フルオープン【7/10 18時半~ライブ配信】「覇権をめぐる米中衝突」が現実に!常時臨戦国の「正体」を露わにした米国と属国日本「朝鮮戦争の正体」が見せる真実!元外務省情報局長・孫崎享氏インタビュー後編
1、「21世紀の戦争と平和」孫崎著
2、「朝鮮戦争の正体」近刊、孫崎著 自著サイン。
其 言 簡 その言葉は簡。
其 理 直 その理は直。
其 道 嶮 その道は嶮。
其 行 孤 その行は孤。
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唐時代の宰相の言葉で「其言簡 其理直 其 道峻 其行弧」の意味を... - Yahoo!知恵袋
引用
「宰相の名は裴相國(はいしょうこく )。
黄檗宗 - WikipediaW。注釈
(おうばくしゅう・禅宗の一つ)。そこの僧侶が書物に残した言葉(らしい)。
修行する者、トップに立つ者 は 言葉は簡単明瞭に、考えは正しく真っ直ぐに。道はけわしい、 行いや決断は孤独、一人で。
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W。注釈
ウィキ黄檗宗理解キーポイント
引用
「萬福寺~~~
京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。
建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、[1]日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。
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京阪電車本線、京都競馬場前(淀君のよど城近接)次の駅、中書島駅(少し歩くと酒どころ伏見、いしん期の武力抗争の舞台になった寺田屋~この一帯は淀川、桂川、宇治川の近接合流地帯であり水量豊富な水運の地である。
幕末に起きた2つの寺田屋事件 その舞台・京都伏見に今も残る痕跡 - HISTRIP(ヒストリップ)|歴史旅専門サイト
終点の宇治の二駅手前に黄檗駅。
宇治の平等院を訪れた際、ここが黄檗宗の寺があるところか、と確認したが、訪れるまでもなかった。
>上記の黒色強調を読むと興味がわいてきた。
>「黄檗宗と日本文化
「萬福寺(まんぷくじ)は、京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。
建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、[1]日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。
>本寺の精進料理は普茶料理と呼ばれる中国風のもので、植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特色である。
隠元と弟子の木庵性瑫、即非如一はいずれも書道の達人で、これら3名を「黄檗の三筆」と称する。このように、隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、さまざまな中国文化が日本にもたらされた。隠元の名に由来するインゲンマメのほか、孟宗竹、スイカ、レンコンなどをもたらしたのも隠元だといわれている。W。ナルホド。隠元マメか!スイカ、レンコン。そして細川 護熙(ほそかわ もりひろ)さんの
其 言 簡 その言葉は簡。
其 理 直 その理は直。
其 道 嶮 その道は嶮。
其 行 孤 その行は孤。
は「黄檗の三筆」を参照しているのかもしれない。
歴史 W。ここから明朝の起源滅亡、「華夷変態」日本の国学⇒神道に脱輪暴走している。
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W。中国史のなかに、庶民が外国の支配と国内の内乱内戦に耐え蹂躙され倒れ、逃げ回り生き延び、超えて、反乱の英雄となり天下を取り帝国を築く祖となる生きた教訓がある。
大鍋が大底から繰り返しかき回され中身が外に零れ落ちやがて上澄みがすくいあげられるようなダイナミズムに満ちた歴史にある種の開き直りとそう快感を感じる。
紛れもないこの歴史的事実を明治以降の天皇史観から見ると邪史とするのだろうが、少なくとも、戦国時代と以降の戦乱の記憶が伝承され鎖国と幕藩体制が日本独自の文化発展をさせる前の江戸中期まで、は正史扱いだった。
①「1644年、満州族の清が漢民族の王朝、明を滅ぼした。日本では、これが「中華」と「夷狄」の交代・逆転、つまり「華夷変態」とみなされた。そして、従来の中華思想を否定し、日本を「中華」とする考え方が生まれた。←W.李王朝朝鮮もわが方こそ中華なりと。」
それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の文化・思想、精神世界(古道)を明らかにしようとする学問である。」←W。この角度からの言説をよく聞くが、引き付けられるものはなかった。三島由紀夫の小説に描かれる言霊精神世界。おぞましい。感性的に受け付けない。ホモチックなにおいが立ち込めている。ああいう集まって精神陶酔する世界に身の置き所がない気持ちが先に来て、その場を立ち去りたくなる恥ずかしさを覚える。自意識過剰なのか。それに比べて日本仏教にはそういうところが少ない。キリスト教はまず聖書を受け付けない。云わんとすることは解るが格好つけすぎ語りすぎだ。
「国学は、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。←W。日本型ルネッサンスか?!これは筆者の妄想だろう。なぜなら最終発展形態は 尊王思想、」
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「古道説は賀茂真淵・本居宣長により、儒学(幕藩支配層の統治学)に対抗する思想の体系として確立されていき、主に町人や地主層の支持を集めた[1]。この古道説の流れは、江戸時代後期の平田篤胤に至って、復古神道 - Wikipedia
が提唱されるなど宗教色を強めていき、やがて復古思想の大成から尊王思想に発展していくこととなった。」W。くだらない!
復古神道の歴史
「6世紀の仏教伝来以来、日本では神道と仏教は、併存と対立を繰り返してきたが←W、具体例を挙げよ!遣唐使、遣隋使以降は支配層は仏教を支配の道具化したことに対し、神道側に宗教対立を激化させるような神学的根拠がない。神仏混交は自然の流れである。
以降は平和的な併存に定まったW?。
~「改新の歴史的意義や実在性については様々な論点が存在し、現在でも大きく見解が分かれている。」
日本書紀(藤原摂関政治<時代編纂>を正当化する)の後付けである。)
平安時代に天台・真言の二宗が確立すると、神仏は単なる併存でなく、混ざり合う神仏習合が始まった。神道は「古道」とも称され、仏教やキリスト教のように戒律や教義を説く教典がなく[7]、素朴な精霊信仰の形態を維持し続けている数少ない宗教のひとつであり、「神道神学」が形成されにくいものであった。このため、神仏習合は、結果的にはその教理面では仏教理論によって古来の神々を説明するような事態になっていった(→寺社縁起譚、中世神話の成立)。
「平田篤胤は本居宣長の書に啓発され、古代史を明らかにし、皇道の正当性を天下に示すなど、復古神道の形成に大きな役割を果たした。また、幽冥界・霊魂など、霊界に関わる研究で著名な成果をあげ、法華宗や密教、キリスト教、道教などの他宗教を参照した「平田派国学」を大成させた。その後、明治になると、明治政府に入った平田派国学者らは、神仏分離と神道国教化を推進した。」
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W。徳川政権が鎖国政策(1603年に徳川家康が征夷大将軍に任官)を実行したころ、中国大陸は明朝最末期時代(朱元璋 - Wikipedia
1328年)、濠州の鍾離(現在の安徽省鳳陽県)の貧農の末子に生まれる。
家族は食べるものも無く飢死した(流行病という説もある)。重八だけは皇覚寺という寺に身を寄せ托鉢僧となり、淮河流域で勧進の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中で最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。全くの庶民から王朝を創業した皇帝として劉邦と並び称されることもあるが、一応は生活の安定した自作農の家に生まれ育った劉邦に対して朱元璋の貧苦は格別である。ただし、劉邦は読み書きがほとんど出来なかったといわれるが、朱元璋は皇覚寺時代に最低限の教養は身につけていた。
他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、朱元璋は先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民たちを取り込んで勢力を増していった。
朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の劉邦の真似をすれば良い」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識した逸話が多くなる。
朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。至正27年(1367年)、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。
至正28年(1368年)正月、応天府(現在の南京)にて朱元璋は即位し、元号を洪武とし、国号を大明とした。
1644皇帝自殺、夫人女官たちは売春窟に売られる)で、開港長崎を通じオランダ、と共に文化物品、人的交流が行われていた。
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「万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。
寺は故郷福州W。台湾海峡をはさんで真向いの福建省福州市。在日華僑に浙江・福建・広東出身者が多い。中国語は方言の差が大きく、同じ省内でも言葉が通じないことも当たり前で、方言の通じる、出身地が同じ人たちが助け合ってコミュニティーを形成することが多い。」~~明清代には琉球館が設置され、琉球王国との交易指定港であった。~~の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃にほぼ完成した。」
世界史の窓
1592年 1597年に再び
女真の台頭 李自成の反乱で明滅亡
1644年、李自成の乱で反乱軍が北京を占領、最後の皇帝崇禎帝が自殺して明は滅亡した。明の遺臣がしばらく抵抗を続けたが、1683年に鄭氏台湾が清に降り、抵抗は終わった。
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W。参考資料
~シーパワーを持たない徳川幕府の消極外交~ 小谷 哲男
「1644年、満州族の清が漢民族の王朝、明を滅ぼした。日本では、これが「中華」と「夷狄」の交代・逆転、つまり「華夷変態」とみなされた。そして、従来の中華思想を否定し、日本を「中華」とする考え方が生まれた。このため、幕府は清との国交樹立に積極的ではなかった。」
「>1711年に新井白石は、将軍の権威を東アジアにおける中国皇帝を中心とする秩序の下に位置づけようとした。
>その上で、朝鮮に対する日本の優越性を示すために、朝鮮との外交文書で「日本国大君」の称号に代えて「日本国王」を採用した。
日本国大君は将軍を示す。華夷秩序では、「国王」の方が「大君」よりも上だからである。」
W.以上は分かり易いが江戸時代の東アジアの平和を内外関係の連結した均衡とみる視点がない。論点がずれているようだ。
~シーパワーを持たない徳川幕府の消極外交~??
シーパワー、必要でなかった。
消極外交。積極外交、イラナイ。
の世界拡大路線の明も海禁路線に急展開した。防御を固めた。
W。パックス、トクガワーナは外交の鎖国政策と内政の幕藩封建体制の軍事支配による濃密なムラ年貢請負制度の徹底人民支配構造によって成立していた。
軍事貴族の数はヨーロッパ大陸「諸国」よりも多数。戦国内乱時代終結時、大動員された余剰武装勢力は半農封建軍事貴族として内部に多数抱え込まれた。
@秀吉の2度に間たる朝鮮侵略は強奪拉致倭寇の封建支配層海外版@
~余剰半農軍事貴族、下級軍事貴族を多数抱える薩摩長州の藩士は学と武力の切磋琢磨とヒエラルキー内抑圧に対するルサンチマン上昇志向伝統により明治維新で活躍。
~イギリスは少数貴族外のジェントリー層が清教徒革命推進、カトリック国王断頭処刑=議会主導権確立の名誉革命とともにイギリス市民革命~~コモンロー憲法代替えでOK!
~江戸中期以降人口増無し。他方、清では人口増加の時期があった。
日本の共同政治幻想(天皇制、会社従属、横並に安心感)と同調圧力はこの徳川体制のムラ年貢請負制度支配の指示忖度自粛上納の意思伝道ベルトを明治以降の近代国家支配層が徹底的に利用したもので、今日でも日本人心性に継承されている~~日本教と信者さんたち~~~。
@変革は支配秩序の軸から発生するのではなく、外部周辺からやってくる。
ヒト、モノ、カネの自由移動性は石高年貢制度と幕藩体制の軍事経済支配にとって、阻害要因になるので制限された。
幕末、土佐藩郷士、坂本龍馬は江戸に向けて出奔するとき、土佐湾から海路コースをたどらず陸路で阿波池田まで出て阿波吉野川を下り鳴門まで一端出て、撫養港から海路で大阪へ、淀川を遡って京都に出て東海道、江戸着であった。~司馬遼太郎の「竜馬がいく」における豊富な資料を基礎に京都着までの詳細な描写は圧巻。当時の風土、風物が臨場感をもって浮かび上がってくる。「街道を行く」の司馬の真骨頂である。
ヒト、モノ、カネの移動制限によって成り立つ幕藩体制において
>特に大量のヒトの移動を可能にする乗客船の長距離海路はご法度だった。いつの時代、どこでもヒトの大量長距離移動は革新要素になる。新大陸発見、大量移民、大戦争は革新要素である。
参勤交代が陸路で挙行されたのは、中央政権の隷属する地方政権の恒久的財政弱体化や道中の身分制武力人民支配の貫徹の要因ばかりでなく幕藩体制の支配様式を支配層自ら率先して厳格に実行する側面がある。
したがってこの日本列島巣ごもり支配体制には、東アジアの華夷秩序の相互維持が対応し、東アジア地域に革新要素はなく、停滞平和パッケージが長く続き、民衆搾取ヒエラルキーが固定された。
それには、中国を祖とする東アジアの文化圏と儒教的政治共同幻想を大前提に、日本、朝鮮の我こそは中華なりの東アジア規模の儒教的観念操作が必要だった。
東アジア停滞平和パッケージにおける日本の外圧近代化受容の一番の内部要因は、極東列島の地政学的有利性以外に、中央封建軍事政権の地方封建軍事政権に対する非宗教非宗主の分断強制力依存の分権統治の本質的漸弱性と
長期疲弊する地方政権の経済停滞下で繰り返される「改革」の失敗、ヒエラルキーの求心力の低下である。
下層武士を一杯抱え込んでいる分権地方封建軍事政権内の下層から目の前に見える西洋の戦艦への排外主義の機運が高まり、
単純武力行使の挙句、彼我の武力、技術力の格差に驚愕し、イデオロギーに固執しない軍人の特性で転向した。
その単純排外主義のパワーは一転し合理主義的な武力、技術力の導入と地方政権内急進改革に至り、主導権を握った(薩摩長州)。
>以上のような政治軍事過程において
国学から続く尊王思想は改革者のモチベーションにならなかった。それは一部に過ぎなかった。
彼ら封建軍事貴族は過去の軍事貴族が古代的祭政一致の族長権威を外勢介入との戦いの中で一掃されることなく温存してきた天皇と中世貴族を自らの支配の正当化にプラグマチックに利用したのと同じ位相にもかかわらず、
この度は外勢の武力脅威の監視の下なので政治軍事結集軸として高々と掲げる必要性に駆られた。彼らはとりあえず尊王攘夷の振りをした。
いしん政権確立期に
>日本的封建性を近代資本制に強制的に変転させる一握りの封建改革新軍事支配層は絶対君主=天皇の神輿を担ぎ上げ、自ら率先して神秘的にあがめることで圧倒的多数の人民を絶対権威と連綿と行使してきた暴力で過重に威圧した。
抵抗する民衆には徹底暴力と慈悲の二面作戦でたちむかった。徳川幕藩、年貢村請負制度の民衆側のヒエラルキーへの忖度、自粛、年貢自主上納精神は継続された。
其 言 簡 その言葉は簡。
其 理 直 その理は直。
其 道 嶮 その道は嶮。
其 行 孤 その行は孤。
W。真逆の結果となった。
W。中国風とは思えないが
引用
「 歴史
日本の江戸時代元和・寛永(1615年 - 1644年)のころ、明朝の動乱から逃れた多くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住していた。とくに福州出身者たちによって興福寺(1624年)、福済寺(1628年)、崇福寺(1629年)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明僧も多く招かれていた。
隆盛
「明治7年(1874年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、明治9年(1876年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。」