反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

エリアカザンは「エデンの東」など数々の不朽の名作と、マッカーシー赤狩りで司法取引し、ハメットなど11人の仲間を公表した事で知られるが、名作の陰に隠れがちな「恐怖の報酬」は再評価されるべき作品。

 世界の映画史を語る場合、エリアカザンと数々の作品は決して外せない。
好きな作品を一々挙げていくと、その印象的なシーンとストーリーが自然と頭を駆け巡る。
 
 >「波止場」。マーロン、ブランド主演。1954年作品。
 しかし、見せ場は波止場の労働者の生々しい群動を描いたシーンやギャングの支配する港湾組合との決闘シーンなど名作らしく、たくさんあるが、改めて、見直した時、恋愛情緒過多シーンなど結構だれるシーンが多いなと気付いた。
 
 カザンがマッカーシーの煽動する赤狩り非米調査委員会で自らの嫌疑を掻い潜るために司法取引し、ダシールハメット(私はこのヒトを尊敬している)、リリアン、ヘルマンなど11人の名を明かしたのが1852年だった。
と云う事は「波止場」は司法取引後の火がまだ自他共に燃え盛っている頃、撮影された作品である。
 
 マッカーシーの違法な赤狩り批判キャンペーンが開始されたのは、1954年3月9日にはCBSドキュメンタリー番組「See it Now」以降のことであり、同年、上院に置いてマッカーシーは「上院に対して不名誉をもたらす活動した」と不信任案を65VS22で突き付けられ、それまでの活動の違法性が否定された。
 
 が、ブラックリストに載った言論分野の著名人はその後も長らく活躍の場を奪われた。
「波止場」はその角度から、今、見直すと、ニューヨークの港湾荷役組合を港湾労働者から不当な収奪をするモノと一方的に描き出し、それへの単独で勇気ある挑戦者の青年マーロンブランドの善悪の対比が物語の見どころとなっている。
 
 従って、深読みすれば、この作品はカザンの転向宣言だった。
 
>「エデンの東」。ジェームスディーン。1954年。
 
 この作品が日本でもっとっポピュラーなカザン作品だが、近親愛、近親憎悪など主題はキリスト教精神世界が本当に解っていない自分には、これまただれる処がある。
 
>「草原の輝き」。ナタリーウッド、ウォーレンビーティー。1960年。
 
 この作品が事実上のカザン最高傑作だと想う。
 
作品の1930年代の大恐慌時代を背景にした中西部の田舎町の若者と親たちの葛藤、東部エスタブリッシュメントへの憧れと挫折、その最終的な否定=土と人間らしい生活の発見を巧妙に対比させ描いて作品スケールは大きく、かつ、登場人物の内面描写が実にきめ細やか。
円熟したカザンの演出が余すことなく開花している。
 
>>が、この「草原の輝き」に次ぐ作品が「暗黒の恐怖」である。
 
 いや、作品の現代的な意味では、確実にこちらの方が上回っている、と想う。
 
 物語の展開、各シーンに沿って、論じるに十分、応えるだけの演出力が冴えわたっている。
 
 手元の重要なシーンのメモ書きを基に逐一論じても記事がかける。
それ程、無駄のない研ぎ澄まされ、配慮の生き届いたシーンを連続させて、密入獄者の持ち込んだ肺ペスト感染の恐怖に晒された港町ニューオーリンズの24時間の警察、衛生行政当局、マスコミ、影響を受ける市民、犯人関係者をドキュメンタリータッチで描き切っている。
 
 >>この映画の特徴はカザンの監督演出を論じるだけに終わらない、今日的価値が見出せるところ。
深読みができるのである。
 
 肺ペストの脅威にさらされた町と、戦う人々の人物像を描いた文学作品として有名のモノがある。
アルベール、カミユが、1942年の出世作「異邦人」についで戦後、1947年に書きあげた長編小説「ペスト」である。
 
 そもそも、人間とその織りなす社会、システムを描き出すのに格好の凝縮された舞台設定なのである。
「暗黒の恐怖」の脚本(カザン本人ではない)は第23回アカデミー賞脚本賞(原案)を受賞したというが、アルベール、カミユの「ペスト」を参考にしていることは間違いなかろう。
 
 それだけに舞台設定と題材は人間や社会の在り方の深遠に到達する内容を持っており、上手く演出されると、<イロンナ角度から、深読みできる奥深い>映画ができあがる、という事だ。
 
>私はこの映画を福島原発事故や政治リーダーをことさら求める近頃の時代風潮に引きつけて、論じたくなる。
 
 原発事故を受けての政権担当者や東電などの当事者も、それなりにぎりぎりの判断、選択、決断を迫られた。
原発設置の経過上、完ぺき対応はあり得なかったからこそ、問題をその中身に絞り切る必要があるのであって、軽い嘲笑や侮蔑の対象ではない。
 
 もう一点。
カザンは劇中、市長やマスコミ、市民はペストと実行対決する現場の外側の人間として描いている。
市長は警察行政の実務者の現場の実行力に任せて、市民の反応を気にして、自己保身気味である。
 
マスコミ記者はパニックを恐れ、市外に逃亡する市民が出て感染が全米に広がる事を恐れる当局に対して国民の代表として情報隠しを抗議して記事にすると云う。
そこで捜査責任者はこの記者を適当な罪名を付けて逮捕してしまう。
 
 この逮捕の情報を聞きつけた市長はペストの情報を開示して、市民の協力を得たらどうかと云う。
コレに対して衛生当局の責任者は公表によって、マスコミ報道は誇張が付きまとうから、市民にパニックが広がる可能性があるというが、市長はそれは彼らの権利だ、という。
ここら辺りの市長の割り切り方もアメリカ的。
 
 そして結局、市長は公表を控え、警察と行政に時間を限って、ペスト収束を命じる。
 
 こうしてやはり、ペストの脅威にさらされた街の現場で実行収束に当たるのはその道の専門家である警察と衛生当局になる。
 
 また、カザンがペストに立ち向かう人物像として終始、肯定的に描きあげた市衛生局の主人公の医者や、この医者と最初は対立しあいながら劇中で信頼し合う、捜査当局者は共に当時の実直で職務に忠実なアメリカ小市民の共通の背景を持つ者同士と描かれている。
 
 が、今現在や将来のアメリカ小市民の在り様は、当時の様子と随分様変わりしてしまっているのではないか?
 
 経済学者、ガルブレイスの描いた「豊かな社会」のアメリカ中産階層の在るがままの肯定的な属性がアメリカ国家の基盤をになっていた時代は、もうかなり昔に過ぎ去っているのではないか?
 
 ペストの脅威にさらされた街を救おうと奮闘する、他に高給の働き口があるのに、安月給に甘んじて職務に実直な衛生局の医者は今、どれ程いるのだろうか?
 
 >プロの捜査担当者として、終始手堅くも、あるときには大胆に権限を発動する警察幹部も含めて彼らは、アメリカの良き時代の中産階層のモラルの具現者たちだった。
 
 そうした戦後アメリカの豊かな時代の中産階層への無言の同伴意識がカザンを、後の赤狩り司法取引、仲間売りに繋がったのではないか?
 
 ただ、この1950年発表のこの映画では、カザンは1954年の「波止場」のマフィアに牛耳られた港湾組合と違ってニューオーリンズ港湾労働者に当局に情報提供を呼び掛けられても「仲間の事は誰もしゃべらない」と語らせている。
 その後のカザンを想えば意味深な、シーンである。
 
>この映画はペストと云う絶対的脅威にさらされた政治家、国家、行政、マスコミ、市民の典型的在り方を1950年の世界戦争が終結したが、冷戦が始まろうとする時代にスリリングな映像として、提出している。
 
>>日本でこういう映画が1950年に作りえたかどうか?
 
 大事態に対処する主体の側の問題を描いているから、我々にイロイロその意味で考えさせるのであって、誰か悪い奴がとんでもない事をしでかしたと告発している訳ではない。
 
 事実上デビュー作になるマフィア役のジャックパランスがペストを持ち込んだ密入獄者を射殺したのも、イカサマトランプでごっそりカネを巻き挙げたからだ。
そのシーンは言葉でなく、トランプを調べるさりげない映像に語らせているから、よく見ないと見落とすほど。
ここら辺りが監督演出のきめ細かさ。言葉にださせたら、24時間のドキュメントが安っぽく、深みがなくなるはず。
 
 彼は最後まで警察の自分に対する異例の大掛かりな捜査網をペスト感染重大疑惑者に対するモノとは知らず、単なる殺人罪だけとばかり思っていた。
この辺の追う側の当局と逃げる側のジャックパランスたちとの状況認識のすれ違いも、短い24時間のドキュメンタリータッチのストーリーにリアル性をもたらしている。あくまでも映画の中の行為はハードボイルドだ。
 
 >こうした、全編を流れる緊迫感の緩和もキッチリ仕組まれている。
主人公の衛生局の医者の妻と小さな一人息子との心温まる家庭生活である。ハリウッド、20世紀フォックス製作らしい配慮である。
 
 ちなみに、妻役の女優、バーバラ、B、ゲティスはその後の赤狩りにによってブラックリストに載せられ映画の仕事を干され、テレビ界に活躍の場を求め、人気シリーズ「ダラス」に出演し、1982年にはゴールデングローブ主演女優賞を獲得している。
 
 主役の医者を演じたリチャード、ウッドマークは政治的にはリベラルはとして有名だったらしいが、ミスキャストと想う。
衛生局の役人の医者はあんな目つきはしていない。やはり、典型的な性格俳優であって、小市民の役人には違和感が付きまとう。ヘンリーフォンダ当たりが適役だろう。
 
 一番光ったのは刑事役のポール、ダグラス。
ああいう警察官なら、いたはずだと想わせるまさにはまり役。名演技だった。
処が彼の事はネットで調べても余り出てこない。
出演作品も少ない様だ。
昔テレビでよく見た顔の様な気がするが。
ジャックパランスの様な個性的俳優な存在感を前面に出す俳優と違って、無個性のどこにでもいる典型的なアメリカ人を演じられる役者だと想う。
 
あの映画が締まったのは彼の存在感と演技による処が大きい。
主人公にも云わせている。
「あの警察官は僕の4倍も勇気がある」
己の首をかけて、記者を躊躇なく逮捕させているからだろう。
そればかりでなく、最初は捜査のプロとして、軽はずみには動かず、状況を理会してからの行動が敏速果敢なプロ中のプロなのである。