この本の結論めいた第7章 属国か独立ー日本の選択 を先に取り上げる。
それと内田樹「街場のアメリカ論」の問題意識の重なる部分を取り上げ、比較してみる。内田樹の同書で唯一、読み応えのあるところは前回記載したアメリカの福音派の記述だけである。ソレも他の学者の本の内容を要領よくまとめたものだ。
パッションとミッションは皆無で、そういうものは政治思想と無縁で、知的遊戯である。それゆえ、敢えて、大前研一と併記する。
福音派以外は、体全体を後ろに向けてのねちねちとした解釈=講釈に終始して読んでいてうっとうしい。論者は前を向いて、思考すべきであり、読者にあざとく皮相に媚びてはいけない。こういう思考形態と方法は、団塊の世代以降のある時期までの世代が陥る共通の失陥である。イジマシイ淡い平和願望の生活保守個人主義しか生まれない。
特殊な内外環境に恵まれた世代のなし崩しの「転向」論理をあざとく開陳している。
<ファシズムの発祥の地>
W、スローフード運動がイタリアのビエモンテに発祥した事実を
「マクドナルドのローマ出店に対する批判運動として、イタリアの伝統的食文化を守れ、をスローガンの下に始まりました~」が「ちょっと待ってね、といいたくなります」
W。ここから内田の講釈開始。
ヨーロッパがこうだから、それが日本に当てはまるかと言えば、かなりの政治格差がある。
そこを考慮しない。そういう単純当てはめの思考習慣が日本の一部に未だに覆いかぶさって、眼を曇らせている。歴史と伝統の違う日本ではそこまで心配しなくても良い。そもそも素材重視の和食の伝統などなどの理由から日本では民衆レベルの食文化運動は広がらない。カルフールなどの欧米系巨大スーパーが日本で成功しない理由は、素材重視の食習慣の根強く残っている日本では、大量まとめ買いをしないで、新鮮な食材をこまめに求めるから、と言われている。マクドナルドで晩飯を済ませる家庭は少ないだろう。
それから、ヨーロッパの右翼と日本のいわゆる「右翼」は政治的立ち位置がかなり違う。ファシスト党の後身であるイタリアの国民党?は、旧ファシスト党の政治性を弱め、一応国民政党として脱皮したとされている。資本主義経済の成長要請から安価な労働力商品として大量移民を受け入れたヨーロッパ先進国では移民問題は国民的政治課題になってしまった。コレに対する政治的態度において、ヨーロッパ右翼政党の政治基盤が形成されている。
日本のいわゆる右翼のような親米、従米色は少ない、と言うか反米的でさえある。フランス国民党の下部では9,11テロに心情的に共感を寄せるものが多い(「帝国以後と日本の選択」)
>ファシズム、ナチズム、日本軍国翼賛体制をキチンと区分けして、現在と将来の日本の政治を特徴付けるのはイロハである。
日本政治の戦前回帰の視点で、仮に二重写しにすると、関東大震災以降の不況の継続と金融寡頭制の横暴、強化によって生まれた格差社会であるが、その先の歴史スパンは具体的実証的に認識する必要がある。しかも、その先は、長い。ファシズムとか軍国主義と、一色に塗りこめると時代の実相を見失い、現状認識の邪魔になるだけである。何時までたっても狼はやってこないまま、あってはならない歪社会が目の前に、という事態になりかねない。
当時と資本主義の蓄積形態と世界市場の状態も違う。対外関係は余りにも違い過ぎる。
従って、庶民の戦いの焦点はその方向になる。<海外で戦争できる政治に反対する>と云うスローガンは正しいが、戦争と民主主義は必ずしも並存しないことはない。自衛隊が海外で戦争するからと言って、日本の民主主義が終わりになるわけでは絶対にない。戦争を民主主義社会実現に転化する、大道が開けている。コレが世界史における近代の普遍性ではなかったか。日本近代史→現代史において、日本軍国翼賛体制は米、軍事力によって一掃され、「民主」が生まれた。
「このスローフード運動の発祥と同じ頃に同じピエモンテ」は」北部同盟の北イタリア独立運動の発祥の地。イタリアの南北格差を解説して、「北部同盟に基本思想は地域主義」です。「閉じられたエリアにおける均質的な地縁血縁的結合を優先し、コモンウェルズの中に、自分たちとは異質の文化や地域性を含む<弱い敵たち>を抱え込むことはいやだ、という考え方です。~ピエモンテは1920年代にムッソリーニのファシズム運動が生まれた都市でもあります。」
「伝統的食文化の固持」というスローガンは、1920年代ヨーロッパの別の場所でも声高に唱えられた~。
ドイツです。~ドイツの伝統的食文化を守るという運動はその後にユダヤ的都市文化からゲルマン民族的自然へ、を呼号するヒットラーユーゲントの自然回帰運動に流れ込みました。(W,この点について、ドイツの反原発運動の歴史を、戦前からの自然保護運動の伝統があるとして~ワンダーフォーゲルにまで遡って記事にした。)」
「自然食運動は例外無しに反近代、反都市、反資本主義、反市場主義的メンタリティーを引き付け、ある種の大地信仰に結びつきます。」
>「コレは使い方次第ではかなり危険な思想だと私は思います」W。心配性なんだね。
>「ひとつは排外主義をもたらしかねないこと」W。ココで論理の大きな跳躍。排外主義に結び付けている
>「当然ですね。同じ食物を食べている人間には強い親近感を覚え、自分が食べなれないものを食べているヒトはゴミを食べているように見える。」
W。他人のプライベートな食生活まで踏み込んでそこまで思える人が一体どれくらい割合でこの日本でいるのだろうか?
>「もうひとつは文化の本質的な混質性、雑種勢を看過するようになる。」W。又大飛躍
>「この発想は、家族形態、宗教、文化などあらゆる固有ものもを守れという思想へリンクします」
W。飛んで着地したところがココ。どうしても抽象的で人畜無害の反ファシズムの淡い想いに同感させたいらしい。
>「そう考えると、日本でスローフード運動を支持している人たちは、この種の運動の政治性についていささか警戒心が不足しているんじゃないかという気がします」
W。コレは街場のアメリカ論の本論と何の関係もない。ただこういうことも知っていますよと自慢している、としか思えない。しかもそ底は浅い。こういう論法を一貫させているのが「街場の」敢えてしているところでもある。
ジャンクを食べるとジャンクな人間になるよ
*「私は20代の一時期、結構厳格な玄米正食をしたことがありました。~そうすると、周りにいる肉を食べている人間や、炭化物が言っているものを食べている人間を見ると、ゴミを食べているように見えてきました。
ゴミを食うのをやめろよ、と私は善意から忠告する人間になったのです。」
「なぜ諸君はそのように身体に悪いものを食べているのかと説教口調になってしまう。」
W。確かに内田さんのようなヒトは身近にいた。政治的人間にやることがなくなった、結婚した相手の影響。
しかし、ココまでストレートになるには余りに政治的であり過ぎた。現実を知り過ぎた。政治とはリアルな現実の只中で自分とは違うヒトを様々な手練手管を使って、いかにインクルードするか、ということが要点であって、内田さんの議論は、総じていうならば、学生生活の、延長線上に構築されたものである。
「~このロジックはかつてマルクス主義者やフェミニストが用いたのと同じ、不敗の構造を持っています。君がブルジョアイデオロギーに骨の髄まで汚染されているからである、ということになると、ソレに対する先方からの反論はすべてが、ブルジョアイデオロギーの漂白な訳ですから~」
W,このような方向で議論した経験が一度もない。相手にしなかった。思想の衣を着て相手を説得できるほど知識と教養がなかった、ともいえるが、このような形で説得できる相手は極小部分ではないか。
確かに学生さんの議論ではありえる場面であるが、内田さんのような議論方向は、共産党系の学生が持ち出してきた、弁証法的唯物論は森羅万象を説明できると言う万能論法。コレをもっと卑俗に幅広くしたものが創価学会。
当時を振り返ってみると、共産党系はマルクスの全ての理論を結局は教条の如くしていた。ソレと現実の運動とはかけ離れていたが。奉ることはなかったが間違いなく一種の教祖様的存在である。ココに現実と相対して、違和感を覚えるものが多過ぎた。
それに仮にそのような森羅万象を説明できる真理の体系であるとしても、現実政治にほとんどコミットできず、ほとんど影響もないのはどうしたことか、目の前のリアルな万能論的言説と天秤に掛けて、おかしいと思った。受難の時期があるにしても、一辺倒過ぎないか。
なお、戦後革命期の一時期を除いて共産党が最大議席を獲得したのは、60年代70年代初頭の「大衆叛乱」が収束した一時期だった。衆議院30数議席だったと思う。街頭叛乱、反公害闘争などの大衆行動の機運が、そういった闘争では表にたつことがなかった共産党の議席に時間差を置いて反映したのである。
おそらく動員をかけたら、当初のデモは、2倍程度の人数が集まっただろう。はっきりいって、1年後に10万人を集めても、最初に出動しなければ内外に与える効果は乏しくなる。10万人の時にみんなと一緒にできのであれば最初からそうすべきで、そのことによって、運動は力強くなって、最終的には共産党の足腰を強くする。
弱いから思想の衣を着るのであって、わたしにとって、心の底で一番リスペクトし続け(=あきれ果てて)恐れたのは、自分も完全にその一員で、その混沌の中に没する運命に足掻き続けるしかない「日本庶民」だった。有形無形の結果的な体制順応性は大したもので、「方丈記」から成瀬巳喜男監督作品まで、関心を寄せる全てのもに共通する自分の基本視覚はコレである。王朝文学や武士の世界、明治維新の志士たちの世界は、どうでも良い、別次元で、まるっきり関心がなかった。
そうすると、武士を否定し明治維新の志士を否定するものは、まずどうあるべきか。
>「人間は弱いから群れるのではなく、群れるから弱いのだ。」 竹中労。
身にしみる言葉である。肝に命じている。
*ソレと同じことを私は食べ物についてやっていたわけです。~友人たちはみんな憤然として席を立って去ってゆきました。
*事そこに至ってようやく私はいささか反省したのです。
*わが身一人が健康になる代償に友人たちを失ってよいものだろうか。そして一大勇猛心を発揮して、わが身の健康を捨てて、ジャンクナ食物を選ぶことにしたのです。
*以後、私は誰がどんなへんてこなものを食べていようと、健康に悪そうなものを食べていても気にならない人間になりました。」
W。馬鹿馬鹿しい!につきる。村上春樹と同じ次元で、時代の一隅の上澄みをすくっている。それが時代的特殊環境に恵まれ、ある境遇に至った旧人と、機会に恵まれず、新規な時代に動揺している新人の一部に耳障りの良い言葉として通じているだけである。
はじめに -<自立>と<依存>
そのような日米にわたるリアルな支配体制から<自立>するのは、現実的には、世界情勢の超激動、東アジア情勢よる<日本革命>でしかありえず、日米安保条約の終了通告の条文解釈を基点とした日本の自立ではない。
日本の自立と課題を設定すると<日本革命>の問題である。
内田樹の安直に指摘するような「日本軍国主義体制はまず日米安保条約を破棄して、駐留米軍基地の撤退を求め、東アジアにおける中国、韓国との集団的安全保障体制(かつての大東亜共栄圏の21世紀バージョン)をカードにして~」の状況設定も、日本国民の立場に立てば<日本革命>が問われる世界情勢、東アジア情勢の問題である。厳しい情勢だからこそ、人々の立場で対処することを度返しした立論は、相手の勝利を今から認めていることであり、無力である。ストレートがあれば変化球も実際に歴史にあった、のをスルーしている。
太平洋戦争における日本軍事力の壊滅以降の情勢も現実にあった。
>現実的に考えると、そうした<日本革命>が主体的条件において当面、想定できない、とすると、ありえる場合を一言表すと日本国家政府の<自律>的条件の確保である。
大前研一の「さらば アメリカ」 So Long America!(グット、バイでなく、ソー、ロング。永遠のお別れではなく、とりあえずお別れという意味で使った、と述べている)は内田の<はじめに>で指摘した<自立>と依存の二極の課題設定の論議の枠ではなく、「日本国家政府の<自律>的条件の確保>」を最終的に模索する現実主義の視点で書かれているから、逆に鋭い批判ができるのである。
>一方の内田樹は二極に対立した政治概念→<自立>と<依存>という非現実的抽象的テーマを設定するから、
その果てには、「日本軍国主義体制はまず日米安保条約を破棄して、駐留米軍基地の撤退を求め、東アジアにおける中国、韓国との集団的安全保障体制(かつての大東亜共栄圏の21世紀バージョン)をカードにして、アメリカとロシアの東アジアにおけるプレゼンスの低下を目指すだろう、などという検証にいたるほかない。
それでお前は何か方途でも見つけたのかと問えば、
>「私は本書で、この<従属>の諸相について語ることになるが、そのわたし自身もまた<従属>を通じての<自立>と言う日本人に固有のねじれた語り口以外に使うことのできる言葉を持っていない。」と早くも冒頭で従属を通じた自立以外に語り口がないとしている。」
*語り口がないのだったら、黙っているべきなのだが、アメリカ批判をするのはお隣の韓国や中国を批判するよりも気楽だと言い、そういう気分から饒舌になっているのが本書である。
お気楽はアンタだけだろう、といいたくなる。それがこの本が出版された2005年以降、から秘密保護法、集団時経験閣議決定に至る政治過程である。
「本性の中でアメリカ政治、アメリカ文化、アメリカ社会構造を辛らつに批判するけれども、それは、こんなことを言ってもアメリカ人は歯牙にもかけないだろう、と言う弱者ゆえの気楽さがどこかにあることで成立する種類の辛らつさである」 ソレは負け犬の遠吠え、とも言う。見通しも大甘みいいところ。お嬢さん女子大生を長年前に講釈していると頭に芯にまでゆるみが達したのか。
「その種の気楽さはわたしだけでなく、日本人の語るアメリカ論の全てに伏流している。」
>「街場のアメリカ論」は町場にとって迷惑である。脱力の書である。
>しかしながら、結果的にそのような富国強兵的戦略方向での日本の<自立>が、多くの日本人に物質的土台を保証したかと言えば全く疑問である。
日本は列強で最低の工業生産値だった。
>日本が<自立>していた時代、日本国民の圧倒的大多数は物的に恵まれなかった。精神文化の恵みをもたらすのは国家ではない。人々の力と佇まいだ。戦前の個々人にそうしたものがあったとはとても思えない。
>結論的にいえば、自立と依存と言う問いかけ、課題の設定自体が、日本内外の置かれた現状に対する、現実にそぐわない視点でアレコレ日米関係を抽象的に論じることである。このような論議の方向では、閉じられた枠内の鬱屈した、諦めしか生まれない。なるほどそうなんだ、ハイわかりました、明日から機会あるごとに知識を蓄えて平々凡々と日々を送ります。ヤスクニの屈折した幻想的自立願望の感情、情緒への脱力感に導く書なのである。
>日本にあり得ない<自立>と言う課題を設定することは、そういう結果しか導き出せない。
>モット現実を直視すれば、日本は<自立>も<自律>もしているのである。
アメリカとその世界戦略に<従属して>アベのように<世界的覇権>を追求しているのである。
「日本は在日駐留米軍を同盟軍に読み替えるイジマシイ努力をしてきた」
親米右翼の典型だった日本愛国党の赤尾敏さん日米同盟観の世界のグローバル資本制への発展形態であり、、内田の想定するような素朴<自立>議論(イデオロギーの世界だけで成り立つ議論)は最初から論外とされていると見なければならない。
>日本の多くの国民をアメリカを筆頭とするグローバル資本制の強収奪の前に差し出しに餌食にして、共に肥え太ろうという算段なのである。