阪神淡路大震災の被災地が大変なことになったのは、一体いつごろなのか?
歴史的昔の範疇に入れるには、その記憶は余りにもリアルで鮮明すぎる。
その時点で東京に住んでいた自分としては関西で発生した大災害に周囲があまりにも無関心なのに驚いた。
関西出身者の自分としては余計痛感した。
普通の人は何事もなく、日常生活に埋没した日々を送っていた。
今回、関西に帰ってきて、東の大震災、原発事故に遭遇している。
周囲の反応もあの時の東京の反応と大して違わないな、と感じた。
自分に直接、災難が降りかからなければ、所詮他人事。冷淡にこう言いきってよいのかどうか?
>が、あの時と今回では本質的に決定的に違っているところがある。この点について、考えてみる。
考えてみれば、直接災難の降りかかる、当事者以外はテレビ新聞、ラジオ、ネットなどの情報を通じてしかそれらを知ることができない。
と、いうことは情報の流し様、受けようによって、あるがままの大災難のリアル事態は変容させられる。
有る時点の一つの情報媒体が有るがままのリアルな事態を漏れなく、克明に伝える事など、ありえないからだ。
そこで賢明なモノは複数の媒体の流す情報を擦り合わせ、事態の全体像を浮かび上がらせるという手法によって、対象を客観的に把握しようとする。歴史学の研究でも、複数の資料を読み込んで、歴史的事実を確定している。
ところが、もうお解りのように、ほとんどの人の情報源であるマスコミが一斉に同じような報道を繰り返すと、受け手の側がどの様な反応が起こるかということだ。
>一つの事態への違う角度からの情報を総合して、全体像を組み立てるという面倒な作業がきれいさっぱり、省かれてしまう。ましてや、現状の様な小規模単位の労働生活場が普通になっている場合では集団的な情報の擦り合わせが希薄になり孤立した人間単位に同じような角度からのマスコミの情報がシャワーの様に降りかかる。
>これではもう、事態に対する一方向からの人間の頭脳に対する物理的な情報、イメージの強制だ。
ここで明らかに現場実態は変容されて頭脳に刷り込まれる。
解っているのに、当局の発表をなぞっているだけであり、当局は確実に情報操作をして、自己保身と国家と経済の救済優先で当該、関係地域の住民を蔑にしていた。
>この情報操作によって、もたらされた被害はやがて、時間が経つに従って、明らかになろう。
時間がたつに従って被害は縮小するのではなく、拡大するというのが、この未曾有の災難の特徴になってしまった。
>>>ただし、次の点は絶対に押さえておくべきだ。
人類にとってこんな事態は世界戦争以外遭遇していないはずだ。
>日本の相対的後退は避けられない。
>この様な事態へのリアル対応で有るべき整然とした対処など現実には有るわけがない。混乱混沌、失敗は避けられない。
戦前の日本支配層もやがて世界戦争を招くと想定して満州国成立に及んだわけがない。
真珠湾攻撃も窮鼠が猫をかむ状態だったが、最後は負けるとして、突撃したわけでもあるまい。
事が終わって、結果が分かれば、後から、結果解釈として合理的な説明はつく。
>ほぼ明らかになった結果の立場から混乱混沌、失敗をなで斬りにするのは都合のいい政治的立場と念頭に置く必要がある。
失敗で許されるべき範囲は許すべきだ。その余裕がなければ、失敗による失地点のフレキシブルな回復は容易に進まない。
予め有るべき完璧な対応、体制を知らず知らずのうちに想定し、その空理空論の理想的立場から、現実の混乱混沌、失敗を裁断していくと、あるべき政治体制として、必ず硬直的で統一的な政治体制を求めていく。
完全な体制構築への人的物的資源が日本に少ないという現実の考慮すべきだ。
私はあえて戦前を持ち出すことはしない。
>が、戦後を経ても日本人はそういう悪しき傾向を克服できているとは思わない。
高度経済成長以後の平和と成長、安定、成熟が日本国民多数に危機的事態に際しての昔の日本人の悪しき傾向を螺旋的に復活させている。
歴史のパラドックスである。
>よ~く考えてみると、敗戦直後の都市部の廃墟の混沌の中から、日本人はアナーキーに立ち上がったのであって、整然とした上からの号令で、復興の途に就いたのではない。
アナーキーな混沌のパワーの総和が復興を成し遂げさせた。
良いもも悪いも含めて、バラバラなアナーキーなエネルギーが発揮できる環境にあった。
GHQの軍事権力の絶対性は後ろに控えていたが、日本政府の統制力は今よりずっと低かった。
革命を現実のモノと想念する人が政治勢力として力を持っていた。
どうして日本に封建社会が可能だったかといえば、その前に応仁の乱から150年も国内戦争を続けていたからだ。この期間はは同時に生産力発展が急速に進行した時期でもあった。日本人は一方で戦争をしながら、他方でモノ作りに精を出していた。
その辺の事情は黒沢明監督の「7人の侍」に凝縮されて描かれている。
あの物語は農民の生産と侍、野武士の武力の物語である。最後にシーンに田に稲を植える百姓の群像が描かれているのは象徴的である。
>その状態からもたらされたパックス、トクガワーナは決して、アジア的専制官僚国家のような統一政体は望めなかった。
>日本は朝鮮、中国の様なアジア的官僚国家ではなかった事が近代国家建設に幸いした。
>要するに日本歴史上、歴史のダイナミズムを経ずして、日本人が危機的事態だからといって、急速にひと塊になった時は必ず、悪い結果しか出ていない。
世界の近代史を見ても、無理にひと塊になった民族は最後にドイツイタリア日本の様に戦争で負けている。
>>>6、11集会、デモ。
AM3、00に「キタ」の中の島の公園を出発したデモ隊の最後尾が御堂筋を南下し、解散地点の「ミナミ」の公園に到着した頃、すでに時刻は6時を指していた。
世界中で全国各地で同時に数多くの集会、講演会、デモが行われた。
ここ関西でも中の島の集会に全部集中していたのかと想っていたら、京都、神戸、各地に人々が集まった。
>この危機的事態に大いにバラバラになって、価値観の違いをエネルギーに変え、総和としてのパワーを発揮すべきである。民主主義の過程を省略すると、最後に泣くのは国民多数派である。
急がば回れ!これが長い目で見たら正しい。
「がんばれ日本」なんて安易な合言葉であると想う。
>日本ががんばれば、国家主義で事態に対応することになり、その政治体制は利害と絡まっているのだから、決して、それ以前には戻らない。
あえて言えば、震災を契機として頑張るのは日本国民一人ひとりであるが、普通に暮らし働くことが一番大切。
その意味で我関せずも悪いことでない。