「踏まれ蹴飛ばされる路傍の石は強く固くあらねばならぬ。」
>しかし、官のシステムが中枢になかった訳ではない。
天下の台所の大阪において年貢を米で徴収した各藩は蔵屋敷に集米し、時のコメ相場で換金したが、、窮迫する台所事情から、大名貸し商人に巨額のカネを借りた。その巨額の利子は、各藩の百姓の肩にのしかかった。
こういう構造を考えると、とてもじゃないが、商人の街大阪の「自由」を手放しで、称揚できない。
侍の数の少なさを持って庶民の町と云い切ってしまうと、封建幕藩体制のメダルの片側しか見ていないことになる。
>幕藩体制の経済システムが大阪の中枢に組み込まれて経済社会が回っていたから、敢えてそれに加えて、富を収奪するサムライ階級は必要なかったのである。
>大阪はこの当時から市場原理の支配する街だった。
今の資本主義社会体制である経済下部構造の自立を先取りするような街が江戸時代の大阪であった。
>>しかし問題は、こういうサムライ城下町でない市場原理の支配する街の当時の庶民の生活、存在形態である。
江戸末期、天保飢饉を背景にした元与力、陽明学者、大塩平八郎による1837年の武装蜂起を検索してみると、当時の大阪庶民の実態については「大阪の民衆が飢餓にあえいでいる」とだけしか描かれておらず、もっぱら、大塩決起の動機を当時の大阪城代や巨大御用商人の巷の現状無視の階級的利己主義への怒りに求めている。
こういう、一見、解ったような歴史観を排す!
>市場原理の貫く大阪の当時の大阪庶民の生命、生活、労働がどんな状態に置かれていたか、描き出されなければ、まったく片手落ちなのである。
この時、巷では一日、200~300人の餓死者が出ていたと云われる。
大阪市街地の住民の3分の1が浮浪状態に陥った。
対人口比でサムライ数が極端に少なかったが、経済面で自立性のある町人層も城下町に比べて、少なかったのである。大阪の「町人」の基本的存在形態は周辺から流れ込んではいつしか潰えていく流浪状態を主としていた。
従って、東京落語に出てくる長屋の八ツァン、クマさんの町人秩序的世界は大阪庶民の場に成立するはずがなかった。
そこに江戸的な長屋秩序ではなく、モロ、貧民窟、それと陸続きの被差別部落なのである。
上層商人層の生み出した民間芸術、文化はあったが、結局、庶民末端まで巻き込むモノでなかったので、幅広く深い文化の伝統として伝えられず、戦後の大阪経済の頂点からの下落とともに、潰えてしまった感がある。
かくして、市場原理むき出しの伝統だけが残り、純化して銭の街大阪となった。
そこに大阪マスコミのアイテム不足、資本としての凋落による、貧困は過重して銭とお笑いの街大阪として不断に刷り込まれた。大阪マスコミは文化的犯罪者である。
元々軽視されていた公共空間は戦前戦後の一時期の拡大はあっても、やがて、蔑にされる運命にあったのだ。
橋下の様な奴は生まれるべくして生まれたのだ。
現在の大阪中心街の大きな公営住宅は過去の貧民窟を更地にして建設されている。
被差別部落は戦前戦後差別とそれへの戦いの中から、部落解放住宅や様々な権利獲得闘争の成果を勝ち取った。
>しかし、貧民窟の最下層の場が資本主義的迫害行政の圧迫によって分離された、「釜ヶ崎」だけは関西労働市場の要請に応じて、市場原理の街、大阪の過去の機能が資本制的に圧縮され、温存されたの如き特殊状態に今もある。
>が、この釜ヶ崎的特殊は資本のグローバル展開、先進国経済に停滞による金融寡頭支配への富と権力の集中の不可避的歴史傾向の中で、日本中に拡散し、一般化していく。
特殊の中にこそ、資本制支配の原理原則が仕込まれていたのだ。
>20世紀初頭から後半にかけての冷戦体制的な世界経済社会体制こそが特殊な歴史段階だったのであり、それが取っ払われて、資本盲動が世界的に法則化すれば、当然、資本制は螺旋的に発展して原点回帰していき、人類の戦いと英知によって規制されてきた、反人間的な原理、原則はむき出しになる。
要するに生産手段から、完全分離されて、大飢饉が到来すれば、必ず、路上に投げ出される多数の人たちと極一部の政治支配層、御用商人の拡大する江戸時代大阪の階級的かい離は歴史的に形を変えて、これから再現されていく。
>>ネット上を見ると、大阪橋下ダブル選挙圧勝を既成の体制?への国民的反発の表れであるかのようなトーンの論評が多い。
私は、そういう視点は片手落ちだと、ここまで証明してきた。
しかし、大塩決起を説明するグーグル、ウィディペデアとまったく同じ、片手落ちの誤りを犯している。
日本国民のどの立場の人たちのために政治が尤も必要かと云う視点がない。本当に政治を必要としている人たちの現状を踏まえ、その人たちのための政治が必要と考える。
>その政治行為の目的のために政治混乱が不可避であれば、歓迎しよう!
が、橋下等がやっている事は真逆であり、徹底的に集約すれば、冒頭のタイトル通りにしか結果しない。
>前回の記事において、植草氏の2008年当時(民主政権誕生の前年)の橋下への超否定的評価をあえて挙げたが、今日の記事では、橋下等を既成の体制への反発の象徴の如きものとして描き出している。
元々、彼は政治に関して定点観測できていない。
私の彼の著書への評価は高くなかった。
それにしてもどうしてそうした、180度とまでは云わないが、90度の評価替えになるのだろうか?
橋下徹は2008年の段階では知事の当選して間もなくで、大阪維新の会を使って大阪支配に乗りだしてはないかった。だから、2008年~2011年の間により凶暴になったと解釈するのが、当たり前と考えるが、植草氏の頭の中だけで橋下評価が変更されたのか?
あるいは、短期間の目まぐるしい情勢変化によって、基本中の基本の政治認識が90度の変化したのか?
もっと別の原因ははっきりしている。
小沢一郎の政治戦略?らしきものを勝手に思い描き、名古屋、河村らの小沢氏との親近性から、より凶暴化しているにかかわらず、橋下への評価替えを行ったと云う訳だ。
そういう政治レベルで、大きな政治事態の流れを論評していくと、結局は庶民に政治への余計な幻想を植え付けるだけに終わる。
だってそうだろう!
橋下に肯定的評価を下す事とTPP、増税推進は論理的に共存しないが、ただ唯一、現政治への変革の可能性と云う接着剤において、強引に繋ぎとめている。
橋下の政策政治内容は反対も異論もあるが、などと云うのんびり悠長に構えていられるものではない。
彼は政治センス、判断力が欠如している。
2008年当時でも橋下の政治をあだ花と断定している。
あだ花の様なエピソード的存在がどうして、今現在の様な大阪支配をして、全国政治に打って出ようとしているのか?
彼の政治判断は甘過ぎるし、現状の勝手な解釈が過ぎる。
>日本では経済成長に見合った社会民主主義政策が実現されてこなかったし、今から実現できる内外政治環境に乏しい。
>だからと云って、いや、だからこそ、吹きすさぶ市場原理主義の逆流に抗して、その必要性がある。
>悪いが、私は小沢一郎等にその戦いを付託することはできない。彼の云う政策には私からすると曖昧なところがいっぱいある。
これから、その曖昧な処が悪い方に作用する可能性が出てきている。
例えば、民主党代表選挙の小沢氏の政策内容の中で財源を地方に大幅移譲する処に踏み込んでいた。
一般論でなくそこにおける具体論で、橋下支配の大阪都に財源を移譲すれば、どうなるか?
>自分たちの独断で獲得した財源を権力支配の道具にすることは目に見えているが、マスコミとつるんだ権限と権力集中した広域地方行政単位にふんぞり返った橋下一派に対して、弱者に過ぎないモノが、どのように一体、適正な税源の分配を要求していけるのか?そういう地方行政単位がシステムとして成立してしまうと実に厄介に自己増殖するから、取り返しがつかない。ここにリアルな疑問点を持つ。
しかも、その様な政治思想は決して新しいモノではなく、100年以上も前から、市民社会上層の政治思想としてヨーロッパでは語り継がれてきた。
小沢氏にこの辺の自覚がなく曖昧であると、代表選において感じた。戦前戦後体制の継続論がないからそうなっていると想う。憲法論も機能論に終わって、思想論に到達していないのではないか?
でなければ、国家論として基本的に間違っている、国連待機軍構想など出てこない。
>私の考えでは、手下の議員集団を意のままに操り、議会多数を占拠する橋下の政治が目指す道州制は、今現在の象徴天皇制の中央集権的民主共和制よりも、住民にとって、リアルに非民主的制度であり、外見上は分権に見えるが実態は地方の頂点に集権された権限、権力と中央官僚の癒着による今以上の中央集権制の強化になる。
平成の時代を生きる日本人は今こそ歴史の教訓に学ばなければならない。
から騒ぎの底にあるモノを摘出する。
<追記>
ティーパーティーは富裕層への増税に危惧する共和党系の民間団体が最初核になって、出発し、その運動のの発展とともに、議会攻撃、人種差別攻撃、米国的ポピュリズムなど様々な要素が混交し、今日では共和党を席巻するとまで言われていいる。
橋下等の動きはそれに近いものであり、結局、保守政治のよりドギツイ再編に行き着く。
官許のマスコミ政治家が表面上何を大騒ぎしようと、多数の「国民は見えない服従の檻」に閉じ込められるのである。
議会政治で多数派獲得を目指す政治集団にとって、小沢氏らと組むということは、政治が人気投票化した今、あえて火中の栗を拾う結果となる。
>ここを小沢熱烈支持者は良~く考えて、橋下等へのきっぱりとした態度を持ってほしいモノだ。
>今の支持者の大方の心情は、ちょっと前までの裁判に幻想を持って裏切られた時と同じに見えます。