一大衆娯楽小説家に学者や政治家を求めてはならなことは解っている。
読まないで、見ないで批判している理不尽は確かにある。他の方面での彼の仕事もあることも承知している。
しかし、それらをひっくるめて関心がなかった。低級とみなしてきた。
そもそも司馬遼太郎なる人物そのものに疑問を持っている。
私は大阪の人なので彼の生家周辺、住居周辺に詳しい。
東大阪市小坂の住居も偶然通りがかって知っている。まだ彼の生前である。
物凄く違和感を覚えた。
その住居を見た時、オイオイ、これは何だよ、と思った。
周囲の高い塀にまるで西部劇の砦さながらの様な侵入防止の剣を埋め込んでいる異様さだった。よく平気であんな所に住めるな、と思わず、うなった。周囲を完全に拒絶している。
関西では数少ない文化人言論人として何かと世間の荒波を受ける存在とは理解できるが、それならばそれで阪神間に住むところはいくらでもある。
それはそれでいいのだが、平気でああいう所に住まう彼の神経もある程度理解できる。
断ってある様に小説家としての感性を疑っているのであって、一人間として普通の感覚だと思う。
彼の育った地域は大阪でも、そういう周囲警戒拒絶型の個人住宅、事務所が目立つ地域である。見慣れたモノには当たり前でも、なれないモノにとって違和感がある。
彼は生粋の大阪人であり、その感性を基盤に作品を構想し、書いてきた。そういうことである。
大阪は町人の街だった。しかもコメ相場の様な全国的な市場を中心とする商売が発展してきた。これが核にある
そこに明治以来の急速産業化の波が押し寄せてきた。大阪、阪神間は戦前まで日本NO1の工業地帯だった。
沿岸部に大工場地帯、内陸部には中小企業がひしめいていた。狭い範囲の大阪旧市街の周辺は後からできた中小企業の産業地帯が取り巻いていており、そこに働く者たちの集住地帯がある。スラム街はそこらじゅうにあった。
さらには日本の植民地であった朝鮮半島からの安価な労働力が大量に動員され、その総人口の最盛期、敗戦前には府内で70万人にも達した。これは当時の釜山市の人口30万をはるかに上回る。
もちろん、それらの下層低賃金労働力を使ってカネ儲けする人たちや大企業に働く労働者、サラリーマン階層もいた。商売人も多い。
そういう諸々が混然一体となって、経済合理主義を基底に物事を見つめる目は大阪人の日常生活感覚として体質化さえしている。また個人主義的文化度も高い。
要するに、今現在の日本国民の間で主流となっている生活感、倫理観の核の様なものを代々の大阪人は体質化さえしている。
経済合理主義への徹底化、個人主義文化の方面では親や祖父の代からそういう感覚の積み重ね中で育ったモノと高度成長期以後そういう感覚に慣れ親しんだモノとは年季が違う。その意味で洗練もされ、その方面では文化度も高い。
司馬遼太郎が受け入れられる原因はこんなところにあるのではないか。
が、その司馬の全体像、また、今現在の日本人のあり方をどう評価するか。ここが問題だ。
司馬の書くモノには否定系がないのではないか。敢えて肯定系の題材を選別しているようだ。
そうしなければ、自分の作り上げた人物たちに感情移入して書きあげるパワーが生まれてこなかったのではないか。
が、ここでも、その程度にとどまっていていいのかという問題は出てくる。
少年近代国家明治を描きあげた司馬は晩年、ノモハン事件を取り上げようとして、膨大な資料を収集したというが、結局書くことを断念した。ノモハン事件は関東軍がソ連機甲師団にモンゴルで完全壊滅させられた事件である。昭和の軍国主義に批判点の多いにある司馬としてはノモハンの敗北がなぜ発生したのか、という切り口からリアルな軍部批判をやりたかったようだが、彼にはできなかったのである。
ここに彼の歴史小説家としての大きな限界がある。
本当の歴史小説は書けなかったのだ。
そういう彼の限界を解った上でNHKは今頃、原作ドラマを再放映しているのか、どうか怪しい。
この時期にああいうドラマを放映するのは国民をミスリードする文化犯罪行為である、と敢えて断言する。
時代の要請と場違いなドラマである。
勘違いする単純人間も出てくる。
複雑な時代基調を単純化してはならない。