橋下徹がどうして、府知事就任から、たった3年余りの間に、任期中に辞職し、手下を府知事候補に祭り上げ、自らは前市長の平松に挑んで勝利できたのか?大阪の歴史的な特殊事情もある。
>まず、ファシズム、ナチズムの一般論から。
(省略)
日本国憲法に今後の日本のファッショ国家化への歯止めが、どの条項にも見当たらない。
敗戦国として米国と妥協した当時の国内権力状態の違いが原因。
従って、ファッショ化へのリアルな歯止めを憲法に明記することは不可能だった。
憲法第9条は条項として、具体的なファッショ活動を監視、規制するモノとは次元が違う、国防問題に過ぎない。
だから、ナントでも云い換えられる。
また、内外政策を見ると、日本の右翼の様な米国や支配層の手先丸出し、内容空疎な愛国心の強制の様な処は希薄。
フランスの右翼政党もほぼ、この政治的位相。
イタリア、フランスで、橋下の様な「言っているいる事と実際にやってきた事が違う」大ぼら吹きの政治傾向が一般国民に浸透してきた訳ではない。
有権者は当地の右翼の現実的政策を見て投票している側面が強い。社会経済における移民の与える影響は現実として大きい。
他方、橋下の挙げる大阪都構想、行政刷新は現実の数値、日本社会経済のリアルな実態に基づくと云うよりも、そこから離れた理念的側面が大きい。(だから、その政策と政治は時間の経過と共に現実性のなさが明らかになるから、次々とアドバルーンを上げ続けて期待と関心を引きつけなければならない)
橋下の様な輩はイタリア、フランス、ドイツでは有権者から相手にされない。
有権者はもっと現実的に判断して投票行動をする。
公務員を目の敵にして劇場型政治を演出しても通用しない。尤も公務員関連の仕事に従事するモノが多過ぎて、そんな事をしていると多数派形成ができない。
アングロサクソン移民国家とヨーロッパでは様子が違う。
米国でさえ、橋下流は厳しい試練にさらされるだろう。
>橋下は戦前のイタリア、ファシズム、ドイツナチズム以下である。
少なくとも彼らは一時的に民衆に仕事を与えた。
橋下は仕事を奪って、賃金を下げている。デフレ政策の鬼である。
そいう云う政策を一貫することによって、日本の労働層の賃金を相対的に低下させようとしている。
誰が喜ぶのか?目先だけを見て。
財界である。今もって財界を最大のスポンサーにしているのが自民党である。
財界にとって橋下一派の政治など痛くもかゆくもないばかりか、思い切ってやれない事を民衆をだまして代わりにやってくれて、大歓迎である。
かくして、橋下は口先で何を言おうと、内外に危機を抱える日本支配層の凶暴な手先である。
抽象的言語でなく、具体的な実体(実態)を規制、排除する条項がなければ、日本の事実上のファッショ国家化への法的歯止めにならない。
わたしは取り締まれと主張しているのではなく、あくまでも、純法的議論をやっている。
従って、各方面から考えて、橋下とその一派の政治が急速に全国政治潮流のうねりになって台頭する可能性、条件は十分にある。
ファシズム、ナチズムは民主主義の中から、内外のリアルな条件がそろって出現した。
民主主義のの乏しかった半封建戦前日本の支配層にファシズムによる支配形態をとる必然、必要がなかった。
既存の統治機構の軍事化、より独裁化でまにあった。
しかし、今の一応の民主主義下において、政治混迷と内外危機が長期化した場合、橋下一派を先兵として支配層の統治形態が急速に独裁化する可能性は十分にある。
>>次に橋下政治を急速に台頭させた大阪の特殊風土を歴史的に振り返ってみる。
大阪と云う土壌が橋下の様な人物を育んだのであり、橋下は大阪の土壌を抜きにして語れない。
>さらにいえば、都会の公立の進学校と云われる学校教育の在り方も問われている。
コレも重要なポイント。
橋下の様な都会の公立進学校で、部活動に熱中した青春時代を過ごしたモノに、学校教科書、参考書以外の教養を身につけるべき、書物に出会う機会は全く与えられていない。
勿論本を読めばいいとだけ言っているのではない。少なくとも全国政治で日本をどうこうしようという政治的野心の人物には、ある程度の教養が必要な時代だ、と云っている。
弁護士は職業従事資格であり、教養とイコールでない。
都会公立進学校は伝統として、文武両道が建前化しているが、今日の受験事情に置いては事実上両立は不可能。
文とは受験に向けての学習に置き換わっており、幅広い教養を身につけることではない。
部活動に忙しかった高校時代の橋下は教科書、学習参考書以外の本を読んでいないはず。
都会の公立進学校で熱心な部活動をするモノにそんな時間的余裕はない。
何かを犠牲にしなければならない環境下に置かれている。
橋下は柔軟思考のできる時代に幅広い教養を身につける機会を犠牲にしたのである。
だから、小沢さん曰く「乱暴と云えば、乱暴。大胆と云えば大胆な」妨若無人の「改革」を主張できる人格を温存できたのである。
機能優先、白黒単純に割り切れるストレートな人間像は出来上がる。
ただそれが世間受けしているという処に橋下的人格が教育現場大量生産されている現実をみる。
これらが、今はある種の期待される教育人間像である。
それが、世界に通用するクリエイティブかどうか言うまでもない。日本教育の歪みだ。
今の若者が橋下に拍手する根は深く、人格形成問題まで至っている。
>そういうモノが政治による全国制覇を願望し実践できる土壌が大阪だけでなく、全国化している処が大問題だ。
大阪に過去にあって、現在に引き継いでいる諸事物が今は大阪限定ではなく全国化しようとしているのだ。
>>以下、時間不足で橋下を台頭させた大阪の歴史の跡付けは途中までなる。
>江戸時代の大阪は武士の総数、約2000人ほどであり、市場の原理に沿って、50万庶民の生活が回ってきた。
大阪城を中心とする城下町ではなく、貨幣大商人、物資運送商人、手工業者を中心にカネが回っていく仕組みの中で庶民生活が成り立っている、封建時代としては特殊、先行的な都市。
この現実の表側は商工業の全国一の発展だが、
裏側は、広い地域からの<貧民の集中と至る処の貧民窟>、<身分外の身分としての部落の多数所在>であり、一たび、天保大飢饉の様な事態にあれば、大阪庶民の4分の1が食に窮し、浮浪状態になる。
一方に置ける資本の蓄積を可能とするのは他方における、<安価な労働力商品の大量の定着>であり、大阪はもとより、<江戸時代から大量の貧民の存在を引き継い>でいた。
その総数の最盛期、1943年には、大阪府に70万人。
半島、ソウル人口は100万人だが、第二の都市釜山40万により断然多い。
従って、1930年代までの大阪阪神間を合わせた工業生産値は東京、横浜を合わせたモノの倍ほどであった
関西発の大資本が多く存在するのは当たり前のことであるが、大阪の工業の特色は民需品生産にあったと想う。
大阪に中小零細企業が多いのは、その継続ともいえる。
市内の公営住宅はほとんど貧民窟の跡地である。
日本最大の日雇労働者の町、釜が崎は偶然、そこにあるのではなく、大阪の産業、庶民生活の歴史の継承である。
被差別部落もそこらじゅうにある。
以上が庶民の街、大阪形成、精神風土に重要な役割を果たしていることは間違いない。
長い歴史の年月をかけて、形成継承されてきたモノは簡単に消えない。
歴史的に見て、役人任せにできない市場の原理が日々の生活を支配、雑種混合とでも云うべき生活環境から、個人の判断力が必然的に大切になる。
昔から営々と個人、家庭、地域、企業が市場原理主義的倫理観を根底に据えてきた。
浪速落語には東京落語にある様な長屋の「はつぁん、クマさん」世界は聴いたことがない。
元を辿れば、井原西鶴に描かれている世界。孤立した個人の悲惨の極みががそこにある。言い換えると封建時代に先行して、自立しようとしてできないモガキ、悲惨な転落がある。
ただそれを笑い飛ばしたり、客観視する成熟して醒めた視点も後代には出現した。
こういった物的精神的風土が、戦後高度成長以前からの経済停滞、に見舞われ、それ以降の高度成長時代に本格的な長期経済低落に陥るとどのように変転するか?
挙句の果てに、市場原理主義、グローバル資本制の内は良環境に遭遇すると、どうなるか?
浮足立って、元からの市場原理主義風土がむき出しにならないか?
しかし、橋下のそれがあるか?
もうその余裕も喪失しているのでhないか?
大阪から出現したモノこそが今の大阪を取りまとめることができる。
かつての、今の、大阪にあるモノは、時代に本質的に先行してきたのである。
大阪の今は明日の日本になる可能性がある。
橋下政治が全国化する可能性は大きい。若者教育の面からも。