手前味噌になるが、3月27日(火)の記事は、戦前の1920~30年代日本の世界に類を見ない歪な軍事的システムとその結末(侵略と帝国主義戦争敗北の歴史的必然性)と、今に至る戦後日本の公共セクターを蔑にした会社社会日本に特化した歪な発展過程を対比したモノで、キチンと数字に基づく、80年の日本史の一面の真実を明らかにしたモノと自信を持っている。
ところが、
英5。米5。日3。仏1、75。伊1、75。
>日本の1920年代~30年代のシステムは世界でも例のない異常な軍需優先、内需犠牲の構造を持っていた
>財閥主導の経済は軍需にけん引され、侵略と戦争によって、大儲けする仕組みだった。
これは、司馬遼太郎が手前勝手な歴史観で云う様な、明治は健全だったが、のちの後継者が間違った道を歩んだという訳では、全くなく、明治の富国強兵路線の延長線上に、以上の様な歪な軍需大主導の社会経済システムがもたらされたのである。今頃維新などやってもらっては、国民が大被害を受ける。
日本は戦争をすることで、封建江戸社会を急速に経済発展させたが、それでも、戦前の時点ではイタリアにも劣る工業生産ポイントにしか達しなかった。
当然コレは経済と社会環境を貫くシステムと化していた。
軍人が崇拝される軍国社会だった。
戦前の日本国民の圧倒的多数は日本帝国の軍事的成長に自分たちの心情を一体化させていった。
地域、会社、団体、社会、家庭、は、天皇国家に独自性、個性を滅却して、埋没させてた。
そういう建前を優先させることが世渡りの術であり、個人の内面生活は空虚と云わねばならぬ。
>>ところが、官民一体化した軍事優先国家の進展が、近隣民族の反発、反抗から帝国主義戦争における敗北に見舞われて、どのように変転したのだろうか?
>戦争とその敗北は主導者の権威、権力の失墜であると同時に市民、国民は立ちあがり、自分たちが主人公の社会を目指す絶好のチャンスだった。
>が、日本の多数派国民は自分たちの存在主体を塗りこめていた神国日本の惨めな敗北を目の当たりにして、精神的、思想的?に茫然自失状態だった。
が、茫然自失は政治思想、政治意識の転換ではない。
アメリカ占領軍の物量圧倒とアメリカ文化の前に、かつての神国日本の不敗を刷り込みと、無残な敗北による茫然自失の自己主体は目先の物欲、唯物崇拝、拝金主義への単純ハイキとアメリカに対する畏怖心を呼び起こした。
そもそもが世界の現実に即さないマインドコンロールによる洗脳状態状態だったのだから、敗戦、軍事占領、文化的物質的圧倒のリアルな現実に直面すると、自己喪失のまま、戦後もたらされた現実をそのまま、咀嚼することなく受け入れるしかなかった。
>日本国憲法はアメリカの強制によってもたらされた、といよりも、敗戦による市民、国民の自分たちの新しい国を自主的作ろうととする総決起がない処で戦前統治形態継承を画策する天皇宮廷勢力とGHQの交渉による妥協の産物だ。
従って、今頃になって押し付け云々は、必然的結果的にこの時の対米交渉で譲った部分の現代的奪還形態となるしかない。
戦前と戦後の支配層の構成の相違を反映した、新しい戦前への螺旋的回帰となる。
戦前の主導勢力は文武官僚、財閥、貴族、地主。
>>1930年代から、世界戦争敗北をはさんで、わずか80年しか経っていない間に、世界のGDPに占める割合は1930年2、4%-1994年17、9%-2007年8,0%となっている。
他方、アメリカは1930年44%-約22%と現在約半分になっている。
日本は今に至るまでの80年間に、世界に類を見ないほど、急速発展してきた、と云って間違いない。
その発展の原因を日本人の戦後の経済第一主義に基づく刻苦奮闘に求めるのは間違いでないが、イロイロ周囲や世界の環境に恵まれてきた、という側面を無視できない。
>換言すると、日本を押し上げた、特殊環境が先細って行けば、日本経済は大きな壁にぶつ当たる。
>さらには、経済第一主義という事は公共セクターへの支出を相対的に少なくして、会社の成長ー賃金上昇で国民生活を回してきたという事だ。土建業を中核とした公共投資もこの範疇にあり、それは正確には富の分配ではなく、会社団体を維持し、そのお零れが個人や家庭に迂回するという方式である。
>今、日本経済を押し上げてきた内外環境が悪化していることは間違いない。
其れに基づき、公共セクターへの投資を蔑にし、企業成長に極端に偏ってきた、日本的システムの矛盾が露わになってきている。
>政権交代の眼目主要部分には従来の日本的システムを是正しようとする意図が込められていた。
ただし、日本経済社会の舵切りをする時期が余りに周回遅れ過ぎた。
経済状態の停滞、財政危機、先進国経済の恐慌的停滞、新興国の台頭。
こうした内外環境の中で、舵切りをする物的精神的要素に乏しかった。
だから、多くの人が失望するのは、ハッキリとした云わば、<歴史的根拠>がある。
民主党政権がうまく機能しないのは、仕方のない側面が多い。
歴史的な大きな歩み、流れは政策では変えられない。
制度を変えるとしたら、国民決起の「革命」しかない。制度の改革は中途半端ならば、国民が最後に苦しむ。
楽であたかも簡単に実現可能な課題設定をする論議がまかり通っている。
其れを前提に、其れを実行しないモノはダメだ、と。
その先に既成政党への不信、既得権へのチャレンジという、簡単、お気軽フレーズがマスコミ経由で多発される。
そこ論議の流れから、目に見えるのは橋下と維新の会。
既成政党、既得権にチャレンジしている、と。
が、世の中そんな単純じゃないよ、という意見多くある。
それらに対して既得権にしがみついている意見、との反論が出てくる。
>しかし、こういう時期、これからに、一番大切なのは耳触りのいい言葉、勇ましい言葉、見てくれ、ではなく、その政策、政治の客観的妥当性である。
>また橋下と維新の会は出世すれば、攻撃している既成政党や既得権と一体化する今まで日本や世界の歴史に繰り返されてきた事実は見過ごされている。政治的投機分子はそうなるのである。
>橋下と維新の会の政治の基本方向は戦前の歪な軍需優先、民需蔑の歪な社会経済システムのもたらす内外矛盾を軍事突出によって、切りぬけようとした輩のちょうど裏返しの位相である。
軍事突出の太刀を抜く代わりに市場原理の太刀を抜いて大問題を解決しようとしている。
時代には大きな流れがある。
戦前、1920年代後半の二大政党の片方、政友会政権が税源移譲の地方分権案を提示し総選挙の争点にした。
内外情勢はもうそんな地方分権が通用する時代じゃなく、中央集権で日本は対処するしかなかった。
そして軍部台頭で二大政党制は崩壊した。
>>橋下と維新の会の基本政治方向は、今度は市場原理主義を徹底することで、対処しようとしている。
日本に先進国と比較して圧倒的に脆弱な公共セクターをさらに切り縮めよ!と。
其れは方法は違うが、戦前軍部と同じ様に時流に乗っている。国民を不幸にするグローバル資本制の時流に載っている。
戦前軍部にもろ手を挙げて、拍手したモノは今は橋下と維新の会に拍手するモノだ。同じ血が流れている。
理性と冷静さの堤防を決壊させ、情緒、感情に流されている。面倒な思考を捨てて、目先の目に見える敵を想定し、出口を安易に求めれば確かに、心地よいのである。
そういう境地のモノを多数生み出す政治技術は古今東西磨かれてきた。
優秀な詐欺師は自分のついているウソを信じ込める才能がある。
<追記>
いま読み返していつもの事ながら、誤字脱字が多過ぎるがいつも通り修正なしで。
「日本では軍部の威信低下を避けるため新聞は日本軍の圧勝を報じた」
「一般の日本人が敗北を知ったのは戦後になってからだった」
彼の持ち上げ美化した明治の富国強兵の延長がノモンハン事件の敗北に繋がっていると語ることができなかったからだ。総力戦の時代の戦争の最後の勝敗を決するのは、軍人の精神力ではなく、生産力を含めた真の国力であり、もうこの時日本とソ連の間でさえ、工業力に2,2ポイントもの開きがあった。日本はノモンハンで負けるべくして負けたのだ。
仮にこの時点で日本ソ連だけが正面衝突していても、日本勝ち目はなかった。ましてや、経済力が20倍の米国との戦争はいつ負けるかどうかの戦争だった。
戦後のリベラリストが総括する様に合理的精神がなかったから、敗北したのか?
それもあるが、敗北必至の世界戦争に参戦した主原因は日本帝国主義の1)アジア侵略植民地化とそれへの反抗、2)帝国主義の争闘、3)民需を蔑にした歪な軍需最優先の経済社会構造による内発的な戦争国家化である。その環境では理性と合理的精神は時代の激烈な流れの中で抗すべくもなかった。
日本社会の絶対少数派にしか理性と合理精神はなかった。その他は時代に迎合していった。
>グーグルのノモンハン事件の解説を読むと、「 」の指摘はあるが、こういう当たり前の指摘は一切ない。
重箱の隅をつつくような、細かい戦局や軍事力の分析のオンパレードで真相をワザと隠す為に多言を弄している様なモノ。大局観のない軍事オタクがコレでは生産される訳だ。