反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

橋下徹にシンパシーを抱く、一部の小沢支持者。今や橋下礼賛者になった天木直人について深い考察?をしてみる。

 天木直人が感情移入激しい橋下無分別、礼賛記事を書いている。
当然の成り行きだと想う。立ち位置のハッキリしない人はそういうことになる。定点観測がない。
 
 憲法第9条擁護?対米自立、東アジアへの過去の反省に立った平和外交と云う天木の空理空論の政治路線には異論はあるが、仮にそれが正しいとして、それと橋下礼賛は論理的に一致しない。
どちらかが曖昧か、両方が曖昧だから、両者を接合できるのだ。
その種のモノは政治評論とは云わない。いい年をした男の、居酒屋政治談義に過ぎない。トリップしている。
 
 さて、ここからは天木直人や一部の小沢支持者が、どうして橋下に、シンパシーを覚えてしまうか?考えてみたい。
 例によって、佳境の本論に到達する前に橋下登場の状況設定をしておく。 
 
 >橋下らの政治内容は冷戦体制崩壊後の経済グローバル化が必然的にもたらす先進国内経済停滞と金融寡頭支配強化に竿指す、世界的な政治潮流の日本版とみている。
 
<米国共和党ティーパーティーに似ているが、決してオキュパイ運動でない。>
 ここをハッキリさせ、検証の振るいにかける事がまず必要。
 
 オキュパイ運動は1%の金融資本と富裕層が99%のアメリカ市民を支配している現状をハッキリさせ、ウォール街金融資本を具体的に標的にしている。
 
 ティーパーティーの出発点は庶民の経済苦境をよそに栄耀栄華をむさぼる富裕層への増税論議され出したことを受けて、危機感を持った共和党系の複数の民間団体が主導したものだが、そこに既成の体制をバックにしたオバマ政権への不満、人種差別主義、米国伝統のポピュリズムなど雑多な要素が入り混じって運動が拡大したもと受け止めている。
 掲げる運動スローガンは反増税、議会糾弾、財政削減、社会保障反対など基本的に共和党の政治内容に収れんするモノと云える。
 
 >私が要約したティーパーティー運動によく目を凝らして見れば、その政治範疇に大阪の橋下政治だけでなく名古屋の河村政治も多少ずれはあっても収まってしまうことに気づく。
従って、小沢氏と交流があると云うだけで、内容を徹底吟味せず、河村氏を小沢系の一つの政治勢力の様に妄想する小沢支持者は、その陸続きの橋下にも親近感を持つ可能性がある。
 
 いづれにしても、両運動は今の米国の政治経済の現状に根差したものであり、日本社会経済が米国の大きな影響を受けている以上、同じようなムーブメントが日本において成立する根拠がある。
 
橋下等の政治方向は日本の戦後一貫した<支配的政治潮流だった体制順応層>の政治再編に波及する。
<支配的政治潮流であった大勢順応主義者>という、範囲内で橋下等の政治方向は影響を及ぼす。
 
>この意味でティーパーティー運動共和党を席巻しそうな状況と一見似ているが、日本的特殊性がある。
 
 もっと突っ込んで考える。
 
>日本的状況を踏まえて、突っ込んで考えてみると、天木直人や一部の小沢支持者が橋下政治にシンパシーをつい覚えてしまう理由がハッキリする。
 
 戦後日本の政治支配者だった、大勢順応主義者は己の支配を貫徹するためならば、可能限りの譲歩は用意し、取り込んだ相手を変質させる術がある。
直近の例として、自民党に取り込まれた自社さ政権時代の社会党。 
 
 これは戦前支配層から継承した術であり、大きな日本政治の特徴である。
 
 良い面も悪い面もある。懐が深いとも云えるし、政治世界にも曖昧性が貫徹しているともいえる。
 
 いづれにしても、今後、外国相手には通用しない。やっていれば、押し切られてしまう。
何となく通用してきたのは、冷戦体制に完全に組み込まれた東アジアの日本が米国の庇護の下にあって、自立的な国家戦略とそれに基づく、厳しい対外交渉を省略できたからだ。
 
>その術は日本人の歴史環境に根差したモノである。
 
 >丸山真男は戦前の軍国主義者の政治の実態を戯画的に描いて有名なテーゼを提出した。
 
御神輿政治論とでもいおうか。
 
 自民党実力者時代の小沢さんが言ったとか云わないとか、反小沢マスコミに喧伝されたアレである。
>>「担ぐ神輿は軽くてパーが良い」
 
 要するに実務を取り仕切っている本当の実力者にとっては首相は政治主張の乏しい政治統合の象徴でありさえすればいい。究極は操り人形である。
 
 丸山真男の分析の真意は戦前の天皇制である。
と、ここまでは、単純な戯画化に過ぎない。
 
 >そこから先に、学者丸山真男の真骨頂がある。
 
 神輿の天皇の担ぎ手の筆頭は文武の官僚である。ここまでが日本政治の頂点におけるインナー、サークルである。
そこに同じ神輿担ぎに政治家、役人が群れ集う。
その下に位置し、神輿担ぎで騒いでるのは「ならず者」達。
これらの上から下への関係がヒエラルキーを形成し、日本ファシズムは成立していたと。
 
>ところが、この丸山的日本ファシズムの戯画にはまだその先がある。
 
 末端で神輿担ぎにワィワィ囃し立てている「ならず者達」=(民間ファシストと云っていい)の中で上昇志向のある一部のモノは政治家を目指す。
 
 が、実際に政治に深入りし、その道の熟達者になればなるほど、役人的所作を身につけ、官僚的分別を弁えるようになる。
 そうしないと、この神輿担ぎヒエラルキーの中では出世階段を上っていけないのである。
このような一種のフレキシブルなヒエラルキーは戦後保守政治のただ中でも貫徹してきたとみる。
政治世界で出世を願望する庶民は、このヒエラルキーの階段を上って行った。
 
 >が、そこにおけるフレキシブルさが喪失してきたのも確かなことである。
ただし、民主党政権の幹部たちはヒエラルキーの階段を上ってこなかったようだ。
ヘリで頂点に一時的に降り立った様なモノ。有権者の数の力でそこに臨時で押し上げられたのだ。
よって時間がくれば、全員が下界に降りてくる。
 
 >翻って、今、ダブル選挙を事実上演出した橋下徹の言動。
 
 私は全く触れた事はないという、限定つきだが。
 
 一部、小沢支持者や天木直人にシンパシーを与えているところをみると、タレント弁護士の奔放な言動による人気で風評の権力者に成りあがった橋下は知事職在任の経験を経て、もっと上にヒエラルキーの階段を駆け上がる際に、ワァーワァーの神輿担ぎのならず者的喧騒をどこかにしまっているようである。
そうしないとヒエラルキーの階段を挙げれないと知っているからだ。
 
 ダブル選挙時の橋下の言動に共感をして人たちは、日本的ヒエラルキーの階段を大急ぎで昇っている、より政治家的より役人的に変身し、官僚世界の分別さえ身につけ出した橋下のワンショットだけの見て、その前後左右をよ~く観察していない。
 
 そして、ダブル選挙圧勝した橋下に対して、早速、ヒエラルキーの頂点近くに位置する自民党石原幹事長は
出世階段を昇る前の政治的条件を付けている。
 
 橋下の大阪都構想府民が幸せになるのだったら、道州制との関係で検討すると。
 
選挙を控えた自民党国会議員、は橋下人気を取り込むために、橋下大阪都構想に合流しよう。
公明党議員団もそれに付着して行動せざる得ない。
民主党議員も橋下構想に真っ向から反対できまい。
 
 >そして、出世階段を大急ぎで駆け上がろうとしている、橋下にとって、小沢支持者の云う様な、強い自治権をもった全国300基礎自治体構想などは、言葉は悪いが屁のツッパリにもならない。
 
橋下の大阪都構想は財界や自民党の予てからの主張、道州制を最大政治目標とするだろう。
 
>その向こうには、TPPによるアメリカ制度の日本移植が待ち構えている。
 
>ただそれは、日本的政治土壌ではアメリカ的地方分権地方自治ではなく、権限権力の集中した地方役人と癒着した中央官僚の中央集権制の強化となってしまうのだ。
 
橋下にシンパシーを勝手に描く小沢支持者は完全にコケにされているのである。
 
彼らがダブル選挙で見た橋下は出世階段を大急ぎでかけ上る際の、元ならず者、橋下の擬態であった。
 
 ヒエラルキー側には橋下を取り込む術があった。
 
なお、「みんなの党」を自民党と読み替えても、庶民生活にとって中身と結果は同じだ。
 
>日本的ヒエラルキーの階段は、一つしかないと考える方が単細胞。
今のところ、一応中央議会政党みんなの党は橋下の上にいる。
しかし、みんなの党の階段は途中で頂点へ旧階段と合流している。
 
      
   <<追記>>
大阪では部落解放同盟の全国本部が市内にある。組織もキチンとあるし、大阪の国、地方の政治家への影響力もある。
ホンの短い時期を除いて市政与党である。運動の獲得物も多い。
また、大阪では非共産党系の市民運動住民運動を展開しようとすれば、解放同盟系の組織は身近な存在となる。
 こうした政治環境から、共産党などはアカラサマニ同和利権批判を選挙の度に強く繰り返し、それが一種の党派性の様になっている。
私はそれに一貫して反対してきたが、橋下と被差別部落を結びつけるのは橋下の人間性を事実問題から立体的に明らかにする意味で避けて通れないと考える。今後ともそうするつもりである。
前に松本震災復興担当大臣を真っ先に弁護したことがあった。
私の真意は彼が部落解放同盟の全国幹部である、とかいうことは一切関係がない。もちろん知ってはいたが。
単にゼネコン経営者の彼が最適任者であるというにすぎない。
処があるブロガーの記事を見ると部落云々の心情的弁護論を展開していた。
そんなことは厳しい全国政治局面においては関係ないのである。ナィーブ過ぎると議論が、心情方面に流れる 
イロイロ過敏になり過ぎているのは、遠距離の人たちである。
 
 韓国批判も踏み込んでハッキリするように決めている。FTAやTPP論議をする場合、避けて通れない、と考えるからだ。中国共産党批判も絶対に避けては通れない。
韓国中国が嫌いだとか好きだとか一切関係ない。
増してそれら民族は仲間だと想うように心がけている。
だが、民族差別と受け取られるギリギリの線を越えているかもしれないと想うことも時々ある。
しかし、議論を踏み込んだところまで持っていくためには、それは避けて通れないのである。