二十二、松永久秀の謀反
町指定 信貴山城(しぎさんじょう)跡
引用
「生駒山地の南東、信貴山雄嶽(おだけ)(海抜433m)を中心にした城跡で、東西550m、南北700mあり、奈良県で最大規模の中世城郭である。
建築物は残されていないが、信貴山朝護孫子寺の境内地として破壊を免れ、堀・土塁・門・多数の削平地(曲輪・郭/一部に礎石群(埋没)あり)がほぼ完存しており、縄張りの全容が確認できる。
南都北方に築城された多聞城の記録からみて、最高所の雄嶽山頂には小規模な天守(高櫓)が建てられていたと考えられている。また、近世に描かれた古城図に「松永屋敷」の記載があり、北側に延びる主尾根には土塁を配した門の取り付く広い郭が並び、松永久秀の居館施設が建てられていたと推測されている。石垣は1箇所のみで土留めに用いられるのみであり、基本的に土で造られた城郭である。 」
信貴山城全景(東より)[左が雌嶽、中央が雄嶽で、右側に松永屋敷の所在する尾根が延びる。
信貴山城全景(北より)左下が松永屋敷の尾根
wacwac 生駒山山系は気軽に行ける絶好の山歩きのスポット。しかも古代中世、近世現代の文化歴史散策ができて、ふもとに古くから開けた平野が広がるため、山中は生活の営みが随所にあり、何となくほっとする。大阪側から信貴山ロープウェイで登ると山頂付近は緩やかに起伏する平地が続き(典型的な内陸側緩斜面、海側急斜面の山系)少し下る尾根の広い南斜面に在日韓国、朝鮮の人たちの墓が千基以上ある。墓石の側面に半島の出身地が刻まれたよく手入れされたきれいな墓ばかりであった。出身地は戦前戦中の定期航路の関係なのか済州島、釜山など、韓国南端ばかりである。済州島の場合は定期航路が最初に開かれたという事情もあるが4,3事件の影響も多少はあると思う。
引用
「韓国併合後(←W?)、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。(W。最初の渡航居住集団、しかも島民=結束力強いコミュニティ形成は自然の成り行きでもある。華僑も中国本土出身地による結束力強い)日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民は大阪市などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国・朝鮮人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。木村光彦(青山学院大学)によると、済州島四・三事件及び麗水・順天事件を政府は鎮圧したが、その後共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いのために政情不安定に陥り、経済的困難の深刻化もあり、結果「たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本にひそかに入国」し、正確な数を把握することは出来ないが1946年~1949年にかけて、検挙・強制送還された密入国者数は5万人近く(森田芳夫「戦後における在日朝鮮人の人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると、密入国者総数は20万人~25万人規模となり、済州島からは済州島四・三事件直後に2万人が「日本に脱出した」とされる」
W。信貴山頂~山歩きルート伝って松永久秀の信貴山城を緩やかな勾配の尾根伝いに目ざす途中の高安山の山頂には古代、白村江の戦いに敗れた大和朝廷の防御陣地といわれる高安城跡がある。山頂の防御陣地の急斜面の眼下は今のような大阪平野の全面陸地ではなく、新羅,唐連合軍の水軍が押し寄せることができる水路が広がっていた。
下の写真入りもっと整備されていない生駒山系信貴山に連なる高安山の普通の頂上
モニュメントらしきものもなくただの説明文が掲げられているだけだが、その無造作がまた良い。歴史的事実に対する余計な脚色を嫌うWはほっとする。
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信長 秋山駿
引用
「謀反の理由や望みを聴くべく待っているのに、松永が出頭してこないので、「このうえは」と人質だった12歳と13歳の松永の息子二人を京の六条河原で切る。
村井貞勝が「あすは、内裏へはしり入り、助け申し聞かせ」たのだが、少年はそれを拒んで受容として死につく。
<~~二人の子供車に乗せ、六条河原までひかせられ候。都ひの貴賤して、見物仕り候。色もたがえず、最後おとなしく、西に向かひ、ちいさき手を合わせ、二人の者ども、声高に念仏となへ、生害。
見る人、肝を消し、聞く人も、涙せきあへず、哀れなる有様、なかなか目も当てられぬ様体なり>
いわばいまだ「法」ではないが、ある秩序を形成するための動流といったものであろう。
戦争による長島一揆の全滅作戦と、この「都ひの貴賤」の面前における処刑とは、明らかに性質が異なる。
前者は戦争の必要かもしれないが後者は一種の公布である。
軍令から法への変化、といったものが感覚される。
その分水嶺にあるのが、やはり安土という都市建設であろう。それをシンボルとするところの新しい秩序の形成。コレが信長の必要だった。
<一の社会は獣性から秩序まで向上する。野蛮期とは事実の時代であるゆえに、秩序の時代とは従って虚構の制覇期であることが必至である。
秩序は従って不在の事物の現存の働きを強要し、また諸々の本能と理想の均衡の結果である。
神聖なもの、正当なもの、適法なもの、礼儀にかなうもの、賞賛すべきもの、およびその反対物が徐々に人々の脳裏に描かれ、結晶する。整序の記念物であり、またいわば秩序の三角測量たる神殿、王座、法廷、演壇、劇場がかわるがわる出現する。
儀典や形式や風習が人間という動物の調練を成し遂げ、その直接的反応をを抑圧しあるいは加減する。残忍なあるいは如何ともしがたい本能の再発を徐々にまれになり取るに足らぬものになる。~一切は眞正と言葉との力によってのみ存続する。
秩序にとって必須なのは、ある人間がいまにも絞首の刑に値しそうになる時既に、
その人間自らがいまにもそうされそうだと感じることであって、この心象に対して信を置けないなら万事は崩壊する。」バレリー「ペルシャ人の手紙」より
引用中の「秩序の三角測量たる神殿、王座、法廷、演壇、劇場」は安土城の建設によって実現する。
信長は、自分の戦争を安土城造営以降は、実際の戦場より、むしろ「言葉」の上に移した。
その実行と徹底が必要であった。その言葉から発する心象の例として奇しくも「絞首の刑」を比喩としている。
松永の息子の処刑は、その実演であろう。
~
「私の発言は法律とみなされるべきだ」ということを引用文の皮肉味などなしに、新しい秩序想像の新鮮な荒々しさで実行していたのではないか、と思う。
>もっとも信長の最大の弱点もそこにあった。
カエサルのように、~諸々の体制のモデルを持っていたわけではなかった。
また、ヨーロッパ文明のあるべき姿は何か、という歴史上の鑑も。彼は、白紙の上に起こって独力、一人で一挙に何もかもなさねばならなかった。