反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

手の施しようのない段階に至った被災原発。50万避難民。数万行方不明死者。関東地方だけでなく全国に広がっている買いだめ。阿鼻叫喚の様相も。

 今回の甚大災害を受けて、突然、「日本国民の敗北」を云いだしたわけでない。政権交代前から、趣味などを書き連ねるつもりが、突如、政治ブログの様相になって体験や読書などから政治経済と向き合うようになって、行き着いた結論が「日本国民の敗北」だった。
 
 政権交代を望んで衆院選に無理をして民主党に1票を投じた。
比例は社民党に投じた。
 大阪比例候補、服部良一さんをどうしても当選させたかった。
私の様なものが民主党を支持することに相当な無理が生じる。
 民主党を支持することは、複雑な心境だった。
 
 イロイロな錯誤の結果、アキラメの境地に達し今に至っている。
デモには積極的に参加し、そこに集まる人たちを日本中で一番政治的に信頼するが、自分からは絶対主催する側に回らない、と決めている。
 
 代表に就任した小沢さんの政治姿勢に共感した。
政治の根本は権力闘争と考えていた。政権をまっしぐらに目指す姿勢、「国民の生活が第一」を掲げる政治センスに魅せられた。
 
 それまで民主党は眼中になかった。前原代表の偽メール事件の時もそういう事実があるのか、程度の認識しかなかった。
 周りには民主系列に連なるモノたちがいたが、裏切りモノと嫌悪していた。
 
 民主党結成を肯定的に報じるビラに抗議して、組合費の問題に言及すると、そこまで云うあんたは勝手にやってくれと云われた。
 
 オリジナル民主なんてとんでもない。あ~いうおしゃべりとは元々水と油の関係の様のモノ。
それは政治の本線ではなく、重箱の隅の方向だ。
 
今の民主党執行部の連中の顔をテレビで見ると虫唾が走る。すぐ切りかえることにしている。
 
 被災原発に関して記者会見をする枝野幸男官房長官の姿に嫌悪感を覚える。
 
 昔のテレビドラマ、孫悟空の「ハッカイ」とはよく揶揄したモノだ。
ブクブク肥え太って、非常時の作業服がまるっきり身についていない。頬、顎の肉がたるんで、腹を贅肉が撒いている。プレス台に向かう作業服姿がみっともない。世界の一流政治家にああいうのは見当たらない。
節制することも政治行為の一部との認識が現代にはある。
 あれじゃ、姿かたちだけなら麻生太郎以下的だ。
 
 一流政治家を自負すれば、美意識も必要。
 
 同じ言葉を発しても、凛としていなければ、効果が半減する。それくらいの自覚が政治家にはいる。
おしゃべりの政策問答で、いくら他を圧倒しても、政治の本道はそこにないということが、こういう激甚災害、非常事態の時にはっきりする。
 
 尖閣事件、小沢対抗シフトの党内政治、利権集団との一体化。全て、単なる政策レベルの問題をはるかに通り越した政治の本道の問題だ。
 
 政治センス、政治判断がクルッテイルから日本国の政治をどうしようもない方向に追いやってしまう。こういうときは薄っぺらな政策問答なんか吹っ飛んでしまう。そういうのは官僚でもできる。
 
 彼の会見は内容も姿も説得力がない。その時々の官僚的配慮で言葉を操っているだけだ。
 
被災原発の現場で発生している事態がその発言を裏切っている。
 
 木を見て森を見ていない。
 
非常時には最悪の事態を想定し、国民を説得できるのが政治の本道ではなかろうか?
 
 日本国民の側には教育程度と公共心も備わっているのに、それを信頼していない、できない、チンケな政治力しか持ち合わせていないので説得できないということがある。
 
  やっていることは尖閣事件の甚大災害版だ。真正面から政治責任を取りきって事態に向き合っていない。
小出し小手先の事実の垂れ流しに終始している。
 
 今回久しぶりテレビを視聴したが、キャスターの隣で雁首を並べている専門家を称するモノを含めたコメンテイターなどは何も云わないために言葉を発している類がほとんど。
 
 余計な不安感を募らせたらいけない、パニックを起こさせたらいけないという政治配慮ばかりが前面化している。
 
 >それなら、岩上安見サイトがアップしている原発圧力容器、格納容器の実際の設計者の記者会見をじっくり視聴するほうがよっぽど発生している事態の全体像が科学的に理解できる。
 事態は彼らの危ぐした通りに推移している。
 
日本国全体の教育程度は高い。科学的に諄々と説明すれば、ほとんどの方が理解できて、納得して冷静に行動できる。
 その結果の判断として、政府の勧告よりも広範囲に居住する人に危機感が走って、事態に備えようとする。しかし、それは事実を自分なりに判断しての結果だから仕方がない。個々人の行動、判断の自由だ。
 
 現状の政府の姿勢ではその判断材料も不十分である。
 
だから、被災者を筆頭に全国民に恐怖感と不安感が高まっていく一方である。
 
 管直人はもうどうでもいい。
一切見ないことにしている。政治的大罪を犯したモノがなに云おうと聞く耳を持たない。
 
 彼らは肝心要の所の政治判断がクルッテきたし現にクルッテいる。
 
勿論自民党も同類。小泉竹中以降のドタバタ劇。
日本国民の多くは忘れっぽいから、すでに忘却の彼方化しているようで、自民党政権時代に郷愁さえ覚える人も多くなっている。
 
 こういう日本人の日本列島原住民としてDNAに刷り込まれた因子は本人個々人が意識的に脱却を目指さなければ、ぬぐい去れないが、キビシイ。
 
 日本人を止められる人間はほんの一握りしかいない。
しかもそういう人に特権が集中して、己の利権を守るために意図的に自分たちに都合のいい日本や日本人像を国民に刷り込んでいる。
 日本人を止めた日本人が特権を守るために、自分たちの都合のいい日本と日本人像を煽る発信源となって、その盲目的追随者が蠢動している。 
明らかにここにパラドックスがある。
 
 列島に生きる、生活するということは、今現在の目の前にある東北関東大震災の様な天変地異の圧倒的力に繰り返し押しつぶされ、嘆き、やがてあきらめの境地を獲得し、時間に身を任せて再生してきた。
 
 その繰り返しだった。日本の文化、思想、精神性にそれらが深く刻まれるのは当たり前といえよう。
 
今回の激甚災害に遭遇して、「方丈記」の冒頭部分を思い浮かべた。記事にしようかと思ったが、こういう激甚災害後、即、訳知り顔で「方丈記」をつぶやくことはできないと思った。
 
 が、自分の中には、いつも無常感がある。
努力の結果、アキラメルと云うことも必要なときがある。執着心を捨てるためにはあきらめの境地を獲得するしかない。私の様な無知、無教養を自覚するモノはその程度の思考回路しか持ち合わせていない。
 
 方丈記は確かこうだったと思う。
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫はかつ消え、かつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と住処またかくのごとし」
 
 <<最後に付け加えると>>
買いだめに走るぐらいなら、酒断ちぐらいして被災者や原発現場の作業員と心を一つにしてはどうか?
あくまでも個人の自由が優先されるが。