない。個々の事例はいちいち挙げない。立場は一貫している。権力さん、マスコミさん、その力を持って誰それさんをもっとやっつけて下さい、なんていう心根を一貫して嫌悪してきた。
よってテレビ、新聞は相手にしない。彼らはもう一線越えて行きつくところまで行ってしまっている。この現象は日本だけでないと考える。
一言でいえば金融資本の寡頭支配が強まれば一部の者に富と権力が集中するが、彼らはこの実態を見えなくするためにマスコミ宣伝を利用して庶民の頭の中まで支配する。
昔大橋巨泉氏が言っていたな。
嫌なりゃ見なきゃいいだろ!選択権は我々にある。