反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

国家ーグローバル資本複合体への世界的傾向と米国サルまねの新しい公営経営(New Public Manaagement <NPM>

W。筆者は、この論考を論文と位置づけているようである。
論文~一覧表
ポスト官僚制時代の新たな地域市民運動のために
村澤 真保呂
情況 4-4(1) 160-174 2015年2月
 
全体を読み通したのは2回だけで、それなりにリアルな意義があると考え、短く要点を整理しないで、なぞるような形で、記載しているわけだが、
①肝心の主として地方自治体に発生しているニューパブリックマネジメント(NPM)と国民益よりのグローバル資本の利益と連携する国家の関係について、構造的に捉えられていない、ところが気になる
NPM改革批判の原則的視座をルソーの社会契約説に求めているようだが、うまく説明できていない様である
③公共領域の全社会にとって果たす普遍的な役割について切り込みがあまりにも不足している。
ハーパーマスなどを調べて、確認したい。
 
 
①NPM批判の論考において積極的に論者が押し出している観点はここだと考えるが、コレだけでは物足りない。ココまで云うのであれば、国家ーグローバル資本複合体への世界的傾向(後に引用)ととらえた方が分かり易い。
上位統治機構の国家が「国家ーグローバル資本複合体への世界的傾向」にあるとすれば、それに呼応して、下位統治機構地方自治体は「ほとんどすべてを、<民営化>しようとしている」状況が鮮明になる。
橋下「いしん」政治も2009年の民主党政権交代の社会風潮によって、勢いを得た。ただし、大阪独自の風土伝統が影響している。
 
 
引用。反俗日記 前回記事  2015/6/1(月) 午後 6:13
「かつては日本型社会主義とまで揶揄された行政システムの巨大な官僚機構の一部を民営化するだけだったのが、(W。GHQによって解体されなかった戦時の官僚主導体制が敗戦後も生き残って、高度成長の金融産業界と市場の枠組みを行政指導し、プラザ合意バブル崩壊~冷戦体制崩壊の1990年までの日本の経済大国化を下支えした?)
>現在では中央官庁と裁判所、政府などの一部を除きほとんどすべてを、<民営化>しようとしていることにある。
W。国家暴力装置と官僚機構、政府機能以外は全部、民間企業の経営システムに変貌させようということである。
正確に言い換えると現在の行政システムは、単に民間企業を利用する<民活>のようになっただけでなく、それ自体が民間企業の経営システムへと変貌したのである
それとともに旧来の官僚システムも、その民営化あるいは、[民間企業化]によって大きく姿を変えつつある。」
 
②論者のルソーの社会契約説の解説は次の通り。前半部分は外敵に対する共同体の分散した諸個人のホッブス的競争状態の想定からの、国家登場の必然性と基礎づけている。
当該個所の引用。
「ばらばらの個人が互いに競争する状態をやめるために、全ての諸個人がお互いに自己保存を保証する契約を結ぶことから始まる。」
 
次の個所は<一人は万人のために、万人は一人のために>のスローガンに要約できる
「つまり、成員の誰か一人でもその生存を保障が脅かされる状況になれば全員が助ける、という契約である」
 
W。始原的市民共同体の原理(掟)は、ここまで強固でなければ、強い結束力とはならない。この掟は何もヨーロッパだけに見られる状態ではなく、日本の中世後期、江戸時代の村の年貢請負のムラ社会にもあった(掟破りは女子供であっても無慈悲に殺害される場合もあった~日野根荘、九条政基「旅引き付け」凶暴性を秘めている。参照。一揆の原理もコレに近い)。つまり普遍的原理である。現在でも結束力の強い組織は、この原理が保たれている。保守的な原理の範疇を超えた「革命」的結束が組織の戦闘力に転化する原理でもある。
 
 引用
>「したがって、成員の誰か一人の苦境は、自己責任という名目で放置されるべきとはみなされないのである。」
W。ここから先のルソー社会契約説の解説は、解り辛い。日本人には個人と共同体、国家を結ぶ広がりのある硬い契約概念がつかめない。共同体や組織の掟と解釈しがちだ。
 
 
分かり難い個所。 
>がしかし、ココは日本の民主主義制度のリアルな転回を踏まえると、橋下「いしん」政治は全体主義的政治にしかならない、という批判の核心。橋下自身の住民投票結果判明後の記者会見の発言によれば、自身の欠陥について承知してた、ものと思われる
僕みたいな政治家が長くやる世の中は危険。ハンドルを握ってはいけない。ワンポイントリリーフ。権力なんて使い捨てでいいし(Wワンポイントが府知事市長と6年間も務めるのか)、敵をつくる政治家が世の中にずっといるのは害だ。それが健全な民主主義というものです
>何も知らない、あるいは考えて見ようともせず、熱狂の渦中から抜け出せない支持者。身近に実物、事例の一杯転がっている、この程度のことを自ら労を取って考えることをしないのであれば、不確定要素の大きいい天下国家のことなどに、想い巡らせることはできない。
 
 本文の当該個所の引用
「また、その契約において全員の一致した意思が『一般意思』と呼ばれ、その一般意思を実現するために首長が選ばれ、「自治」が可能になるわけだが、この自治は民主的手続きによって確認された『全体意思』に基づいて統治行為を行うとされる。W。ここまででも相当、難解!
 
以下は一般意思(憲法に相当)と全体意思(議会が全体意思の形成の場)、政府(地方も含めた)、行政機構、市民(市民運動)、マスコミ(日本では市民の代表面しているからおかしくなる)の相互チェックによる健全な民主主義機能している状態を(橋下徹指すものと思われる。
 
>「ココで注意しておくべきことは、全体意思(議会が全体意思の形成の場)は、必ずしも全員一致の意思とは限らず、また一般意思(憲法に相当)とも一致するとも限らない。
つまり、その社会の大多数が一般意思(憲法に相当)に反した政策を支持することもあり得るからであり、
首長が全体意思をでっちあげることもあり得るからである。W。橋下「いしん」の住民投票はこれにぴったりと当てはまる。ここにまず引っかかりを感じない神経は??
 
>「しかし、市民を顧客とみなすNPM改革理論においてはこういうルソー的(西欧的)社会契約の前提は全く放棄される。W。結局、日本人の政治感覚に馴染みのないルソー社会契約説なんて持ち出すから話が見えなくなっている。
むしろ、アングロサクソン的な個人主義(自己責任論)と市場、「小さな国家」への信奉が、社会契約と自治体、国家にとって代わっている。
W。アングロサクソンと一括するとイングランドも含むが、基本的には米国の地政学的歴史的特殊事情+ユダヤ思想に基づく基準の世界基準化(押し付け)である。金融機関のGDP率3/1以上なので、米国制度を他国に移植しなければ金融利得を得られないのだ。もちろん、軍事攻勢をバックにしての策動、戦争国家アメリカ、ココが核心である。
 
>「また、強力なリーダーシップを持つ首長を要求し、首長を全体意思の体現者とみなすことで、一般意思(憲法に相当)と全体意思(議会が全体意思の形成の場)の区別さえも破棄している。
W。結局手短にいえばこういうこと
*引用、  国家ーグローバル資本複合体と官僚制の行方
本来ならそれぞれの機関が独自の『界』の論理を持ち、独自の視座に立って相互にチェックしあうことで成立してきた近代民主主義の構図が、無視され、一つの視座のみが強力に作用している。」
 
>「現在の国家では議会が全体意思を形成する場であり、憲法がルソーの一般意思に相当することを思い起こすと、
*「それが議会制民主主義と憲法の形骸化を招くものと懸念されても不思議でない。」
「そのことはNPM改革が「議会制民主主義と近代官僚制を修正し、ひょっとすると否定していく現象なのである」という上山信一の主張の正しさを裏付けるものである。
 
*さらにいえば、
「社会契約と自治に基づく近代民主主義社会の在り方を根底から修正するものであり、「21世紀に先進国共通となるであろう国家形態(W。国家ーグローバル複合体)をもたらすとしたら~その可能性は大いにある~
現在の状況は、思想史上ないし歴史上の大転換を記すものと考えても大げさでないはずである。
 
要約すると。
(A)一般意思~契約において全員の一致した意思~憲法に相当する、と解説しているがはたしてどうか?ルソーの時代に憲法はなかった。無理がある。)
>「その一般意思(憲法に相当)を実現するために首長が選ばれ、「自治」が可能になる。」
>W。つまり、一般意思=憲法→首長の関係。フランス的解釈でイギリスには成文憲法はない。
>米国は個人主義が極端になっているので、憲法→首長の関係にはならない。
「<第1章資本主義と遠ざかる建国の理念>
    4、個人主義の大地(W、キーワードに巨大資本主義が開花した。
古代も中世封建もないところに、近代が忽然と出現した。~
「こうして出現した米国資本主義は長い原始蓄積も経なければ、長い産業資本主義段階も経ることなく、一気に独占資本主義段階へと到達した資本主義、それも世界の中で突出するほど巨大な資本主義として立ち現われた。」
 「その意味ではアメリカでは、W、<自立した市民からなる共和社会>よりも、諸個人や、法人化された諸企業の自立や自由の論理の方が常に優位に立つ。」←諸個人の個人主義や巨大な金融資本の自立自由の優先だから、グローバリズムの深化以降、1%に富が集中するようになった。」
 
(B)全体意思~議会が全体意思を形成する場~
 

以下、ダラダラと本文を引用する。具体的に書かれていて、現在の地方行政のリアルな在り方を知る上で参考になる。
   (3)ポスト官僚制~新たな官僚モデルの登場。
ドイツのNPM理論家による、従来の近代官僚制モデルとNPMモデルの比較。
 
<近代官僚制による当地モデル>            <NPMによる当地モデル>
規制による管理                     目標や成果による管理
縦割り分業                        提供するサービスに基づいた組織
明確な階層構造                     自己成果を重視した契約管理
競争原理の控えめな導入               外部に委託し、準市場の形成
戦略マネジメントの欠如                官僚支配ではなく、顧客(住民)指向
 
>わたしたちの目の前に広がっている(特に地方自治体)官僚制は、かつて私たちが思い描いていた官僚制の姿とだいぶ異なるものであることが分かる。
煎じ詰めて云えば、現代の役人たちは私たち多くと同じ、企業内のサラリーマンなのである
そして首長は企業の社長や会長のようなものである
~現在の役人は住民(顧客)とトップによる評価にさらされ、しかも職場の人員整理や非正規雇用の増加によって、企業内のサラリーマンと大して違わない状況にある
 
         2、第三世界化する地方自治
   (1)新自由主義行政改革としてのNPM
 <新自由主義行政学者によるNPM解釈>
「行政国家化の進展とともにま歪する傾向にあった自由民主主義の原則を、政府行政活動の仕組みを通じて再生しようとする仕組みである。」
その意義は
21世紀型の脱行政国家をもたらすものである」W?
21政治型「脱行政国家」という名称は20世紀型行政国家の行き詰まりを打開した結果、21世紀に先進各国共通の形態になるであろう国家形態を示すもの~。W?
 
この主張は新自由主義の立場からのものであり、
フリードマンによる福祉国家批判(自己責任論と経済活動の自由化、小さな政府の主張)と
ハイエクによる民主主義批判に基づいて転換されている。
>そこでNPMは
行政権を抑え込むことを目指していおりケインズ福祉国家批判(W。ケインズ福祉国家など標榜していないはずだ)とそれによってゆがんだ民主主義によって失われた(経済自由主義を基礎とする)「個人の自由」を回復し、再び『小さな政府』を実現するものとみなされている。
これまでのべてきたNPMの内容と一致するどころかその思想的基盤とみなしてよいものである。
 
この意味でNPMは明らかに『新自由主義行政改革』と呼ぶべきものである。
>現在の国内では、こうした新自由主義行政改革は、市民の側からも歓迎されているように見受けられる。
~また、大阪市の橋下市長への支持にも示されるように、このようなNPM改革を進め、首長の強力なリーダーシップの下での旧来の官僚制が打破されることを期待する市民感情も広がっている。(もっともその背景にはマスコミによる過剰な宣伝もある)
 
   (2)「帝国」と地方自治体の第三世界
 <NPMに対する批判>
80年代の中曽根政権における民間委託と第3セクター方式に重点を置く「臨調行政改革」とは異なり、
現在のNPMが「官への民の本格出動」すなわち民間企業による公的領域の浸食によって市民的公共性の解体をもたらしかねない点を特徴として挙げている。
W。シビル・ミニマムさえ理解しようとしないウィキペディア「都市化社会・都市型社会において、市民が生活していくのに最低限必要な生活基準。これに基づき市民と自治体の協働で、社会資本整備、まちづくり社会保障等の基準を定めるべきとされる。」
 
 
 そして、NPM導入を支持する市民感情の背後には従来の公共事業に見られたような官、財、民の癒着への怒りにもかかわらず、実際のNPMはその癒着をますます悪化させるものであることに注意を向けている。
>この現象は新自由主義グローバル化の中で世界的に起こった現象とまったく一致している。
イ)ラテンアメリカにおける公共事業の(水道)の民営化がもたらした危機。
参考資料  水ビジネス多国籍企業 http://www.psi-jc.jp/topics/2003_03water_forum/siryo/takokuseki/takokuseki.htm
ロ)ガーナ、ギリシアアイルランド、が経済危機に際してIMFから支援を受ける代わりに公共事業の民営化による歳出削減を強いられた結果、社会基盤がボロボロにされてしまった。
その背後で多国籍企業や先進諸国のリーダーたちの不透明な動きがあることや、結果として国内経済格差が深刻化した。
*つまり、いわゆる「官から民へ」の動きによって、NPM論者の主張(つまり政治を市民の手に取り戻す仕組みだ、という主張)とは全く反対に、市民が行政をコントロールできるようになるどころか、ますます行政が市民の手を離れていく現象が進行している。
 参考資料 
A)ギリシャの緊縮策拒否とドイツの苦悩 http://www.newsdigest.de/newsde/column/dokudan/6737-996.html
 
*そのような世界的現象のうちに地方自治体の変容をとらえてみると、20世紀末から21世紀初頭にかけて、
財政悪化と過疎化に苦しむようになった地方自治体の方が、中央に先駆けて「第三世界化」したことが分かる。
*つまり、アベ政権の政策とそれへの支持に見られるように、政府が復古主義的な国家主義へと傾斜を強め(W?アベ政権の本質は国家ーグローバル複合体である)、地方への公共事業のばらまきという昔ながらの政策を行う背後で、
財政的に追い詰められている地方自治体において新たな政策が採用され、ますます行政の新自由主義化がすすめられている。
皮肉な言い方をすれば、わたしたちはかつての新自由主義改革の犠牲者であり先進国であるラテンアメリカギリシアの状況にようやく追いついたと云えるかもしれない
W。大阪の橋下「いしん」騒動は、上記のように追い詰めれれた財政状況ではないにもかかわらず、疫病神に取り付かれたような状態になっている。この市民側の実情には拝金主義の歴史と伝統がある。米国基準のアンゴロサクソン、ユダヤ思想に共鳴度が高いのである。
 
>以前から第三世界の政策支援を行ってきたマッキンゼーなどのコンサルタント会社(橋下「いしん」ブレーンの上山信一、「さらばアメリカ」ロシアに入れ込む大前研一の輩)や経済アナリストにとって、あるいは新たな投資領域のフロンティア(民間企業の公共サービスへの参入)を見出した投資家たちにとってはコレほど喜ばしい事態はないだろう。
 
新自由主義的な搾取の段階を経て、財政危機と福祉国家の行き詰まりが叫ばれるようになった先進国自体が、今や搾取者の側ではなく被搾取者の側におかれるようになったととらえるなら(W?国家権力の実体を抜きにしたムード論)、まさにネグリのいう「帝国」が田舎に住んでいる地方住民の目の前にさえ明確な姿を取って表れている。
 
>そうであれば、NPMは旧来の官僚側の弊害を克服するように見えて、実際はそれを新たな官僚制、すなわち
「帝国」の官僚制~国家や自治体に仕える官僚制ではなく、「帝国」に仕える官僚制=W。国家ーグローバル複合他~へと再編しつつあるのではないだろうか。
 
 
 
     3新自由主義市民社会の登場
(1)再編される市民社会
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