世界中どこの国民も危機感にかられると情緒的になる。
イランにはブッシュらがいう大量破壊兵器は何処にもなかった。
(なお、米軍の軍事進攻が発動されるまで至るイラク国内の経済制裁によって病院などの現場で物資が不足し、ジリジリとイラク包囲網が狭められている生の情報をオーストラリア人ジャーナリスト本で読んだが、あの状況は明らかに侵略戦争発動の地ならしをする準備行動である)
今回の東日本大災害。その重大な一部の福島原発人災の衝撃度はニューヨーク9、11事態どころでない。
日本人は自分に向かってにテロ行為を働いたようなモノだ。
毅然とした態度とはどのようなモノかキチンと考えなければならない。
自粛ムードを煽ってよい結果が得られるわけがない。
突如のリーダーシップを政治指導者に求めてもお門違いの方向に持っていかれるだけである。
日本の戦後史の歩みは邪道だった。
その巨大な附けは原発人災という解決のめどさえ立たない事態になって立ち現われている。
そもそも、まともな指導者がいたら立地全く不敵な日本列島に原発を林立させるわけがない。
政治指導者が言葉に頼って人を操るのは古い統治形態である。
明晰な今現在未来への判断力、政策が肝心な要である。
石原のやってきたことは日本における政治経済の東京一極集中の利点に乗っかって、言葉で人を操つる政治を行ってきただけである。その政治は自民党時代には通用しなかったから中央から引退せざる得なかったのだ。
そのまんま東はいつ、どう云う動機で宮崎知事を途中でやめたのか、マスコミ情報に全く不案内なモノとしてはまったく知らない。
が、知らないから、単純に政治的軌跡で判断できる。
宮崎県知事の任を途中で放棄し、今回、都知事選に立候補し、1600万票を獲得するなんて狂気の沙汰としか思えない。
地球プレートが直近で相互交差し、大陸性気候と海洋性気候の交差する列島の、天変地異の激しさは世界唯一のモノだろう。
身近な感覚を云えば、様々なところに旅してきたが、先年、火山が噴火して全島民が緊急避難した三宅島の景色が一番すごかった。
島の中央部全体にそびえる雄山は海上から1000メートル近くの活火山で、頂上の平らなところをに達するとなんとも表現しようのない恐怖感に襲われた。
そんなに噴煙が舞い上がっていないにもかかわらず、この火山はたった今、爆発してもおかしくない、早く降りなくては、と云う感覚が湧いてきた。動物的感と云った方が適切だろう。
この活火山のすそ野には今まで見たこともないような原生林に囲まれた神秘的な湖面の小さな湖や、地球上の景色にないような火山噴火土砂の小山が直接、きれいな海に突き出ていた。
島じゅうに鳥がさえずっていた。地面に卵を産む鳥の天敵、蛇がいない。アカコッコというこの島独自の中型の鳥があちこちで自由に羽ばたいていた。林の中に設営したテントの朝。そこらじゅうから聞こえてくる鶯のさえずりがまるで騒音のように思えた。
三宅島に激甚災害を引き起こす日本の天変地異の激烈さと、美しい日本、そこに住む住民のあり方の凝縮をみる。
小さな火山島は蛇さえ生息できない、揺れ動いている環境なのだ。
そこに人間が居住するようになった。
極端に云えば以上の様な観点に立って、この日本に原発推進が必要だったのかどうか、考える必要があった。
他の選択肢がまるっきりなかったのでなく、あった。程度の問題もある。基準の問題もある。
最後は分別の問題である。
が、分別の乏しい選択だった。
日本丸はもう目の前に障害物があるのに急旋回できない巨船に似たり。
支配層は責任を国民が取らさないと自分からはとることはない。
彼らのこれからの歴史的基本動向はグローバル資本の利益に沿って、大多数の国民を犠牲にして食い逃げを図る腹積もりである。
この基本動向を大胆に隠ぺいするためには、国家と云う共同幻想を煽るしかない。他民族を蔑視を煽るしかない。
歴史の転換点は今回の激甚災害によってその歩む速度を速めている。
特に原発人災現場作業の困難性、被害の全国化、深刻化はとどまるところを知らない。
真っ黒な暗雲が全国民の頭上を覆いかぶさっている以上、日本人は悪い方向にまとまる可能性が強まっている
しかし、「奴らに自分のケツを自分で拭かせよう!」
責任ある地位に就いたのだから、言葉を操ってごまかすのではなく、責任を全うさせなければならない。
逆に奴らに操られたら、原発災害に輪をかけた災難を自ら招くことになる。
>今回の原発人災の情報を収集していくと、巨大な矛盾点、不条理が具体的事実として覆いかぶさってきていることが解る。
この解決方向は具体的でなくては何の意味もない。
抽象的なところに安心感を覚えるのは面倒な思考を停止したい、自分の今を変えたくない、という本能的な自己保存本能がもたらすものである。
アレコレ抽象的なところで空中戦をやっていても無駄な時間が過ぎていくだけである。
この機会を自分、家庭、家族を点検し変えていく機会にできる。
大阪に住む私は今のところ被害を身近に感じないが、詳しく情報を知るに従って、この地点さえ安全でないと知るようになった。また事故現場作業の矛盾、不条理状態も理解しているつもりである。
原発推進村発のマスコミ情報は問題を隠ぺい先送りしようとする特徴がある。
現場作業、取り巻く人たちの思惑を超えるところで原子力と云う宇宙を構成するまさに(始原的力)が蠢いて、止まるところはない。
繰り返しになるがこの事態をいい方向に導くのは、抽象論で無く、具体的科学的な根拠を持った創意工夫、勇気を持った具体的行動である。
個々人、の単位で具体的に行動する絶好の機会である。