反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

天災と人災が一挙に目の前の非常事態だからこそ、自分の意見を云いきる。これが大切。今まで欠けていたんじゃなかったか?

 平時にわぁ~わぁ~わぁ~あらん限りの言葉を尽くして罵っている癖に、一旦、戦時が到来するや、その勢いも何処へやら、ひと塊りの一員を指向する。
これじゃ国家的戦争事態になったら反対はできない。戦争反対の中身の問題だ。平時のおしゃべりの範囲なら戦争反対は比較的容易いんじゃないかな。
 これは普遍的問題だと思うが。
 ここが社民主義者と終生「政治と暴力」をテーマにしているモノとの分かれ目かな、と。
自分の考えの基本は一切変えるつもりはない!
 
 こういう時、キチンとイロイロな意見を云える、国民が自由と人権を獲得してきた。
みんな一塊になり過ぎた国民が最後の最後に不幸をしょい込んだ。
 
 戦前でいえば、ドイツ、イタリア、日本だ。
が、イタリアやドイツは反省し手立てを打っている。それが制度としても政策としてもある程度、内外で確立し、一定の国民的合意に達している。EU結成がその国際的成果である。
 
 所が日本にそれが欠けている。
今や社会の実情はアングロサクソンユダヤ移民国家並みであり、周辺の国々とすべて国境紛争を抱えている
云い訳はあるが、恥ずべき事態であると考える。そこに被災原発を含めた激甚災害が襲来している。
 
 過去の事態を振り返るために必要な客観条件がなかった、と云えばそれまでだが、やりきれなかった面も強くある。誤魔化してきた面がある。形式に流れてきた面がある。
 
 (こういう面で今日一番思想的破綻の醜い象徴が朝日新聞だ。アメリカ隷属、日本国憲法擁護は過去の時代はワンセットでキレイごとに終始し、やり過ごすことができたが、世界の多極化で本当の姿がアカラサマニなった
 新帝国主義の時代。
日本帝国主義が独自の権益を主張しなければ、多数派自国民の生活を保証できなくなった時、形式的憲法擁護はアメリカ隷属をあらわにせざる得なかった。国防中枢はアメリカさんにお任せしますと。
 
 ところが、アメリカの事情、世界の事情がまるっきり変わってきている。お任せるるためには過大なお任せ料が必要となってきた。誰がそれを支払うのか?朝日新聞の様な利権特権層ではない。
 
 多数派国民の汗を流して得たその果実がアメリカ金融資本らに持っていかれる。
 何しろGDPの3分の1に及ぶ金融大国アメリカである。
日本国民の生みだした果実を収穫する術にたけている。
 
 今現在でも日本からマイナス資金流失の4割がアメリカである。
かすめ取る術はほかにいくらでもある。もはや現状のアメリカにとって素直にカネモノを融通してもらえる相手は世界中で日本しかいない。
 その日本がこんな激甚災害に見舞われ、内需シフトに需要が生まれ、挙句、日本経済に地盤沈下が急速に進行し、アメリカの予定に狂いが生じてきたのは間違いない)
 
 その付けが冷戦体制崩壊後の短期間のアメリカ一極支配の急速な終焉によって日本と日本国民の頭上に覆いかぶさってきている。
 有権者多数は政権交代を望んだが、残念ながら、大きく見ると、政権交代が次の悪い政治のステップボード化してしまった。
 これがありのままの現実である。
 
私に限れば、ただ一つの光明は昨年から続いている市民から湧きおこっているデモの連続である。
この立場から、それ以外の政治場面で何があっても驚かない。敢えて言えば勝手にやってくれと!
 
 そこに突然、激甚天災、人災が襲いかかった。
 天災と人災の幾重にも折り重なった、今回の激甚災害も一種の戦争事態の様なものと受け止めている。
こういう時の人と人との大切な関係は一番大事。
が、間違いがあると強く思ったら、指摘しなければならない。
 
 世界は余りにも大きすぎる、広すぎる。
もうこうなったら、やれることに限りがある。やることをやって、天に任すしかない。
ただし、厳密な想定はいる。災害原発への今後の推移、影響、被災状況の回復、今後の経済プランの練り直しなどなど。
 
 できるだけ「生活が第一の国民」の声を反映させなければならない。
そうしなければ、奴らはこれを奇貨として、自分たちの政治方向を強引に推し進める。
 
 もうこうなったら、みんなで力を合わせて、なんて政治方向で掛け声を大きくして、自分たちの利権に都合のいい政治を推し進める。
 
 戦前、1923年首都東京を襲った激甚災害関東大震災はそのたった9年後の満州国設立、国際連盟脱退、日本の世界からの孤立化の巨大な一里塚になった。軍部台頭で統治機構も変わって云ったが、経済停滞の中で人心も悪い方向に一塊りになって云った。
 
関東大震災をただの激甚災害とする歴史記述は何処にもないはずだ。
 
 今回の激甚災害。ちょうど日本と日本人の歴史の大きな曲がり角において発生している。
だから気をつけなければ、統治機構と人心がこれを機会に一変する可能性を秘めている。
 
勿論、歴史に同じことの繰り返しはない。
が、発展的に同じような事態が繰り返される。資本主義とその発展段階の帝国主義=高度発展した金融資本主義という経済下部構造が存在する限り、この法則的事態の再現は避けられない、と考える。
 
ファシズムではない、一部特権者への富と権力の集中したあらゆる方面での格差拡大社会の出現が今現在に内包されている。
 
>当事者、準当事者、準々当事者、ほとんど関係のない人々、日本以外の世界。
 
 各々立場立場によって事態の見える風景が違う、と云うのが本当のところだ。
事態に対する見方、当面の感想、行動も立場によって違ってきて当然だ。
 
>生活必需品を家庭や個人が買い漁る。逃げる自由は多いにある。
その気持ちは否定はしない。情報を個々人が解釈し、自分で行動は決定する。
あからさまな極庶民レベルのリスク回避行動である。
また人もある意味、動物としての自己保存本能がある。
 
が、今回の甚大災害にほとんど関係のない方々が生活必需品を買いあさっているのは、どう云うことか。
 
 1970年代のトイレットペーパーなど生活必需品買い漁った状況と今回では全く条件が違う。
敗戦直後の国破れての経済、人心混乱時代に都市被災民が闇物資に殺到した時代とも全く違う。
 日本内外に物資の生産能力は厳然としてあり、日本企業にカネがないわけでもなく、一定の需給のタイムラグが今現在あるだけだ。
 
 これを踏まえて、今回は多大な命、健康、経済と国の将来がかかっている事態との認識はあるのかないのか。
 
そういうことをやっても、のど元過ぎれば何とやら、時間とともに忘却の彼方。
人間は忘れるようにできている。特に天変地異の真っただ中の日本人は有史以来、忘れなければやってこれなかった。
忘却と再生の名人ともいえる。
 現状の関係のない人たちのその種の行為は連綿と続いてきた日本原住民のアカラサマな素顔の露呈とみなしてよい。
 
 私の様なひねくれ者はそういう日本人の所業をジット見据えて論を立ててきた。
 
論はそういう人たちを念頭において立てているが、実生活では相手にしないのが、一番賢明な対処方法。関係のない人と一切政治の会話なし、を処世術にしてきた。それが相手の否定とイコールでない。
 
 政治家のみなさんは商売だから、そういう方々の票が当選を左右するので取り分け相手にしなければならない。
 
 巷では知り合いの三流芸人を呼んで催し開いたり、ママさんバレーボール、温泉地への招待とありとあらゆる手練手管を使って関心をつなぎとめなければならない。
企業団体選挙、宗教、政治組織動員なんてのものもある。
 
 ご苦労さんと言いたい。
 
 ある種の利得が伴わなかったら、とてもじゃないが長年やっていくには割に合わない商売である。
 
>最後に昨日同じようにこの際、断酒を勧める。
よっぽど自分のためになる。カネ、健康に良い。