W。You Tube動画で視聴しだして、もう何年になるかな。近年、活動が活発になった。
The Surfrajettes – Wikipedia
W。カナダ、トロントで結成され、全米のライブスポット、ツアーではカナディアンバンドと自己紹介している。You Tube動画でToxicのThe Surfrajettes版アレンジが全米で注目された。
ギタリストのニコール・ダモフ(舞台左)とシャーミー・フリーマン(中央)が曲目によって交互にリードギターとリズムギターを担当する。テクニックがあり、リズミックなテンポとメロディラインがうまく調和している。
アメリカのグループだとこの調和はだせない。基本、ガンガンのりまくったり、ギターテクニックに走る演奏をする。
その典型がベンチャーズ違うかな?(アメリカでの初期の演奏スタイルを聴けばわかる~動画に出ている~)。
同じインストメンタルグループのベンチャーズとシャドウズ - Wikipedia
を比べてみるとよくわかる。
対極に位置するとおもうが
までいくと「グループサウンド」の肝であるノリがあまりにもよくない。
引用
「アルバムは、アメリカでは全くヒットチャートにもランク・インされなかったがカナダではまずまずヒットした。」⇒W。反俗日記の記事の趣旨と符合することが判った。
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ドラム、ベースギター、サイドギターの醸し出すノリがエレキサウンドのだいご味。
メロディーライン重視のバラード調はノリのいい演奏の合間のひと時の心地よさを提供するものと。
アレはアイルランド、スコットランドを含めたブリティッシュサウンドに先祖返りした曲目だろう。
反俗日記的に言えば<無視>のしろもの、ポールマッカートニーの幅広い才能の極北が思わずでたものだろう。作曲するときに鍵盤でやるとどうしてもメロディーラインが気になる。ピアノでロックの乗りを出すのは意外に難しい。ロカビリーではピアノを連打する名曲が多い。
カナダの映画や音楽はイギリスの影響なのか、アメリカよりもマイルド、衝撃性を狙わない。JAZZは苦手だがどういうわけかオスカー・ピーターソン - Wikipedia
をCDカセットに入れておいてイージーリスニングのように利用している。正面で向き合って聴くには物足りない。
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サーファージェツの動画へのコメントでファンは、今回のツアーではベースギターがいつものメンバーでないのを気にしている。
それ以前の直近の動画では新しいドラマーにたいする絶賛が目立った。
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新しいドラマーでシングルとアルバムを出している、所を見るとサーファージェッツ、サウンドを盛り上げている、とみているのかな。
確かにドラムは迫力がある。女性に思えないほどパワフル感がある。受けるだろうな!
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日本の女性インストルメンタルを以前反俗日記で取り上げたことがある。
当時この動画の視聴数が爆伸びし嬉しかったが(良いものはよい、みんなが認めるということで自分が取り上げたことは関係ない)、
肝心の本人の活動動画の伸に連動しなかった。
地道に全国を回っていることを想えば残念に思いながら視聴したがフォークとか歌謡曲調に流れてしまうところに、自分としては限界だった。
ベンチャーズサウンドの女性らしいセンスのある解釈はよかったが広がりが~~。
ベンチャーズとプレスリーはダブった一世代を形成し、たった数年の差でロック世代に移行し、過去は置き去りにされた。
ベンチャーズがよかったのはあの世代、あの時代背景と音楽シーンがあったからだ。即物的なことを言えば金銭的にエレキギターのバンドは組めなかった。高校ではバンドがいきなり舞台に上がったが校内でそんな素振りはみせなかった。ベンチャーズサウンドだったが、ギターよりもドラムの喧しい音が終始気になって持ち時間はあっという間に終わった。なんだかごまかされたような気分がした。その次に登場したのが同じ中学からいって音大に進学が決まっている(と紹介された)美人の弾くクラッシックピアノ、というのだからしっちゃかめっちゃかだった。こちらの方は解った。前からその道を目指していたのを知っていた。
1960年代中盤までは日本が一番、未来に不安のない良い時代だった。
1960年代後半になると時代様相はガラッと変わり<反体制>や<アングラ>が時代の前面に出てきた。
しかし、今想うに、当時(1960年代中盤過多後半)も薄々感じていたが、先頭を疾走していたのはいわゆる<変わり者たち>だった。常識人も変わりものの振りをしていた。
冷戦時代だったけれどグローバルな実物、実力からの実生活や様々な創造活動へ圧力はなかった。むしろ私的な「憧れ」だった。運動圏と日本帝国主義を云々することが、ムード的に直結していた。その中間項の政治構造はすっ飛ばしている。
日本とたとえ米国であっても世界の間には大きな隔たりがあった。客観的歴史的視線でいえば、そうではないが、高度経済成長時代の日本は自生的な経済発展のコースを辿った。日本国内でバリューチェーンはほぼ完結し、その余剰が輸出の回された。だから会社という中間組織は一種、共同体の代替えの役割を果たしていた。だからみんな年功序列の会社を目指した。やはり世界基準で価値判断されたら普通の目覚める個人は肩の荷が重い。役割に徹するべきだろう。ところがマスメディアは貴種をクローズアップする。<ケ>よりも<ハレ>が注目を浴びる。
音楽シーン、映画の世界でも多くの人が<変わり者>として人生を全うした、しているのではないか?
ベンチャーズから先を行った寺内タケシに至ると、なにか、間違った方向に枝分かれしていったようで(テクニック特化)絶対に受け付けなかった。「津軽じょんがら節」「ベートーベン」。あり得ないヨ。根がカントリー&ウエスタン、ロカビリー(ロック+ヒルビリー~カントリーの蔑称、自称)プレスリー世代のど真ん中にいたわけでロックに基本的に乗り切っていなかった。ベンチャーズの出は基本的にアメリカンロックでロカビリーとは別系統。
シングル・ 017:ザ・サーフラジェット(EP)
引用
「このグループは、典型的な1960 年代の レトロな外観と本物の楽器で演奏する 4 人の女性メンバーで構成されています。ほとんどの曲はギタリストのニコール・ダモフとシャーミー・フリーマンによって書かれています。[1]いくつかのソロコンサートに加えて、バンドは米国とカナダの数多くの音楽祭に出演した. [2] [3]
このグループは、2017 年から独立レーベル Hi-Tide Recordingsと契約しています。ベース奏者のリンダは、最初のレコードがリリースされる前にバンドを去りました。彼女がInstagramで発表したように、ドラマーのアンバーはその後まもなくバンドを去りました。
[4]ブリトニー・スピアーズの名曲Toxicのサーフ バージョンで、バンドは 2018 年にYou Tubeチャンネルで全国的な注目を集めました。
2022 年にリリースされたデビュー アルバム Roller Finkには、オリジナルの曲だけでなく、ビートルズの曲She Loves Youとブロンディの Heart of Glassのクラシックなサーフ スタイルの新しい解釈が含まれています。」[5]
W。活動を始めて6年
アルバム
コメント
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W。今回のライブツアーで新しく起用されたベースの女性が客席に背を見せドラマーの方を向いて弾いているのはリズムを外さないため違うかな。そのご、一番直近の動画(5日前)を視聴すると元のベースがバンドに戻っている。
プロとして給料をもらって雇われたら、できなくても教えてくれないよ。徹底的に恥をかかされる。彼はもともとプロ中のプロになるためのセンスがあった。我慢もしたが。
まったく職種は違ったがWはどうしたか。
恥をかかされ鬱屈し、できない自分を棚に上げて、筋違いの自信過剰と<暴力>に頼った。しかし、やっていくうちにできないのははっきりしていた。目標には憧れがあり、うまくなりたい、とはっきりしていたので、我慢しなければ、一人前になれないと解った。
職人の世界とこの動画でいう世界はよく似ている。各々が解っているもの、できるものとして扱われ、勝手に個々人が自分の持ち場で動いていく。できないものは何をしてよいのかわからず、誰も指図してくれない、周りに聞くに聞けず何をしてよいのか、とりあえず恰好だけつけようにもそれもできない。屈辱である。自我の背骨にずしんと来る。
今でも新卒優遇採用の日本では周りが教えてくれるが、職業意識の強い外国では仕事を奪われる、という感覚がありそうはいかないのではないだろうか。
日本は江戸時代のムラ社会の精神が続いている、ということも原因である。観戦に行ったファンの間にムラ社会限定の倫理観が働いて試合終了後、応援席のゴミを拾った。
反原発の国会前集会でもごみを拾ったという。
韓国のろうそくデモでもごみ拾いをしたとファンソギョンの自伝で読んだ。日本限定現象ではない。
個々人ではなく集団単位で動く、責任を感じる習性を教育で叩き込まれる。中国大陸は知らないが朝鮮半島と日本列島はこの点で強弱あれど同じ心性がある。
日本の場合はそれが極端に出ている。
年貢村請負制度の徹底は日本人のDNAにしみこみ、明治維新政府の絶対主義の下支えをした。日本人の精神下半身は日本中世末期から戦国、江戸時代を通じた領主の年貢ムラ請負制度のDNAが刻印されている。
日本資本主義が発達するとそれは町内会の末端統治に入れ替わった。日本の都市は村の延長だとよく言われる。 日本型の会社組織もそういう分類にはいる。日本の軍隊は年貢ムラ請負制度を軍事化したらこうなるの典型だった。村役人の責任制は鉄拳制裁として末端に下され実行され、上はそれを統括できず安穏としている。
しかし、今書いている系列が戦前戦後、好作用してきた側面が日本経済を押し上げてきたのも事実である。
Wは転居してから一貫して自治会に関わってきたが、とにかく役員になればみんな真面目に職務を遂行する。手抜きをしない。そういう慣習にたいして、会計をしていた時に、たかが自治会の仕事なのに企業会計じゃあるまいにもっと簡略化できないものかと提案したことがあるが古い顔役から猛烈に反発された。今までそれでやっているからと。強烈な自負心がある、とその時感心した。私にしたらたかがでも、子育てし一生を送ろうとする者にとっては、居場所の価値観が違った。
実際に、とんでもない不正が身近にあったことも事実。自分のカネと会計のカネが小さな単位だが、こんがらかってくることが何度もあった。
>結局、あまり生真面目にやり続けると、誰しも職務を担えなくなって、個人に役割が固定され、チェック機能がもともと緩いことも事実なので、個人の不正が生まれる。全員参加と専門家の中間項が見いだせない。
ボランティアは良いことづくめではない。金銭の対価があって、仕事の客観的評価が生まれる。
>防衛費増額するくらいなら、全国津々浦々まで広がっている地域の無給ボランティア活動を営々としている人たちを有給にしたらどうだ?
国っていうのは住民を守るためにある。第2次世界大戦敗戦まで、国は住民を大切にしたか?
いつまでたっても地域の名誉職として実質労働を積み重ね、これらの人々を相手に窓口になったり、事実上、業務連携している人が有給の地方公務員では余りにも不均衡すぎないか?個々人に10万円や5万円配るよりも末端の自治組織の制度を見直し給与制にした方が統治機構の合理的な運営になるとおもうし継続的な経済効果にもなる。何よりも末端のボランティア<仕事>は金銭という客観的評価にさらされるべきだ。
Wはいつも清掃仕事でとんでもない超過労働をしている。本来のWであればはっきりと不払い労働を指摘する。
典型的なサービス労働である。
しかし役員は本当によく働き、しかも感心するほど有能。事務処理能力があって、現場労働にも精通している。そういう模範があるからうるさい人間のWも最初は騒いでいたが(やくざにおもわれたらしい)少子高齢化の数値を見せられ、言い分はまっとうな夫人を泣かせてしまって、納得ずくでおとなしくなった。住民はみんなしっかりしている。一生懸命生きてきたし生きている。老いて次々と事故みたいに死んでいくのも我が身に起こることだ。
また認知症のヒトを介護したことも自分のそれまでの人生観を変えた。あおのひとは素晴らしい人だった。魅力的な人だった。自分は介護しているつもりでも介護されている、と気づいていたが本当に腑に落ちていなかった。自分は心が狭く弱い人間だった。グループホームにはいってから1か月たってどん底に落ち込んだ。今もなお整理がつかない。命を懸けて介護するべきだったと。そうすることが間違いであるという介護の理屈は不適切だった。やることをやりつくした人間に「自由」は必要でなかった。人生終末の最大の目標値を失った。
自分ができないことをやれる人は、一目置く相手を評価するとこちらから腹を立てたりは絶対にしない。
しかし生真面目な村役人も不正の罠にはまる危険性は付きまとう。
サッカーのごみ拾いなんてまだかわいい方だ。しかし、グローバル資本主義の時代に逆行することをやっているという自覚がほんの少しでもあってもよい。移民の人たちの仕事がなくなる。
観客席で拾ったごみは、ホテルに持ち帰って捨てているのかな?それともサッカー場に所定のごみ箱があるのかな?いずれにしても場内清掃専門の業者がそれなりの道具を使って一斉清掃をやるわけでたかが日本人観客席に一隅のごみなんてあっという間に片づけられる。ごみのA点からB点への移動なんて個々人の感覚の問題でしかない。
Wはバス停のある路上のごみも集めているが、何が落ちていても気にならず清掃している。
他所で偶々ジュースの缶を植え込みに捨てている人を見かけても、そういう人もいるんだ、程度にしか思わない。自分も若いころにたばこのポイ捨てやごみの放置はやっていたが、ある時から突然やらないと決めた。しかし、誤解を承知で言えば、ごみの散乱するところや猥雑なところを全部、消去した世界は居心地が悪い。
個々人のマナーの問題は個々人の在り方の問題に尽きる。
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