追加修正。wacawacの沢木のコロナ発言に対する想いはこういう方向からだった。
反俗日記はホッブス的世界からコロナ事態を説き起こしている。今昔物語の世界に立ち戻るのも、コロナ事態を超える<野生>を打ち立てるためだった。
北野武「ヤワな優しさを捨て、野性を取り戻せ。国の理不尽に本気で怒るのも〈新しい生活様式〉」(婦人公論.jp) - Yahoo!ニュース
五木寛之という作家が昔流行った。当時、このひとの本を手に取ってチラッと見たことはあったが、自分の感性に訴えかけるものは何もなかった。時代の風潮に乗るのが実に巧みでさらっと格好よく時代の表層を撫でまわしていて、文章も巧みだったから、一応活字に魅かれる層の幅広い支持を得ていた。
同時代に野坂昭如という作家もいた。
自らも言うように過去固執型の作品群の中には独特の文体の奥に日本人が忘れてはならない核があるように思った。
流行作家の第1戦から退いたのちにもいい仕事をしているなと思える作品がある。
アドリブ自叙伝。
タイトルからして従来の野坂の筆法で綴られているのかと想い、読み進んでいるうちに、神戸大空襲の阿鼻叫喚のなかから、自分と同じ境遇の養女である幼い妹を背負って焼け出され流浪する、その時代考証を丹念に調べ歴史として書き残す意図で、文中にさりげなく織り込んでいると解ると、この作家のその後の軌跡に納得するものがあった。
反俗日記でもアドリブ自叙伝の中の神戸港の近代化、沿岸部の重工業化という時代考証を日本産業の重工業化の参考資料として使わせてもらった。小説や映画は社会科学の実証という目線で接すると奥行きが広がる。
宇治拾遺物語の現代語訳という地味な仕事もしている。しかし、仏門に興味がある様子はなかった。
その後の五木寛之さんは、さもありなん状態だった。
たったそれだけのことで、その後の五木寛之さんの仏門解釈がそれはそれなりに何か人の存在を直撃するというモノではなく、かつての流行作家時代の作風と同じく表層を撫でまわした、一種のバランス感覚の維持という特徴を時と場所、部門は違ってもそっくりそのまま引き継いでいる。
上記の沢木耕太郎なる御仁。
名前は知っていたが、まったく興味なき作家だった。その活字の一つでも見たことがない。そもそも、ウィキで見るその著書のタイトルからして中身に問題ありで受け付けない。
このひとは糸井重里のような政治的立ち位置でどうすれば何をすればマスコミ受けするかそのコツを知っている。
いわゆる団塊の世代で一番良い目を見たのはこのひとの世代だ(世代論はしないつもりだが、実感が今でも強烈で~)。地位と名誉(いろいろな意味での地位名誉である)を得ようと思えば叶えられる確率は高く、途中人性に実害が出てもやり直しのきいた最後の世代だ。
この取材文中の発言を見ても、訳知り顔であることはうがった見方ではない。そういうことを言いたくなるのは解るが、自重するものではなかろうか。恥ずかしくないのである。
俺様はこういう仕事をしてきたと自慢している。作家たるものこういう訳知り、自慢全面化では、本質的に立ち行かないものだと考えるが、そうでもないらしい。このひとは。
どういう魂胆か、といえば、今と将来のコロナ渦に立ち往生している時代風潮を敏感に察知し、日常性を維持するためにコロナ渦でも前に進むしかないがゆえに人間的な本能として<恐れる人々>に大丈夫だよ、と気休めの場を提供しようとしているのである。
W。完全な五木寛之調だな。Wはこういうのを欺瞞と呼ぶ。たかが通りすがりの若い売文業者に過ぎない。ここまで簡単に達観の境地に達せられるのは特殊才能である。
しかし、そもそも、わざわざインドまで行かなくちゃこういう当たり前の事実は解らないのか。そういう厚かましい皮膚感覚があるから簡単に達観できる。
引用
「熱心な『深夜特急』ファンなら、お気づきだろう。この流行り病についての考え方は、すでに『深夜特急』で表明されている。当時、天然痘が流行していたインドから、パキスタン国境の街へとバスで移動するシーン。~取材者の沢木の著書からの書き出しであるが、本人は了承済み、と仮定する。~
--- インドを歩いているうちに、ある種の諦観のようなものができていた。たとえば、その天然痘にしたところで、いくらインド全土で何十万、何百万の人が罹っているといっても、残りの五億人は罹っていないのだ。
そうであるなら、インドをただ歩いているにすぎない私が感染したとすれば、それはその病気によほど「縁」があったと思うより仕方がない。
>W。好きで好んで当時の人口5億時代のインドまで行っているのだから疫病に羅漢するのは覚悟の上、というか想定の範囲内。ただし、その確率は低い、と見通している。
>ところがそれと今のコロナ渦で仕事を遂行する立場の人々とは立ち位置が全く違う。
コレって訳知り顔の説教主と、それを望む若者の関係に過ぎない。
ブッダガヤで何日か過ごすうちに、私はそんなふうに考えるようになった。 (略) そのうちに、私にも単なる諦めとは違う妙な度胸がついてきた。
wacwac。「インドをただ歩いているにすぎない私が感染したとすれば、それはその病気によほど「縁」があったと思うより仕方がない。
>羅漢の低確率を自覚しておいて、私にも単なる諦めとは違う妙な度胸がついてきた。」とは所詮、周りの環境がもたらす軽い心境変化程度の心変わりに過ぎない。何たる大げさ、安直!日本に帰るとなし崩しに削除される性質の覚悟に過ぎない。だからまた旅に出かける。
*******************
【天然痘ばかりでなく、コレラやペストといった流行り病がいくら猖獗(しょうけつ)を窮め、たとえ何十万人が死んだとしても、それ以上の数の人間が生まれてくる。そうやって、何千年もの間インドの人々は暮らしてきたのだ。この土地に足を踏み入れた以上、私にしたところで、その何十万人のうちのひとりにならないとも限らない。】
~~W。歴史停滞傾向のあるインドではそうであっても、中世ヨーロッパのベストパンデミックは封建領主と領地を耕すものがいなくなって農奴の力関係を農奴優位に変え、その後、弱体化した各領主に比べて国王の力を強め、絶対主義領域国家の成立へと歴史を近代へと前に進めた。沢木は知らないはずがないのだがすっとぼけている。
中世のパンデミックは中央集権化を促進してきた。1918年1919年のスぺイン風邪パンデミックは第一次世界大戦で明かになった帝国主義の要因を一層強化したが、民主政の対抗要因も生み出した。そうした国内葛藤の中からファシズムと十年後にはナチズムが生れた。~~
**********
だがしかし、その時はその病気に「縁」があったと思うべきなのだ。」←この人の若いころに、実存主義が流行ったが、実存主義の奥底にも触れることはなかった。人性は簡単にあきらめの境地、ましてやそこからの覚悟なんて簡単に獲得できない存在ゆえに実存の葛藤、戦いが永続する。また実際の世の中の仕組みは、簡単にそういうルートが開けないようになっている。
このひとと五木寛之さんをくらべると、五木さん方が仏門に正面から向き合っているらしき程度において、真面目である。
引用 W。大騒ぎしている人という自分ででっち上げた対比を挙げて、格好よく諦観から獲得したという覚悟をさらっとこれまた格好よく語る。W。自分だけ今だけ、の世界の完結をあえていう度胸は大したものだ。売文業の柵に完全に汚染されている。
このヒトは若いころの旅というハレの日々と日常性というケの日々を自分の頭の中で整理しない。
「「こういう想像し得ないことが起こるのは当たり前で、自分がそこにどう対応するかを決めていくだけだと思う。世界や人生が変わっちゃうとか、それほど大騒ぎするほどのことなのかな?
>僕の場合は、高齢というリスク要因を抱えていることになるし、場合によっては死ぬこともあるだろうけど、その時はその時。『それで何か問題がありますか?』と自分に問えば、何もないと答えるだけです」W、全てよしのニーチェか?
「「復興五輪」というまやかし。コンパクトでエコロジカルにといいながら、総額3兆円とも言われる費用がはじき出された東京五輪は、まったく無意味だ、と沢木。」
W。こういう常識論よりも天変地異の極端な日本列島の防災対策が五輪誘致よりも優先す出来でなかったか。
こういう常識で見える1964年東京五輪はこうだ。ばかばかしい!
「1964年の東京オリンピックは、戦後の再建のお披露目のようなものを、世界の多くの人たちが割と温かい目で見てくれていたと思います。」
Wは1964年五輪さえ違和感を覚えた。
久米宏さんは東京人だが「当時大学生だったが、全く記憶にないきっとオリンピックよりも夢中になる何かがあったのかしれません」とラジオで語っていた。
Wの東京五輪は反俗日記に2回ほど書いた。
オリンピックはローマ開催で終わっている。
次の東京は田吾作五輪。あか抜けないよ。
スタジアムの聖火塔に点灯した最終ランナーの坂井さん、選ばれた理由がぱっと見でスタイルが良い(はっきり言えば白人風8頭身)とは何とも情けない。もっとも長野冬季五輪の開会式はその対極過ぎの縄文文化風俗すぎたが、長野考古学的な背景を想うと意図は解る。ローマオリンピックと市川崑監督の東京五輪映画は同列において比較する方が間違い。 2020年東京五輪誘致プレゼン、何とかいう女性、O MO TE NA SI <様々な意匠>で飾っているだけで中身は同じではないのか。
>そして沢木耕太郎さんはついに次のように言い出す始末である。
「 コロナ禍の影響で、東京五輪は1年延期となった。このニュースが、沢木の意識を変える。 「コロナとの戦いに終わりはないのかもしれませんが、中休みというか、いったん緩やかな休戦か終戦があるとして、そうした中でのオリンピックというのは、世界の人たちにとって、意義のあるものになり得るんじゃないか、と思ったんです。
古代ギリシャのオリンピックというのはそういうものでした。それはどの国でやってもいい。もちろん日本で開催したって構わないわけで、コロナとの戦いに疲れた世界の人々の束の間の休息、あるいは『祝祭』を、みんなで味わおうというオリンピックが開催されるならば、僕も参加したい。そう思うようになりました」 しかし現実的には、来年の開催も難しいだろう、と沢木は冷静だ。 「コロナウイルスのローテーションは、まだまだわからない。来年になれば大丈夫と楽観視することはできませんよね。だからせめて、2年後がいいと思いました。オリンピックには初期の頃、『中間年大会』というものが存在していました。←W。森さんの執念に上書きしている。
何と1904年のこと。ヨーロッパ圏+トルコ。あまりにも時代背景が違過ぎる。中南米アジア、アフリカは植民地や独立間もないスポーツの定着していない国々。日本はロシアと戦争していた。
「遠い先の目標を持たず、目の前だけを見ながら生きてきたという沢木が、人生の中で魅せられたのが、長距離の移動を伴う「旅」だった。
作家として、一人の人間として、沢木耕太郎にとって、旅とは何か。
「ちょっとかっこよく言えば『途上にあること』、要するにプロセスですよね。行く先のどこか、何かが目的なのではなくて、どこかに行くまでが『旅』。だと思う。僕にとっての旅は、やっぱりプロセスを楽しむものなんだよね。結果的にたどり着けなかったとしても、問題ないんです。行かれなかったっということがあっても、下世話な言い方をすると、『それは面白いじゃないか、ネタになるじゃん』と(笑)」←W。一人旅ってそんなもの。あえて言うことはあるまい。沢木の場合は、卑俗に言えば今だけ、(売文)だけ、ということか。
「やりたいと思う仕事に何年もかかってしまうようなことは、もちろんあり得ます。僕は5年ほど続けている作業があるんだけど、それはやりたいことが5年経っても終わらないというだけの話です。それが少しずつ積み重なって、今ここに僕がいる、ということかもしれない」←W。五木寛之さんと同じような境地に達するのは必然。仏門に正面から向き合う傾向のない人で、土着への散策が精いっぱい。