<毒をもって毒を制す>
「その軍隊生活の間に頑健そのものだと思っていた私の肉体まで、本物の病気になった。その病気で私は戦後も8年ほど寝たきりの生活を送ることになったが、その病床生活の4年目頃から「コレはかける」モノをとうとう原稿用紙の升目の中にはめ込み始めた。
コレは私としてみれば、説を屈したわけであり、私なりに重大な転換を行ったことになる。
>なぜそのような転換を行ったか?
簡単に言えば、私は自分の空想力に見切りをつけたのである。自分にはホフマンや鏡花のような幻影を現実の中に捉えるほどの強烈な才能がない。そんなことを不承不承ながらはっきりと認めた。
偶々そのこと拾い読みしていたワイルドの『芸術論』の中で『空想と言うは実は模倣に過ぎない、想像は批評の中にしかない』という意味の一行があったことも私の転換に大きな影響をがあった。~~
要するに想像力についての考えを自分の資質に当てはめて解釈するようになった。」
W。ココに「ガラスの靴」の誕生秘話が率直に語られていることは勿論のことであり、私が繰り返し主張しているあの短編はリアル世界とメルヘン世界を行きつ戻りつの血肉の通った生々しい時代を背負った束の間の恋物語であるということが証明されている。
最長の長編小説「幕が下りて」では「ガラスの靴」の悦子らしき人物が、安岡の自宅に訪ねてきて、例の母親が素っ頓狂に大歓迎するが、訪問者に冷たい観察するような目線を向けている場面が活写されている。
「ガラスの靴」のぼくも悦子も、今でも、何処にでも現れてくるような存在であり、あのような空間も設定は違ってもあり得る。特に悦子のような存在は一つのパターンでさえある。
下線部分は含蓄のある作家哲学である。
今の小説が面白くないのは、自分の才能を偽って無理に創作しようとするところにあるのかもしれない。日本的小説世界の原点に返れと。村上春樹の小説などを読むと正直、作家として何やっているのかさっぱり解らん。
小説家、小説の振りをしているのじゃないかと。あの人の場合、小説家としての、自分に手傷負っていなさすぎる。回避し続けてきた。それで小説世界で、どうこうしようといっても、文才が先走るから血肉から離れた物語になる。
わたしは読んでいて設定にも登場人物にも嫌悪感を感じる。
実生活で傷ついた自尊心マイナスをプラスに転化する救済法としての文学
「私の文学について、それはあらゆる自尊心を捨てることから始まっている、と考えたことがあった。トランプの遊びにマイナスの札ばかり集めるとプラスにひっくり返るのがあるように、実生活で傷ついた自尊心のマイナスをプラスに転化させるものが、自分の文学だ、などと思い込んでいた。
いや、ことによると私は現在でもそう信じ込んでいるかもしれない。
確かに私は、書いたものを活字にして公表し始めてから、自分の弱点を拾い集めて綴ったようなものばかり書いており、痛めつけられた自尊心の後を振り返ることは、そのまま自分の文学の世界を展開することに通じ合うもののように思われたのだ。
自分が心のそこから痛烈に感じ取ったことといえば、自分自身で直接体験したこと以外になく、それもみんな顔を上げては考えられないような苦しい思い出になるものばかりだった。」
「書くということで私は、自分自身をいくらか押してみることができるのは確かだったし、
傷ついた自尊心も客観的に、他人事のように眺めなおしてみれば、何か馬鹿げた滑稽ごとのように考えられてくる。そしてそれは確かに私の自尊心の救済法に他ならなかった。」
我々の世代は、ちいさな片隅の別世界さえ作る余裕が与えられなかった。
『同じ戦中派でも比較的年長者にあっては、外部の暴力を避けてその片隅に小さな別世界を形作る余裕のある一時期が与えられた。年齢が若くなると特殊な条件に恵まれた人々にしか、ソレができなくなった』というのだが、我々庄野潤三や吉行淳之介には最小限にしか与えられなかった。~
しかし、例え極小のものでも、この別世界を、自分の内側に作り、その中に篭るという精神形成の中途でやらざる得なかったことは、多分に本当のことである。」
「現代の戦争体験のない人たちには、こんな話は特殊すぎて、面白くも、おかしくもないだろう。しかし私たちが自分の文学について語ろうとすると、コレは省略することのできない事実なのだ」
W。同じ戦中派でも比較的年長者との世代論を率直に語っている。
絶対的といってもいいほどの真実であるとは、堀田善衛の「広場の孤独」を安岡の小説群と比較してつくづく実感していた。「広場の孤独」は安岡的小説世界と真反対の朝鮮戦争初期を背景にレッドパージ前後の短い時期を掬い取った典型的な社会派小説である。各職種、階層、立場の典型的登場人物がてんこ盛りで、当時のリアルな社会情勢を活写している貴重な小説だと見たが、人物の肉付けが弱く、不必要な描写が多過ぎて、小説としてみた場合の奥行きが浅く難点が多過ぎる。ただし、安岡章太郎には「広場の孤独」は書けない。
村上春樹の小説を読むのだったら「広場の孤独」の様な小説を読んだほうがよっぽど、面白いし参考になる。小説に限らず芸術のいいところは、時代を超えて横並びで評価できるところである。小説という表現ジャンルそのものが、衰退しているのだからその中の上澄みといっても大したことはない。映画にもそれは当てはまる。ダメならダメで過去のものを鑑賞する、他の表現ジャンルもある。ダメなものばかりに接していると大きな勘違いが起こる。ソレが寄せ集まったらどうなるか?文化が衰退する。そういう時代が古今東西にあった。
堀田善衛氏は3年ばかり年長であるにすぎないが~
「その青年期は私のものと比べると、まさに別世界の感がある。アカハタを布団の下に強いて脅え、レーニンの英文の本を古本屋でなく新本で堂々と買い、浅草のレビューで楽隊に入って、ジンタと一緒になって、地方のまちまちに流れ歩き、といった大冒険は私たちには、まず絶対に不可能だったし、堀田さんは上海で一種の文化人生活をやっていたころ、私は北部満州の兵舎で、豚と紙一重のくらしをしていた。」
W。ココまでだったら今もよく聞く、在り来たりの世代論。ただし、自分たちの世代の限界は弁えての発言。そこが、いまの時代風潮を肯定し居直り、世代間対立を煽る世代論との違い。
昭和42年ごろの日本は、それだけ精神的な余裕があってギスギスしていなかったってことか?あのころに比べると極端にいえば、無駄を省かれたロボット的人間がぱらぱらと動いているように見える。
そうで無しと日本国民が日本が立っていけなくなっているのだから仕方がないがー。それでどうするか、が各人のテーマか?
少なくとも芸術的創造に向いた環境ではない。若者がちょっとわき道にそれたらアウトなんて環境では、才能のあるものはほとんど優等生のエスカレーターに乗ろうとする。特権ある立場に生まれたもの、優位のものは、手を差し伸べる余裕があるはずなのに立場を守ることを最優先する。
優等生の環境からはどんな芸術的創造が生まれるのだろうか?それをみんなが拍手すれば、社会的に成功したということなんだろうが、問題は過去も横並びにした場合どうなのかということだ。
だめなものは相手にしない。コレに尽きる
「このような差異は若いころマルクスを呼んだか読まなかったかといった知的教育の面もさることながら、そういう環境にいたかいなかったかという感情教育の面での差異の方が、一見目立たぬことではあるだけに、私たち詩だの小説だのをやろうというものにとっていっそう重要なことかもしれない。
いや、別に芸術家の卵でなくとも、人間の巾にそれだけの違いは必ず生ぜしめただろう。」
W。周りが戦争でドンパチだけが不自由な社会じゃない。
「否定的な面でしかはっきりとしたことはいえない~
要するに私小説とは、空想力乏しい作家が、題材を私生活ノン家に取り、社会との激しい対決もなしに、自分一個の感情の赴くままに体験から編み出した人生観やら、感想やらを述べ立てたものだといえば、それで済みそうである。
銭湯に昼間からやってきて、19円の風呂センで1時間も2時間も粘り、若い学生などくみしやすそうなのがいると、そばによって何となく世間話などをし始め、やがて自分の家の愚痴などをくどくどと離し始める、そんな余りカネ回りのよくないご隠居さん、コレが私小説課の原型である。」
W。かなり対象に誇張がある。実際に、葛西善三の病的とも云うべきハチャメチャ破滅振り、2畳の物置小屋に住み続けた川崎長太郎の例もある。共にいいモノを残している。この連載で引用するつもりだ。ココまで馬鹿げた私小説家はいたのかどうか?私は見当が付かない。誇張しないと同じ私小説家を批判できない。こういうところが日本的小説家らしい小説家として評論には向かないところである。
確かにロシア小説を念頭に置けば安岡の指摘は的を射ている。真ん中に当たっているかどうかは解らないが
条件がないからだけでは、通用しないということだ。
>本当にそうだろうか?
>原因と結果を取り違えてていないだろうか?」
~W。アメリカの主要な作家は南部から輩出されているという言説は省略~
>しかし元々変質しやすいものが私小説であるとすれば、われわれはその『負』の性質を逆手にとって、わが国の土壌に新しい文学を育てることは不可能だろうか?
>不可能であることがハッキリするギリギリの点まで押してみることで、我々の知らなかった何かが生まれるかもしれないという期待は無駄だろうか。」
W。こういう評論を読むと、ますますノーベル文芸賞というものがもし存在すれば、その筆頭の受賞者は安岡章太郎である主張したくなる。ノーベル文学賞受賞者の大江健三郎の最大級の安岡章太郎評価は、自分の対極にそびえる「巨峰」を賞賛してのものである。
川端康成は次元が低過ぎ論外!
私小説と安岡の距離感は?
一方、戦争中に見域に耐えなかったいわゆる伝統的私小説にも私の心はむかわなかった。
告白精神の厳しさだとか、洗練され純化された『私』とかいったものは、自分には余りににも縁遠いものに見えたからだ。
>只私は、それらの私小説が新時代の作家や評論家に手厳しく否定される時だけに、奇妙な親近感を覚えた。否定されるものには、全て私と共通の運命があると思ったからだ。」
W。戦後文学派的小説は、私小説的物語作家の安岡には絶対に無理筋。抽象的世界の構築力が乏しいわけだから、長編を抽象力で引っ張って行く持続性に欠け、そうするとどうしても、本領は短編小説になる。
代表作の「海辺の光景」も精神病院で死期を迎えた9日間の母親の本人、肉親、関係者、周囲の光景を名人芸でリアリステックに綴った短編を経過的に並べたもので、劇的な効果、わざとらしい心理描写は極力排除され、【光景】を淡々と描くだけで劇的効果を生み出している。
この小説の主低音は、精神病院の様々なヒトとモノ、オト、光景である。この扱い方に作家安岡の<名人芸>がある。主低音と主要登場人物の遠近感の取り方が上手く、短編の寄せ集めである作品に一貫した奥行きのある世界を生み出している。
わたしは、この小説から人生哲学的なものを見出せなかった。ソレが安岡章太郎の良さである、とおもっている。
「書く以上は何かかたちのあるものを伴わないわけには行かなかった。~
とにかくこの二人は通気穴になったことは事実だ。
特に嫌々ながら読まずにいられなかった太宰治からは、はたして厄介な影響を受けた。
太宰の文章は容易に人を慣れさせてしまう思想があり、伝染力があって、一端そばによるといやおう無しに、その支配を受けてしまう。
梶井の文章はズット造形的であり~彼の思想は人を近づけず、したがって私がその中に溺れこんでしまう危険は無かった」
W。確かに太宰治の文体の影響力は認められる。自分の負の側面を文体に埋め込む技術も模倣しているが、太宰のナルシズムは見だせない。小説のテクニックとして太宰的抜け道があることを知ったのではないか?太宰の師匠の井伏鱒二とか、文章家として肩の力が抜けている、ところを見習った。
最期に
W。8月13日にコメントをいただいた方に返答します。
コメントがあることを今日まで気づかなかった。
為替レートの変動相場制への移行は1971年、アメリカとイギリスが戦後世界の経済秩序を形成するために米ドルと一定の金をリンクさせ、それに各国通貨の為替レートを固定したブレントンウッズ体制崩壊と位置づけています。コレで世界経済体制としての戦後は完全に終了しました。ちなみに、大恐慌寸前のアメリカの工業生産値は世界の49%程度でしたから、戦場になっていない終戦後は70%~80%だったと予想します。
ヨーロッパや日本が戦後復興から経済成長を達成した時期になると、金とのリンクは無意味になり、必然的に米ドルの価値は低下するわけで実勢価格に調整する必要が生まれます。
>その場合あなたの問題意識に近づけて云えば、
金とのリンクは除外して世界通貨としてのドルと各国通貨の固定制度の世界管理通貨体制を再建するかどうかの問題が理論的には生じるはずですが、ニクソンはそのまま放置しました。自動的に世界に為替相場ができます。丁度ベトナム戦争の真っ最中でB52の北爆を繰り返し50万人程度のアメリカ軍が現地で釘付けになって戦争している時期で、戦争に忙しくまた、先進国では反戦運動も盛り上がり、アメリカ軍と共同軍事行動をする国はありませんでした。万単位の派兵をしたのは韓国軍だけだった、と思います。今とはかなり世界の政治地図は違っています。
>しかし、世界資本主義の成立以降、為替レートは変動相場制が普通であって、戦前の一時期の金本位制の時代でも、日本などは参加する体制をとるかどうかで当局が右往左往しているうちに、その間隙ぬって世界に金融投機筋が大儲けしました。
>原理的に言えば、そもそも、カネというものは、本質的に商品の売買交換を仲立ちする便利な記号物、基準として、生まれたのではなく、商品交換の関係が広がるうちに自然と、一商品を持っていることによって全商品との交換が可能になっていったものです。
そうすると原理的言えば、その特殊商品を持っていることによって、全商品を交換してもらえる特殊商品の価格も一定額に収まることは不自然なはずで、ある程度の巾で揺れうごういて当然であって、酷い場合は持っていても即刻は通用しない場合も想定できます。飢餓線上に多くの国民がなんとか生存している時には物々交換みたいな市場が巾を利かします。
多分、あなたの言われることの実情は為替変動相場制にも関わらず、米ドルが未だに曲がりなりにも世界通貨の座にあることを利用して、世界通貨である米ドルを勝手に増刷したり、縮小できるオカシナ特権を付与されていることであろうかと考えます。
その環境では中国日本のような米ドル決済を主体にしている国々にとって、為替レートの推移から来る根本的な経済不安定要因を抱え込んでいるようなものです。
故に、外貨準備と称して多額の米ドルを保有しているわけで、トータルな金融循環の具体的な様相はよく知らないですが、外貨準備の他にアメリカ国債を買い込むわけです。利回りの関係上か、しかも長期の国債というアメリカにとって物凄く有利な条件です。
勿論、貿易関係においても、この特権は優位に働きます。ドル増刷して、安いドルを相手につかませたらいいのですから。自国の輸出にも有利に働きます。
財政赤字など大騒ぎしていますが、本当のところ日本ほど足元にある落とし穴は深くないです。米バブルを有耶無耶にできたのも、この特権のおかげといえます。
ということは、アメリカ側から見ると、安い金利で中国や日本のフレッシュマネーを大量安定的に調達し、金融資本がGDPの半分程度を占めるアメリカですから、利潤率の高い海外市場に巨大投資できることになります。また金融資本以外のアメリカ資本も世界史上に早くから進出してきたこともあって、利潤率の高い商売をするノウハウを持っています。
日本も現在貿易収支の赤字を資本収支で埋め合わせている状態で、コレは単純資本収支の黒字で、アメリカを巡るモノカネの循環とは全く別次元なわけで、それに貢献しているのが中国日本です。
そうすると先回りすれば、アメリカ側から東アジアを見れば、どんな景色が見えるか、大凡、見当がつきます。
集団自衛権閣議決定などとしていますが、既に自衛隊の実態は米軍の世界戦略の一環に組み込まれて、動いているのですから、具体的なそれに邪魔をする法体系の整理をし、そうした日米共同作戦的軍事行動を完全合法化する法制を成立させるとことに実際的な眼目があるのではないでしょうか?
情報公開しないでやっていたことを、表で堂々と積極的に推進する。
それで日本の見返りは何なんでしょうか?
日米軍事同盟のいっそうの緊密化ですか?
中国ですか?北朝鮮ですか?核ミサイルが飛んでくるというのですか?
田母神戦略では核兵器の発射ボタンをシェアしてもらうつもりらしいのですが、永遠にあり得ない願望です。
そもそも地域集団安保体制もなく(田母神はコレも主張しているようですが、絵に書いた餅)米をハブとする二国間軍事同盟の現状で、どうして米側が核ボタンを日本に譲らなければならないのか、リアルでないです。
だったら韓国は黙っているのか中国は北朝鮮はということになります。
それならいっそのこと全部に集団安保体制を持ちかけたらどうですか?
そう考えると米をハブとする安保体制の本性もハッキリします。
言い換えると、互いを分断し事情に応じて対立させ、支配し政治軍事力の突出の優位で経済的利得を引き出す体制として、自衛隊を世界に引っ張り出すことが最適だから、そうしているわけで、自民党等の過半の本音を言えば、戦争の脅しによって国民を振るい上がらせ、懐のカネと労働力をブラック企業大国日本で米支配層と共同で収奪することが目的です。秘密保護法と世界情報ネットワーク、やTPPなど経済協定とワンセットです。
彼らは何の腹も痛まない、眼に見えるほど損をするのは日本国民です。
軍事(戦争)は政治の延長、余計な抽象的な文言、情緒は一切排除して、ドライに考えるべきです。
*煎じ詰めれば、彼等の軍事的危機感が本物であるとするならば、この期に及んで、解りきった日本核武装という最大の自衛の手段の道(絶対に無理)を閉ざされているジレンマを見透かされて、
米に時代の節目節目で次々と先手を打たれて、国民を駒の如き存在にするしかないのは、わかりきっているのに、
戦前からの日本支配層のクセで自ら幻影をでっち上げて、ますます政策的選択肢の余裕のない狭い所に追い込んでいるとしなければなりません。
構造と論理を彼等の論理に忠実に従って純粋に考えると、上記の結論に達します。日本国民のかなりの部分を生贄にしなければならないのはわかりきったことです。
ココで云っていることは自衛隊員の生命を超えた国民層に迫る生活労働上の問題を提起しています。
そうすると、具体的に云えば近隣諸国も同じように身構える。
そしてよ~ク周囲を見渡せば、孤立しているというわけです。
日本を孤立させることは米国にとって不利であるはずがありません。様々な貢物を携えてすがってくるのですから。
結局は、敗戦後の日本固有の朝鮮半島と中国の周辺事態と世界冷戦体制に恵まれた環境基盤の元に経済発展で得た付けはバランスシート上、いつかは決済しなければならないのではないでしょうか?
上記のような問題の立て方はマズイのですが有りのままの世界史的現実なのですから、避けて通るわけには行きません。
日本が借りに覇権国家であるというならば、バランスシートの決済時期は長引かせることができますが、敗戦国という決定的な脆弱姓を持っており、そこを強国につけ込まれているわけですから、その時期は早まります。
問題は誰が負の部分を被るのかという事につきます。日本支配層はアメリカ支配層と共に決済に負をかぶらせる側です。
朝鮮半島、中国の支配層も基本的にそのお仲間で、メンバーチェンジするだけです。共に本懐は資本主義なのだから、そういうことです。
ただし、核保有国には相互において、純軍事的論理が働きます。
ノーマンメイラーの『裸者と死者」の問答にも登場します。エマニュエルトッドは明確に言い切っています。
コレは両国の信義とかそういう次元の問題ではなく、多くの国民の経済の損得の問題です。
元々第二次大戦後の秩序で覇権国家の座に着いて、その後の経済後退で軍事的枠組みが優先しての経済という関係になってきているわけだから、軍事的にチャンピオンに近づけば近づくほど、経済的ゴリ押しが利きます。
したがって、ただでは、守ってくれないわけで、自衛隊だけが、海外派兵して実戦参加し血を流すの流さないの次元を超えた問題です。そもそも自衛隊が大量派兵して実際に大量の血を流して戦争するような戦場が今後何処に想定できるのでしょうか?
軍事屋の大げさな話を一々真に受けていたら切りがありません。彼らは戦争関連で飯を食っているのですから。大多数の国民の懐が揺すられる問題です。
結論的に云えば、日本支配層は日本国民過半の懐と労力を売って、今後金儲けしていこうとしています。コレはグローバル資本制の深化と、東アジア情勢に対応した新しいビジネス大戦略です。
以下は予想行為が入り混じっています。
朝鮮半島、中国情勢は日本の動向と切り離して分析するのは間違いで日本を写す鏡でもあるわけです。
1917年のロシア革命で生まれた体制は曲がりなりにも70年持続したことから単純計算すると、丁度、2020年の東京オリンピック開催前後に中国共産党体制は、人民の中にメルトダウンするのじゃないでしょうか?当然、北朝鮮にも余波が及びます。
そすると、その混乱の余波は日本にも及ぶ恐れがあります。
ただし、その混乱の前段階の米中韓日の政治経済情勢が決定的に重要です。
正直言って理会しかねるとことがあります。
それでに日本についていえることは、現状の単純延長線上は、神経を逆なでするような刺激路線の強化しかありません。
結局、古来からの日本の歴史では、大陸がらみの非平和的関係で、上手くいったためしがありませんでした。
鎌倉幕府も結局、蒙古襲来を撃退したまでは良かったが、その後、身内の官僚支配になった。論功行賞の土地の分配ができなかったんじゃないですか?蒙古襲来図を作らせたあの絵巻の主人公の武士も鎌倉殿に直々に足を運んで執拗に直訴しています。指折り数えるとよく解ります。
シグナルは逆経済制裁の発動になると思います。
ミサイルが飛んでくるとかこないとかはよりも、モット、国民全体の損得勘定の上にたって緻密で政治的に考える得るべきです。
*日本を孤立させることによって損をする国はどこにありますか?得をする国はどれだけありますか?
混乱する情勢を解くキーセンテンスです。
上手く日本国民の多くが大損をするように、はめられて行きつつあるんでは?
日本の支配層の腹は傷みません。
言い換えると、半分程度の世界覇権国家を維持することによって自国の経済をまわしていっているのだから、己の覇権力を誇示するために世界中で絶えず、戦争行為、政治争乱を実行し続けなければなりません。