日本の米国への「経済奉仕」(米国の要求への一方的協力)の深まり。
①1990年代 湾岸戦争への資金協力
②年次要望書(日米規制改革及び競争政策イニシアチブに基づく要望書)~民主党政権まで続く~
③小泉政権。
(2)国家ーグローバル資本複合体
<経済危機>
IMFによる構造調整プログラムの押し付け
①緊縮財政(福祉、医療、教育費削減、公務員解雇給与引き下げ)
③公共セクターの民営化
④生産性や外貨獲得産業の促進
⑤規制緩和の下での金融、投資、貿易の自由化
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こうした構造調整プログラムの内容は、現在ヨーロッパ諸国や日本を覆っている新自由主義の姿とそっくり「そのまま」
1980年代に発展途上国中心に行われたグローバル資本による富ののっとり政策の経済先進版。
>コレがいま日本社会(ギリシア、イタリア、スペインなど)で生じていることだ。
行政機関=国家の関与
発展途上国と云わず経済先進国においても、国家は、そこにおける住民に奉仕するものではなく、
むしろ、国家を超えて跋扈するグローバル資本に奉仕する方向に動き始めている
いわば、国家ーグローバル資本複合体とでも云えるようなものが成立している。
<「国民国家」を超えた「国家」によるグローバル資本支援の構図>
*国家=各国政府とグローバル資本の連携は、いわゆる『市場中心主義』に基づくものでは決してない*
なぜなら、グローバル企業が危機に陥った時、国家は市場に任せて企業がつぶれる通常の展開を公然と避けようとしているからだ。
様々な融資や支援によって、グロ企業の多くがその危機的状況にあたって国家によるサポートを受ける姿は、バブル崩壊後の日本や米国でよくみられることである。
>他方、本来、経済危機にあたっては、手厚いセィフティネットで支えられるべき『国民』に対して、「国家」は、『自己責任』を要求し、緊縮財政の下、すずめの涙ほどの施しを提供されるだけ、という状況になっている。
>徴税によって得られた財は『国民』に十分再配分されることなく、むしろ、「国民経済」の外に既に脱出しているグロ資本へと分配されていると云ってよい。(法人税減税先行の日本勢政策はその典型)
<「国民国家」を超えた「国家」によるグローバル資本支援の構図>における官僚制度
現状の国家が国民ではなく、グロ資本との関係をより深めつつある状況の下で、官僚制そのものが、国民国家からグロ資本の支援者にスライドしつつあることは、日本だけでなく、欧米においても今や現実化している。
<官僚制の過去から現在までの類型(国士型、調整型、吏員型=御用聞き型)>
>既に調整型(国民の利益と、政治や経済界の利益の調整役)さえ、弱い存在になっている。
結果的に、政治ばかりか経済界の利益優先の御用聞き型が主流になろうとしている。
>つまり自ら所有する『文化資本』『社会資本』を、政治や経済界の利益擁護と結びつけ、自らの『経済資本』の拡大を戦略とする官僚の浮上と云うことだ。
(3)国民からグロ資本重視に移行しつつある国家
>国家が建前上少なくとも『国民の利益』に奉仕すると云う形で展開してきた近代国民国家が、国家ーグロ資本複合体の登場により、今や、その『建前上の役割』さえも失いつつある。
*グロ資本の世界経済支配の深化の中で『国民国家』の仕組みが揺らぎ始めている。
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だからこそ、多くの社会で民衆の国家離れが生まれつつある。
選挙における投票率の低下は、日本だけのことではない。
>国民の方を見ようともしない国家に対して、民衆の国家離れが生まれつつある。
国家ーグローバル資本複合体下の国内統合の様々な手段
背景
今後の日本社会にいおいては、グロ資本への分配のために、庶民や中小企業への自己責任(再分配の削減)がさらに求められることになる。
①秘密保護法、
②道徳経域の押し付け(秩序維持)。「ニッポンはすばらしい」キャンペーン(再分配不足を国家への愛で穴埋め
③、②と連動する歴史修正主義(アジア太平洋戦争で二日本は何も悪いことはしていない、と主張)
④戦争の緊張の増幅による軍備増強と向き輸出に向けた武器製造の拡大(グロ重工業と米国へのアシスト)
日本官僚の天下り先の変容
「シロアリ」行為への批判の中で、逆に高級官僚の再就職先が政府外郭団体からグロ企業へと変化する気配。
>天下り批判が皮肉な事態
官僚と多国籍企業、大企業との癒着、官僚制によるより、企業よりの政策の水路づけにつながる。
第二次安部政権とよみがえりつつある『計画国家』のエートス(習慣、特徴)
>第二次安部政権は、国家のグロ企業奉仕の構図をより強く持っている。
>この政権は、既得権益の維持や新たな利権の拡大をもくろむ
巨大な産・官・メディア・学(今後は軍も加えても良い)の複合体に支えられている。
その力は福一事故以後の情報管理や世論(マス、センティメント)の水路づけのすさまじさの中で、多くの人が気が付いているだろう。
(マス、センティメント)の意味
「大衆の情緒」と訳され、そのときの一瞬の勢いや空気と考えられ、感情が先に立つ大衆の意見。 「サイレントマジョリティ」とは「物言わぬ多数派」と訳され、積極的に発言はしない多数派である者。
巨大な産・官・メディア・学(今後は軍も加えても良い)の複合体の形成と実態
1970年代以降強化されたもの。
「界」の論理と多様な資本の投資と増殖のなかで
官僚「界」≒経済「界」≒政治「界」(さらにはメディア「界」も)の婚姻戦略を軸にしたネットワークの再構築がなされ、それ以降、2世、3世の政治家や経営者は幅を利かせるようになってきた。
(実は、第二次世界停戦前の日本もまた、コレに軍閥を加えた強固な社会資本の形成が大きな力を発揮していた)
「人とのつながり」(誰と知り合いか)=社会資本をもとに、経済資本や政治資本と結合しつつ、既得権のネットワークが緊密に構築されていった。
こうした強固なネットワークの上に第二次安部政権は官僚制のコントロールを含む
<一元的統治形態>を指向しているように思える。
「人事は官邸が決める」
アベは政権成立直後の最高裁裁判官人事において、これまでの習慣である機関推薦を請って複数の候補者を出させ、人事を決定した。
その後も、人事において、各省が提示した人事案を次々と覆した。この独裁的ともいうべき総理権限の拡大使用は、当然官僚全体をビビらせたことだろう。
>その後も、アベ政権化、意識的に近代社会の原理や法の支配を脱し、極めて恣意的に、官僚制ばかりか、政治、司法、メディアをコントロールし始めた。
①NHK会長、経営委員人事=近代社会にる0るを超えた情実人事
③本来独立性を担保されるべき中央銀行の判断への政治介入
本来なら、それぞれの機関が独自の『界』の論理を持ち、独自の視座に立って相互にチェックしあうことで成立してきた近代民主主義の構図が、ほぼ完全に無視されて、一つの視座のみが強力に作用している。
>にもかかわらず、メディア」も、政界も官僚界も、もっといえば経済界も、このことをキチンと指摘しないまま事態が進行している。
*この構図は戦前日本の核心官僚の政治運営を想起させる。
1920年代から30年代の全体主義国家(ファシズム、ナチズム、スターリン主義、天皇制(官僚)軍国主義体制~統制経済国家、計画国家、設計国家)は、近代資本主義成立において英米仏などに遅れた二番手の社会であり、経済成長を急ぐためにも中央統制型の国家を形成することになった。
これらの設計国家は、一つの観点から社会全体が管理されることで、経済成長や福祉の拡充が行われ、更に経済危機突破のために軍事的な拡張の中で戦争準備がなされるという共通点を持っていた。
*一つの中心から一つの方向性を提示し、そこから社会を設計するという計画国家は、資本制は未熟な段階での成長戦略としてはしばしば成功した。
*しかし一定の成長段階を終えると、よほどうまい社会運営をしない限り、エネルギーを失い、社会そのものが失速していく。
現在のアベ政権には、こうした戦前の革新官僚型の『計画国家』『設計国家』のにおいがするW?。
そもそもアベがモデルとする岸信介は計画国家づくりのエキスパートW?の一人だったのだから。
中野晃一W?が指摘するように『新自由主義的転換によって、国家官僚制が大きく変質し、まった結果、今日保守統治エリートが振りかざす国家保守主義の残骸のようなものは、極めて空疎で観念的な国家しか構想できなくなっている。~
国家が国民をう失い、グロ資本と複合体を構築しつつある現在、日本の官僚及び官僚制は、こうした設計や計画とは異なる道を模索する段階にきている。
その時の合言葉は「デモクラシーの再生」だろう。
形式や言葉だけの民主主義ではなく、多様性と批判の承認に開かれた社会連帯、と社会的不利益個を被っている人たちへの~~
Wの以上の見解に対する結論
国家ーグローバル資本複合体(筆者はなりつつあるだとか、移行しつつある、と慎重な保留をしているが、)と云う国家ー国民ー大資本の従来の関係か激変している事態を簡潔に把握した概念は非常に有効である。
内田樹の講演の動画で、この辺の状況をどのように説明するのか注目していたら、<買弁>という古臭う不適切な概念を持ち出していた。従属論が過度に情緒的になると、不用意にそんな古臭い概念を使うようになってしまうのかとも思った。その点、国家ーグローバル資本複合体は
>「国家が建前上少なくとも『国民の利益』に奉仕すると云う形で展開してきた近代国民国家が、国家ーグロ資本複合体の登場により、今や、その『建前上の役割』さえも失いつつある。
*グローバル資本の世界経済支配の深化の中で(帝国主義論<金融資本主義論>国家独占資本主義論ではとらえきれない)『国民国家』の仕組みが揺らぎ始めている」否定し難い大状況を簡潔で適切に表現する概念である。
>この論文の最大の欠陥は、第二次安部政権とよみがえりつつある『計画国家』のエートス(習慣、特徴)の項目の「こうした強固なネットワークの上に、第二次安部政権は官僚制のコントロールを含む一元的統治形態を指向しているように云える」に続く一連のアベ政権の動向をなぞっていく記述。
記述のようなアベ等の動向は事実である。
しかし、それを大きく超えて、同時にアベ等のそうした思惑を飲み推進翼としながら、内外情勢の激動過程は進展していく。その情勢の激動過程を喜びとする、観点がこれから必要になる。防戦一方ではダメだ。
更に、戦前事態を直接的にアナロジーするのも大間違いである。硬直、一面的歴史理解であり、現状と将来には悪影響を及ぼす可能性もある。どのような情勢になろうとも、日本と日本国民が消えてなくなるわけではない、時間はたっぷりある。支配層の思い通り世界は動いてきたわけではない。
次のような見解はとんでもない岸、アベ美化、寝言の類。東アジアから日本をとらえ返す観点がない。もっといえば、世界情勢から。また、こういった分析に不可欠な最低限の経済分析も欠けている。
世界はそんなに甘くない。つけは回ってくる。タイムラグがあるだけだ。多くの国民の上に。このセンセイのいう国家ーグローバル複合体の手によって。
「現在のアベ政権にはこうした戦前の革新官僚(せめて革新に「 」をつけよ)が他の『計画国家』設計国家(戦前の満州国た東条政権の何処が計画なのか?アベの「美しい国へ」のいう戦争動員のための社会保障なのか)
のにおいがする。(匂い?政治社会の分析にそんなあいまいな言葉は使うべきではない)。
>そもそも、アベがモデルとする祖父岸信介は、計画経済づくりのエキスパートの一人だった。」
1970年代から80年代ごろまでの日本の官僚制による計画国家体制は、~~戦前の革新官僚のエートスを持った優秀な設計能力を備えた官僚制が、冷戦下における米国の最前線基地(日本の米軍基地は最前線基地ではなかった。冷戦にはデタントの側面も多かった。経験はないから分からないのか?)という歴史的地政学的位置を利用して(米国と巧みに交渉しつつ)経済成長と社会的安定を達成したのだから(唯一成功した社会主義という言葉が戦後日本社会W?その戦後は何年ごろ?)にはしなしばしば与えられいるが、むしろ、それなりの成熟後も成功した設計国家と呼ぶべきなのだろう)」
最後にとって付けたようないわゆる日本で云いうリベラルな政策目標が掲げられているが、このようなアベ政権への分析しか披歴できない本人に元気とやる気が消え失せてくるのは、一目瞭然である。何のために誰のために論文を書いているのかという、目的意識性がない。情勢に受動的に対応しているだけでは力にならないことは明白である。
いわゆるリベラルな政策目標を適当に羅列した直後、
「当たり前のことしか思いつかないが、官僚制や政治スタイルの転換を視野入れた社会の変化が求められていることを直視する必要が私たちにはあるだろう」と。
この文言だけを取り上げると、橋下「いしん」でも良いことになる。