反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

The Surfrajettes ,ラスベガス、オルレアンズホテル。演奏中、右手のドラムステック落下見失う。中国成都、バンド「インターナショナル」演奏動画から想いを拡げる。

 W。演奏中、右手のドラムステック(黒色~珍しい)落下~1分38秒~。直下に見当たらず、(その間、ギターはごまかし演奏)予備のステックでドラミング開始。1曲終了後のバンドメンバー間の表情が面白い。

 ラスベガス The Orleans Hotel

背景のポスターは ロカビリー(ドラマーのマロニーの影で読めないが、多分)ウイークエンド。

コメント 

Flying drum stick @1:38. That's live music, I love how Sam Maloney goes for it. She's added so much to the band.

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W。ドラムがでたらめすぎる。これではまともな演奏ができない。   

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 中国のこのバンドによる「インターナショナル」は去年、3本ぐらい正当な演奏のバージョンがアップされていたはずだ。

バックのレンガ状の壁は、古代中国の主戦場であった<中原>の西端であった古都(いま四川省成都>の城壁遺跡である、とそれらの動画の解説で知った。

>このバージョンがあった。ドラムがまとも。背景は同じ成都市城壁。

https://www.youtube.com/@user-ed4hh4zm4w/featured

W。ネタ元は中国型ナショナリズム=左翼急進主義に貫かれているようだ。何を考えているのか、こういう生の意見を動画で見るのも一考である。後で視聴してみる。

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~反俗日記、直近の記事で挙げたチャンさん動画のチャンさんの出身地は成都から200キロぐらい離れた小都市<李白の生地>である

 面白かったのは帰省したとき、成都空港から乗ったタクシーのEV車が途中でエンスト、充電に5時間もかかった。走行距離、充電時間に問題があるようだ。物理的に解決できるのかどうか?CO2総排出量軽減、省エネ効果は間違いない。エネルギーの法則から個別冷暖房と地域冷暖房の違いみたいなものだ。要するに今のところ、当面の販売価格を別として自家用車レベルはEV車。製造も簡単で済む。営業車のEVは先の悪条件があり厳しい。

 さらに余談になるが、チャンさん動画で登場人物出身省の近隣の省の比較を必ず語らせていた真意がその後のWの中国本の乱読で判明した。中国の各省は日本の都道府県よりも経済政策の裁量権与えられて<悪くいえば地上げ屋紛い=農地は公有、~不動産バブルの温床~>互いに競争する関係にあるそれが共産党内のヒエラルキーの上昇につながる、という仕組み。中国も韓国と同じく競争社会。急速経済拡大にそれなりの仕掛はあった。)⇒日本の経済成長にも独自の仕掛けがあったが、日米貿易摩擦プラザ合意受諾、日本バブル崩壊の内外過程で米国基準に更地にされた。構造物を立てるときにまず地下工事が必要になるがやらなかった、やれなかったのか。お宝の備蓄はあると、テント張って催しものでもやってきたのか。

 このバンドの昔の動画は偶に視聴していたが、以前から{インター}はロック調にアレンジしたら面白い、と思っていたので、なかなか良いセンスしているな、とその都度、感心していた。日本のフォークゲリラの小規模にした熱い雰囲気がバンドと聴衆の間にあった。

 この演奏はアップされていなかったように思う毛沢東のスマホ肖像を掲げる者はいなかった、と記憶している。古い動画は削除され新しくコレ1本がアップされた。

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 W。昔、この歌は戦いの現場で不思議な力を発揮した声質、雰囲気もこんな感じだった若者が声を合わせて歌うとなんでこんな風になってしまうのだろうか?

あまりの一致に時空を超えて、ソコに何かがあるのだろうか?と探したくなる

インターナショナル (歌) - Wikipedia

 引用

インターナショナル」の誕生

W作詞者のウィキの方が臨場感がある。

ウジェーヌ・ポティエ - Wikipedia

布地の図案デザインを生業にしながら、

1830年、はじめての大衆歌謡『自由万歳Vive la Libertéを作曲。

1840年『いまこそ一人ひとりが立ち上がろうil est bien temps que chacun ait sa partを発表した。⇒W。横並びのいわゆる<団結>の趣旨はない!

1848年、2月革命に関与。その後第二帝政下ではプリント布地の会社を経営。⇒W.先端を行っている。

 

1864年、布地デザイン業者組合の発起人となったこの組合は当時結成された第一インターナショナルにも加盟することになった。⇒Wサンディカリズムかな。

>1870年プロイセン軍によりパリが包囲されると国民軍(当時の民兵組織)の一員として戦闘に参加。

⇒W。国民同士の戦争と<革命>は表裏一体だった、と確認する!戦争が革命を生んだ。コレが歴史的現実である。

1871年パリ・コミューンも積極的に関与し、パリ2区代議員に選出され、公役務委員会の議長を務めた。血の1週間の戦闘にも参加した

1871年6月、パリで逃避行を重ねながら詩『インターナショナル』を完成させた

イングランドに亡命。1873年5月17日、欠席裁判で死刑判決を受けた。

その後亡命先をアメリカ合衆国に移し、国外追放になったパリ・コミューン参加者たちの連帯運動を組織した。同地でフリーメイソンに加入

また社会主義労働党にも参加した。1880年、特赦を受けて再びフランスに戻ったが、破産状態にあり、半身不随であった。作詞活動は続けたが、貧困のまま死んだ。

死後1年を過ぎた1888年リール出身の労働者・音楽家ピエール・ドジェーテルがポティエの詩『インターナショナル』に曲をつけたことによって、ポティエは脚光を浴びることとなった。この詩が書かれたのは1871年6月、パリ・コミューン鎮圧の只中であったのだから、すでに17年の歳月が過ぎていたことになる。

  作詞者 ウジェーヌ・ポティエ  作曲者 ピエール・ドジェーテル

コピーペーストできない。ペイントする。PCのCPU容量不足で動き鈍い。

W。パリコミューン戦士の国内逃亡中に作った戦いの詩はざっとこんな調子後は省略

この時代、女性の政治参加はほぼなかった、と思える歌詞のフレーズがある。もっとも、産業資本主義段階の影響もある。   

    W。参考資料

ルイ・オーギュスト・ブランキ - Wikipedia

1805年2月1日 - 1881年1月1日19世紀フランスにおけるほとんどの革命に参加し、

のべ33年余りにわたって収監された。多くの秘密結社や陰謀に関わった。兄は経済学者ジェローム・アドルフ・ブランキ

パリ・コミューンの「大統領」に選出され、コミューンはティエール政権に対し、コミューン側の囚人の解放と引き換えにブランキの釈放を要求するが拒否される。

  • 1830年:七月革命に参加し、勲章を受ける。
  • 1831年:大ブルジョワの支配に反対して極左共和派に参加し、投獄される。
  • 1832年:投獄される。
  • 1836年:投獄される。
  • 1839年:5月12日秘密結社季節協会」(別訳語:四季の会四季協会)を率いパリ市庁と警視庁を襲撃した。逮捕され、死刑の判決を受けるも終身禁錮減刑される。
  • 1847年4月:釈放される。
  • 1848年:二月革命に参加し、左派勢力の結集に尽力するが、臨時政府と対立して、国会乱入を指導し逮捕され、懲役10年の判決を受けアフリカに追放される。
  • 1869年:大赦により釈放される。
  • 1870年:ナポレオン3世の従兄ピエール・ボナパルトに射殺されたジャーナリストヴィクトール・ノワールの葬儀に参加、その後暴動化したデモを扇動したとして逮捕され、死刑判決を受ける。トーロー要塞内の土牢に幽閉中に『天体による永遠』を執筆する。⇒W。小田実が昔云ってたな。日本の知識人はナヨナヨしている。太宰治嫌いの三島由紀夫はその点で日本的狂気に走った、というべきか。あの人のことを本当に解るヒトなんているのか?小田実が称して「右翼小説」という三島の小説を読んでみたが<狂っている>としかいいようがなかった。あのような昭和天皇や2,26事件の祝詞による再現で陶酔できる境地は理解できない。右翼というのは政治共同幻想世界が大き過ぎてその他のことは視野の隅にしかない構造を抜きにできるから人間関係に執着できる。そう意味で政治世界向きにできている。しかし、その政治に領導される社会構造、経済構造部分は、ととんでもないところに連れていかれる一般的に日本国民なんて言われている個々人は大雑把に言えばその<構造>部分として歴史教科書的に総括されてきた人間集団だった
  • 自衛隊出身の大作家が読んで泣けてきたといっていたが。しかしWによればその太宰も<強いヒト>としか言いようがない。小説「姨捨」で無理心中未遂の結果、女房にした元津軽芸者の切り捨て方は残酷であった。もちろんそれによって本人は傷ついていただろうがやり方はドライすぎる。<選ばれし者の恍惚>を体現できる家庭環境であり時代だった。もう一つ葛西善蔵のケースでは、作家は実生活を偽作化し二人の女房と子供を犠牲にアル中疾走する。それでも彼らから突き放されなかった。そういえば太宰、葛西はともに津軽のヒトだ。ヘミングウェイの孤独はマッチョと行動力にむかい自死で締めくくった。もうやることがなくなったから死んだ。ダシールハメット自分なりの主義者の道を全うした。このヒトもやることがなくなった隠遁生活の中、死んだ。英文の日本未発表本を大きな図書館で見つけたとき、思い切って借り出しておけばよかった。少しづつ趣味で和訳するつもりで図書館行ったとき書棚にはなかった。小説ではなくレターやメモの類。