いつもの散歩コースになっている公園にいた3羽のツグミが忽然と姿を消した。
最後に見たのは4月23日。
雨の中、いつもの場所でいつものように、トボケタ姿であたりを見回していた。
でも、今から思うと、何処か悄然とした所があった。
彼らはシベリアへの数千キロの遥かな「北帰行」に旅立ったのだ。
来年また会えるかどうか解らない。
彼らがどうなっているかもわからないし、何よりも、自分を含めた日本の来年の今頃を想定することも、実際の所できないのではないか!
それ程、大震災中の日本は不条理に満ち満ちている。
不条理は管直人の様な人間には糺すことができるらしいが、我々多くの日本人にとって、抗うことのできない事態の様な気がする。
翌日の、よく晴れ渡った日曜日。
ツグミのいる公園内の芝生では何か所もバーベキュー、パーティーが行われていた。日当たりのよい昼間はツグミたちが地面の餌をついばむ時間帯なのだが、付近には大きな公園が三つもあるのに芝生のエリアが狭すぎる。自然と、行楽シーズンに散歩以外に公園を利用する人たちは芝生のある所に集まっていく。
ところがそこは野鳥たちの餌場でもある。
だいたい、公園に来る野鳥はツグミの様に開けた場所を好む鳥が多く、野鳥を一番、見かける頃に人も冬の寒さから、やっと解放されて、芝生に集っていく。
何とかならんかな~。
公園に桜の木ばっかり植えたり、無粋な土の運動場を作ったりしないで、見た目などどうでもいい、もっと、人が集まって楽しめる公園にするという指向がなんで育たんのかな~。
見た目と機能性(手入れのしやすさ、運動)を追及しているが、人が集まって、ワイワイやることで生まれ育まれる、何かがあるんだよな。 長い目で見たら。
>「ピクニック」というアメリカ映画の名作がある。
「慕情」で有名なウィリアム、ホールデンが中西部の保守的な町に流れモノとしてたどり着き、地元の娘と恋に落ちるという設定。
単純な恋愛モノでは全くない。ウォーレンベィテイ、ナタリーウッド主演、「草原の輝き」に通じるモノがある。
その中のシーンに、祭りの日、町の人々が公園に集って、ピクニックをし、ダンスを踊るという場面がある。
中西部の田舎町の人々の、祭りの日の素朴な解放感が伝わって来る。物凄く印象深い、きらびやか、ほのぼの、素朴なシーンだ。
ああ云う場所、空間が日本にはない。
深い意味がある様な気がする。
コミニューティー形成の問題。もっと云えば、市民レベルの対抗的な始原的な政治の形成の場。場所と空間が確保されていなければ、民主主義の根幹は成り立たない様な気がする。
村や町の盆踊りは違う、と想う。余りにも。
桜の木の下の花見もまた違う。
日本は戦後民主化した。簡単にいえば。ところが民主主義の根幹をなす、空間と場所が庶民の身近になかった。この場所と空間は政治家の行う政治に対して対抗的な役割を育む場所でもある様な気がするが、それがなかった。
日本の民主主義は政治家とマスコミにしかなかった。
そして、政治家の民主主義がないのだから、マスコミが代替えして現在に至っている。
ところが、マスコミ、ネットなどの云わば、電子的交流には限界が大きい。
電子的交流次元で世論が大きく左右され、行動が発生するなんて云うのは、民主主義の発展レベルからすると高いレベルじゃない、と想う。
それらが報じることは本当のことの一部過ぎないという了解が国民的規模に浸透し、あくまでもそれらが垂れ流す情報を参考程度に収め、生身の自分が自主的な判断するのが、当たり前でなくてはならない。
生身の自分が判断するということは、人が集まって意見を交換するという機会を大切にするということだ。
大切なのはこの回路だ。
そこで自分の意見を主張し、他人の意見とすり合わせ、合意点を形成していく、納得していく。
相いれない意見同士だったら、戦い合うしかない。
その過程を保証する空間と場所は特別に設えた集会、デモの様な非日常空間ばかりではなく、出発点は日常の中にそれらを持てる習慣、機会があるかどうかだ。
日本の公園に芝生がない、土と運動場、サクラばっかりというのも人間の根源的な何かに反しているように思える。少なくとも、近代史発展の空間と場所が保障されていない様な気がする。
町が広場を中心にできてこなかった、という面もある。
これは宗教的側面が影響しているだろう。一神教は多数を集めて説得し、扇動する必要がある。
>>とここまで書いて、タイトルとは何の関係もない。いつものことだが。
タイトルの記事を読んだのは散歩途中で立ち寄ったコンビニだった。
なかなか達者な文章で、素直に読むと、今現在、事故現場に常駐して、取り仕切っている55歳の東電技術畑の執行役員「ヨシダ」なる人物の事故現場差配に日本国民の命運が委ねられている様なトーンで書き出されている
そして「ヨシダ」なる人物はそれに相応しい、現場の部下からの人望を集め、決断力があり、ナント、「人を信用しない管直人でさえ、アイツは信用できる」とまで書かれている。
>>やはり、マスコミには上手い書き手がいる。
あの記事を読んだら、たいていの人はヨシダ」なる人物に感情移入する。
>>ところが待てよ!っと。
おかしいじゃないか! と、我に帰る。
>>>東京電力は事故が発生し、非常用緊急冷却装置が停止した
>>>3,11。 16時36分から
>>>翌日、3、12。 14時ごろ。
炉心溶融のため原子炉内部に溜まった水素を外に逃がすため、手動で弁を開くまで、丸々、22時間、一体何をやっていたのか。
>22時間も経過している間に原子炉内部では高温高圧下で水位が下がり、燃料棒が溶けだし大量の水素が発生し、格納容器爆発の危険性にまで立ち至った。
そのギリギリの所で係員が建屋内に突入して手動で弁を開放した。
>>>15時36分。当然にも水素ガスが充満した1号機建屋爆発爆発。
>>>法に基づき、通報したり(東電)、記者会見を開いたり、狭い範囲で避難指示を出しただけだった(政府)、
表向きの動きを追っていくとそれだけだった。
緊急時に対応する体制の問題は確かにある。
>>>にも拘らず、全部体制の問題にしては結局、無責任になる。
事故現場の生の対応としては空白の22時間の出来事が問題になる。
想定外の出来事として、電源車などの準備不足もあるが、「バルブ開」、「海水注入」が遅れたのは事実である。
>>>超緊急事態なのに原子炉は圧力温度異常上昇、炉心溶融野のまま、22時間も放置されていたのは、誰がなんと釈明しようが事実。
ならば、直接現場を知り、運転、統括している、東電の判断は比重を増す。
>>>>東海村でマニュアル完全無視の手抜き濃縮ウラン製造中、臨界事故が発生した時、政府関係から、当事者に強制命令に近い決死作業指示が下った。あなた方が決死作業をしなければ、強制命令を出さざる得ないと。
そこで当該会社の社員が現場に突入して、処置をし、収束させた。
>>>今回の緊急事態で東電側の建屋水素爆発ぶっ飛ばし、までの22時間に東電がやったことは事態の政府通報
と最後の砦格納容器、爆発破壊から守るため、弁を決死で開くため、放射性物質承知で建屋内に突入したぐらいだ。
>>>この程度だったら、東海村の手抜きウラン濃縮作業中の事故処理を行った下請け会社の作業員の決死の行動と変わらないというべきだ。
>>>あの事故はレベル4と想定されていた。
原発安全運転の大前提の最後の砦である、冷却循環が全く機能しない状態から、後に発生していく事態は専門官なら誰しも想定できることである。
>>>このような、素人でも解る事を理解し、率先して行動できなかった、東電の技術トップが、
>>>どうして、今現在、週刊誌上で、日本国民の命運を握る人物であるかのように、誇張して描き出されるのか?深読みする必要がある。
>>>豚もおだてりゃ木に登るってか!?
違うな。
安易な国民感情として、今後の現場作業で犠牲者を膨大に出さざるえない現場最高責任者の指令を正統化し、人間としての根源的な責任を免罪しているのだ。
犠牲者を前提とした手作業でしか、冷温停止できない現実を踏まえた書き手が、その作業を業務指令する現場最高責任者を人間的に大きく描きだすことで、犠牲者が原子力の生贄の羊になることを自分で自分に納得させようとしている。
週刊現代記事は今後、多くの現場作業員の犠牲に対してマスコミがどの様に伝えるか、示唆している。
何かここでも日本の現状の縮図を見るような思いがする。
上で命令するモノは重責で神経がやられても、被曝はしない。戦争の時のように戦犯になる恐れもない。
東電は原発法では緊急時の賠償責任は免責されるとまで云いだしている。
役員給与の50%カットで事故責任を果たしている、と云っている。
温い扱いをすれば、原発村のど真ん中にいるモノを処断できない。
こういう時にキチンと処断できなければ、一番最後に被害を受けるのは多数派国民である。
無慈悲に処断しなければならない時もある。
今がこの時だ。温いことやっていてはだめだ。
>>>しかし、私がこの記事の途中まで長々と書いてきた関係のない内容もよ~く考えると実繋がっている。