反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

橋下徹大阪市長を政治鑑定する。ーハシズムからファシズムへの道ー

 昨夜、熊木和枝さんの処のツィートテレビで、「小沢一郎鈴木宗男を励ます」デモの様子を見た。
見ている私の方が励まされたし、考え直す処もあった。
小沢さんの盟友、二見明さんがデモに参加していて、デモの最中、インタビューを受けていたが、流石、かつて政治の中枢で揉まれた経験のある元政治家らしい要領を得た発言で、大状況へのダイナミックな把握の仕方、簡潔さは小沢さん流だな、と想った。
 
 政治には政治の独特の世界があり、その中で特殊に恵まれた才能を発揮する人がいる。
 
 橋下徹がその中の重要な人物と仮定する。
仮定しかできないのは、大阪府知事に就任して以来の橋下の生の声を一度も聞いたことがなく、最近の言い分も直接、聞いたことがないからだ。
それにしては連日、口を極めて罵ってきた。
 
 理由は次のごとし。
 
 ああいう人物は今まで、保革は問わず、政治家の中では御目にかかった事がなかった。
 
唯一の例外は小泉純一郎ともいえるが、やはり政治家としての位相そのものが、かなり違っている様に想える。
石原慎太郎とも違っている。ましてや、名古屋の河村では異次元の様な気がする。
 
 >以上の人物は全部、中央政界で揉まれ、経験を積んだ現、元政治家が人気を獲得した例である。
言い換えると、国政政治家としての政治的枠組の範疇にいる。
 
 >壊し屋と世間で言われる小沢一郎の最新の記者会見をじっくり聞いてみても、国家と国民全体を見渡し、預かるという安定した強い気概を感じる。 革新政治家の場合、長年の野党暮らしから、どうしても大衆煽動型の政治家が目立つが、ここには組織的枠組みがあった。
 
 >日本の、反体制活動家の場合。
ここは立ち入って、少し考えて見る必要がある。
 
私の知っている限り、組織的枠組みの縛りは革新政治家よりもかなり小さい。
 
よって、政治環境によっては、組織基盤の裏打ちのない観念が肥大し、主導された組織が暴走する可能性が出てくるし、事実その通りだった。
 
 だが、全体政治に対する影響力が限定されていたから、被害は手酷いが、局部に制限されてきた。
 
 ただし、ここでは、思想の上の縛りがあった。
それによって、主観としては、間違っていても元に復元し様と、もがいたり、客観的には体制に反対する以上、分裂、分散、消滅の論理が働かざる得ない。
 
 >>ところが、橋下徹と「大阪維新の会」は以上のどの範疇にも該当しない。
 
まさに、この世界と日本の時代状況が生み出した特殊事象そのものだから、該当しないのだと想う。
特に、今の日本の経済社会状況の特殊性を土壌にここまで成長してきた。
また大阪と云う日本最先端の経済飽和状態の環境から生まれたという面も無視できない。
 
 この点について、橋下を得手勝手に過大評価する現元、非生産的サラリーマンの根性丸出しの人士は冷静に考え直してほしい。こういう方はどうしても、観念肥大の浮動性が付きまとう。
今の政治において政治家個人の力を過大視し、己の願望を投影するのは根本的な大間違いである。
 
 
>>ここまで寒くなる前のある夕刻。
暖房の効いた大きな図書館の階段の1000段昇りに挑戦?した。
 
汗だくで一息ついて、何気なく陳列棚を眺めていると、ウォルフガング、ギュンター「スカバロー、フローへの道」
という本が目に付いた。第二次大戦のドイツUボートの撃沈王の体験談だった。
 
 座って、何気なく読んでいると、この本が航海士の免許を取得した若者が1930年代ワイマール、ドイツの不況から、八方手を尽くしても職に恵まれず、ナチ運動に参加する話でもあると知った。
 
その具体的経過や内容のリアルな記述を読んでいてハッと気づいた。
ヒットラーとナチ党=ユダヤ人虐殺に矮小化する、ユダヤイデオロギーの間違いである。
 
 >ワイマール時代のナチ運動は職にあぶれた若者の多くを傘下の失対事業によって吸収していた。
 
他方では労働組合に強固な地盤を持っていたドイツ社会民主党はローザルクセンブルクなどを暗殺してドイツ革命を鎮圧し、政権を担当するも、事態解決への糸口は見いだせなかった。ドイツ社民党から分裂した共産党も後に独ソ不可侵条約を締結したスターリンの掌中にあって、大衆的支持を延ばせなかった。
 
 と、云う事で1030年代世界不況の時代状況が深化すればするほど、ナチ運動に大衆が結集していく政治構造が生まれた。
 
 ヒットラーとナチ運動は当時の生活労働苦のドイツ人に目先の食いブチとユダヤ人と云う身近な敵の象徴を与えてくれた紛れもない事実がある。後者だけが拡大されているから、どうしてドイツ人があそこまで至ったか本当の処が理解できない。ナチは国家社会主義労働党だった。
 
 >ナチ傘下の失対事業は行き詰ったドイツ金融資本がカネ工面したモノだろう。
ヒットラーとナチ党はドイツ支配層の国際関係に行き詰った究極の選択だった。
 
 1914年当時(第一次世界大戦)の世界に占めるドイツのGDPは14ポイントで、すでに米国に次ぐ第二の工業国。
その工業力が1930年、11ポイントまで低下している。15年余りの間で3ポイントの低下は工業国では厳しい国内情勢を生む。
 
 >日本のおかれた状況は当時のドイツではない。
 
 >しかし、経済力の相対的低下は避けられず、その反動として、多数派国民への負担は大きくなるし、事実、支配層の一貫した政策は、その流れにある。
 
こういう歴史的観点、戦後史的な観点から、橋下の政治の評価はどうなのか?が肝心。
 
 >一番はっきりしている事は橋下と大阪維新の会ヒットラーとナチ党の様に食いブチを与えようと全くしていないことである。逆に食いブチの機会を狭める政治方向である。
この意味でナチ党以下だ。
 
 物的根拠は民間企業のリストラ社長の如くであり、こういう事を日本中でやると、国民間の経済循環が縮小していくのは、経済学の常識である。
 
 >全体のパイが大きくなっていく見通しが立たない日本経済でこんな事を全国で一斉にやれば、経済縮小となる。
日本経済にフレキシブルな再生のバネが利くとは思えない。
特にTPPによって、国民経済は相当なダメージを受けるだろう。
現状が横ばいであれば、急成長する新興工業国に市場で食われていく。
日本の輸出産業が生産している様な商品はやがて下位の工業国でも大量生産できるモノばかり。
 
 >大阪で橋下政治が成長したのは、大阪が日本経済の飽和状態の最先端を行っているからだと想う。
 
日本の支配層は増加しない国内パイの取り分を拡大する金融寡頭支配強化の政治戦略として、橋下政治をキープしておいて、危機が深化すれば、切り札として利用する。
 
 多数派国民の民主主義闘争が進行すると、橋下政治が、国民を服従の檻に閉じ込める目的で切り札となる。
 
>今現在のハシズムファシズムになるかどうかは日本国民の民主主語闘争次第だ。
 
 戦前的翼賛体制に形を変えて移行するならば、日本支配層にとってファシズムは戦前と同じく、人民支配の副次的要素に留まる。
既存の国家行政機構のなす崩してきな、強権支配で済ませることができる。
 
 その場合、未来も、日本多数派国民は服従の檻に閉じ込めらたままだ。 
 
 >ファシズムを支配層が必要になるということは、裏返すと、民主主義闘争が苛烈になって支配層が追い込まれた時であり、多数派国民はファシズム支配期間から、抜け出した時に、アジア的服従の檻からの「解放」が待っている。
 これが歴史の無慈悲なダイナミズムだ。
 
 
   <追記>
 小沢支持者の間から橋下への幻想が生まれる根拠は十分あった。
 
地方分権論には日本の実情に沿って吟味されていない、部分があった、と想う。
 
 民主党代表選挙の際のNHK討論を聴いていて、戦後、日本民主主義の成立過程、現況の成熟度合いから、この意見は踏み込み過ぎなんじゃないかな、正直、感じた。
 
 端的に云えば、階層支配の打倒される革命の次元における中央ー地方の基本関係の問題。
単なる、上からの改革の問題を混同している。
 
 上からの改革の300基礎自治体論は組織的実体を伴った根拠が全くない。
それを実行しさせる市民革命による自らの自らへの統治として組織的運動的裏打つがない。
 
 レーニンが「国家と革命」で最高の統治形態として挙げているのはフランス革命のパリ、コンミューンの究極的市民参加統治形態である。
 
それは三権分立はなく、渾然一体となっている行動的市民政治執行組織としての自治組織である。
 
 ただレーニンにはそれが蜂起するロシア労働者兵士評議会に当てはまる、リアル認識はなかった。
 
小沢さんのいう全国300基礎自治体権限委譲論は、私に言わせると、もっと陳腐である。
 
 市民の運動実体の裏打ちがない。
 
と云う事は、権限委譲された一部、地方利権屋への権限に終わる事への住民監視がない。
ここで橋下の様な権限委譲されたの利権独占使用指向者への排除要因に乏しい。
 
 市民、日本民主主義、性善節は大いに疑問。
そもそも小沢さんはその種のモノによって、無理矢理起訴されて、今に至っている。
この辺のパラドックスをどう考えるか。
 小沢さんを権力情報の云うがままに強制起訴する市民と称する住民に民主主義はない。
 
 もう一つ大事なことは。
これで本当に中央官僚の特権支配が小沢さんの云う様に軽減されるのかどうか?
現実政治の問題として考える必要がある。
 
 私の意見では小沢さんの見立てと違って、日本政治の継承の中では、むしろ強化される。
権限を集中された地方中央官僚と中央官僚の必要上の癒着が始まる。
これが日本的な表紙だけを変えて中身は元もままの典型である。
 
 幕藩体制の分割地方自治において、幕府の権限は欧米封建社会、とくにイングランドに比べて実に大きく、実質中央集権的だった。この点が明治絶対主義政府への比較的容易な転換を準備した。
 西郷反乱鎮圧などを経ての明治絶対主義政権の中央集権制の確立は、こういう日本固有の歴史的経過に負うところ事が大きい。 
 
 小沢さんの300自治体権限移譲論は歴史への逆行であり、人民革命抜きの上からの空想の産物である。
これからはきちんと整理しないと、
橋下等の道州制につけ込まれる由縁がある。
 
 が、小沢さんはこの前の自由報道協会の記者会見で、やっぱり、300基礎自治体論に固執している様だ。
 
 今後、行き詰った日本政治経済のガス抜きに、地方自治、公務員たたきが利用され、金融寡頭支配の強化に
結果する方向にある時に、小沢支持者は小沢さんを越えて前に進んで欲しい。
 政治的上部行動をあれこれいじるよりも、地道に「国民の生活が第一」の政治の王道を歩んで欲しい。
 
また、小沢さんを守る事と、小沢さんのリアルな政治過程へ政治力の行使は今となっては別次元の問題に成りつつあり、今現在の優先順には前者である。
 情勢に流されない判断がいる。
その点、二見明さんはハッキリしている。シビアーな認識がいる。
 
 混同、情勢認識のリアルさに欠ける間違いがあるから、橋下妄想が支持者からわき起こる。
 
個人妄想に明け暮れる人は、そのままで結構である。