反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

(1951)<男の哀愁>ねこむすめ 、さん転載。鶴田浩二、高杉早苗、桂木洋子、岩間鶴夫監督 。日本映画黄金時代の松竹映画の文芸調を満杯の映画館観客に説得できた隠れた名匠。鶴田演じるエリート美大生がミスキャストでも映像とストーリー展開で最後まで飽きさせない演出力は見事!時代考証的意味で鶴間監督作品の見直しが必要。

男の哀愁

異聞俳優について

桂木洋子 - Wikipedia

引用

東京市四谷区(現・新宿区)に、家具屋の娘として生れる1946年に東京都立麹町女子商業学校(現・東京都立芝商業高等学校)を卒業し、松竹歌劇団に戦後の2期生として入団する。同期に千草かほるなどがいる。

1948年黒澤明脚本の『肖像』を準備中の木下惠介監督の目に留まり、この作品で映画デビューする。続いて、同監督の『破戒』に出演したのを期に歌劇団を退団し、松竹に入社する。

その後、木下監督の作品に次々と出演する傍ら、1950年に『三つの結婚』に初主演するなど、甘い美貌で人気を集めた。1953年に作曲家の黛敏郎と結婚し、以降は家庭を優先して徐々に出演本数を減らし、1963年日活『丘は花ざかり』を最後に引退した。

~~2007年3月に死去した。満76歳没。」W、引用終わり。W、演技、下手。~~

W。この映画は1951年の青春やくざ映画は今をしての感

鶴田浩二の松竹時代の作品。演技は下手ウマ⇒とても東京芸大?の学生には見えない!コレで通用してきたスターシステムが当時(朝鮮戦争勃発~~|1950年7月~~はあった。」。身長もあるが顔、デカいな(長い)=歌舞伎役者と同じ。こんなヒトは昔も普段でも目立つ。演技力なくワンパターンが東映にはまった。1950年当時、大学に進学できるのは極少。東京芸大の世に出ていない学生が、周囲や世間にこんなに重宝がられた。文系の世界が広がった時代。世界戦争の人間の生き死にが身近にあったから階層、地位、名誉、モノ、カネの尺度は今ひど「絶対的」評価基準ではなかった。

>この映画の主要テーマは敗戦後の社会的価値基準の混沌であり(愛を愛としてのみ交換せよ!がこの映画の英米被れ戦後道徳イデオロギー金色夜叉の日本的発展テーマ)、朝鮮戦争を通じての日本資本主義の復興と共にこうした過渡期的社会的価値基準は朝鮮戦争を通じて)資本制のもとに整理されていく。

>出だしの音楽が凄い!軍歌調だ!

@この映画はパターン化された一種の歌舞伎の世界。それがうける、のも日本だから。

芸術的評価は最低レベルだが、映画の完成度は高い。

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監督

岩間鶴夫 - Wikipedia

映画黄金時代の松竹映画調の娯楽作品を連発した巨匠と言える。松竹調の人間の機微を映像化し、満杯の映画館の観客を飽きさせずぐいぐい引っ張っていった腕前は見事であった。

>再評価されるべき監督だ!

@高杉早苗 - Wikipedia

Wの知っている限りこの女優は当時の先端を行く女のワンパターン演技が繰り返しはまっていた女優。この映画ではあまり魅力できな女とは見えないが、敗戦当時はいわゆる<ハイカラ>が風俗リードの世の中。

@引用 「高杉 早苗1918年10月8日[1] - 1995年11月26日)は、日本女優本名は喜熨斗 弘子(きのし ひろこ)。旧名は清水ヒロ。

夫・三代目市川段四郎との間に、長男・二代目市川猿翁(旧名:三代目市川猿之助)、次男・四代目市川段四郎、長女・市川靖子の三子。香川照之四代目市川猿之助は孫、五代目市川團子は曾孫にあたる。

  • 夫である三代目段四郎とは遠戚にあたり、高杉の母が舞台鑑賞後に高杉と共に市川の楽屋を訪ねた際に、段四郎が惚れこみ、紆余曲折あったものの結婚へとこぎつけた。
  • 女優引退は、舅の二代目市川猿之助の意向だった。(W。もともと江戸時代の歌舞伎は大衆娯楽のおどろおどろしい見世物(この状況を現代的に再現したのが高度成長経済末期の天井桟敷などの舞台)。いしん前の歌舞伎界は人気はあるが身分的には河原「乞食」筋の低位。明治「いしん」と共に西洋列強に対して江戸大衆演劇文化の仇討ちや恨みつらみのどろどろ嗜好を洗練化する必要から、歌舞伎の高級化が画策され、歌舞伎役者の血筋が封建番外から近代の文化的支配層に意図的に嵩上げされた=梨園
  • 二代目の洋風好みと格上げ歌舞伎界への固執は何ら矛盾しない。明治「いしん」官僚の洋風取り入れ=権威付け、実用化と同じ道であったがその真意は歌舞伎家紋の新たな権威付けであった。内部からの近代に即応する権威をする家紋役者と外部からの参入者が呼応し、歌舞伎界の家紋が時代の遍歴をも取り込んで保持されていった。その役でも超ハイカラ女を演じた高杉早苗こそが歌舞伎界の家紋の強固な保持者であった。コレは日本文化の特徴である。しかし歌舞伎の本質は江戸時代の形式ばったおどろおどろしい流行り芝居と「いしん」権力の格上げ(庶民からの遊離)なので、現代的には無様な格上げ形式芝居を維持する家紋に庶民的血統を付け加えるしか他あるまい。歌舞伎の原点に帰れ!と言いたい。この姿勢があれば家紋の悲劇は無かった。
  • 女優復帰は、戦後すぐ疎開先から東京への転居費用などで借金がかさんだことから。ただし、梨園の妻としての行動に支障が出ない範囲ならという条件付きだった。
  • 同じ松竹の看板女優だった高峰三枝子とは公私共に大変親しく、高峰のリサイタルへも数度ゲスト出演している。
  • 息子の三代目猿之助浜木綿子の結婚には、自身の経験や浜が宝塚歌劇団出身だったことなどから反対したと伝えられている。
  • 孫の香川照之とは、香川の1歳の誕生日を最後に、高杉が亡くなるまで生涯一度も顔を合わせることはなかった(猿之助と浜の離婚後、香川が浜に引き取られたことが原因)。
  • 市川猿翁 (初代) - Wikipedia

「猿翁」は舞台で使われることが一度もなかった隠居名の名跡で、しかも改名直後に本人が死去したため実績もまったくない。一方、「猿之助」の名跡は53年間にわたって名乗り続けており、それ故に今日でも彼が「二代目 市川 猿之助1888年明治21年〉5月10日 - 1963年昭和38年〉6月12日(いちかわ えんのすけ)として語られることが多い。

東京市浅草区千束町2丁目に生まれた


初代市川猿之助(二代目市川段四郎)
の長男。1892年明治25年)、九代目市川團十郎に入門、同年4月、市川團子を名乗り歌舞伎座関原誉凱歌せきがはら ほまれの かちどき』の千代松に扮し、初舞台を踏んだ。

今後は歌舞伎役者も豊富な教養が必要という父の意向で私立京華中学

黒澤明の出身校)に進学・卒業するが、これは当時の歌舞伎界では異例なことだった。

1909年(明治42年)、二代目市川左團次の主宰する自由劇場に参加。翌1910年(明治43年)、二代目市川猿之助を襲名し、以後53年間にわたって名乗り続けた。

その後、欧米に留学して最新の舞台芸術を学ぶ。このとき見たディアギレフのロシア舞踊が『黒塚』『小鍛冶』『悪太郎』などの新作舞踊の立体的な演出に生かされるなど、猿之助にとって貴重な体験となった。

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