関銭の撤廃、信長の実施した経済政策「楽市・楽座」とは? | 戦国ヒストリー
楽市・楽座の歴史
引用
「楽市・楽座は信長の専売であるかのように思われているところもあるが、歴史的には先行事例がないわけではない。
南近江を支配していた守護大名、六角定頼による観音寺城下における天文18年(1549年)の楽市令である。」らくいち
「同様に永禄9年(1566年)に発給されたとされる今川氏真(今川義元の息子、駿府の守護大名)の楽市令も古い事例の一つである。」
「こうした先行政策を参考にして、永禄11年(1568年)に各支配地域の城下町などで実施されたのが、信長による楽市・楽座の制度だったのである。」
「古代から中世にかけては、京都をはじめとした大都市における経済活動は、錦座や綿座のような業種ごとに組織されていた座によって担われてきた。支配者からの庇護を受けつつ、事業の継承や生産力の向上、あるいは技術の発展も行われてきた。緩やかながらも着実な進化がなされてきたのは、独占という業態があったからともいえる。
しかし、室町時代以降、商品経済の規模が全国的に大きくなるにつれて独占による弊害の方が目立つようになり、時代の要請に応じて実施されたのが楽市・楽座であった。制度が実施された地域の商取引だけでなく、周辺地域や関連する産業全般を巻き込んだ経済変革が生まれ、中世から近世への移りかわりを促進する結果となったのである。」
時代の分水嶺
引用
「日本史を俯瞰すると、応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱 - Wikipediaは時代を分ける重要な目印である。大乱を経て支配構造が覆り、新時代の息吹が各地に見られるようになった。信長のような戦国大名が頭角を現すのも、その一つだ。
本稿で取り上げた楽市・楽座もまた、信長が行った画期的な善政というメルヘン的理解で終わらせるのではなく、時代が求めたうねりの一つと見るべきだろう。実施者がたまたま時代の寵児、織田信長だったというだけである。」
【撰銭令とは】わかりやすく解説!!なぜ行われた?目的や内容・影響など | 日本史事典.com (えりゼニ令)
(室町末期に作られた永楽通宝のびた銭
「日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭、永銭などと呼ばれた。」相場価格 500〜999円
W。織田信長家紋のイロイロ。寛永通宝が家紋に!時代の息吹にのった信長。
引用
「永楽通宝は、1408年に鋳造が開始されて以降、アジア各地に輸出され、長い間、アジアの基準通貨の役割を果たしました。
11世紀以降、大規模な銭貨鋳造が途絶えていた日本では、質の良かった永楽通宝は特に珍重され、物の値段を「永楽銭~枚」という形で表しました。
また、永楽通宝は戦国武将の旗指物などの図案として広く使われました。 」
引用
「永楽通宝は明では流通しておらず、もっぱら国外で流通していたと考えられてきた。明では初代洪武帝のときに銭貨使用が禁じられ、すべて紙幣(後には銀)に切り替えられていた。」「近年では、さらに広範囲に渡って使用されていた可能性も指摘されている。2013年には、アフリカのケニアから永楽通宝が出土している。」「永楽通宝が主に流通していたのは、伊勢・尾張以東の東国である。特に関東では、永楽通宝が基準通貨と位置づけられ、年貢や貫高の算定も永楽通宝を基準として行った。これを永高制という。一方、西国では宋銭など唐宋時代の古銭が好まれ、16世紀に入るまであまり流通しなかった。」
「明との貿易を行っていたのは主に西国の大名や商人であり、日本に流入する永楽通宝がまず彼らの手中に入る筈であるのに、なぜ地理的に離れた東国でのみ流通したのかと言う点が十分に説明されてこなかった。」
「6世紀の東国で用いられた永楽通宝は明で鋳造されたものではなく、そのほとんどが明の永楽通宝を精巧に再現して日本の東国地域で鋳造された私鋳銭であるという説を提唱した。折しも、茨城県東海村の村松白根遺跡から永楽通宝とその枝銭が発見されており、科学分析の結果日本国産の銅で鋳造された可能性が高い事が判明するなど、今後の研究次第では通説に対する大きな見直しが迫られる可能性がある。」
その他の銭
708年朝廷は和同開珎の鋳造を始める。「和同開珎の相場は9万円位のようです。」
日本のお金の歴史のはじまりは和同開珎から、その価値と値段は? | 女性のための金融リテラシー養成所
引用
「900年中ごろ、時代は平安時代となっていましたが、相変わらず銭貨の普及は広まらず、この乾元通宝でいったん朝廷は貨幣鋳造を断念します。
今は普通に貨幣が流通していますが、平安時代は貨幣というものが存在しつつも一旦以前の物々交換に戻るという現代ではあり得ないことが当時起こっていたわけで非常に感慨深いです。」
「最近ではメルカリなどを主にするリサイクル品を回したりブランド物をレンタルしたり、民泊だったりという流れも、新たな価値を創造して消費するのではなく、もともとあった物を売買貸借するというのはこの平安時代に起きた流れと少し似ているように思ったのでした。」
引用 信長に戻る
「道路の改修 キリスト教の布教の自由。
それは一つの理想である。理想の実現のために信長は努力する。
天下布武とはそういう意味のものだ。
単なる天下の統一のことではない。理想もないのに統一したところで何もならない。
やがてわれわれは秀吉という。天下を統一したところで理想をなくしてしまった男が強引にに朝鮮出兵という途方もない冒険に取りつかれた、歴史上の悲劇を見ることになる。
信長は理想についてそんなに説明しなかったろうが、彼の行動が理想を明らかにする。
行動こそが最も生きた言語であり、それは説明ではなく、いわば彫刻である。
それが偉大さのダイナミズムであって、信長軍の戦士は良くそれを感得していたのだろう。
一向一揆と戦う彼らの背骨を支えたものがそれだ。
十七、長島一揆、長篠の戦
「彼は罪びとの悪事に対しても、犠牲者の嘆きにも、まったく同様の無関心を示している。まるでダイアモンドの鋭角のような、何か鋭い、固い、不動のものである。」
アンリ、ゲオン『モーツツァルトとの散歩』
「彼(モーツァルト)は常々「死は人生の最終目標です」と考えていたそうだ。
信長がフロイスの話では、死後は無であると明晰に結論していたそうで、対極的見解のようだが、両者の生の地場は共通している。
長篠の戦
「騎馬隊も3段撃ちも…」最新の日本史を紹介
信長の家臣だった太田牛一(ぎゅういち・1527〜?)が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』は、記述に具体性もあって全体的に正確であるとされ、誤りも幾分あるものの、「現時点では最も信頼できる史料」と考えられています。
【新事実1】鉄砲の数は「3000挺」ではなかった
【新事実2】3段撃ちによる一斉交代射撃はなかった
【新事実3】「武田騎馬隊」の活躍はなかった
「この時代、戦国大名の家臣たちは、それぞれの知行に応じた数の騎馬や槍(やり)、弓などの兵を集め、戦場でもこれらの兵種が混在した形で集団行動をしていました。
これは武田氏でも同じです。
>つまり、「騎馬隊」と呼べるような兵団は存在しませんでした。
さらに、当時の軍役から兵種を分類してみると、「武田軍の騎兵の割合は全体の1割程度」だったこともわかっています。
ちなみに当時、日本にいた在来種の馬は、体が小さい種類でした。現代のサラブレッドは体高がおよそ150~170cm超ありますが、当時日本にいた馬は120cmほど。今でいう「ポニー」に近い体型でした。」
【新事実4】「戦いの舞台」は、広大な平原ではなかった。
長篠の戦いの主戦場となった設楽原は、「原」という地名からは開けた場所がイメージされます。
しかし戦場となった場所は、南北におよそ2km、東西に平均して200~300mほどの縦長な平地が広がり、その中央を河川(連吾川)が分断する、およそ馬が駆け巡る大平原とは程遠いロケーションでした。
【解釈5】両軍は「平地」で戦っていなかった
W.決定版を紹介する
引用
「挟撃された武田軍は数を減らしている(筈)の正面の連合軍に向けて総攻撃を決定。(この状況では異論の出る余地などなく、宿老たちも当然賛成したのであろう)、そして突撃の援護をすべく「武田鉄砲隊」を前進させ、まずは両軍による射撃戦が展開。結局質・量ともに優る連合軍鉄砲隊が武田軍を圧倒して、援護射撃を失った武田軍は被害を増大させる。
それでもひるまず戦闘を続け、騎馬武者に統率された歩兵部隊が防御陣地を突破しようと遮二無二攻撃を続けたが、損害が遂に攻勢持続点を超えてしまう。
遂に勝頼の翻陣まで後退して、ここに武田軍は撤退を決断。チャンスと見た連合軍は徹底的な追撃戦を行い、ここで多くの宿将たちと将兵が倒され、壊滅的打撃を受けて敗走。ここに長篠の戦いは終結した。
結論を言えば、この戦いでは「戦いの様相が変わった」とか「戦術革命」のような事実はなく、両軍ともに戦国大名としての質に差は無かったこと、戦闘の様式も当時の「常識」にのっとった戦法であること、そして兵力や装備に勝る側がその利点を活かして勝ったまでのことなのである。」
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秋山駿 信長 引用
「馬防柵と鉄砲の組み合わせ。コレは普通防御の体制である。
それを攻撃用に、体制のベクトルを返還したところに信長の発明があった。つまり心理作戦の展開があった。
信長軍ののろのろとした出兵の時、兵士たちは柵を創る材木を持って出て行ったという。
>コレは前線よりも兵站の重視される近代戦争ならともかく、昔の戦争では、誠に滑稽な光景であろう。まるで道路作業員御出兵である。小牧山、あるいは二条城の建設など土木作業によくレッスンされた足軽でなければこんな姿は我慢はならぬであろう。
柵を創る兵隊。
こんな情報をすぐ知った武田勢が、ならばそれは戦う気のない軍団である。
同盟国の家康にちょっと加担して見せるが結局は守りの一方の体制である、と考えるのは当然のことであろう。」
>『信長公記』が長篠の合戦に続けてすぐ記すのは、信長の奇妙な振る舞いでる。
信長は年に何度も上洛する度に、その「道のほとりに、かたわもの雨露に打たれ、
乞食(こつじき)して居たり」の姿を見ていた。
そして、「あまりに不憫に思し召し」、「いかように仔細あるべしと、ある時、ごふしんされ」た。
6月26日、長篠合戦1か月後の上洛の時、「木綿廿(20)端御手づからとりだし、持たせられ~乞食の猿に下され~この半分をもって燐家に小屋をさし、餓死せざるように情をかけ置き候へと、上意に候」。
さらに、「この隣郷の者ども、麦出来候はば麦一度、秋後には米を一度、1年に二度づつ、毎年心落ちに少しづつ取らせ候はば、信長御祝着なさるべし、と仰せださる」
われわれは想起してよかろう。
「この地上に、女が一人捨てられて絶望しているとは、どうしてそんなことになるのか」という言葉の書かれたゴッホの絵を。またこの絵のモデルとなったジインへの、ゴッホの異常な献身を。
信長にも、コレに等しいい根底的人間認識があった、ということを我々が疑う必要はあるまい。
<クラシーナ・マリア・ホールニク。クスクリスティーヌなのでゴッホはシーンとよんだ。>
シーンの娘