反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「今昔物語集」中野孝次著は名著だが、歴史観が面白すぎて間違っている。

 中野孝次さんの本はずっと前に「清貧の思想」しか読んだことがない。
その内容もすべて忘れてしまったが、その著書がベストセラーになった当時はバブル崩壊直後だった、と記憶している。バブル時代の日本は欲望を全開させていた。それが突如、終焉したとき、中野さんの説く「清貧」に実生活を貫く、リアルな意味を多くの人が見出した。
 
 いま日本は東日本大震災原発事故で、バブル崩壊期を超えた日本国民の個々人の実生活を貫くリアルな歴史的転換点にあるといえよう。
 
 今昔物語の書きしるされたころは、ちょうど、「枕草子」や「源氏物語」の王朝文化の真っ盛りの頃で、それらとの対局にある、庶民の様相がリアル、ハードボイルドの迫力をもって記されている。
この両者の対比から、「今昔物語」の価値を見出した視点は納得する。
 
 私も昔、「今昔物語」の一説に魅了されて、その舞台である仁和寺を訪問したことがある。
 
中野さんの著書が読者に説得力を持って納得させているのは、彼が王朝文化を否定的対象ととはっきり主張しそれとの対比で、当時の民衆の事情を強く知ろうとして、「今昔物語」を一貫性を持って、読み込んでいったからだ。
 
 それに留まらない。
律令体制の中で後の時代を切り開いていく武士たちの精神、規律、戦闘力、習俗に魅せられる地平まで踏み込んで、物語を解釈している。盗賊や庶民の生きた生態さえも、「源氏物語」や「枕草子」の狭い王朝世界を突き抜けた魅力ある別世界として完全に位置づけていることである。
 
 つまり、中世王朝世界の変革する様々なエネルギーに一貫して視点を当て、意義を見出そうとしている。
 
 しかし、その中野さんのスッキリした立場が現在の歴史学の大勢では否定され様としている。
 
 京都学派の唱える権門体制論によれば、平安時代の古代律令制の公領は武士が天下を取ったとされる鎌倉時代も続いた。公領制が脆弱化しながら存在したから、後醍醐天皇の「建武の中興」は実現できたともいえる。
 
 それと貴族、寺社の経営する荘園、幕府の認める武士の領地は共存していた。とくに西国ではその傾向が強かった。武士が完全に政治の主導権を持ったのは室町時代からであり、その末期の応仁の戦乱を通じて、貴族、寺社の荘園が武士階層の武力によって、切り取られ、天皇貴族寺社は急速に力を失っていった。
 泉国日根野荘の領地経営が武士の切り取りにあって、危うくなり、現地に直接出向き、差配しようとした元関白九条氏の日記にその生々しい実態が記されている。この日記は当時の百姓のリアルな生産、生活、文化、貴族の領地経営、武士の実態が年間を通じて丹念に描かれている。
 ものすごく参考になる。
 
つまり、日本の歴史的進歩は古いモノと新しいモノの共存しながら、なし崩し的に進行することを特徴とする。
 
このような権門体制論が戦後整備されて、日本史への歴史認識は深まった。
様々な実証的な研究成果も随所に現れた。民衆史にも広く目が行き届くようになった。天皇貴族制への理解も深みを増した。
 
 中野さんの「今昔物語」の歴史観は権門体制論が大勢を占める前の古い歴史観である。
それは戦前の皇国史観国史への戦後の反動から、生まれた歴史観である。
 
中野さんが律令制時代末期の武士団の先進性に注目するあたりはそのものズバリである。
 
だが、中野さんの様な歴史観はスッキリしておもしろいことも確か。
でも、歴史の実態とは違っている。
 
 歴史は概して面白みのない日常の緩慢な積み重ねである。
面白みのない歴史観がリアルな歴史観である。
 
 この前、亡くなった網野善彦さんのわかり易く解説した歴史本を読んだが、以前からの否定感を再確認しただけである。学問的想像力を膨らませ、面白く書きすぎている。
 
 NHKの日曜ゴールデンのちょんまげ1時間ドラマ!?
論外であり、あんなものをまともに見るのは大人レベルに達していない。
何時頃か、日本人全体に誤った歴史観を吹き込む洗脳番組に徹底している。
 
それと出演者の演技レベルが昔と比べて、高級学芸会レベルに完全低下していて見るに耐えない。
役者もあの程度の演技でカネをもらえるのだから、楽な商売だ。
 
実生活が希薄になると演技も希薄になる。教わる場もない。学びが足りない途中段階でカネをとって見せているのだから、大したものである。