YAHOOニュースのトップに次のような記事が載っていた。
福島第一の原発所員、命令違反し撤退 吉田調書で判明
-朝日デジタル 5月20(日)3時0分配信ー
記事のイントロ。
「東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。それによると、東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。」
以下の事実関係の記事に続くわけだが、朝日デジタルの3時0分配信記事には全く指摘されていない時系列の現場作業員の必死の緊急対応があった数時間後に、所長命令に違反した撤退の事態が引き起こされていたようだ。
こういった緊急事態では時系列に沿った現場の生々しい事態の推移を辿らなければ実相はつかめない。事態の推移からそのときの決定的な判断が生まれ、個々の判断力の如何もあるが、集団心理も決断を左右する。
そこを掴みきれなくて、後から形式的な、特に法規的な裁断をしても、生きた人間の外側から、規則で囲い込むだけで、危機的事態を想定した真の教訓になり難い、責任ある地位のものをそれらによって、縛るだけで、その他大勢は危機的事態において自分の選択した行動の妥当性の吟味から、己を除外する思考パターンに陥る。
2号機の事態の緊急性は外観的には見えない部分の圧力調整チャンバーの破壊によるチャイナシンドロームも想定させた。1号基3号基の水素爆発による建屋の壊滅的破壊の最後に引き起こされたもので、福島第一原発事故は同時多発的な原発事故として、現場所員にも衝撃的なプレシャーを与え続けた。
この限界状況を抜きに語っても、第三者には、片手落ちも甚だしい。状況設定には臨場感が必要だ。
フクシマ・フィフティーの真相 引用 ーW、吉田所長の視点から描き出している。この新手法については後にー
「福島第一原発では、2号機の暴走を抑えようと懸命の努力が続けられていた。2号機は前日14日昼以降、状態が急激に悪くなっていた。
特に原子炉格納容器の圧力上昇への対応は急を要していた。なんとか「ベント」という格納容器の中の気体を外に放出する操作をやって、破裂をふせぎたい。さらに、圧力容器の圧力を下げたうえで消防車を使って炉に水を注ぎ込み、核燃料を冷やしたい。
15日午前1時すぎ、ベントがうまくいって、原子炉への注水もできたようだという知らせがきた。だが、およそ2時間後の午前3時12分にはこれを打ち消すような知らせが現場から上がってきた。「炉への注水はできてないと推測している」。1、2号機の中央制御室「中操」で運転員を束ねる当直長からだった。
炉に水が入らない状態が続くと、中の核燃料が、自ら発する高熱でどろどろになって溶け落ちる。さらに手をこまねいていると、原子炉圧力容器の鋼鉄製の壁を、続いて格納容器のやはり鋼鉄製の分厚い壁を突き破り、我々の生活環境に出てきてしまう。」
特に原子炉格納容器の圧力上昇への対応は急を要していた。なんとか「ベント」という格納容器の中の気体を外に放出する操作をやって、破裂をふせぎたい。さらに、圧力容器の圧力を下げたうえで消防車を使って炉に水を注ぎ込み、核燃料を冷やしたい。
15日午前1時すぎ、ベントがうまくいって、原子炉への注水もできたようだという知らせがきた。だが、およそ2時間後の午前3時12分にはこれを打ち消すような知らせが現場から上がってきた。「炉への注水はできてないと推測している」。1、2号機の中央制御室「中操」で運転員を束ねる当直長からだった。
炉に水が入らない状態が続くと、中の核燃料が、自ら発する高熱でどろどろになって溶け落ちる。さらに手をこまねいていると、原子炉圧力容器の鋼鉄製の壁を、続いて格納容器のやはり鋼鉄製の分厚い壁を突き破り、我々の生活環境に出てきてしまう。」
——「保守的に考えて、これは格納容器が破損した可能性がある」
「そんな懸念が持ち上がる状況のもとに飛び込んできた圧力ゼロと爆発音という二つの重大報告。これらが、2号機の格納容器が破壊されたのではないかという話に結びつけられるのは当然の成りゆきだった。
格納容器が破れると、目と鼻の先にいる福島第一原発の所員720人の大量被曝はさけられない。「2F」すなわち福島第二原発へ行こうという話が飛び出した。」
格納容器が破れると、目と鼻の先にいる福島第一原発の所員720人の大量被曝はさけられない。「2F」すなわち福島第二原発へ行こうという話が飛び出した。」
以上が時系列に沿った現場の生々しい事態の推移であり、その延長線上に次のような現場職員の約90%が現場から福島第二発電所に逃げる、という所長命令に反した決断の生々しい機会が訪れる。
>関連時のフクシマ・フィフティーの真相を開けると吉田所長の判断の内容は20日3時配信記事の報道とは違っている。
本文では吉田所長の最終判断を「緊急時対策室内の放射線量はほとんど上昇していなかった。この時点で格納容器は破損していない」としているが、この事態における重要な計器類の数値や知識、経験から総合的に判断して、その時点でベターな指示である。
が、はたして?
「私がまず思ったのは、そのときはまだドライウェル圧力(W、圧力調整チャンバーをウェットウェル圧力と呼ぶ。従って、この場合は圧力容器、格納容器の圧力を指す)はあったんです。
ドライウェル圧力が残っていたから、A)普通で考えますと、ドライウェル圧力がまだ残っていて、サプチャンがゼロというのは考えられないんです。」
↓
「ただ、B)最悪、ドライウェルの圧力が全然信用できないとすると、サプチャンの圧力がゼロになっているということは、格納容器が破壊された可能性があるわけです」
↓
「ですから保守的に考えて、これは格納容器が破損した可能性があるということで、ぼんという音が何がしかの破壊をされたのかということで、確認は不十分だったんですが(W、確認は不可能で、そんな時間も無い)、
C)それを前提に非常事態だと私は判断して、これまた退避命令を出して、運転にかかわる人間と保修の主要な人間だけ残して一回退避しろという命令を出した」
C)の判断材料の底にはいうまでもなく、現場放棄したときの原発事故現場の暴走がもたらす甚大な被害がある。
そうすると以上のA)、B),C)の判断材料から導き出された現場所員への「退避命令を出して、運転にかかわる人間と保修の主要な人間だけ残して一回退避しろという命令」の実行現場での具体的な行動目標は
次のようになった。
↓
『高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう。
【待機場所は南側でも北側でも線量が落ち着いているところ】と調書には記録されている。安全を確認次第、現場に戻って事故対応を続けると決断したのだ。』
【待機場所は南側でも北側でも線量が落ち着いているところ】と調書には記録されている。安全を確認次第、現場に戻って事故対応を続けると決断したのだ。』
>以上のような所長命令の経緯を含めた現場事態の推移の中から、退避命令の出た所員がバスやマイカーに乗り込んだときに、どういう事態が発生したか。
↓
「吉田氏の証言によると、所員の誰かが免震重要棟の前に用意されていたバスの運転手に「第二原発に行け」と指示し、午前7時ごろに出発したという。自家用車で移動した所員もいた。道路は震災で傷んでいた上、第二原発に出入りする際は防護服やマスクを着脱しなければならず、第一原発へ戻るにも時間がかかった。9割の所員がすぐに戻れない場所にいたのだ。」
「その中には事故対応を指揮するはずのGM(グループマネジャー)と呼ばれる部課長級の社員もいた。」
「その中には事故対応を指揮するはずのGM(グループマネジャー)と呼ばれる部課長級の社員もいた。」
で、配信記事の最後は次のように結んでいる。
「過酷事故発生時に原子炉の運転や制御を支援するGMらの役割を定めた東電の内規に違反する可能性がある。」
過酷事故発生時の責任者の役割を定めた内規違反ということで責任を問うている。
確かにそういうことなんだが、今にして再考してみると、吉田所長の緊急事態の中での判断過程は複数の要因や現場放棄して逃げ出すことはできないという絶対的条件を想定して、配慮が行き届いているように一見思えるが、
退避場所などの肝心な具体的行動はそのときの現場判断に任されている訳で、構内の線量の低いところを選んで、運転、補修に関わる主要に人間以外の約90%の所員に車の中で待機せよ!という命令だったのではなかったか。
敷地内の航空地図を散々みてきたものとしては、車内以外に大人数が分散しても退避できる建物があったとは想われない。あれば所長は具体的に指摘したはずだ。
原発運転補修現場から職員が退避することを想定したマニュアルは何もなかったわけで、事実上、大雑把な所長命令はあっても、具体的には組織的な行動をせよ、ということではあっても現場判断に一任されていた。
極端な場合は以上が無い場合、現場復帰できる、場所の個々人の解釈と判断に一任される。
大半のものは第二発電所に組織的に移動したが、マイカーに退避した者の退避の仕方はお互い示し合わせて分乗したのか、個々人が自家用車にのって退避したのかわからない。まず、最高レベルの危機的事態で分散行動をとった場合、再結集は難しいのであって、バスやマイカーを連ねて、福島第二発電所に集団移動した選択を一概に悪いとは断定できない。
それに何しろあの事故は同時多発的な人類未曾有の原発事故。所員たちはハッキリ言えば死と大量被爆の恐怖に晒されていた中でベント作業など大量被爆を覚悟した事故対応に追われており、3、11から始まり、丁度、2号機に緊急事態が発生した15日ごろ以降の数日間は最悪の事態が続いたと想う。それで良く持ちこたえ、なすべきことはやったのではないか。
住民の大量被爆もこの時期に集中していた。
あのような事態では、まず何より、そういった緊急事態の想定が欠如していたこともあって、所長命令にも限界があった。
約90%所員たちの福島第二原発への集団退避行動も一概に責められない。
構内の線量の低い場所とはいったい何処になるのか。そこで車内待機は厳しいものがある。
はっきりいって免震塔にじっとしていたほうがましだったかもしれない、と誰しも考えるのだが、そこは収容人員に制約があり、はみ出すものが大勢出てくる。
確かに所長命令に違反し事故現場から逃げたかもしれないが、構外に出た場合の連絡の取れる第二発電所に集団移動したことで最低限の組織的行動をとった。
それ以降の記事の内容を読んでいないが、あからさまに言えば、フクシマ、フィフティーとは、そのとき現場に残った運転、補修の主要なものたちだったのか。
しかし、600人もの所員はいても、ベント作業は一応終えた後、全電源喪失、メルトダウンする燃料棒の前に何の役割を果たしえただろうか。将来ある若者などの退避するものと残るものの選抜が行われたと聞いている。
キビシイ状況の選抜、選択は避けられなかった。
所員の力の及ぶ範囲は限られていた。
また、「東電が12年に開示したテレビ会議の録画には、緊急時対策室で吉田氏の命令を聞く大勢の所員が映り、幹部社員の姿もあった。しかし、東電はこの場面を「録音していなかった」としており、吉田氏の命令内容はこれまで知ることができなかった。」
さらに政府ー原子力規制委員会は次のような見解で統一しているようだ。
菅官房長官、吉田調書は「公開しない」 理由は明言せず(朝日新聞デジタル)13時28分 故吉田所長の証言資料、開示せず=菅官房長官(時事通信)11時16分
吉田所長の命令を東電バッシングの中で一般に知らせたくなかったのだろうが、今まで述べてきた中でこの行為一番悪いし、姑息、浅はかではないか。
最近では連載漫画「美味しんぼ」を巡る連載休止にいたる騒動も持ち上がっている。
これ等に関しては、政府がどのような方向性を出そうが、市民各人の見解や立場の相違はあっていいし、あってしかるべきだと考える。
自分自身も独自の意見はあるつもりである。
しかし、状況を多角的に理解できる材料である、東電のホットな情報を最悪の当事者であるにも拘らず、無理やり隠したり、政府と関係機関のように客観性の高い情報を今頃になっても公開しないのは日本の国民性を良くわかってないのではないか、と想う。
状況全体を把握するためには、ホット情報や客観性の高い情報のシャワーを浴びるという環境がまずあるのが、先進国の常態で、
その中でそれらをどういう方法であろうが、取捨選択し、自分のものにするたくましさが必要である。この世界に生きている価値もそのことによって豊富になる。
ハッキリいって、そういった情報を公開しても、日本の国民性からみて、一定のスパンに区切れば、情報に振り回されて右往左往するようなことはなく、又もとの保守的な集団的な落しどころに回帰する。
むしろ、そういった国民性に対しては、ホット情報や客観性の高い情報のシャワーを降り注ぐことによって、保守的集団的な土壌に新芽が生育していく。
敗戦後の経済急成長の秘密の一端もそんなところにあった。
ま、以上、偉そうなことを、と自覚するが、最近、連載して執着気味の理研小保方騒動にしても、その分野の権威をたちが、研究者としては低レベル極まりない若い女性に、結果的に振り回された事態の底には、どう考えても全うな科学研究の範疇を大きく逸脱した部分が成り行きを大きく左右した、としか思えない。
前回の記事で若山さんのインタビュー記事を取り上げたが、こういう事態を受けて、いうのじゃないが、いったいアレは何なのだ、という思いがする。
アメリカでは万能細胞騒動などは10何年前に通過済みで、その生き残りのバカンティ兄弟などは、異端者、お笑い程度の存在で彼等の普段は医者で生計を立てており、万能細胞研究などは高級ホビー程度に思えるが、なぜか日本ではハーバード大のネームバリューを背に小保方のような低次元の研究者が、年間予算1000億円、研究者3000人の政府直系の巨大研究機関のラボリーダーに、いい加減な博士論文取得後、僅か2年余りで就任している。
研究者、小保方の形成過程の自他ともにあった大きな問題点が、修正される機会なく、一気に噴出した。
周囲の環境がどうしたわけか格好の培養地になって、こういう結果が発生している。
どうしてなんだろうか?
ただでさえ社会的な情報量を得る機会の狭い研究者のところに情報のシャワーが降り注いでいないともいえる。
日本の情報シャワーの質が悪過ぎで、頭のいいヒトは馬鹿馬鹿しくて見向きもしなくなり、専門研究の世界や趣味的世界に閉じ篭りがちになってしまうのでないか。
結果、世間に疎くなり、事実と事実を繋ぎ合わせるという軌跡追跡をすれば大きな疑問の生じる小保方のような存在への免疫性がなくなる
要は専門分野と趣味的世界に沈潜し過ぎて、あまりにも政治性にかけているわけだ。
笹井などは政治性にかけたというか、偏った典型である。
以上のような情報の質が悪い日本状況にあって、
>朝日新聞は日本における初のマルティメディアの手法を使って、
政府事故調査・検証委員会の調べに答えた非公開の「聴取結果書」(吉田調書)入手して特集「『吉田調書』 福島原発事故、吉田昌郎所長の語ったもの」 をネット上の有料コンテンツとし、本誌でも連載特集記事を組む。
耳慣れない手法なので少し調べてみると、その手法は、ニューヨークタイムズが2012年に公開した「Snow Fall(W,雪崩(なだれ)」というオンラインジャーナリズムの実験的な試みの記事の中で大きな写真と動画、大胆なレイアウトを駆使してまとめている ……読ませて見せて、インパクトを与えるコンテンツでその後、世界で追随者が出ているらしい。
「称賛から批判・拒否まで意見はさまざま、公開以来、実に活発な議論を呼び起こしている。Webのストリーテリングの進化」「美しい読み物」と言う人たちがいる一方で、「過剰な演出」「読み物ではない」という声も聞こえてくる 」 引用、シリコンバレー101より。
が、朝日新聞の当該のマルティメディア記事の公開されているさわりの部分やニューヨークタイムスの「雪崩」の記事を開けてみると、大騒ぎする程大したことはないか、と。
この辺の事情をシリコンバレー101さんはさすが適切に記事の最後を次のように締めくくっている。
「Snow Fallのような表現を開発する力は、NYTのようにWebにおいても有料でコンテンツを販売したい新聞社がネット上の無料情報に対抗する手段になり得る。
将来的にNYTが、Snow Fallのような表現を有料ページに集中して組み込んでいくのは想像に難くない。
だからといって、有料コンテンツと無料コンテンツの間に価値の格差が生じるとは思わない。「紙を捨てきれないデジタル出版に"サブコンパクト"のすすめ」で紹介したように、紙に馴染みが薄いWeb世代(ジェネレーションY)は、メディアリッチな記事よりも、むしろシンプルかつコンパクトな表現で素早く情報を得るのを好む傾向が見られる。
NYTなど大手の新聞社やメディアがSnow Fallのようなアプリ・ライクで贅沢な表現で他の追随を拒む一方で、無料でオープンなネットの表現はよりシンプルな方向に可能性を広げている。
これは移動という同じ目的のツールとして、ラグジュアリーカーと軽自動車が存在するのと同じである(W、?)。どちらか一方が正しい進化ではない。どちらにも、それぞれの価値を認めるユーザーが存在する。
だから、Snow Fallが「Web出版の未来か?」と問われたら、ひとつの進化の方向としてイエスだが、それが全てではない。Snow Fallの登場やサブコンパクト出版の台頭は、Web出版の市場規模や可能性の拡大を示すものなのだ。」
あからさまに言えば、朝日新聞のネット上に転がっている記事のほとんど全ては、佳境になって、会員登録して金を払わなければ読めないシロモノになっているが、そこまでして読みたい記事はほとんど、お目にかかったことが無い。
それから、こういった手法に近い画像の展開はフランスの原発の個々の自己紹介記事で使われていて、多分先進国で最低の日本のグーグル記事と比較して、余りの違いに思わずそこまでやるのかと、腰が引けてしまった、ことがあった。
突っ込みどころをおしゃれな原発紹介記事で、そがれた気がした。もっともフランス語という障害もあったが。
アメリカの歌手などのホームページのデザインも日本ではお目にかかれないもので、多チャンネル的に楽しめるようになっている。
それになぜだか画像が綺麗鮮明で日本でどうして、そうならないのだろうかと不思議に想ってしまう。
理研ー小保方騒動でカリフォルニア大デービス校のノフラー教授のページを訪問した時もプロレスラーのような風貌はともかく、STAP細胞は存在するのか否かの公開質問をクリックできるように仕組んでいたりして、全体に工夫がなされており、さすが、STAP細胞の存在をケンタッキーダービーに三本足の馬が出走したら、有り金かけるかどうかと表現した余裕のユーモアの片鱗を見た思い出した。
日本の場合は箸にも棒にもかからない、一目で関係者の記述わかる代物。
深層取水だけしか書かれていないが、では冷却水の排水はどうしているの、という片手落ち都合のいい解説としか言いようが無い。
フクシマ・フィフティーの真相 を開けてみる。
冒頭。
「暴走する原発を止める責務はいったい誰が負っているのか。その人間はいよいよ原発が破裂しそうになったときは逃げてもよいのか。原発の挙動を知ることができない都道府県知事任せで住民はうまく避難できるのか。そもそも人間に暴走を始めた原発を止める能力はあるのか。事故収束作業における自らの行動、判断を反省も交えて語った福島第一原発の事故時の所長、吉田昌郎。吉田の言葉を知ると、ことの真相を知ろうとせず、大事なことを決めず、再び原発を動かそうとすることがいかに大きな過ちであるかに気付く。」
以上の記述を知らなかったWは上記の同じような問題意識を次のように記した。
「生命の危機といわず、生活上の緊急事態に直面した普通の生身の個々人が、逃げるという選択をしたこ際、その現場で第三者はどのように対応するのか、さらにその後、自他共に逃げるという選択をどのように評価するのか。」
そういう観点から、「緊急事態では時系列に沿った現場の生々しい事態の推移を辿らなければ実相はつかめない」として、吉田所長の命令を少し踏み込んで、考えてみたはずである。
おそらく朝日の記事もそういう方向に踏み込んでいくはずである。
もし、そうでなければ、、「過剰な演出」が先行するものといえよう。
<追記>
タイトルの末尾に敢えて追加したーセンス悪過ぎーの意味。
ニューヨークタイムズのマルティメディアの手法を駆使しピュリツァー賞を受賞したという、記事のさわりもネットで確認した。記事主体で動く画像は雪景色と人間のシーンが多かった。
それに次いで、イギリス高級紙ガーディアンがオーストラリア、タスマニア島の山火事を題材にしたマルティメディア記事を作成した。こちらは未確認。
いずれも自然災害とそれに対する人間を取り扱っている。
コレは深い意味があると想う。
まず第一に彼等は慎重に題材を選択し、できるだけ政治がらみの題材を回避しているように想われる。
どうしてだろうか?
センセーショナルな報道に対する自戒があるからだ。
ヒットラーの亡霊と教訓は根付いている。民主政治は自律した市民の熟考を前提に成り立っている。
そこにセンセーショナルな報道を高級紙が率先して持ち込むことは自己否定に繫がることを知っている。
日本の福島第一原発事故は自然大災害を直接的な契機に引き起こされたといえ、日本列島の置かれた地球的環境からすれば、徹頭徹尾、人災である。
だから、原発事故は日本の戦後政治の領域から発展した問題である。
だとすれば、政治の本質として、誰かが正しくて誰かが悪人という事態を作り出す方向にい飾る得ない。
ココに、マルティメディアのセンセーショナリズムをもちこむ朝日新聞は、間違っているし、読者層からいって、おそらく成功しない。
ただし、悪い意味での追随者が出てくる可能性が在る。
本当の意味ではどうしようもなく政治センスが悪いのある。