反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

道州制の地方分権に旗を掲げながら、支配層への分権に終わる反民主主義議論が大手を振ってまかり通る日本の、世界に珍しい異常。

 大阪、橋下徹大阪維新の会のやろうとしている事に論理的整合性がない。
コレだったら、道州制の方がまだすっきりしている。
混乱、無駄を生むばかりで、結局、道州制に収れんされる。
 
 今以上の広域自治の中間団体を念頭に置いて、住民参加を加味すれば、一端大阪府に集中した権限は府下の分割した基礎自治体に差し戻さなければならない。分割するロス、差し戻すロス、広域自治体との関係調整をするロスがかかる。
 
 橋下は一方で大阪都を掲げ大阪市を解体し、府に権限を集中しておきながら、他方で、関西広域連合の場においては、道州制の旗振り役をしている。
 道州制になれば、権限集中の大阪府は邪魔になる。そのままでは、他県も道州制になった時の大阪への政治経済文化の集中集積を危惧するから及び腰になる。
 
 こんな個人的な政治的策謀の匂いがプンプンする大阪都構想の矛盾が圧倒的支持を得て、まかり通る不思議。
 
1)広島大学の学者センセイの道州制議論を読みこんでいる、とますますそういう気がしてきた。
2)さらに今、ネットに出ている、フランスのレジオナスリズム(地方分権)の詳しい解説を読むと、なんだか日本の地方分権議論の現状が情けなくなる。
 
1)の道州制議論は煎じつめると、中央ー地方の制度の再編によって「国のかたち」が替って、日本が元気になるんじゃないか(自分たちの都合や金儲け適正環境創出)、と云うという、支配層の上からのかねてよりの目論見を議論として俎上に挙げることだ。
 
 学者センセイは道州制の積極的推進派ではなく、問題点も挙げているが、結局の処、中央ー地方の行政、政治エリートの観点からの制度論に終始しており、持論を強固に前に押し出せない容認派である。
 
 欧米制度はアングロサクソン地方分権型にしても、フランスの様な中央集権制と基礎自治体ー県ー州、ドイツの様な連邦型にしても、それなりの歴史的経緯(市民革命の成果)を踏まえて、自分たちの自主的な目論見として、現時点で達成された。
 
 だからその根底には、市民の参加型の民主主義が脈打っている。歴史的な長い年月を経た住民側の政治的活動の成果として地方自治がある。
 
 フランスでは基礎自治体はコミューンと呼ばれ、フランス革命時の決起したパリ市民の立法司法行政を総合した執行団体の名称を引き継いでいる。その数36680。平均人口1491人。
 ちなみに、フランスでは正式には市町村の呼び名はなく、全部コミューン。外国人が勝手に何々市と様でいるだけだと。はじめて知った。
 
 イタリア、基礎自治体数、8215。平均人口、7182人。
 
 ドイツ。基礎自治体数、16514。平均人口、7900人。
 
 スペイン。基礎自治体数、8149。平均人口、4997人。
 
 この方面での小沢さんの改革案では全国300基礎自治体都道府県はなくし、国と基礎自治体との1層構造らしいが、ヨーロッパの参加民主主義の市民革命型の基礎自治体の政治思想とかけ離れているが、自民党経団連道州制よりはるかに民主的制度の様な気がする。
しかし、日本の民主主義度合いからして抽象論じゃないかな。権限委譲されても機能しないと想う。汚職の巣窟になる。中央統制も却って強まるのでは。
 
 しかし、自民政権時代の地方制度調査会の案による道州の平均人口はナント1277万人で、この規模を超えるのは、アメリカでもカリフォルニア、テキサス、ニューヨーク、フロリダしかない。
 
 何をやっているんだか!
 
道州制推進者の今まで曲がりなりに合った戦後民主主義の構築物を自分たちの都合のいい様にぶっ壊そうとする意図が丸出しになっている。
 
 効率機能面だけで国ー地方関係を考えるからそうなる。国民住民にとって迷惑この上ないし、結果的に国民経済を疲弊させる。官僚統制そのものが跋扈するだろう。国の解体にもなりかねない。尤もその方がTPPで日本にアメリカ制度移植をを画策するアメリカには都合がいい。
 
 一方、ヨーロッパでアメリカと同じく連邦制を採用しているドイツでの平均人口は513万人。
他の国の州の平均人口は日本の県に近い。
 
 問題はこういう、官僚、学者、政治エリート?の世界的に見ても地方分権の真逆を行く様な、異常な意見がどうして大手お振ってまかり通るか、だ。
 
 知っておく必要がある。自虐史観ではなく歴史の事実である。言い換えたり、誤魔化したりしても結局は日本国と国民は、この歴史的事実を抱え込んで前に進んでいくしかない。 
 
 >日本の場合、極端に云えば、明治維新政府の絶対主義的統治システムが住民の民主主義的抵抗の試練に晒されることなく、資本制の政党政治によって、資本活動に都合のいい様に、変更を加えられただけで、敗戦を迎えた。
 
 この点において、ワイマール時代の皇帝を追い出した共和国憲法を持っている、ドイツとは大きく違っている。
 
 >ヒットラームッソリーニの政権と日本の翼賛体制を共にファシズムとして同一視する視点は、歴史的に民主主義の足りない日本政治状況や制度政策の特殊性を分析しない誤りである。
 
 >集会結社の自由、言論の自由の抑圧と云う側面だけを強調し、両者の違いをハッキリさせない、一般論に戦後の日本国民は汚染されてきた。
ヒットラー、ナチ体制=ユダヤ人虐殺、はユダヤアメリカ的洗脳イデオロギーである。
 
 ナチ党の正式名称はドイツ国社会主義労働者党である。
ナチは大量失業者に職を与えた反面がある。
 
 この点からみても、市場原理主義に基づき、労働者をジャングルの掟に晒し者する根本思想を抱いている橋下はファシスト以下的ファシストである。
 
 さらに、当時のドイツ社会民主党主流派も煎じつめれば、国家の官僚制度に依拠した社会主義を内実としていた。だから同じ国家社会主義である。
その民主主義的要素は官僚制ドイツから見た、イギリス、フランスへの憧憬に過ぎなかった。
 
 だからこそレーニンが口を極めて罵ったが、ドイツ社民主流派の顔は革命ロシアに向かわず、フランスイギリスの民主主義に向いていた。
 
 >日本の戦前の体制はファシズムではない。
 
 >ファシズムとは世界市場の再分割の危機的激化を背景にドイツやイタリアの様な後発、民主主義的資本主義国において、激烈化する国内政治対立に対して金融資本的支配層が緊急事態への対応としてテロリズム独裁の道しか選択するしか余地のなくなった際、民間大衆運動を装って、民衆を独裁の鎖につなぎとめるために、発動されるモノである。
 
 戦前日本に民主的政治体制はなかった。
民主主義闘争は国民政治に影響をほとんど及ぼさない、孤立した極小、運動だった。
多数派国民は明治時代からの、帝国主義的独裁を支持してきた。
 
 >以上の歴史的事実は戦前日本においては近代国民国家成立の国民側の要件である、市民革命が自らの戦いの結果として、勝ち取れていなかった、と云う事を指示している。
 
>この歴史的事実が同じ敗戦国でありながら、ドイツ、イタリアと日本の敗戦直後の新憲法制定を頂点とした、リアルな政治状況に多大な影響を及ぼしている。
 
敗戦ドイツ、イタリアは、戦後の出発に際して、ナチズム、ファシズムが踏みにじった、戦前民主主義の獲得物と云う寄って立つ根拠があった。
 
日本にその種のモノ支配層の側にはなかったし、敢えて言えば、民衆の側にも、広範な経験として皆無だった。
 
 以上は歴史的事実であり、今でも大きな政治改革を推し進める場合、絶えず頭の片隅に置いておかなければならない事だと考える。
 
 戦後はアメリカ軍の軍事力を背景とした強制によって、アメリカ製の民主主義諸制度がマスコミ宣伝によって国民の頭上に降り注いだ。
 
 国民は民主主義の服を着たが、裸の中身は戦前感性のままだった。
 
 この時点ではマスコミの民主主義の宣伝の意味もそれなりにあった。
いくらなんでも、戦前の感性のままでは、戦後自由主義を標榜する世界に通用しないし、大量生産大量販売も子国民経済発展も期待できない。
 
この時点のマスコミへのGHQ言論統制を問題にする江藤淳は日本マスコミの出生の秘密と特権の由来を暴いているが、批判の中身は戦前の日本体制に日本人の主たるアイデンティティーを求める間違いをしている。
 
 しかし、戦前の支配体制は、ドイツ人やイタリア人がそうした様に日本人自らの手で抹殺しなければならなかった。
だから、日本国憲法は戦後日本人にとって、戦前帝国憲法に変わる、意匠に過ぎなかった。
真実ではなかろうか?
 こういった意味で、世界の先進国を見渡すと、戦後の日本は他国から民主主義を「授かった」貴重な国である。
明治維新は外国勢力の圧迫を占領を統治を経ないで近代国家成立に転化した、と云う意味で民族的主体性が貫徹されている。
 
 辞書によれば、意匠とは1)、芸術上の工夫。趣向。2)製品の外観に美しさを与えるための形、模様、色などについて新しく工夫する事、またはそのための考案、デザイン。
あくまでも<製品の見かけを良くするための工夫>であり、<製品の中身>とは違うという事だ。