以前、論争友達がいた。本人を前にして、云ったら失礼にあたるから黙っていたが、典型的な「子供のころは神童で二十歳過ぎれば、ただのヒト」のタイプ。ヘルマン、ヘッセの「車輪の下」の主人公タイプのお人でそういう意味では人間味はあった。
私がビートルの、初期の曲は「ラブミィ、ドゥ」「プリーズ、プリーズ、ミィ」や「抱きしめたい」ではない、それ以前の曲があると云っても聞き入れない。
がり勉ばかりしていたたらしく、あまり音楽には詳しくない、なとは想っていたが、その癖、私が率直に、クラッシック音楽はガキの頃から苦手で受け付けない、と云うと露骨に馬鹿にする。
実際に良く音楽好きが云う、ジャンルに関わらず、音楽は素晴らしい、は本当の処、ウソだと想っている。
ズット以前ブログ記事の中でクラッシックに批判的な見解をかいたら、それで「反俗」と云えるのか、と云うコメントが返ってきた。
このブログは以前、「こんな日もある」と称していた。その頃の記事は全部消失して、10秒ほどネーミングを考えて、「反俗日記」とすることにした訳で、深い意味はない。
最近の心境からすると、「路傍の石、日記」でもいい。
ま、そのコメント氏はクラッシックのファンだと何となくわかるが、私はあの手の音楽を聴いて、寛げない。
音楽はシンプルなモノがいい。自分の体内リズムと共鳴する事も肝心。クラッシックは何度チャレンジしても聴いて苦痛を感じる。
>>承知の様にビートルズにはレコード、デビュー前の録音盤がある。
デビュー前、何度も繰り返されたハンブルクのロッククラブ公演の実況録音は、今も単独のCD発売されているはずだ。
ハンブルグ、スタークラブ録音盤と云う奴でちょっとビートルをかじったモノなら誰でも聴いている。
事情に詳しいネット記事によれば、「音源は1962年の3日間(25日、28日、31日)のステージを録音した計3本のテープから構成されている」と。
録音状態はCD化して、音源をクリアー化にしても、完成した録音とは、、まるっきりかけ離れた音しか出ていない。
が、そこが逆に良いのだ。
ボーカルと演奏は、全く洗練されていないが、シンプルで荒々しく、レコードデビュー直後の数曲で、完全に切り捨てられた部分が、前面に出ている。
客席のざわめき、ジョンとポールと客席の短い掛け合いも拾えている。
この時、ジョン22歳、ポール20歳、ジョージ19歳。ジョンの「サンキューウー」と云うイントネーッションはリバプール訛りじゃないか、と。
収録曲にオリジナルは少ないが、後にヒットした曲で有名な曲としては「アイソー、ハー、スタンディング、ゼア」はすでに演奏されている。
「ラブ、ミィー、ドゥ」「プリーズ、プリーズ、ミィ」などのレコード、デビュー当初の曲は一切演奏されていない。
と、云う事は「アイ、ソー、ハー」が先に作られた。
この音源は西ドイツで1977年発売。発売差し止め訴訟があって、日本で発売されたのは1980年と云うことらしい。
しかし、それ以前に、日本のラジオでは、この音源の収録曲の中の曲が流れていた様な気がする。
西ドイツで録音盤が発売されるまで、音源の持ち主が彼らに買ってもらおうとトライして断られたり、あちこちに売り込んでいたようだから、その過程でマザーテープの録音が流失したのではないか。
>去年、TUTAYAで借り出してきて、改めて聴いてみたが、良いねぇ~。
洗練されていないシンプルさ、荒々しいさがたまらない。ギターとドラムの音を電子的に全くいじっていない。
あの年代の若者のボーカルと演奏を生で聴くと、上手くてもあんな感覚だと想う。
デビュー直後は、マネジャーのブライアンエクスプタインとプロデューサーの、ジョージ、マーティンの影響で一般受けしない、野生的な荒々しさの部分は削り落されている。
録音技術も非常に優秀。ジョージ、マーティンの力、アドバイスによる処が大きい。
自分たちが実際に出していない音がレコードになっている。
シンプルそのもの。
レコードの冒頭のジョンの「ミスタァ~ム~ンライト」と云う芝居がかった叫びはない。
オルガンの間奏もない。アレはあれでよいうのだけれど。
ベース、とリズムギターのガチャガチャと云う単調なバックにジョンの地の底から湧き出してくる様な迫力あるボーカルが前面に際立ったいる。
「アイソー、ハー、スタンディング、ゼァー」もポールの生のかすれ気味のシャウトが効いている。
他にも沢山、趣味のいいカバー曲が収録されている。
>「スィート、リトゥル、シックスティーン」は本家のリトル、リチャードよりも数段上。アレンジ感覚が凄い。
これが収録曲の中の一押しだ。
「ロールオーバー、ベートーベン」もいい。その他の曲の初期のロックンロールの名曲を選ぶセンスが物凄くいい
ポールはこのころから、バラードを唄っていた。
音楽に洗練されたテクニックは余り求めない。
下手な歌声が却って、独特な味を出している場合もある。
石原裕次郎の女性歌手とのデュエットと云えば、「銀座の恋の物語」。ジャズを唄っていただけあって女性ボーカルは上手い。誰が聴いても楽しめるように作られている。
処が、同じ裕次郎のデュエット曲でも浅岡ルリ子との「夕日の丘」になると、浅岡の素人っぽい、若干、音程をはずしている処が気になるヒトもいるだろう。
が、私はそこが良い。少しあばずれっぽい雰囲気が良くでているとみる。実際に、若いころの浅岡さんはそういう処があったんじゃないか。今と違って、当時、映画方面にすすむ人にはそういう雰囲気があった。
不良が今より断然、普通に若者に浸透していた。一応、真面目をやっているモノも心のどこかに、型からはみ出る気配があった。
それが集まると殻を破り、既存のモノと関係なく一つの方面に集中するバイタリティーになる。
今は兎に角、規制が強過ぎる。規制する側の本性は自己益擁護だ。しかも複雑で、一見して、規制を破りそうな擬態を巧妙にする。詐欺師だ。見分けるのに、それなりの知識がいるとなれば、キツイな。
>>最近はジャズをできるだけ聴くようにしているが、やっぱり究極の処、馴染めない。
特にモダンジャズは音楽としての自然な感覚が失われている様に想う。
何処が「枯れ葉」なのかと想わず、云いたくなる。
主題曲と全く、音程もリズムも関係ない即興演奏が延々と続いている。
そこまでは我慢してもいいが、お高くとまり過ぎ!恰好つけ過ぎだ。
クラッシックにも云える事だが、所詮音楽は音楽止まり。効いているモノの気持ちを混乱させたり、考え込ませるものは、御免こうむる。あくまで個人的決めつけになるが。
その点、ビリーホリデイは違った位相にいるようだ。
自分の実生活の諸々を唄声に託している様な処がある。
ボーカルであの間を演出できるのは彼女だけだろう。
全部いいとは言わないが、「オール、オブ、ミィー」はいい。
イロイロナ人が唄っているが、あの退廃すれすれの声、あの間で歌えるのはビリーホリデイしかいない。
彼女の実生活が唄わせる「オールオブミィ」だ。
でもやっぱりカントリーでないと寛げない。無心に聴ける。日本の歌謡曲にもいいモノがある。
ぱっと聴いて、歌詞の見当がつかないなんて、やはりダメ。
カントリーの歌詞、リズムはシンプル。ワンパターンと云えばそれまでだが、そこに安心感がある。
バックグランド、ミュージックはカントリーの選曲したモノ。気が休まる。