反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

小沢支持者のコアは雪だるまの芯。私は和らかな外部。共に支持者だが。

 課題の設定の仕方によって、解決の仕方は変わってくる。解決の仕方が解っていても、パワーが内面から湧いてこない場合もある。
 例えば、小沢一郎をこの時期に支持する必要は感じる。
 
 しかし、感じるという所が微妙なのだ。私にとってこの政治課題は強烈な課題とは成り難い。
自分自身の中でイデオロギー操作をした結果をブログ記事にまとめたが、抽象論にとどまってしまう限界性は意識していた。それ以上、踏み込んだ小沢支持を打ち出すのは無理筋だった。
 
 小沢さんを現状で支持しなければならない必然性は理解できるが、それはあくまで日本の民主主義の危機的現状を何とかしたいという想いからであって、小沢さんに今の日本の政治状況を私が考えるいい方向に変えていける政治内容があるとは思えない。少しの前進?それも怪しく思っている。偉そうなことを書いているが。
 
 たぶん、この認識は広い意味での小沢支持者の中に横たわる小沢さんの政治力に期待するモノとその気もちの薄いモノとの違いとなって「普遍化」していると思う。
 敢えて書いてしまうと、最初の小沢支持デモ主導者のその後、道の分かれは煎じ詰めれば、上記の様な認識の違いがあると考える。
 
 >>コアな小沢支持者がいる。それに近い人から順番に雪だるま式に重なっている。当然、外部は柔らか、コアの部分は堅い。
 私は柔らかな外部。中心部分には近寄れないが、支持者であることに間違いない。
 
 ただこういう問題がある。
 
坂道を転がって行く雪だるまの行き着くところ、途中の状態を私は非常に重視する。
 
 各政党の力関係、民主党の内部関係を具体的に余り考えない。
庶民がそういうところに関わりを持とうと努力をしても本当のところ、選挙、デモ、議員への圧力、ネット上の意見発表など限られている現状。
 
 例えは適切かどうか迷うが、政権周辺の政治関係は一種の宮廷政治的側面が強いと思う。
平野貞文さんの「小沢一郎の真実」を通読して感じた、まず一番の事はこれだった。
 この本の内容は自民党時代の小沢さんから書き起こしているので政権政党中枢の政治とはどういうモノかリアルに解って非常に参考になった。戦後長らく続いた自民党長期政権運用の実態は宮廷政治だった、と言って過言でない。
 
 要するに官僚、マスコミ幹部を含めた宮廷政治の中の力関係で実際の政治が運用されている。
 そもそも、議会事務局幹部の立場の平野さんが小沢さんのために動いている事自体、宮廷政治ここに極まれり、なのだ。であれば、官僚と自民党の密通ぶり、はもっと酷いとなる。
 
 平野貞文さんの小沢本は本人の小沢擁護の意図とは違って、そういう政治の生々しい実態を自白している様なものだ。
 余談だが、小沢熱烈支持者にはそういう本人たちの小沢さんへの熱い思い入れが、逆効果になっている場合がある。
 
 さらに、以前よく引用していた、大森実の「戦後史」には敗戦後から憲法ができるまでの経緯の中でいかに宮廷政治がまかり通っていたかリアルに描かれている。もちろん、天皇も関わっているのだから、本物の宮廷政治という事ができる。国民不在の政治とは大森さんのホンの副題だがまさにその通り。
 
 ところが、大森さんは国民参加のない政治の象徴に汚職、疑獄事件を取り上げているが、これはマスコミ、ジャーナリストの本性が現れたものと受け取った。
 
 つまり、国民不在の政治を払しょくしなければならないはずの、国民の政治参加はしょせん、汚職、疑獄事件のマスコミ報道に唱和する程度なのだと。「知性と教養」のマスコミがその程度なのか日本人の政治意識がその程度なのか?
 
 政治参加の手段を本当のところ持たない庶民が政局に推移に伴って、ワァ~ワァ~語っても政局は勝手に動く宮廷的政治的狭さ、独自の政治力学を持っている。
 
 で、ここまでの程度しか描けない自分も同じようなモノ。
本当は、庶民政治参加の突破口を書かなくてはならなかった。これがオリジナリティのはず。
でも、正直言えば、その力量がない。ただ、古今東西、識者たちにとっても悩ましいのが大衆社会だ。
 
 問題の設定をこうしたら、自分のこれまでの思想の範疇を越えなければならないので苦労する。これまでの様な稚拙な蓄積した狭い知識や経験は通用しない。同工異曲の記事のオンパレードなのは解っていたが、現状ではどうしようもなかった。
 
 ウィリアム、コーンハウザーというカリフォルニア大学バークレー校の教授が1959年に発表した「大衆社会の政治」。ネットで調べたところ一番、普遍性がある。ただし、絶版。
 
 しかし、社会学には昔から疑問があった。現状を変えていく動因が分析の中に内在していない。この欠点があるから、結局、経済合理主義の克服はできない。従って、資本動向の追認に終わる。現状の合理的肯定。
 
 昔マルクスレーニンを重視したのは彼らは世界を変えていく変革主体を明らかにし、その歴史的能動性を明確にした点だった。
 世の中が解ったような気になっていても、現状の中に常に過去、未来が動態的に内在しているのだから、複雑な全容は理解できない。ハプニングの要素も強い。できるとしたら神しかない。しかし、変革主体が変えることはできる。
 
 今現在の大衆社会で国家と個人の間に存在する中間組織の弱体化によって個人が浮遊しアトム化して政治経済の危機の中に剥き出しに晒され、情緒的になって宣伝扇動に載せられ易くなっている、との共通認識が多くの識者にある。小沢支持者のマスコミ批判もその一部だろう。
 
 で、中間組織を再建しなければならないとの認識も共通している。
ただし、この認識は日本の識者に強烈で、エマニュエル、トッドは共通認識から、賃上げ需要を確保するための保護貿易の提唱となる。このまま自由貿易をやっていたら先進国からの資本流失は止まらず、賃下げ傾向からデフレ基調は修正できないと考えている。
 
 個人主義、アトム化の最先端を行くフランスのトッドは大きな枠組みの政策提言になる。
 
 日本の識者の場合は中間組織の再建にこだわる。つまり集団重視の日本人の特性が出ている。この流れの中で一番、一見、現実味を帯びてくるのが地域主権、これまでの中央地方との関係の見直しとなる。
 
 だが、直感では、全部違うと思う。特に後者は市場原理主義の亜流だと思う。そういう改革はもっと以前にやっておくべきことで、この経済危機の時代には資本の力が強くなって対効力の力が弱くなっているので地域主権は結局、強欲資本、地域ボスたちの草刈り場となってしまうのではないか。
 
 こういう角度からの小沢さんに対する懸念もある。理論の中身を詰めていかないと地方云々する市場原理主義の後押しななってしまう危険性もある。