反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

新コロナ元年、連載3回。民主政ではあり得ない日本方式はなぜ生まれた?日本バブル崩壊以降の冷戦構造崩壊、世界資本制下の長期経済停滞によって、統治機構と各種の社会的経済的中間団体は、ヒエラルキー利益<たこつぼ>強化で対応し続けた結果、ヘゲモニーとフレキシブルな横の連携は機能不全。

 1週間ほど前、前回の「反俗日記」で記した様な想いが爆発し訪問介護事業所との間で大騒動を引き起こしてしまった。

責任者に「あなたがそうすることによって、本人がどんなつらい思いをするのか」といわれたときには、まいった。今でも取り返しのつかないことをしてしまったと、傷口ザックリだ。しかし、逃げ場がないものにとって、その償いを具体的な事実行為としてやっていくしかない。

本人にも後で言われた。「変わらなければだめだ」と。 

言い訳はできなかった。言葉が続かなかった。論理破綻を自覚しながら言い訳をした過去の場面が思わず浮かんできた。

>ある種の「成功体験」のなかで培われたキャラクターは身に染みるものだ。変えること不可能に近い。(インプット受動だけではなくアウトプット積極的な行為の結果、形成されたキャラの意匠は体にぴったり張り付いて脱げない。生き死にの間際でも脱却できない)

>しかし、キャラ変更は厳しくとも相手とその状況は理解できる

シューシュポス的不条理人間Wにできることは与えられた状況への認識を深め、失敗を繰り返しながらのチャレンジの繰り返し!だ。

>なんて迷惑な存在なのだろうとの自覚はいつも頭の片隅にある。

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 この騒動でわかったこと。

>皆さん、司司、持ち場持ち場で一所懸命やっておられる。率直に頭が下がる。

クオリティーも維持されている。

責任者は人間としても素晴らしい、能力も高い!

 しかし、どうだろうか。

只今現在の状態が必要条件であっても十分条件を満たす余地を抱えたものなのかどうか。

長いときをかけて一杯一杯でやってきた結果、変容した自らに想いを致す余裕があるのかな。

自分がやりきれないのだからお任せするしかない!

しかし、お任せされるほうの事情をWは深く認識できていなかった。

上記のWの想いなどは抽象論だ。

制度内の仕事は継続的な繰り返しの中で背景に権限とそれなりの規律がなければ、回っていかない

>Wが持論に固執すれば、話はかみ合うはずがなく、最終的にじゃあ、あなたがやればいいい、ということになる。

>引き受けると、Wは命がけで泥沼を這いずり回るしかない

 そんな状況で亡くなったヒトや惨劇を目の当たりにした。

それで、様々な死に立ち止まり人性とはなんだろうか、人性の終末とはいったいどのように観念したらいいのだろうかを考え込み、行き詰った。

太宰治、「姨捨」。安岡章太郎「海辺の光景」。抽象絵画、サルバトールダリ「過去の固執ムンク「叫び」

最終的に日本中世の無常観に立ち至った。

わが胸に沸き立つ怒り、悲しみを鎮めるためには、それしかなかった。

「乱世」をW流に全うするためにわが身にピッタリ合う意匠だ。

戦闘服だ!

コロナ騒動に対して各国の為政者がばかばかしいマスク着用に拘るのと同次元かもしれないが!

 Wの云っているのは制度の変容した中身、運用への批判である。

横の見守りケアの連携の中で本人の日常生活は回っている、という当たり前の側面、もっと言えば、日常生活の質は周囲の見守りケアの如何によって大きく左右される。この点において訪問介護には時間的人的な大きな制約がある。

放置主義は納得できない。命がけ、我が身を捨てる覚悟を確認しながらのWにとってせめて本人だけでもと思うからだ

訪問介護の縦割りルーティンワークの一部に日常的な見守りケアとの連携意識が含まれてよいはずだ。

>だがそこがともすれば頭の中からすっぽりと抜け落ちているかに見えるのは、どうしてなのだろうか?

考えてみる余地はある。

日本の家族主義という側面が外に心を開く邪魔をしている。コレが第一。

個の自律がなければ、地域の連帯など、所詮、昔風(戦前だな)にしか維持できない。それも弱体化している。

かつてWの訪問介護のとき、地域との連携を図るように責任者から前もって指示され、実行した。

今はそういう気配が乏しく、仕事は仕事として地域から切り離されている。

しかし生身の本人の日常生活は横の見守りケアが重要な役割を果たしている。

ソレが現実であるとすれば、縦割り仕事からもっと視野を広げた視座に移行できないのか、不思議でしょうがない。リアルな場合場合、への対応はそんなに難しいこととは思わないが、

>要するにいったんそういった方向に回りだした歯車は、それなりにかみ合ってきたのでフレキシブルな方向転換はできないということ、それが日本バブル崩壊、東西冷戦結、グローバル資本制下の制度内の仕事の限界なのだ。

 しかし、そういったWの批判は、運営者の想いや現場のリアリズムをくみ取ったものではなかった!最前線の現場で過去も只今現在も、実質的に実行できないことを要求している。

であるがゆえに

>自分がやりきれないのだからお任せするしかない!

やれることはやっていこうと割り切っている。

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         *日本のコロナ対策は間違っている。

 まず、民主政のある国では、実態を知ろうとする意志適切かどうか以前に民から沸き起こってくる。為政者が日本方式なる予定調和に拘り続け民の多くが納得するなどあり得ない。

 コロナ発生も含めた中国方式にそもそもの異常性を認める人は日本方式の異常性も気になるはずだ。(中国社会の専制と民の社会の二重性は歴史的なもの、ひとたび解き放たれると民の社会のバイタリティーが爆発する。よって専制が力抑え込む。その繰り返し)

だい2。

コロナ対策として適切ではない。患者にも自粛をしいる方法だ。実質的な見殺しだ。病気にかかった患者を病院から遠ざける方途を取るなんて民主国ではない。

適切な方法は専門家が語っている。ど素人でもわかる。

現存している検査器と要員のキーポイントへの集中、拡大しかない。残念ながら地域の大きな病院ということになる!横の連携が全く取れていないのは、今までの文中で明かにしている。(たこつぼ、歯車は横とのフレキシブルな連携はできない。ヘゲモニーを取るシステムを構築できない)

 もう集団感染を追う方法はコロナ感染状況大拡大に無力化している。感染経路不明が多くなるのはあらゆる感染ルートからの市中感染者が激増しているからで集団感染などは、感染者の広大な面にたいしてその一部を切り取った事象に過ぎない。

だい3。

公式発表の数字の破綻が普通に明らかになると、

今度は死者の数に拘っている人がいるが、その背景には弱者切り捨て、上層既得権擁護(結果的にそういうことになる)の思想がある。

日本の医療体制の充実が致死率を今まで抑えてきたのは事実だが、それに寄りかかって論争するのはこのコロナ感染状況の実態を踏まえた適切な議論ではない

検査数制限、集団感染ルート後追いの今の日本方式の破綻が明らかになるのでやがて医療崩壊阻止のために大きな病院に的を絞った対策に方針転換せざる得ないが、どこまで行っても市中感染者の実体検査拒否の基本姿勢を変えないのだから、コロナ致死率は低くなる。←市中大量検査の時期は逸し、対抗資源をキーポイントに集中投下する段階に達している!と思う。

 だってそうだろう。

コロナ感染で自宅に放置された挙句、ようやく病院に担ぎ込まれ死に至ったものに対して、CT検査などはやるだろうが、コロナウィルスの検査まで踏み込んで当該病院が実行する機会はどれほどなのだろうか?(首相はやっているというが)肺に異常なし患者でもコロナが引き金になって基礎疾患で死ぬものは多数いる。

コロナ検査をした結果、陽性反応があればコロナの死者としてカウントされる。検査しなければコロナ死者ではない。

>日本方式とは広範な市中感染者数を調べないやり方なのだから、その指示ももとにやってきたものたちが今更、コロナ統計学使徒に変身するわけがない

かみ合った歯車は同じように回り続ける。

>>ただし今までの集団感染追いの基本方針を止めて(水際対策も対抗資源の無駄使いの段階という)、病院にコロナ対抗資源を集中投下した場合(大学や研究室には検査器と人員が温存されているらしい)は以上のような事態は緩和できる。