今日、さっぱりした状態で送り出したいので近所のヘアサロンに行く。短くかってくれた。自分は椅子に座って手渡された創価学会の雑誌をカット終了まで読み通した。
宿命を使命感に転化する、という箇所が気になったがよくよく考えてみるとこんな表現はカミユの「シューシュポスの神話」の論法に似ている。
この手の精神論で介護の元気を生み出そうとしていたが、いつの間にやらこれでは気合が入らなくなった。見守り介護の人を施設の入れてしまったことは、どう考えても使命を果たしたことにならない。己の不甲斐なさを使命を果たしたと強弁できるほど面の皮は厚くない。
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この期に及んで去来するのは戦闘的唯物論者として人生を全うするというテーマだった。
そのために見守りケアも曲りなりに続けてきた。こういう心境を誰にも話したことはない。見守りケアの人に話した頃にはもう理解することはできなくなっていたので話し合いにはならなかった。
ありがとう、とあのひとにお詫びしなければならない。そして申し訳なかった、自分が不甲斐なかった。
自分の頑ななまでの拘りが交流の障害になったのも事実。情のない人間、二重人格とよくけなされた。
安岡章太郎の「海辺の光景」
という私小説の中身について考えが回帰する。
「楢山節考」の世界が今の世の中に形を変えて実在する、とどれほどの人々は知っているのか。解れば「自由」に生きられる人たちが大勢いる。