反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

なぜシリア難民はヨーロッパを目指すのか。中東の「プッシュ要因」。PDF]現代ヨルダンとパレスチナ問題 ~アラブの<アイデンティティー複合>に注目~W。欧州への難民とアラブの歴史地政学的位置、国際感覚。

2015/10/14 - なぜシリア難民はヨーロッパを目指すのか――中東の「プッシュ要因」から探る. 立山良司 / 現代 ... 国際移住機関(IOM)によると、ヨーロッパに流入する難民の数は月を追うごとに増えており、今年初めから10月初めまでで56万人を数えている。」
 引用
「月だけでドイツに着いた難民は20万人を超えたと推されている。国際移住機関(IOM)によると、ヨーロッパに流入する難民の数は月を追うごとに増えており、年初めから10月初めまでで56万人を数えている。その半数以上がシリアからの難民だ。

彼らは今も決して整備されているとはいえないルートを利用しながら、死に物狂いで地中海を渡り北上を続けている。
>2012年半ばごろから、周辺の中東諸国に難民となって流出していた。しかし、その彼らが今年夏ごろからなぜ急に、数千キロの危険な道のりをたどってでもヨーロッパを目指し始めたのだろうか
レバノンとヨルダンで9月に行った現地調査で判明したのは、難民を引きつけるヨーロッパ側の「プル要因」とは別に、難民を中東から押し出そうとする「プッシュ要因」がきわめて強いことだった
 
 
           <シリア難民はどこに行くのか>
UNHCRよれば10月初め現在、国外に逃れたシリア難民は全体で405万人に上る
また国連人道問題調整事務所(OCHA)は、シリア国内に留まっている国内避難民(IDPs)は760万人に達していると推定している。
>シリアの全人口が2240万人程のため、実に国民の半数以上が国内か国外で避難生活を強いられている
*国外に出た難民が最も集中しているのは
イメージ 11、シリアに隣接するトルコ(8月下旬現在194万人)、
2、レバノン(9月末現在108万人)、ヨルダン(10月初め現在63万人)の3カ国だ。この3か国が難民の90%を受け入れている。
>援助関係者によると、シリアからヨルダンに逃れてくる難民は最近では1日50人程度だが、出ていく難民は倍以上の120人から130人に上っている。
 
W。重要ポイント しかも、ヨルダンを出ていく難民のほとんどが、内戦が続くシリアに戻っていくという。
>どうして彼らは危険極まりないシリアに戻るのだろうか。
*この問いに対する答えこそ、難民を引きつけるヨーロッパ側のプル要因と、
流入してきた難民を再び押し出す中東諸国側のプッシュ要因を結びつけるものだ
 
                プッシュ要因1:難民の経済的困難
 難民」というと難民キャンプで生活しているというイメージを持つかもしれない。
>だがヨルダンの場合
難民キャンプは冒頭で紹介したザアタリともう1カ所しかなく、キャンプ居住者は難民全体の15%程度に過ぎない。
一方、レバノンには難民キャンプは存在しない
つまりヨルダンではほとんどの難民が、レバノンでは難民すべてが「ホスト・コ
ミュニティ」と呼ばれる普通の町や村に住んでいる。
多くの難民が押し寄せ、人口が2倍から3倍に急増した地域もある。
この結果、アパート代などの家賃も高騰しており、ヨルダン北部では平均で3倍、一部は6倍にまで跳ね上がったとの報告もある。
家賃が払えず、工事中のビルや空き地にテントを張って住んでいる難民も多い。
>ただ空き地といっても無料ではない。テントを張るための土地使用料を地主に支払わなければならない

ヨルダンの貧困ラインは月98ドルだが、シリア難民の86%は貧困ライン以下の生活をしている。
この数字に表れているように、家賃の高騰を含めシリア難民の生活状態は極めて厳しい。もともと貧しい層が難民となっている上に、ヨルダンでもレバノンでもほとんど仕事に就けないからだ。
>そもそも、シリア難民が流入する前から、両国では失業者が多かった。
国際労働機関(ILO)によればヨルダンの場合、
失業率は難民流入前の2011年ですでに14.5%あった。そこに難民が入ってきた結果、2014年には22.1%にまで上昇した。
また、英国の王立国際問題研究所の調査によれば、難民を多く受け入れている地域の若者の失業率は42%にも達している。
このため多くの一般国民は「難民に仕事を奪われた」という意識を持っている。こうした国民感情、さらに後に述べる政治的な理由から、両国政府とも原則としてシリア難民に対し労働許可を出していない
結局、シリア難民が合法的に就労することはほとんど不可能だ。
一家の大黒柱である成人男性が働けないとなると、結果的に児童労働や売春、口減らしのために女の子を早期結婚させるケースなどが増えているという。成人男性の不法就労もあるようだが、法的保護がないためかなりの低賃金など過酷な労働条件を強いられている。
シリア難民の最大の受け入れ国であるトルコも同様の問題を抱えている
世界銀行の報告によると、インフォーマル・セクターで働いていたトルコ人労働者のほとんどすべては、低賃金のシリア難民に取って代わられたという。ちなみにトルコ政府もシリア難民に労働許可を出していない
    
 
       プッシュ要因2:ホスト・コミュニティの負担
人口の急増に対応して社会インフラを改善し、公共サービスの提供を拡大しなければならないが、ほとんどはもともと貧しい地域だ。それだけに上下水道や電力供給、ごみ処理、学校での児童生徒の受け入れ、保健衛生などの面で、本来の能力をはるかに上回る需要に応じきれないでいる。
 ホスト・コミュニティの住民と難民との関係も決して容易ではない。
仕事の取り合いや犯罪増加などの結果、住民と難民との関係は緊張している。
その上、国連やその他の援助機関が難民だけを支援すれば、もともと貧しいホスト・コミュニティ住民の恨みを買ってしまう。
>実際、ILO2014年にヨルダン人労働者を対象に行った意識調査では、84%がシリア難民に対する国際社会の金銭的な支援を不公平と見なしていた。さらに80%はシリア難民がヨルダンの治安や安定を脅かしていると感じていた。
しかし「不公平」というヨルダン人一般の見方とは逆に、国連機関などによるシリア難民への支援は決して十分ではなく、むしろ問題の長期化による資金不足から縮小傾向にある。
国連はシリア難民支援のために今年、総額で45億ドルの資金拠出を国際社会に訴えている。
しかし9月下旬現在で集まった資金は18億ドル、必要額の40%に留まっている。

>特にヨルダンやレバノンは過去に苦い経験を持っている。
両国ともイスラエル独立前後に多数のパレスチナ難民を受け入れた。
>当初は「アラブ同胞」として一時的な受け入れのはずだったが、すでに70年近くが経過している。
>内戦が長期化するにつれ、シリア難民の存在も長期化するとの懸念が強まっている
>特に両国にとって、人口バランスは実に微妙な政治問題だ。
レバノンの場合、
1970年代から15年間続いたレバノン内戦は、宗教・宗派の人口バランスが崩れたために発生した。
シリア難民のほとんどはイスラームスンナ派。もし100万人の難民がシリア社会に組み込まれるとすれば、人口バランスは大きく変わり、現在は多数派であるシーア派イスラーム教徒と、少数派だが伝統的に政治権力の配分が大きいマロン派キリスト教徒に不利に作用するに違いない
 
>ヨルダンの場合、
W?後で、研究文書で確認する。→ハーシム王家を支えているのはもともとヨルダン川東岸に住んでいた住民たちであり、現在も彼らが政治や治安の実権を握っている。
しかし、難民を含むパレスチナ人人口は増大しており、さらに長期滞留しているイラク難民も多い。それだけにレバノンと同様、旧来からのヨルダン川東岸住民はシリア難民の流入がもたらすかもしれない人口バランスの変化を危惧している。

>W。パレスチナ人にはイエローカード(元々のトランスヨルダン地域のヨルダン川東側在住ヨルダン国民)とグリーンカード→ミニパレスチナ地域西側在住に変更になり国民権消滅。トラベルドキュメントを保障。)の区別があった。
政治的意図があるか定かではないが、ヨルダン政府は今年2月に難民を含む在住シリア人に対し新しい身分証明書を発行し始めた。
問題は身分証明書の取得費用が手数料だけで1人40ディナール(約6800円)もかかることだ。家族5人であれば200ディナール(約3万4000円)の出費になる。ほとんどが貧困ライン以下の生活をしているシリア難民多数にとっては、とても出せない金額だ。

今のところ強制ではないが、いずれ必携となる可能性があり、政府による難民管理はいっそう厳しくなる
>こうした新制度の導入も難民にとってプッシュ要因になっているようだ
 
       プッシュ要因3:シリア国内の状況
こうした状況を背景に、難民の多くがシリアの将来に見切りをつけたとしても不思議ではない。
援助関係者によれば、
①ヨルダンにいる難民の多くは何とかして資金を捻出し、まず父親や夫が単身で航空券を手にトルコに向かう。
 
②残された妻や子供たちはシリアに戻り、それから戦火の中を南から北へと陸路でトルコを目指す。まさに命がけの移動だ。
③もちろん無事に着けばだが、トルコで先に来ていた父親や夫と合流する。
 
④そうして家族でエーゲ海を渡りギリシャ、さらにドイツを目指すというのだ。
*父親の航空券や、シリアやトルコを抜ける際の「業者」に渡す資金はどうやって捻出するのだろうか。
ヨルダンに来ている難民の多くはシリア南部の農民だ彼らは自分たちの農地を売って資金を手にしているという。文字通り二束三文でしか売れないだろうが、それでもヨーロッパ行きに将来を託すべきだと彼らは思っている。
見方を変えれば、いつかシリアに戻って農業をするという望みを持ち続けることができず、ヨーロッパをめざし始めたのだ。
 
>シリアの南から北へ、つまり陸路でヨルダンからトルコに抜ける難民用の「移送ルート」が最近かなり「整備」されたことも、プッシュ要因になっているという。
>トルコ紙によれば、ヨーロッパに向かう難民が移送業者に支払いう費用は、1人当たり1000ユーロから5000ユーロ(約13万円から68万円)程度といわれている。
カーネギー欧州センター研究員のマルク・ピエリニは、難民が業者に支払う費用を1人当たり平均2500ユーロとして、今年前半だけで移送ビジネスの稼ぎは10億ユーロ(約1350億円)に上ると試算している。
移送ビジネスが今年後半、もっと大きく「成長」していることは間違いない。
>業者に多額の金を払ったからといって、安全の保障はもちろんなく、悪徳業者も多いだろう。家族がバラバラになる危険も多い。それでも難民たちは中東からヨーロッパを目指している。難民の巨大な流れを生み出しているのはヨーロッパ側のプル要因だけでなく、中東側にある非常に強いプッシュ要因が作用しているからだ。
   ↓難民たちは中東からヨーロッパを目指す
 参考資料
■水道、風呂なしの仮設住宅「キャラバン」
難民は増えているはずなのに、どうしてキャンプ内の人口が減っているのでしょうか?
本間 ヨーロッパへ行く、家族が残るシリアへ戻るなど、いろいろあると思うんですが、ひとつ大きな理由は難民キャンプの環境が過酷だからだと思います。
~W。今までごく普通の生活を送っていた人にとっての何とか生活をよくしたいという当たり前の向上心だと思う。                                ↓
生きていくために必要なライフラインは確保されているのですが今までごく普通の生活を送っていた人にとって、環境は過酷です。それで、生活が苦しくてもアパートを借りて、キャンプから出られたほうがいい。外に出ていく人は、そう思っているんだと思います。けれど、一旦キャンプの外に出てしまうと、情報が届かなくて受けられるはずの支援が受けられなかったり、周りのヨルダン人になじめなかったり、孤独に陥りやすいと思います。」
~~
■ヨーロッパに行きたいわけじゃない
――そういった背景があって、ヨーロッパへ向かうのでしょうか? なぜあれだけ大勢の人が、文化もまったく違うヨーロッパへ向かうのか、よくわからないのですが。
 
本間 わたしも、よくわからないんです。すごく個人的な意見をいえば、難民キャンプで生活するのが一番楽じゃないか、と思っているんです。
どんなに環境が苛酷でも、家賃を払わなくてもいいし、電気も決まった時間になれば通るし、死なない程度の食事の配給はあるし、周りは同じ境遇のシリア難民がたくさんいるから孤独でもない。
>シリア難民支援に長く携わる日本人の知人に、「なんでわざわざギリシャの海を渡って、水死してしまうような過酷な道を通ってまで、ヨーロッパに行くんですかね?」と聞いたんです。
W。アラブの長い移動生活の習俗の残滓もあるが、普通に暮らしていた人(シリア国内でそれなりの生活水準を確保)が突然、難民の境遇になったとイメージすれば、彼らのこの心深層心理状態は、わかる。豊かな外国への出稼ぎも盛んである。
こういった状態に陥った時の人間の普遍的な心理である。もっといえば、定着生活以前の遥かに永い人類史に刻印されたDNA?。

*その知人いわく、「アラブ人特有の『あそこに行ったら、希望があるんだ』『あそこに行ったら、なんとかなるんだ』みたいな思い込みがすごい」というんですね。
*理解するのはなかなか難しいです。これから、例えばもしも中国が難民を受け入れると表明して、そこに希望があると思ったら、ひょっとしたら彼らは中国へ向かったりするのかもしれません。
 
*****
<社説>テロ頻発 武器禁輸体制の構築こそ 2016年1月16日 06:01
「各国でテロが頻発している。インドネシアジャカルタで14日、7人が死亡する爆弾テロが起きた。その2日前にはトルコのイスタンブール自爆テロがあり、ドイツ人観光客ら10人が死亡した。
 いずれも過激派組織「イスラム国」(IS)が関与したとみられる。さかのぼれば昨年11月のフランス・パリの同時多発テロもそうだった。
 トルコやフランスの容疑者は難民を装うか、難民に紛れ込んでいた。このため難民受け入れ政策が岐路に立たされている。米国では大統領選に名乗りを挙げた人物が公然とイスラム教徒排斥を唱え、支持を集める。
ISは、サウジアラビアなど湾岸諸国の住民から資金などの支援を受けてきたとされる。むろん支援の主体は諸国の政府ではないが、政府もそれを見逃してきたのではないか。そして米欧も湾岸諸国に大量の兵器を輸出してきた。
 パリ同時多発テロを機に米欧は一斉に湾岸諸国の住民によるIS支援を非難し始めた。だが米欧もそれまで支援への取り締まりを求めてこなかった。ISへの支援を放置しながら輸出してきたのだから、ISに武器が渡るのは当然の帰結である。武器を売るだけ売り尽くした後、非難するのは道理に合わない。
 なぜそんなことになったのか。今、各国の軍需産業は武器の共同開発などで連携を深めている。軍産複合体が国際規模の複合体となり、急速に勢いを増しているのだ。そしてそれへの文民統制は喪失しつつあるのが現実だ。脅威はテロ組織そのものよりむしろ、軍産複合体の膨張の制御に国際社会の良識が失敗している点にある。
今、一部難民によるテロや犯罪を理由に、その寛容な政策が批判にさらされている。米欧各国でも極右が台頭しつつある。
 このまま押し切られてしまっては、まさに「国際社会の良識の敗北」にほかならない。岐路に立たされているのは人類全体なのだ。」

 
 1. 問題の所在
> ヨルダン・ハーシム王国は、
1921 年に英国委任統治で成立したトランスヨルダン首長国を前身として、1946 年に独立を果たした。
 
>第1 次中東戦争の結果、ヨルダンはのちに西岸地区とよばれる旧委任統治パレスチナの中心地域を併合し、難民を含む多くのパレスチナ人人口を抱えることとなった
>約38 万人に過ぎなかったヨルダンの人口は約3 倍に増え、48 年以前からの居住者(以下、トランスヨルダン系住民とする)は人口的にマイノリティとなった
ヨルダンはパレスチナ難民の最大のホスト国となり、また東エルサレムを支配し聖地の管理権を手に入れたことで、パレスチナイスラエルに次ぐ紛争の当事者となったのである
 ヨルダン・パレスチナがもつ歴史的一体性や、48 年以降の西岸地区を介した関係をみると、ヨルダン・パレスチナの地理的・法的な境界は非常に曖昧である。
すなわち、ヨルダンにとってのパレスチナは境界の「外」にあると断定できるのか、ということが問題となる。
ヨルダンは建国以来、幾度も領域や国民構成を変化させており、その動態は領域・主権・国民を基本原理とする近代国民国家の志向とはかけ離れているようにもみえる。
ゆえに、パレスチナ問題との関わりをみる際にも、「ヨルダン」というあるべき国家の枠組みを所与のものとせずに、ヨルダン/パレスチナという2 つのエンティティーの連続性に着目して研究することが必要なのではない
だろうか。
以上のような問題意識から本稿は、現代ヨルダン研究に新たな視座を提示することを目的とする。
 
    2. ヨルダン「国家」とパレスチナ問題――先行研究から
 ヨルダン研究において議論の前提とされてきたのが、(1)人工国家論、(2)部族国家論、(3)君主国家論の3 つの国家論3)である。
>これらの3 つの類型は他の中東諸国においてもひろく見られる
 
 
    (1)人工国家論
オスマン帝国の崩壊後、帝国の領土であった地域では、ヨーロッパ列強の進出とともに近代国家への歩みが始まった。
>歴史的シリアは、
1916 年に英仏間で秘密裏に結ばれたサイクス・ピコ協定によって南北に分断されると、1920 年のサン・レモ会議で国際連盟委任統治におかれることが決定された。
*そして、フランスが支配した北部はシリア、レバノンに分割され、
イギリスが支配した南部はパレスチナ、ヨルダンに分割されたのであった。
  >W。注目。アラブ民族主義の希薄性=イスラム宗派主義の台頭の要因。
これらの国家群は、英仏の植民地政策の一環としての国家建設という外的要因と、
<各国内の歴史的一体性の欠如>から、「人工国家」と表象されている。
そして、国家建設における人工性は、
>これらの国々の国家としての脆弱性および国民形成の困難の要因とみなされてきた。
アイユービーはヨルダンについて、
固有の歴史や中心的な都市、土着の王族を持たないことから、歴史的シリアから誕生した他の国々と比べても人工的な要素が強いと述べている。
 イメージ 2 W。ヨルダンの特性。ヨルダン支配者の王家はイギリスの影響濃厚。重要。
そして、国家の枠組み強化のために、イギリスはいっそう新生国家の財政および軍隊への関与を強めたのだと論じている。
アラブ諸国家の成立における伝統的な社会からの連続を重視する議論を唱えたハーリクも、
>ヨルダンについては植民地主義という外的要因を国家成立の条件として重視している
すなわち、人工国家であるがゆえに雑多な国民構成をもつヨルダンは、パレスチナ問題の発生によってさらなる困難を引き受けたとする議論である。
 
 
 
               (2)部族国家論
国家建設は部族を「国民」に移行させ、統合する過程として~部族は近代国家が克服すべき対象であり、特に境界を超え自由な移動を享受する遊牧部族は、定住と新たな生業への従事を求められてきたのである
*。ただし、ここで留意しなければならないのは、中東における近代国家の建設は、必ずしも部族的紐帯という伝統的なネットワークを解体することにはつながってこなかったことである
つまり、部族への帰属意識は国民としての帰属意識と並存することが可能であり~。
ヨルダンを部族国家として論じる場合には、以下の2 点がその根拠となる。
1 点目は、
トランスヨルダン建国期の住民の多くが遊牧民または遊牧から定住へ移行した部族民であり、彼らが新たな支配者(W。イギリスの間接統治)を受け容れたことで建国が達成できたということである。
W?
そのために、しばしば国家建設以前の部族社会の近代化(W。ハシーム王家支配の正当化?)が、ヨルダン前史として語られている
W。ナルホド。
そして2 点目は、
ヨルダンのナショナル・アイデンティティーの拠り所として部族国家のイメージが強調されていることである。
>ヨルダンにおける部族国家の議論は、人工国家論によらずにヨルダンの独自性を追究するという学術的な関心と、部族性を強調することでヨルダンのナショナル・アイデンティティーを強化しようとする現実的な要請の、双方から引き出されたものであるといえよう
*そして、現代ヨルダンがあたかも部族社会の発展形のように捉えられ、パレスチナ問題がもたらした変動の影響は矮小化される傾向にある
 
        (3)君主国家論
 中東における君主制の正統性は、近代化の推進者であること、そしてイスラーム的な正統性をもつこと、の2 点からなる
ヨルダンの場合には、アブドゥッラー(在位1921 ~1951)のトランスヨルダン支配はまさに近代的な国家建設のためであったこと、
そして、ハーシム家が代々マッカ太守を務め、預言者ムハンマドの血統につらなることから、君主としての正統性が認められていることが指摘できる。
このような観点からパレスチナ問題との関わりをみた場合、トランスヨルダン系住民とパレスチナ系住民に二分されるヨルダン国内のエスニック状況は、スンナ派ムスリムのアラブ人が大多数であることから、王政の正統性を支えるための同質性を有していることになる。
**
  トランスヨルダンヨルダンの旧称
世界史の窓 
W。要するにトランスヨルダンとは領域的にパレスチナ人の多く居住するヨルダン川流域の川を境にした東側を含む現ヨルダン国土である。
第一次世界大戦中に、イギリスの支援によってオスマン帝国からの独立を目指す「アラブの反乱」を起こしたハーシム家の太守フセインの次男のアブドゥッラー(正確にはアブド=アッラーフ=ブン=フセイン)は、大戦後の1919年、兄弟のファイサルがダマスクスでシリアの独立を宣言したのに応じて、バグダードに入ってイラクの独立を宣言した。しかし、イギリス・フランスはそれを認めず、それぞれ分割して委任統治領とすることを決定し、1920年のセーブル条約でそれが確定した。
 
>反発したアラブ民衆が各地で反乱を起こすと、1921年、イギリスはフランスによってダマスクスを追われたファイサルをバグダードに迎えてイラク王国とすることにした
>その結果、アブドゥッラーはバグダードから出て、軍を率いてヨルダン川東岸に移動し、そこでフランス軍と対決する姿勢を示した。混乱を避けるためアブドゥッラーを懐柔しようとしたイギリスは、彼を首長(アミール)としてその地の事実上の支配権を認めた
  こうしてこの地は、1923年にはイギリス委任統治下のトランスヨルダン首長国としてハーシム家のアブドゥッラーが主張となった
>これによってパレスチナヨルダン川の東西で分断され、西岸のみをパレスチナ、東岸をトランスヨルダンというようになった   
**
しかし実際しかし実際には、ヨルダン研究においてはヨルダン系住民・パレスチナ系住民の間の亀裂が強
調され、
それがハーシム王家の存続に寄与してきたという逆の議論が展開されてきた。
そこでは、トランスヨルダン系住民のみが王政との親和性をもつとされ、その根拠はすでに述べたヨルダンの部族国家としての特徴と、トランスヨルダン系住民が多数をしめる軍部と王族との親密な関係という2 点に求められる
軍隊をはじめとする公的セクターから恩恵を受けるトランスヨルダン系住民に対して、パレスチナ系住民は王政への忠誠が疑われる存在であり、
一部の親ハーシムシム家勢力を除いて、彼らは王政存続の不安定要素とされてきた。
 
特に、1970 年の内戦はパレスチナ解放運動勢力と、国王の命令によって彼らの壊滅をめざしたヨルダン国軍との間で繰り広げられために、両者の関係は敵対的なものとして論じられている
パレスチナはあくまでヨルダンの境界の外部として位置づけられているために、パレスチナ問題によってヨルダンに付与されることになった特殊性は例外的なものとして論じられる傾向にある。
中東諸国体制の成立とパレスチナ問題との関わりについて論じることで、中東という地域における国家の意義とヨルダン国家の性質について考えたい。

   3. パレスチナ問題と中東諸国体制――紛争に規定される国家
英仏による委任統治の開始によってシリアから分離した歴史的パレスチ委任統治の終了によって、ようやく独立を達成するはずであった。
 
>②しかし、バルフォア宣言英国委任統治パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設を促すものあり、
48 年の戦争(W第一次中東戦争)の結果もたらされたのは、ユダヤ人国家の成立パレスチナの消滅であった。
③すなわち、この「中東諸国体制」は完成と同時に、国家建設が招いた紛争の持続性を組み込んだシステムとなったのである。
 ヨルダンとパレスチナ問題との関わりを見た場合、このような中東諸国の一部としてのあり方を超えた側面を指摘することができる。
②関連。
歴史的シリアの南部を形成していたヨルダンおよびパレスチナ明確に分離されたのは、イギリスによる委任統治の開始後のことであった。
>W。決定的に重要な歴史的事実。
そして、ヨルダン・パレスチナ間に認められた違いの一つが、ユダヤ移民の受け入れが可能であるか否か、ということであった。
パレスチナにおいては、英国委任統治政府が、ユダヤ人の民族的郷土の建設のために積極的な後押しを行っていた。

>例えば、委任統治政府は毎年移住可能なユダヤ人の数を定め、アラブ人・ユダヤ人双方のコミュニティからの代表者を通した統治を行っていた。
W。ナルホド。
一方で、ヨルダンにおいては早くも建国前の1920 年に結ばれたウンム・カイス合意において、地元部族から英国に対してユダヤ移民の拒否が訴えられており、英国政府もその要望を受け容れていた。
このように、48 年以前のヨルダンはユダヤ移民の可否を基準としてパレスチナから切り離され、アラブ人国家として存続することで、パレスチナにおける紛争の部分的な解決を担っていた
 
>そして、48 年パレスチナの中心地域を領土としたことで、ヨルダンとパレスチナ情勢の連動性は、よりいっそう明らかとなっていく。
つまり、西岸地区を国土の一部とし、多数の旧委任統治パレスチナの住民を国民とすることで、ヨルダン国家の枠組みは「パレスチナ」の枠組みの変化に沿った変容を余儀なくされるようになったのである
 
W、重要。
W。誰がこれからもヨルダン国民として認められるのか。新たな身分証の制定や、パスポートの種類や期限を利用したヨルダン政府による市民権の階層化

1964 年に設立されたPLOパレスチナ人の代表としての承認を受けるにしたがって、パレスチナの領域や住民を含んだヨルダン国家の枠組みの正統性は揺らいでいく。
ヨルダンは、PLO の代表権の承認や西岸の放棄という対外的な譲歩を迫られただけではない。
その過程では、ヨルダン国内においても、誰が将来のパレスチナ国家の住民となるのか、誰がこれからもヨルダン国民として認められるのか、という問いに答えなければならなかった。
後述する新たな身分証の制定や、パスポートの種類や期限を利用したヨルダン政府による市民権の階層化は、そのための方策の一つであった。
 
 
       <1993 年のオスロ合意以降>
パレスチナ問題の当事者はパレスチナイスラエルの二者に収斂しつつある
>ここでいうパレスチナとは<ミニ・パレスチナとも呼ばれる西岸・ガザ地区であり、パレスチナ人とは離散したパレスチナ人の総体ではなく、西岸・ガザ地区に生きる人々を中心的にさすようになりつつある
パレスチナ国家建設による二国家解決が和平交渉の基調とされる一方で、
*和平プロセスの停滞は、しばしばイスラエルにおけるヨルダン・オプションの浮上にもつながっている。
パレスチナ国家建設への前進、後退は、ヨルダンがいわゆる「国民国家」の枠組みに接近、離脱していく過程でもあり、現在もなお紛争の展開がヨルダンの在り方に大きく作用していることが指摘できるであろう。

       4. ヨルダンにおける領域および国民構成の史的変遷
~ヨルダンの領土及び国民構成を大きく変化させたのが、
>1954 年に完了した西岸地区および東エルサレムの併である。
ヨルダンは、1948 ~ 49 年の第1次中東戦争中に、エルサレムを含むパレスチナの中心地域を占領していた。
 
>そして停戦後、委任統治パレスチナは、
①建国したばかりのイスラエルが占領した地域、
②ヨルダンが占領した西岸地区、
③エジプトが占領したガザ地区
の3 つに分割されたのであった。
 
西岸地区の面積は両岸を合わせたヨルダン全体の約6.3%に過ぎない。
>しかし、都市化が進み発展していたパレスチナの人口密度は高く、併合によってヨルダンの人口はそれまでの約3 倍に増加した。
また、ヨルダンの全人口のうち約50 万人がまた、ヨルダンの全人口のうち約50 万人が難民。
1967 年の第三次中東戦争の結果、ヨルダンにはガザから新たに7 万人が逃れた。
彼らは48 年難民とは区別され、避難民と呼ばれた。避難民はヨルダンにおける諸々の権利は保障されず、あくまで外国人として扱われた。
>W。現在のイスラエルの警察行政権下にあるミニパレスチナヨルダン川西岸地区である。
また、ヨルダンは西岸地区をイスラエルに占領されたものの、行政の一部を担い領有を主張することで、西岸との法的関係を維持した。
   ↓
ヨルダンの領域および住民構成に再び大きな変化が起きるのは1988 年の西岸分離宣言以降である
前年からのインティファーダの結果、
7 月に国王が西岸との「法的・行政的」な関係を絶つことを宣言すると、
翌月には首相声明として「1988 年7 月31 日以前に西岸に居住していたすべての住民はパレスチナ国民となり、ヨルダン国民ではない」ことが発表された
 西岸を切り離すためのさまざまな方策が採られ、
>「ヨルダン」は再び、トランスヨルダン時代と同じくヨルダン川東岸をさす言葉となった
>しかしその一方で、東岸にはすでに多くのパレスチナ人が帰化していたために、その住民構成はトランスヨルダン時代と比較すると大きく変化していた。
   
 
       5. ヨルダンにおけるアイデンティティー複合
 居住地や経済状況、難民化の時期によって、ヨルダンのパレスチナ人がもつアイデンティティーにさまざまな違いがみられることを指摘しており、
同様に、トランスヨルダン系住民の間でも、経済格差や歴史的経緯のために南北の住民の意識に大きな違いが見られるとしている。
このような環境の差異がアイデンティティーの差異を生み出すという事情とともに
*ヨルダン住民のアイデンティティーを考える上で重要なのが、「アイデンティティー複合」
     
     W。アラブ圏理解のために重要な視点。
今回の記事の前半。、「アラブ人特有の『あそこに行ったら、希望があるんだ』『あそこに行ったら、なんとかなるんだ』みたいな思い込みがすごい」というんですね。
*理解するのはなかなか難しいです」に対するWの反論。
 
 
 
W。「アイデンティティー複合」というアラブの特殊性を指摘できなかった。
W。アラブの歴史はアイデンティティー複合」という国際感覚を養ってきた、又そうでなければ生活できなかった。日本人に全く欠けているアイデンティー感覚である。陸続き、平坦(軍事的脅威が常にある)。民族移動激しい。西アジア系モンゴル系のトルコ民族は現住地に定着して、まだ1000年を経過していない。
 
個人が同時にさまざまなアイデンティティーを持ち、状況に応じてその強調点を変化させるという状態ヨルダンのみならず広く中東においてみられる特殊なアイデンティティー形態である
>たとえば、ヨルダンにおいては、ヨルダン人としての国民意識のほかに、ムスリムまたはキリスト教徒という宗教的アイデンティティー、出身部族によるアイデンティティー、出身地によるアイデンティティーなど<さまざまなアイデンティティーが並列>W並列はなぜなのか?人工国家、部族国家。国民国家形成の機会がなかった)することになる。
 
W.ナルホド。日本人とまったく違う国際感覚!アラブ民族主義の希薄な理由が、ここにもあった。
 ゆえに、たとえばヨルダンのパレスチナ系住民のアイデンティティーに濃淡の違いがあったとしても、彼らが等しく「ヨルダン人」であると同時に「パレスチナ人」としての意識
   ↓
このことが、国民意識としてのヨルダン人意識の醸成が困難であることの原因であり、
同時にヨルダン政府による施策をパレスチナ人の側も受け入れることができる理由であると考えられる。
つまり、実際の帰属意識や愛着の程度に関わらず、彼らがパレスチナ人としての意識を持つことと、ヨルダン人としての権利を手にすることの間に矛盾は生じないのである。
W。重要。
そして、このようなアイデンティティー状況が、以下で論じるヨルダン国籍および市民権の特殊性を成り立たせる原因となっている。
   
 
      6.法的実態――国籍・パスポートの付与から
国籍は、個人の国家への帰属を示すものであると同時に、国家の庇護を受ける特権を保証するためのものでもある。
個人がいずれかの国家に属することが前提とされている現代世界においては、国籍を持つことは生存のための最低条件。
その後も現在までパレスチナ人を保護する「パレスチナ国家」は成立していない。
しかし、実際にはパレスチナ人の多くがヨルダンまたはイスラエルの国籍を得て、国家の庇護を受けている
 
>て1950 年に西岸地区および東エルサレムを正式に併合すると、54 年には国籍法を改正し、大部分のパレスチナ系住民に国籍を与えたのであった
>W。イエローカードヨルダン川東側住民ヨルダン国民 グリンカード=ヨルダン川西側住民 将来の(W。ミニ)パレスチナ国民
 しかし、
パレスチナ解放運動の高まりを受けて、74 年にPLO が「パレスチナ人の唯一かつ正統の代表」として承認を受けると、ヨルダンは西岸支配に対して譲歩を迫られるようになる。
このような状況の変化を受けて、83 年に西岸住民を法的に区別するための、新しい身分証が導入された。
それがイエローカードグリーンカードと呼ばれる2 種類の身分証である。
イエローカード
東岸住民に向けられたもので、彼らがヨルダン国民であり、かつパレスチナ出身であることを示すものである。
グリーンカードは、W。折衷政策であるが、国民の権利を放棄させた。
彼らが西岸の居住者であることを示して、他のヨルダン国民から区別するためのものであった。
これは、彼らが将来のパレスチナ国民となることを示すためのものであったといえる。W。シリアも同じ政策。
 
1988 年の西岸分離宣言の後、西岸住民は、ヨルダン国民として手にしていたさまざまな権利を失うことになった。
そして、彼らがもつグリーンカード
彼らにヨルダン政府発行のトラベル・ドキュメントを所持する権利を保障し、また、彼らが居住権をはじめとするヨルダンにおける諸権利を持たないことの証明となったのである
 
*ヨルダン政府による権利保障という観点からみると、
 
パレスチナ人は3 つの種類に分けることができる。
1 番目は、ヨルダン国籍保持者のパレスチナ人である。
トランスヨルダン時代の移住者はもちろんのこと、54 年に新たにヨルダン国民となったパレスチナ人には、トラ
ンスヨルダン系住民と変わらない諸々の権利が保障されている。公教育や福祉へのアクセスのほか、就労や移動の自由も保障され、参政権を持つため数多くの閣僚経験者をも輩出している。
彼らはUNRWA 登録証やイエローカードを持つことで、同時にパレスチナ人であることを証明しており、難民としての保護や、故郷に残してきた財産の保障を受けることができる
 
2 番目は、グリーンカード保持者である
グリーンカード保持者とはすなわちヨルダン・パスポートの資格者であり、西岸住民20)はこのグリーンカードの所持を条件とするヨルダン・パスポートの資格者となっている。
1995 年以降、西岸住民にはヨルダン国民と同じ5 年間有効の通常のパスポートが発給されるようになった。パスポートを持つことは市民権に含まれる主要な権利の一つであり、彼らを部分的にはヨルダン市民として位置づけることも可能であろう。彼らがパレスチナ人であることは、西岸における居住とともに、パレスチナID を持つことで証明されている。
 
 
3 番目が、トラベル・ドキュメント保持者である
ヨルダン政府は、67 年に避難民としてガザ(エジプト占領地)から逃れてきた人々には2 年間有効のトラベル・ドキュメントを支給している。
彼らは、67 年以前には東岸・西岸のいずれにも居住していないため、ヨルダン国籍は付与されていない。そのため基本的にはヨルダン国家の庇護はなく、UNRWA が保護に当たっている
彼らについては「ステータスをもたない」ことがパレスチナ人であることの証明になっているといえる。