反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

3月9日(土)。メタセコイア、切り込み枝廃棄処分完成。3月10日(月)集合住宅住民からの投書で①「許可を得て切っているのか」②「ビッグモーターと同じだ」③「緑の美しい美観を損ねる」など批判。

 早朝、自治会長より、いきなり投書を見せられ、自分の意見を前面開陳し即座に自分が対処するというと、「自分が出ていく」と自治会長が前面に出てくれることになり二人で対処した。自治会長は現場と事務、数字に強く仕事ができるヒト。交渉も冷静にできる。けっか、事を当面上手くまとめてしまった(名乗らない投書のヒトはスルーしているが)。

 しかし、例えて言えば。

冬眠中の北極の白熊さんにバリカンを当てて体毛を切ってしまった結果、春の眼ざめにもかかわらず、寒すぎて冬眠中の穴倉から出てこれず、そのまま、引きこもり栄養失調で~~~、徹底的に枝を刈り込んだ結果、そうなってしまう可能性もある。

残酷を承知で作業途中から、徹底的にやることに腹を決めた。批判も作業中にある程度、感知していた。しかし、今はやる時期だと。だから投書を見せられ時、周囲の批判の眼は承知に上だったのでびっくりしなかった。

 ①許可なしに切っていた。

ただし昔も許可なしに切らざる得なかった過去があり叱られた。切り込み中に当人はやってきて当時の話を聞いたとき、俄然徹底的にやろうと思った。

当初からWは他人を巻き込みたくなかったし、一人作業は慣れている。

>ただし手続きを踏まなかったのは間違いだった。自治会長にはやらせてほしい、と自分から頼み、途中でそれぐらいで止めておいて、と言われたが再度、最後までやらせてほしい、と頼んだ。

結局、当初の下枝だけ刈り込んで済ますやり方では、上昇志向の激烈な樹々の重心が上に移り、強風で切り込まれていない上の枝が揺らいでるのを見て、上まで刈り込まないと歩道を通るヒトに危ないと実感した。個人の裁量でやってきたしごと習慣が抜けきれずすべて自己判断だった。もちろん責任は取るつもりだった。この集合住宅に転居しての万感の想い、込めて作業に臨んだ。住宅のシンボルツリー紛いになっている樹の枝を切ることによる業を引き受ける覚悟もあった。最後に樹のてっぺんの大人のふくらはぎぐらいの幹に鋸を引くときは唯物論者らしくなく思わず合掌したよ。

 

 高木メタセコイア並木と大きな道路、と歩道沿い、深い溝、北のビル風の立地環境は最悪で清掃する住民は長年苦労してきた。集合住宅の住民の転居も日程に上っており、③の役割も果たし終えた。もういいだろうと。

 ②はテレビニュースの一知半解である。

ビッグモーターの伐採したのは公道の並木。当方は庭木として植えられた高木落葉樹、メタセコイア

マスコミ報道の風評被害者を見る想いがした。悪を叩くにに何でもかんでも一緒くたにして情緒的反応を引き起こすように仕組んでいる。

余計な話かもしれないがTVマスコミのニュース報道は、ビッグモーターの商法上の違反と一緒に公道の落ち葉処理を当事者に任せている問題を一括りで法的違反問題として取り上げ悪をことさら印象付ける、勇み足を仕出かしている。

もちろん許可をとらなければならないが(自分なら公道の枝は無許可で掃らわない。メタセコイアの向かい側の樹々も成長の早い樹々だが手出しできないのは解りきったこと~~ふざけたことに道路清掃車が低く垂れ下がった枝をよけて通るので自分たちが清掃している)、昔の風習で植えた成長の速い街路樹のメンテナンスの負担は路面前の所有地に任せられてきた。当方から周囲に飛散した落ち葉はナント、当方が雇っているシルバー人材のおじさんが出向いて清掃している有様。

 当方の住宅前のかなり大きな製造工場は街路樹を自治体に伐採させた。

当たり前の措置であった。ビル風の強風で製造現場に落ち葉や落葉が舞い込んできては製造過程に悪影響を及しその除去に人員を配置できない。あの街路樹の引き抜き作業を当時、なんとなく眺めていた自分は緑が取り払われれいることに軽い怒りを覚えた。

同じことが当方の作業を見つめる住民の眼にあったことも承知していた。全般的な緑保全の感性は社会感覚(時代感覚)として養われてきたが、それと個別状況の違いの区別が問われてこなかった。

 昭和、平成、令和と時代と社会状況、人口構成により都市の美観に対する感覚も違ってきて当然である。

③は昔の野放図な都市計画の付が回ってきている。

成長速い落葉高木メタセコイアは集合住宅の庭木に今は絶対に選択しない。

昔はそれでもOKだったがメンテナンスする人たちが余りに高齢化しすぎている。今は庭木に適切な樹は様変わりし限定されている。

>大都市の緑環境の維持にはコスト(実際問題としてのヒト<モノ~~道具大事~~カネ)がかかる。

それを踏まえての緑環境の維持の問題である。

樹は本来、山林や山里、神社、寺、家々の屋敷の生い茂っていた。昔の都市の並木道もその維持がそれなりに大変だ、という基本認識は環境保全を云うときに、勘案した方が良い。大きな公園を適度に作って、緑を一か所に集めて、という都市計画がなされてこなかった。その上でどうしたらいいのか、という問題の建て方だ。ゴミ処理に気を使いカネがかかるように大都市の緑保全も漠然とした景観保全では済まされない。

>今、都市の当局はメンテナンスに手間のかからない樹々を選択するのに精いっぱいのようで都市計画らしきものはない。そればかりか~~~埋立地に~~。