6、ケインズ旋風 ~新しい考え方に衝撃~
引用
「1930年代の米国の若い経済学者にとって最大の課題は、どうすれば大恐慌から脱出できるかであった。農業経済学を専門にしてきた私にとっても、農産品価格の低下と過剰供給という当時の根源が大恐慌にあったことは明らかだった。
~われわれは大恐慌の解決策を求めて、真剣に議論を交わした。
当時有力だったのは、米国の経済構造に問題があるという考え方である。
特に独占企業と不完全競争に問題の根があるという主張が指示を集めた。わたしもはじめのころはこの考えに賛同し、これに関する論文も書いた。
>寡占化が進み、競争が減ると、独占企業は生産を押さえることで利益を増やそうとした。
生産の抑制の結果、労働力などの経済資源がフル使われないようになり、経済が悪化した。ここに大恐慌の原因があるというものだ。
1936年に出版されたケインズの「雇用、利子、および貨幣の一般理論」を入手したのは、丁度論文を書き終えてほっとしていた時だ。一読して大きな衝撃を受けた。まったく新しい考え方が提示されていたからである。
重要なのは総需要であり、政府の積極的な行動によって需要の流れを増やすことで、生産や雇用の水準を高めることができる。大恐慌への回答が明確に示されており、実施することも可能なアイデアだった。
「自分は間違っていた」
打ちのめされながらも、そう結論せざる得なかった。
その当時、私は紙製品の社長であるヘンリーデニソンという人に個人的に経済学を教えていた。50代後半のデニソン氏は、米国では珍しく従業員の自社株保有などを打ち出すリベラルな考え方の経営者。8歳の時に習い始めたというバイオリンを上手に引き、音楽や自然科学に造詣が深かった。
彼はボストンに住む銀行家のなどエリート経営者たちについては、いつも懐疑的な目で見ていた。その一方で、ゼロから出発したたたき上げの起業家たちに対しては尊敬の念を抱いていた。
ボストンの小高い丘の上にあった彼の家で経済についてよく議論した。
デニソン氏は「お金持ちが金を使わず、貯蓄に回すから経済が良くならない」と主張したが、まだ新古典派の考え方の影響されていた私は、いつもの彼の考えを強く否定した。
だが、ケインズを読んだ私は、彼の説は過剰貯蓄に伴う重要不足を指摘するケインズと基本的に同じであることに気づいた。
ある晩わたしは「ケインズはわたしでなくあなたの意見と同じだ」と告白した。
若い経済学者はケインズのとりこになった。これほど興奮を読んだ考えはそれまでなかった。ハーバード大学にも1936年の秋までには、ケインズ理論が波のうねりのように押し寄せてきた。ケインズの理論を勉強するセミナーがあちこちで開かれた。
これと対照的だったのが古手の教授たちだ。彼らもケインズは読んでいたが反応は極めて冷淡だった。古い考えにとらわれていたからだ。彼らは相変わらず大恐慌は構造問題に原因があるという考え方を取り続けていた。
①ある学者は独占企業の影響力拡大を、
別の教授は②労働組合の台頭を原因として挙げた。
③「大きな政府」をすべての元凶とみる人もいた。
その一方で、④誤った対応をするより景気循環に任せたほうが良いという主張も聞かれた。政府は財政を均衡させるべきだという考え方も根強かった。
そんな伝統的な考えに照らせば、ケインズの主張は到底受け入れることはできない。
彼らが恐慌に無関心だったわけではない。だがその発想は救いのないほど時代遅れだった。そして正しいが新しい考えに対して批判的すぎた。
ルーズベルト政権化のニューディール派の間でも、当初はケインズの考え方を支持する勢力は少数派だった。多数派反独占政策を引き続き重視していた。ニューディール政策は、ケインズ政策と同じというわけではなかった。
「ケインズから直接経済理論を学びたい」すっかりケインズ派になった私はある時こう決意した。
1937年は春、わたしはロックフェラーの寄付でできた「社会科学研究会議」という団体に、特別賞奨学金を申請した。1年間の予定でケインズのいるケンブリッジ大学で研究することが認められた。
7 ケンブリッジ大 ~留学前米国籍、結婚~
ルーズベルト大統領の就任直後から私は、大統領を強く尊敬するようになっていた。そして再選を目指した1936年の大統領選挙では積極的にルーズベルトの応援をした。その事までに私は熱心な民主党員になっていた。
選挙応援をしていたある日、同僚の一人が「君はぜひとも米国籍を取るべきだ」という。そうすれば、投票ができるようになるし、今後選挙応援で民主党支持を呼び掛ける時にも説得力がでる、というのである。それならそうするかということで、軽い気持ちで国籍を取ったのだ。
~ロンドンで残念な知らせを聞いた。ケインズは心臓発作で倒れて回復しておらず、ケンブリッジ大学には出てきてないという。
~週1回はロンドンに行って、ロンドンスクールオブビジネスのセミナーに参加した。
市場放任主義のハイエク教授のセミナーにも参加したが、100人近くの出席者のほとんどは反ハイエク派で、しゃべりたがりが多かった。
ある日のこと、ハイエクが教室に入り、一例後に「今日は金利の話をします」といったとたん「反対です」という声がした。後に独自の景気循環モデルでしたれるカルドアった。
そのころ、英国で経済を勉強していた米国人御仲間に後に銀行家となるディビッド、ロックフェラーがいる。ケンブリッジの我が家にきてにきてポーカーを一緒にやったりした。
~結婚生活を振り返って良かったのは、ケインズ理論について妻と論争しないで済んだことだとつくづくよかったと思う。
8欧州見物~大戦直前妻と楽しむ~
振り返ってみると、わたしがケンブリッジ大学にいた1037年から1938年ごろは、第二次世界大戦全に欧州を自由に回ることができる最後の時期だった。
次世界大戦勃発の懸念はいよいよ高まり始めていたが、少なくとも表面的には穏やかで、古き良き欧州を十二分に楽しむことができた。
長いクリスマス休暇には米国から持ってきたフォード車でベルギー、ドイツ、デンマークと走破し、クリスマスの日の午後、スウェーデンにわたった。深い雪に包まれ、静まり返ったあたりの光景。空に白く輝く月。行きかう車もない道。早朝にたどり着いた街も死んだように静かだった。ホテルのベルを鳴らしても誰も出てこなかった。
スウェーデンはリベラル派の経済学者の間で評判が高かった。米英では大不況の原因は独占の弊害か、それともそう需要の不足化という議論が盛んにおこなわれていたが、スウェーデンはその双方に対応しているように見えたからだ。
当時スウェーデンでは生協活動が活発で、集団的にものを購入することで独占企業に対抗していた。独占禁止法によって独占の弊害に対処するのではなく、独占に対して拮抗力を持つ組織を作ることで対応する。この方法は私の心に深く刻まれ、後々まで残ることにいなる。
その一方で、雇用や生産の位置こみ、税収が減ったときには、財政赤字は容認され、それを放置することが経済刺激につながるという考えを政策に取り入れていた。
ケインズ理論が広く知られる前から、それを実践していたわけだ。いわゆるケインズ革命は本来、スウェーデン革命と呼ばれてしなるべきものだと思う。
ストックホルムにしばらく滞在した私は、当時財務省高官で後に国連事務総長になるハマーショルドなどと知り合いになった。
~イタリアやドイツはファシズム政権下にあったもののその雰囲気は、はたから見る限りほかの国とほとんど変わらなかった。
ドイツのミュンヘンで勉強していたことがある妻がベルリンで旧知の友人に意見を聞いたところ、みなナチスに批判的だった。
オーストリアはドイツに併合された直後で、ウィーンの町にはナチスのかぎ十字の旗が目立ったが、ファシストが街を練り歩くような光景は見かけなかった。
チェコの首都プラハも平穏だった。ほんの数日前にナチスがチェコを脅かすような動きに出ていたものの、普通の市民はそれを無視しようとしていた。