反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

核汚染、被曝で人体実験場と化す日本列島。東電発表の現時点での2、3号機圧力容器、格納容器破損、新収束工程表の評価もマスコミ報道に乱れが出てきた。

  さて、今日も元気を出してやっていきたい。久しぶりの好天。
早朝のストレッチ、筋トレをいつもより入念にやった。
 
 まず、タイトル冒頭に挙げた、被曝線量の問題から入りたい。
私はこれまで、反原発派でも脱原発はでもなかった。
原発に関する意見はもちろん反対だったが、ヒロシマ、長崎の原爆投下と関連付けたイメージからのモノであり、中身はまるでなかった。
 
 私たちの世代で頑固に自分の主張を曲げないモノには、良い意味でも悪い意味でも、一つの政治的枠組みと云うモノがある。悪い意味で云うと、頭が固すぎる、柔軟性がない。良い意味では枠からはぶれない。定点観測しているのでたいていの問題には自分流の意見がある。
 
 原発問題に関してもそれが適応される。
反対するが中身はない。
 
 反原発運動が本格的に盛り上がってきだした時、私は仕事に夢中になっていた。政治に対して関心はあったが、昔の仲間が集まった時、一気に話し合う以外、一切誰とも話さない、と決めていた。頑固にその法則は守っていた。
 
 仲間と話し合っていても、原発反対は確認しあっても、その問題に踏み込んで語れるモノは誰もいなかった。
 
原発を問題にするときに、被曝の問題は避けて通れないが、かなり、イロイロな情報に接しても、正直言って、理解しずらい。
 一番、身近に問題にしなければならない原発健康被害について無関心だったし、そういう観点からの思考方法が身についていない。
 
 放射線量のイロイロな数値を見ても、それがどれほど実証に裏打ちされたモノなのかと云う、疑問点が頭から離れない。
 だから、ある数値を境にそれを超えたら、怒り心頭に発して、オカシイジャないか、と云う感情が湧いてこない。
 もっともハードボイルドな性格にもよるが。
 
 福島原発事故現場からずっと離れたところに住んでいるからかもしれないが、多分、福島の中通りに住んでいても、農業でもやっていて自分が直接利害にかかわらなかったら、人間の個体としては、動揺しないと想う。
 
 福島は確か二回ほど訪れたことがある。新幹線がまだ仙台止まりだったころだ。
福島市の居酒屋に入って何気なくテレビを見ていたら、天気予報をやっていて、海通り、中通り、山通りに分けて予報をしていた。なるほどな、と想ったのを記憶している。
 
 先頃、NHKテレビの報道番組を見ていたら、原発避難民のごく普通のおじさん、おばさんのインタビューが流れていたが、聞いていて面白かった。
 
 海通りの人たちの言葉は茨城の言葉によく似ているな、って。そっくりの様な気がした。
中通り、は福島盆地で原発のある海通りと山系で隔てられて、同じ福島県と云っても、お互いの交流が歴史的に少なかった性なのか、言葉がかなり違っているな、と想った。
 
 
 <ここからは、全くタイトルと関係がない方向に話題がずれ込んでいく。日記なのでこれからもこういう手法もあり。多くの人に読まれることを期待sているわけじゃないので、自分の書いたモノを抹消する必要なし、と判断>
 
 大昔、能登半島の旅の終わり、、北陸本線を鈍行列車で、金沢から福井を通って、次第に下っていくと、モノの見事に各駅で止まる列車に乗り込んでくる地元の人の言葉が関西弁に近づいてくる。
福井を通り過ぎてしばらくすると、関西弁とほとんど変わらなかった。
 
 もっと、若いころ、言葉の不思議を体験したことがある。
 
北海道旅行の車中で知り合った、三重県の威勢のいい短大生のグループ。
日本共産党の民青の人たちだったが、しゃべっている言葉はコテコテの関西弁だった。
聞けば、三重県は松坂の短大の人たちだと云う。
 関西弁のエリアは近畿圏とばかり思っていたので、まさか、近畿圏の範疇から程遠いと想っていた松坂の人が関西弁をしゃべっているとは知らなかった。それもコテコテの関西弁。
 ところが、親戚の親戚は三重県は津の人で、しゃべっている言葉は関西弁とまるっきり違って、名古屋の言葉に近かった、と記憶している。
 
 その後、松坂を訪れたが、言葉はもちろん、街の雰囲気は関西のどこにでもあるようなローカル都市だった。
 
高知県四万十川は日本最後の清流だと云われて、マスコミによく地元が登場する機会があるが、あの辺の方がしゃべっている言葉は、豊後水道を隔てた、九州の人の言葉に近いと想う。
高知県は室戸から、足摺岬宿毛の方まで、実に広い。高知市の人は関西弁をしゃべっている。
 
 高知県の大体真ん中あたりの高知市のヒトは関西文化圏との接触が昔から続いていたが、ずっと離れた足摺岬の人たちは海上交通で対岸の九州の人と交流があった。山がちなところだから、交通網は船に頼ることになる。
 
 大昔からのヒトの道、舟の道のルートがあって、ヒトやモノの交流が生まれ、その交流の中で、影響力の強い側に、言葉の優位が生まれる。
 なんだか、網野善彦調になってきたが、軌道修正や抹消の時間がなくなった。
 
 記事の筋書きがまるっきり、外れている。
 
>>>福島の方は大変だと想う。もちろん、それ以外に汚染が広範に広がっている。
 
 
> 目の前にタブにした数件のネット記事があり、当初の予定では、各記事の内容を比較して、最近の福島原発を報じるマスコミにも足並みの乱れが生じていることを具体的に論証するつもりだった。
 
 原発事故現場の事態の進行がマスコミに当初の様な当局情報垂れ流しを許さなくなってきたのだ。
 
ネットや、マスコミの中では比較的影響力の小さいラジオ、夕刊紙、週刊誌なんかを通じて、多くの人たちが事故現場で起こっている実態を知るようになってきて、もう大本営発表だけでは対応しきれないという判断が部分的に出てきているようだ。
 
 マスコミ媒体各社の競争原理も働いているようだ。売れる記事を書きたい、注目される報道をしたい、と云うことなんだろう。
 
 これからの大勢として事故で大きく後退した東電はもとより、電事連のスポンサーとしての影響力の低下を見越してもある。マスコミに対してスポンサーサイドの意向を勝手に代弁する広告独占企業電通の容認もあるのかもしれない。
 
 >毎日新聞配信の記事が突出している。
読売やフジテレビは当局情報垂れ流しに近い。
 毎日の記事にしても、当局サイドと京大小出さんのような客観意見を並立して載せて、記事の中身に責任が及ばないように配慮している。
 
 ズット取材していても、媒体としての見解はないというわけだ。個人的にはあるだろうが。
しかし事、福島原発事故に関しては、そんな政治的配慮の問題を突き抜けていると、想わないのかな?
 
>もっとも。小出さによれば、東電現場も事態を把握しきれていないとか。
 
これがまたこの事故の凄いところだ。
一概に情報隠ぺいばかりとは言えないと。
 
 普通の情報隠ぺいとは全体像を解っていて、思惑があって知らせない。
本物の情報確信犯だ。
ところが、福島原発事故に関しては、事故内容が余りにも多岐、複雑、深刻。おまけに現状を知る手掛かりの計器類の状態すら不安がある、となれば、何が起こっているのかつかみ切れない、と云う側面もある。
 
 よく云われる言葉に、課題の設定が問題の解決の第一歩だと。
 
問題を解こうにもその問題の在りかさえハッキリと確定できないとなったら、答えにはモノすごく限界が出てくるし、確信が持てないから、慎重になる。
 
 福島原発事故が人類未曽有の事態であるとはそういうことなんだと想う。
小出さんなんかはその辺のことを常に念頭に置いて発言している。
 だから、多言を要しなくても、発言の裏に多くのモノを読み取れて、信頼できる、となる。
 
 その中で小出さんは、冷却循環も工程表通り、行かないのじゃないか、政府側の云う「収束に向かっている」との見通しは事故現場の作業実態と違うのじゃないか、との発言をしている。
 
 慎重に言葉を選んで、踏み込んだ発言を避けているようだが、実際に小出さんが想っていることは、別の領域を視野に入れていると私は感じるが。
 学者とジャーナリストは違う。
 
 私などはすぐ、石棺をイメージするがこれも厳しい。
 これしかない様な事態だと、大変な破壊を前提としなければならない。
 
 政府や当局の最近の情報小出しが露わになっている事態の延長線上で今までやこれからを被曝線量という視点から考えると、当該地域の方は被曝人体実験をされてきたし、これからもされていく、としか思えない。
 
 内外被曝。蓄積し続ける核種。膨大な汚染水処理問題。環境生活破壊。
 
一方。こういう意見もある。
 >「(汚水循環冷却)の収束工程表は圧力容器の破損を前提としていない。政府も東電も早期収拾に躍起だが、被曝して命を削るのと引き換えに早期収拾を図るのはもってのほか」元京大原子炉実験所講師。
 
 >政府や東電が早期収拾に躍起になっているのは、工程表未達成時には責任問題が生じるという事だけはない。
 
 膨大な処理未確定汚染水の問題、事故現場から継続発生している放射性物質、核種の蓄積、内外被曝、環境汚染などあらゆる面から、現場作業を急がないわけにはいかないという事情がある。
 
もっと、悪意にとれば、当局のつかんでいる生の情報では、人体への放射線の影響はもっと大きく、広範で焦っているのかもしれない。
 
 >20ミリの学校への適応は要するに、30キロの無理やり決めた、政府の責任区域=保障区域を広げたくないからという、国家統治も立場に立ってモノ。
 
 全国民の少数派を犠牲にするという切り捨てを内在している、といって過言でない。
区域外の人たちは裁判でも何でもやってくれ、と云う冷酷な割り切り、を国家の意思を代弁して政府が腹をくくっている。
 
 >そうすると、やはり、国家とは何か?と云うことまで、煎じ住めて考えておかなくては、国民同士が目先の利害で分裂すると想う。
 国家は少数のモノが多数のモノを支配する道具だが、民主主義制度では多数の意思の代弁という形をとり、少数派の切り捨てを伴う。
 
 支配する少数派が多数派獲得をし、多数の意思と称して実は少数派に過ぎない自らの利害を貫き通し、邪魔な少数派を切り捨てるとき、もっとも大きな役割を果たすのは、警察、軍隊、裁判所などの政治的暴力装置の発動とマスコミによる共同幻想の形成である。
 
 支配する少数派だけが完全武装し多数の意思の装いを持って政治的暴力を行使できる。
支配する少数派だけがマスコミ媒体を操り、自分たちの見解を多数に共同幻想的に押しつけることができる。
 
国家とはひとつの階層が他の階層を支配するする暴力装置であり、共同幻想性を付与するモノである。
 
 以上の様などぎつい観点に立たなくても、
 
福島や当該地域の人たちを少数派にしてはいけないということだ。
 
 この思考は先端で視野に入れておかなくてはならないことだ。
漠然とした感情的な被害を受けている方々の気持ちは解る、分裂するな、だけでは深く、長期に渡る戦いはやれない、様な気がする。