ブログを毎日更新して言えることは身辺雑記風の文章を書くのは全く楽な作業であるということ。それに比べたら政治や経済の話題は手間がかかる。事実をそのまま書くのは簡単。でも政治や経済の話題は知識ばかりでなく創造力がいる。また思ったままを感情的に書き連ねるわけにはいかず、客観性に基ずく必要もある。
ブログランキングをみると、ニュージーランドまでいって気ままな生活をしている女性の身辺雑記の様なものがランキング一位になっているようだが、あれなんか何処が面白くて皆にアクセスされるのか当方には理解しかねる。ああいう身辺雑記は書くのに苦労はいらない。ああいう志の感じられない日記風の文章が読まれるということは、精神の退化現象。
その点、中身の考え方に対する意見を異にする事が多くても「きっこのブログ」のきっこさんには志と使命感がある。
あの手の文章を日々連発するということは、結構な労力のいるものなのである。彼女のそれなりの使命感、苦労は理解しているつもりである。
結果、いま右腕の神経が麻痺する事態に至っているようだ。
彼女のヘアメイクの仕事は多分、結婚式なんかのヘアメイクの様で大変な仕事である。
式を挙げる側にとって、一生涯のハレの日である。その主役と言っていい、新婦を演出する仕事は、街の美容院の仕事にはない、プラスアルファな緊張が強いられると思う。
そこに持ってきて、ブログである。
とにかく、なんとか快方に向かわれるように祈念している。
ずっと以前から、世の中の仕組みそのものが、まっとうな人間に恵まれないようにできている。
私利私欲オンリーである事を正当化する論理が世間の全ての事象の底流に流れている。
この世がダーウィンの様な適者生存の世界なら、人間は人間である必要はない。
強いものが勝ち弱い者が滅びる、これが人々の考えの根底にあれば、万人が万人に対する競争を仕掛ける社会になろう。こんな世の中が閉塞感に満ち溢れ、生き難くなっているのは当たり前である。
この世界が素晴らしいのはごく一部の人間にとってだけではないか。
リカドーやアダムスミスの経済学が見直され、経済学の基礎に据えられているようでは、いくら経済対策を繰り返しても、無駄骨に終わって、矛盾を深めるだけである。
国会議員の歳費日割り、なんて基本的にどうでもいい、重箱の隅のそのまた隅の、ミクロ的問題である。
今般、参議院議員59人が法案成立が間に合わなくて自主返納したらしいが、その総額が4800何円であるという。
で、そのカネをどうする?今緊急に困っている方にカンパするのなら、話は解るが、金庫に収められるだけ。ならば、4800万円歳費返納は単なるアッピールにすぎない。
情けない。しかし、この情けないは、国会議員にこんな粗末な事に腐心させる国民が「情けない」のである。
国会議員の本線の仕事はもっと違う事だ。あえて言えば、国会議員の活動にカネをけちる状態に今の日本はない。世界に目を向けるとは何も為替相場や世界の株の値動きばかりでない。世界情勢から日本の今を考えなければないのに国民の意識はそこに向かうベクトルよりも内に向かうベクトルが強すぎる。
だから、情けないの主語は国民であり、そうさせられている国会議員ではない。ここのところを間違いのなき様。
国会議員は今や人気商売であるとは、ある民主党議員の発言である。こんな立場に国会議員を追い込んでいるのは日本国民である。
もっといえば、張本人はマスコミである。
マスコミ政治はなにも大して根本的に考えずに、効いている分にには耳触りはいいかもしれないが、そういいう政治は民族を世界政治の中で窮地に陥らせてきた過去がある。
後進地でマスコミの力に対する免疫力は劣っていたし、マスコミの中にその使命に対する自覚はなかった。
今日本で、この点に関する危惧がある。岐路に立たされて伊r子は間違いない。マスコミに自覚を求めてもはじまらない。国民がなす込み裁断しなければならない、決定的時期に差し掛かっている。
今の国会議員の多くの身分は実に不安定。組織や団体を背景にのし上がってきたものは議員を止めてもそれなりの身分保障はあるが、個人としての能力で組織政党でない党に所属して活躍している議員の足元に何の身分保障もない。この現実があるから、世襲やカネ持ち議員ばかりが幅を利かせる。
キャリアに自信のある議員はというと、一般人とかけ離れた何か歪な大風呂敷を広げる様な異常人格が議員を目指すことになる。
これでは国会議員の質が低下して当たり前であり、日本は世界に向けて成り立っていかない。
以上の様な現実を踏まえるならば、国会議員たちに重箱の隅を絶えず、気にさせる様な風潮がマスコミや団体組織政党にによって主導されているのは決して国民のためにはならない。
よく外国を例に挙げて云々するが、政治風土が違う。
先進国は日本のように企業オンリー社会ではない。政党活動も地域に根をおろしているし、様々な活動でも生活できる。
企業活動や官僚生活で接する人はしょせん、限られているし、その活動の背景には組織が常にバックアップしている。個人が社会に直接さらされ、判断をし、結果を問われることは少ない。それにその活動を推進する根本はカネもうけであったり、組織の論理である。
そういう所からは真の政治家は育たない。
官僚生活や企業活動の中でしか政治家の選抜し捨て身のない日本では今の国会議員の様な不安定な職業に優秀な人材が集まるわけがない。
だから、歳費日割りなんていう、薄っぺらな、どうでもいい事に国会議員の勢力を向かわせるのは、大きく言えば、良い事ではない。
なお、追加経済対策も同様。
今の世界経済は政府レベルの緊急対策でどうこうなる次元の問題ではない。
G8なんかを超えた主要国の首脳が歩調を合わせて対策を立てても、どうなるものでもない、それほどの地殻変動がいま世界経済に発生している。
日本はこれからその環境の中で政治的経済的資源を有効活用していこうとすれば、一種の「社会主義」を敢行していくしかない。
もうつまらん政争を繰り広げている場合でない。政治が安定してやっと何とかなる、こういう次元に今の日本は置かれている。
ただその場合、政治的自由は担保されなければならない。
マスコミは大罪を犯している最中である。
一時間も専門家が語りつくし説明しつくさなければならない問題をたった数分で結論めいたことを国民に伝える。
だから、国民は根本的な問題にすぐ結論を抱く。
コンセンサスを形成するためには時間がいる。すぐ解決できない事も多い。
しかし、」マスコミは国民に待てとは言わず、結論と犯人捜しをする。
マスコミとそれに煽られた国民は天に唾をした。これが私なりの総括である。
もちろん、その前の自民党政権に対する対応にも同じ質を見る。
政治や経済に対する基本的な構えがまるっきりなっていない。
その結果、みんなの党のような一過性の何の政治基盤もない政党が力を得た。
そういう浮動的な政党の発生を政界激動期に繰り返し、見てきたし、その結末も熟知しているマスコミが彼らを政界の重要な位置に押し上げたのである。
当たりまえである。
政権は平時にはあらゆる階層の要求を調整する義務がある。
一部の人間に労苦をしわ寄せして、それでこの社会が成り立っていかない事は小泉竹中路線で明らかになったはず。
日本の様な大きな経済規模の改革は困難を極める。まして今の世界経済の地殻変動期である。
戦後的な財政政策の生きずまりもある。
でも、政府はカネのやり繰りで人を動かしてしいかなくてはならない。これを回避するのが独裁体制である。
民主主義は政府がカネを投資して、政治経済過程に関与していくことである。
ただその場合、これからの日本には効率が求められている。
そのシステムの選択も視野に入れてよいころではないか。