反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

引用と批判。 オスロ合意から20年。 パレスチナ/イスラエルの変容と課題。<NIHUイスラーム地域研究東京大学拠点中東パレスチナ研究班>

        *以上、余計な勘違いを避けるために、基本資料を引用した。 
 
この論文集の注目点は、労働党など政党別や宗教イデオロギーの表向きの政治イデオロギーの相違をイスラエル支配層の基本戦略の一致点に集約したところであるが、オスロ合意20年後の今にしていえることではないのか、という疑問が湧く。
当時、このような論評ができていれば大したものだったが、案外、パレスチナ和平交渉惑わされて、事態をありのままに見つめきれていなかったのかもしれない。
 また、政治イスラムへの動態的論評が欠けている。
ハマス出現と政治勢力拡大の成り行きは解説されているが、その奥にもっと大きな問題があるのではないか。

数本の論文記事を読みこんだ感触では、ハマス政治は、大きな政治力にかけているようで(イスラエル/パレスチナの関係に対する基本綱領がはっきりしていない抵抗勢力の形成に終始している)、
 
イスラエル政府のパレスチナ政治分断のための陽動作戦に利用された側面がかなりあるとみる。
また、ハマスの政治体質では、強力な対抗力を内外に形成できない、とみる。
ハマス支持層の気持ちも分るが、指導者は彼らの思いを実現する政治が必要。
ムスリム同胞団ハマス、サウジ=ワッハーブ派。文脈の中で分析できる余地があるのだから、完全な片手おちである。
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      参考資料
 引用。W。無断転載禁止ということですが、どうしても必要な箇所です。

パレスチナ問題の中のイスラム   講師 東京大学教授 長沢 栄治  平成17年10月11日 於:如水会館
                                               社団法人 如 水 会   責任編集
        <停戦合意という転換点>
  引用
「>アラファトが亡くなったことが一つの切っ掛けとなって、アッバース新議長とシャロンの間で停戦が合意されますが、それが今年の2月のことです。
*W。パレスチナ勢力の統一の気配→ 方では、<ハマース>や左派勢力など、パレスチナの反主流派の人たちがカイロに集まって、アッバースを彼らの指導者として認め
シャロンとの間で結ばれた停戦についても条件付きで同意する「カイロ合意」がなされ、第二次インティファーダは一応停戦の方向へ向かうのです
       
*重要!こうして先々月、シャロンは、発表していた通り、ガザの入植地を撤去しましたが
パレスチナ側では、7月に予定されていたパレスチナ自治政府の議会の選挙を1月に延期しましたが、
 
*重要!ポスト・アラファト体制が本格的に展開されようとしています。
              ↓
そのことと、シャロンが一方的にガザ入植地の撤去で示した新しい占領政策とがどう関係していくのかを含めて、
>この1~2年は、まさにパレスチナ問題の大きな転回点になる可能性があります

W。結局。時系列を追っていえば、
W。シャロンの挑発(第二次インティ)とハマス拠点のガザ撤退、西岸地域への新たな併合策動は、PLOからハマスへの主導権の政治状況を生み出し、交渉相手としない、とするハマスの選挙での勝利をもたらした
W。そしてパレスチナ勢力は分裂し、内外への交渉口が狭まり、イスラエル拡張主義は野放しにされた
 
            <シャロンの政策の背景>
先ほどシャロンの行為はマッチポンプみたいだと言いました。
*第二次インティファーダを暴発させるような聖地への訪問をしながら、
*再びその紛争を収拾するようにガザの入植地からの撤退をしたからで
 
*ただしその一方で、新しい壁をつくることによって、西岸地域の10%ぐらいを併合しようとしています。
*その意図するところは、撤退後はパレスチナとは没交渉にして、自分たちのイニシアチブをつくりながら、自分の有利な形で領土的な確定をしてしまおうということだと思います
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  第二次インティに関して次のような意見もある。
失敗に終わった第二次インティファーダと悲惨なパレスチナ。しかし未来はあります。(2)【パレスチナNGOサイトも紹介します】
http://www.asyura2.com/0306/dispute12/msg/442.html
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     日々の雑感 243:
   第一次インティファーダの指導たちのその後
彼らは完全に表舞台から退却してしまった。一方、人びとの一体感、連帯意識も消えた。
アラファトなど外から来た連中は、最悪のものをこの地に持ち込んできた。そして我々が持っていた最善のものを失った。
>今は、すべての人びとが自分のことだけを考えるようになった。
>「なぜ自分は他人のことを考える必要があるんだ。自分のことが最優先だ」と。
>協力の代わりに競争が、連帯の代わりに個人主義がはこびるようになった。
個人主義だけではない。党派主義、部族主義、ファミリー主義がはこびり、だれもが自分の周りにロビーを作ろうとした
*自分の利益や必要を満たすように。
*その結果が第2次インティファーダだった
*それは突発的に起きたことではなく、悪い傾向、個人主義、最悪の人間性から生まれたものだった。
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     本文に戻る
W.第三。
理論的には、難民問題と全く不十分なパレスチナ領土問題交渉のバーター取引であったPLOミニパレスチナ構想への転換に対する批判は可能であり、占領地の現状からみて筋も通っている。
また、PLOのオスロ合意への転換をPLOの対ハマス党派政治分析で済ませているが、世界政治を含めた現実政治の現場として実行の困難性の問題に言及していない。
第一次インティファーダは、パレスチナ版大衆実力闘争であり、いつまでも続けられるものではない。犠牲者も多数出た。政治的集約は避けられず、それがPLOのオスロ合意のかたちのあらわれた一方、
本論文の論旨によれば、イスラエルの入植と拡張主義は宗教、政治党派を問わない支配層合意済みの基本戦略であった。また、ソ連法東欧体制崩壊の中東政治への影響もかなりある。

>第一次インティファーダと第二次インティファーダについて、完全な客観記述に終わっているが、果たしてそれでよいのかどうか

>現場政治には、大きな情勢に対する政治判断、決断の課題が付きまとう
オスロ合意を超えたイスラエルの拡張主義によって、占領地の実生活にまで影響を及ぼす事態が現出し続けたが、これに対する戦いは、第二次インティファーダで良かったのかどうか。
こういった次元の問題を考えなくてもよい人たちは、ある意味、気楽である。
 
第四。
中東情勢を大きく規定する世界政治経済の枠組み分析の必要性には言及しているが、全く何もやれていないも同然。
国とイスラエル、アラブの中東戦略に大きな影響を及ぼしたソ連東欧体制、「東西冷戦体制」の崩壊の影響を分析する替わりに、米国のイスラエル占領政策の推移と転換を追っているだけで、何か道義的責任を問い詰めているだけのように感じる
こういった研究者の大きな限界である。


本文引用開始   
 
          オスロ合意から20年
       パレスチナイスラエルの変容と課題 
http://www.geocities.co.jp/taizofromjp/imano2015_DepatureFromPoliticalAndDiplomaticPerspectiveOnOsloProcess.pdf 
 
          <NIHUイスラーム地域研究東京大学拠点中東パレスチナ研究班>

W。都合により、論文の順番が違っている。  

         おわりに        
オスロ合意は、パレスチナ問題に対する政治的解決の試みである。
その結果生まれたのが、現在まで引き継がれるオスロ体制であった。ただし、「政治的」という語は多義的である。
「合意」という以上、それは「利害調整」という意味に取れるし、実際、少なくとも表向きは利害調整が意図されていた。
W重要→イスラエルにとってのオスロ合意は、実践的シオニズムの延長線上における占領体制の再編成でもあった。
このことを踏まえるならば、「政治」のもう一つの重要な意味である「権力闘争」という側面にも同時に目を配っていかなければならない。
 
 
ここでは、本論集のとりあえずのまとめとして、この2つの観点からオスロ合意・オスロ体制を振り返ってみたい。
 
 
まず、権力闘争という側面からオスロ・プロセスを見るならば、誰と誰の闘争であったのかが問題となる。
それは一般には、イスラエル人(イスラエルユダヤ人)とパレスチナ人の間の闘争として理解されてきた。
 だが、鈴木論文が明らかにしたように、
オスロ合意の方向にPLO が舵を切った背景には、インティファーダ後に勢力を伸張しつつあったハマースへの対抗があった。
つまり、パレスチナ人内部での権力闘争が、オスロ合意のカギを握っていたことになる
>江﨑論文が示すように、その後、ハマースはオスロ合意に対する「スポイラー」の役割を果たしていった。

オスロ・プロセスへの不満を吸収する形で、ハマースは与党へと上昇していく
ハマース伸張の経緯については、
>政治のもう一つの側面、すなわち、どのように利害調整が行われたのかという観点から丁寧に追っていく必要がある。
マドリード・プロセスからオスロ合意まで、
イスラエル政府とPLO に当事者が限定された形で交渉が秘密裏に進行したことが、
ハマースがオスロ合意に反対した背景にあった。
 
オスロ合意は何よりも、
*当該地域における様々な問題を、
イスラエル政府とPLOという2つのアクター間の調整により解決することを目指す合
だったのである。
*国際社会もオスロ体制という調整機構を是認する一方で、その外からこの機構に反対する勢力を「スポイラー」と見なした
*この調整機構の一翼を担ったPLO は、ある面では、イスラエルと一体となってこの「スポイラー」の弱体化を目指した。
 パレスチナ暫定自治区においてPLO主流派のファタハがさらに地盤を強化すべく自治区選挙制度が設計されていったことを指摘する清水論文は、こうした流れの一環を示すものとして読むことができる。
 
>誤算だったのは、ハマースが選挙を通じてこの調整機構の内部に入り込んでしまったことである。
ファタハ強化を狙った制度は、その制度の源泉となっていたオスロ合意自体に強い疑念を向けるハマースの強化に貢献してしまったのである。
 
******
 
>ではなぜハマースはオスロ体制の破壊を企図するのか。
W。重要。
問題は、オスロ合意の時点でハマースを偶然排除したことにあったというよりも、排除せざるをえない構造がオスロ合意にあったと見るべきである
権力闘争という側面に立ち戻るならば、
~~~~~~~~~
      
 
       オスロ合意の枠組み>そのものが
イスラエルにとっては、
パレスチナ難民問題、「人口統計上の脅威」、安全保障問題、長期占領がもたらす法的・経済的・道義的問題など国家の基盤を揺るがす問題を解決
 
>さらには移民と入植を通じて既成事実的に実現させた国家建設事業を正統化させるためのものであったことを忘れてはならない。
 
 そのため、シオニストイスラエル政府が、交渉相手であるパレスチナ人をどのように定義してきたのかという問題から検証していく必要がある。
   
    
 
      建国以前から、シオニストの隣人に対する認識は変化していっていた。
当初はアラブ民族として自らの敵ないし交渉相手を認識していたイスラエル政府は、
オスロ合意を締結する時期には
>その相手を「パレスチナ人」と認識するようになっていた

>だが、それはパレスチナ解放運動が要求してきた「パレスチナ人」という存在の承認にイスラエル政府が同意したことを必ずしも意味しなかった。
W。パレスチナ在住アラブ人の難民化とイスラエル建国の問題と理解する。
             ↓
*W。重要。     ↓
イスラエル政府が想定する「パレスチナ人」は、実質的には西岸・ガザのパレスチナ人に限定されていたのである。
 
そのうえで、
*W。重要。イスラエル政府は、彼らの国家的独立を承認するかのようなそぶりを見せつつ
そのために必要な重要な諸要素を骨抜きにしていった
>もっとも、イスラエルは、自身の都合に適う枠組みを唐突に設定したわけではない。
*W。重要!
*占領地に建設されたイスラエル入植地の問題は、イスラエル国内の強硬派の所業としては決して片づけられないイスラエルシオニズムにとって本質的な側面を持つ。
*なぜなら、軍事的優位と米国の支援を後ろ盾に、既成事実として存在していた領土拡張を合法化・恒久化させ、
「アラブ人問題」を空間的に封じ込めることで解決を図ろうとするオスロ合意の背景にあったイスラエル府の意図は、
*W。超重要!
シオニズムの根本的な思考・戦略に根ざすものだからである。

*それゆえ、和平プロセスを調整する役割を自任してきた米国政府が、こうした背景をもつ入植地拡大を黙認し、
*また事実上支援さえしていたという事実は、
仲介者として米国と調整機構としてのオスロ体制の正当性そのものを揺るがしたのである
*このことは、オスロ合意の不履行や、それが内在していた「抜け穴」を示す典型的な事例である。
しかし、オスロ合意やそれに続く体制からそもそも完全に抜けていた問題も複数存在した。
********************
       
 
この論は要するに、当初は喧伝されていたが、冷戦体制崩壊に連動するようなオスロ合意以降の事態に、その用語さえ見当たらに<ミニパレスチナ構想批判>
>決定的であるのは、難民問題の切り捨て、少なくともその後景化である。
オスロ合意以降、パレスチナ難民の帰還権は議論の中心から外れていった。
 
 改めて確認すると、パレスチナイスラエルにおける紛争は、
>W。重要→「イスラエル人とパレスチナ人の間の対立」として始まったわけではない
*W。重要→この紛争の重要な契機の一つは、イスラエル建国による難民の発生であった
 
>難民という共通の経験を持ち、パレスチナ人としての意識を強めていった彼らは、西岸・ガザや周辺アラブ諸国に居住することになった。
 PLO 自体、創設以来長きにわたってエジプトやヨルダン、レバノンチュニジアなどを拠点にしていた。
>ところが、オスロ合意は離散パレスチナ人の帰還にはほとんどつながらず、
>むしろ西岸・ガザのパレスチナ人との分断を強化していったのである
 
>分断という点でいえば、イスラエル国内のパレスチナ人(イスラエル・アラブ人)とその他のパレスチナ人との関係性もオスロ合意以降変化した。
イスラエル国内の彼らはパレスチナ解放運動に連携することからイスラエルにおける集団的権利の要求を重視するようになった。
オスロ合意が交渉相手の地域を西岸・ガザに限定した以上、

>その枠組みではイスラエル国内のパレスチナ人の諸問題もまた棚上げされることになり、彼らは独自の運動を始めるほかなかったともいえる。
政治の世界や、それを基軸に据えたニュースの世界では、西岸・ガザ地区パレスチナ人のオスロ・プロセスへの不満が焦点化される場合が多い。
それは、西岸・ガザ地区に限っても、政治の調整機能が十分に働かなかったことを意味する。
だが、看過してはならないのは、そもそも調整が試みられることさえなかった問題が多く残されていた事実である。
 
以上のことは、例えば次のような問いを投げかける。
結局のところ、オスロ合意やそれ以降の和平プロセスは、何を、何のために調整するものだったのか。
 
>つまるところ、イスラエルの政権党とアラファート率いるファタハが、それぞれの持ち場で関わっていた権力闘争を調整するための枠組みにすぎなかったのではないか――。
オスロ合意から20 年以上経過した現在、「政治」をキーワードにそれを振り替えるならば、こうした問いも無視しえないことを本論集の諸論文は示唆しているだろう。
>いずれにしても、政治が多くの重要問題を調整し損なってきたのだとすれば、
>例えばパレスチナにおける政情不安や自治政府に挑戦する勢力の伸長も特段不思議なことではない
 
*それまで「国家なき土地」である占領下の社会を下支えしてきた市民社会が、オスロ合意以降、アラファートへの権力集中によって弱体化させられた
W。イスラエルの西岸ガザ地区への人モノカネ分断攻撃が、オスロ合意以前よりも進んだ。
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             参考資料
     日々の雑感 243:
 第1次インティファーダとは何だったのか(前編) 2011年11月13日(日)     
    
     
 
            <異なる組織の連帯>
「占領地の表面は静かだが、地下水が脈々と流れていた。それは外から見ることはできなかったが、地下にその流れはあったのだ。その流れはとても強力だった。その地下水が噴き出たのだ。
イスラエルはずっと自分たちは占領地を征服したと考えていた。
>全ては静かで、闘う者は誰もいない、イスラエルへ働きに出て、家に帰ってくることができる、イスラエルで働いて金を得て、子どもたちのために買い物をして、すべてはまったく問題ないと考えていた
>その静けさが、人びとが自由に結びつくことを可能にした。
>まったく移動の制限はなかった

>検問所もなく、お互いが会うことを妨げるものは何もなかった。
>それが人びとが結合することを物理的に可能性にした。西岸からイスラエルを通ってガザへ行くことは簡単だった。
ラファの人間がジェニンの人間にその日のうちに会うことができた。移動制限がなかったからだ。またある程度の「繁栄」や「経済発展」があった

我われは静けさを感じ、自信を感じた。闘争までにはしばらく時間がかかった。目標に達するための闘いを始めるためにはしばらく時間が必要だった。
多くの要素が重なって、人びとが団結し、個人の望みは組織の望みに昇華することができた。」
***************************
 
         外のPLOの介入

*W。重要。だが、国家としてのさまざまな機能を骨抜きにされた自治政府は、人々の生活を支える機能を十分に果たせなかった。
W。当然のこと。そこまでの国家的権限は全く、与えられていなかった。
 
*W。重要。いわば、「暴力の独占」と引き換えになされる所得の再分配という近代国家の重要機能に欠陥があったことは、その権力に対する疑義を不可避なものとしたのである
パレスチナイスラエルのようにさまざまな立場や権力関係が混在する場において、利害調整は不可欠であり、そのために政治が果たすべき役割は大きい。
*だが、政治が掬い取る利害の範囲があまりに狭く、
そもそもそれが一部の人々の可能性を奪う構造的暴力を内在させている場合、
表面上の明快さとは裏腹に、人々の政治に対する不満を増大させる。

オスロ合意が和平をもたらさなかった要因の一つはこのことに求められるだろう。
W。オスロ合意は難民問題の棚上げと引き換えに、西岸km2のPLO「限定自治」を双方が『合意』する枠組みであった。
PLOに付与されていた権限は、部分的地域限定の行政治安維持であった。←暴力装置、いすらる占領政策の下請け化?
  
 
     <論文後述>引用
>「労働党政権は、ソ連崩壊後の米国の一極支配が進展する中、
*「占領者として払うべき行政的・政治的・法的コストを下げながら」、
           ↓           ↓                    ↓
W。統治者による区分 ウィキペディア引用
2010年現在、ヨルダン川西岸地区は統治者によって、3分されている。
 
1.A地区パレスチナ自治政府が行政権、警察権共に実権を握る地区。2000年現在で面積の17.2%
 2.B地区パレスチナ自治政府が行政権、イスラエル軍が警察権の実権を握る地区(警察権は、パレスチナ自治政府と共同の地区も含む)。2000年現在で面積の23.8%
 3.C地区…イスラエル軍が行政権、軍事権共に実権を握る地区。2000年現在で面積の59%
 
現在でもヨルダン川西岸地区の主な統治者はイスラエルであり、
>また、C地区はA地区、B地区を包囲し、さらに細かく分断するように配置されている。
イスラエルが容易にパレスチナ人の交通を封鎖できるようになっている。
さらに、C地区でのパレスチナ人の日常生活は大幅に制限されており、家屋・学校などの建築、井戸掘り、道路敷設など全てイスラエル軍の許可が必要となる。

>「占領地の入植地と天然資源の永続的支配をも実現し、
>「同時に自国経済を世界経済へと接続していくため、占領の再編成と占領地の空間的再編成を進めた。」
***
    参考資料
W。本論文は
●ラビン暗殺で暗転のような立場を批判している!時期的に見ても古く、当時はそのような見方が主流だったのだろう。
 イラク危機・アメリカの中東政策を台無しにしたクリントン  98年3月1日  田中 宇
●ラビン暗殺で暗転
だが1995年にラビン首相が暗殺され、その後に出てきたネタニヤフ政権は、パレスチナ人への土地返還に反対する右派であり、オスロ合意を守らない姿勢を強めた。
イスラエルパレスチナ人に返還することになっていた東エルサレムイスラエル人入植地を作ったりした。
***
 
>難民問題は、PLO が現在でも議題に掲げ、その都度イスラエル政府からの反対に遭うという意味で、交渉進展の大きな障害となってきた。
*しかし注意しなければならないのは、表舞台での政治においては、PLO 指導部、イスラエル政府、国際社会が作り上げた抽象的な難民像だけが独り歩きし、パレスチナ難民の具体的な声は舞台裏に追いやられてきたということである。

イスラエル政府とPLO は交渉において、パレスチナ難民が西岸・ガザ、さらにはイスラエル領内に帰還することを前提としてきたが、
 
>実際の難民全員が必ずしも移住を望んでいるわけではなく、象徴な権利としての帰還権の承認、およびそれに伴う補償を望んでいる場合も多い。
 
>そうであるならば、イスラエルが危惧する人口バランスの変化は杞憂にすぎないとも言えるだろう。

その一方で、オスロ合意が新たな現実に追いついていない側面も多くなってきた。
オスロ合意とはほとんど無関係な次元で移入してきた旧ソ連系移民は、現在ではイスラエルユダヤ人口の2割以上を占めるにいたった。
人口構成の変化はイスラエル国内の政治的構図も変え、オスロ合意の時点ではそもそも想定しきれなかった問題が増えている
     最後に
>第1 次インティファーダの勃発により、イスラエルが支払うべき占領のコストは増大し、国際的なイメージは低下した。
労働党政権は、ソ連崩壊後の米国の一極支配が進展する中、
>占領者として払うべき行政的・政治的・法的コストを下げながら、
>占領地の入植地と天然資源の永続的支配をも実現し、
>同時に自国経済を世界経済へと接続していくため、占領の再編成と占領地の空間的再編成を進めた。
 
*いわゆるオスロ和平プロセスは、外交的には「二国家解決案」に基づくユダヤ人とパレスチナ人の妥協と和解のための交渉プロセスとして喧伝され、そう理解されてきた。
 
*だがそうした交渉が、占領下のパレスチナ人の状況を好転させることはなかったのである
オスロ合意の推進者であった米国のクリントン政権も、実際は、入植地を国際法違反と見なす伝統的立場を大きく後退させていた。

国連や人権団体を和平の舞台から排除し、
入植地問題
国際法の問題から「紛争当事者」が解決すべき問題へと矮小化し、
イスラエルが入植地やバイパス道路の建設を通じて既成事実作りを進めることを容認した。
 
*10 億ドルの債務保証から入植地に投じられる費用を差し引くという懲罰の制度も骨抜きにし、
イスラエル政府が占領の再編成を進めるための費用を国際市場で安く入手できるようにした
        ↓
債務保証から減額された懲罰金の推移 (単位:億ドル)年
入植地に投じられた資金
イスラエル政府概算)
米国政府による減額最終的な懲罰金額
1992 7.00 2.63 4.37
1993 3.10 2.16 0.94

1994 3.11 0.95 2.16
1995 3.03 2.43 0.6
1996 3.07 2.47 0.6
*さらに、エルサレムゴラン高原を入植地問題の枠組みから外し、イスラエルがそれらの領土を併合していくことを助けた

W。重要ポイント→このようにイスラエル政府は、軍事的優位と米国からの支援を後ろ盾に、
*入植地を拡大し、バイパス道路を建設し、土地と資源の独占を続け、パレスチナ人の土地や移動に対する権利を侵害しながら、占領地の軍事的・空間的な再編成を進め、
パレスチナ人を「アラブ人問題( ?)」もろとも分断された孤島へと押し込めていった
*その過程で、パレスチナ人の自決権は否定され、イスラエルの軍事的優位に基づく歴史の隠蔽と権利侵害という根本的な問題が解決されることもないまま、
*大国の支持と国際援助によって表層的な安定が維持される体制が作り出されていった。
                        ↓
ここで覚えておかなければならないのは、     ↓
*これらは全て、労働党リクード、宗教シオニストの入植運動、イスラエル軍の間での総意に基づいたものであり、
*過激な一部の入植者が暴力によってイスラエル政府の政策を方向付けた結果ではなかったということである。

                        ↓
労働党政権は、オスロ・プロセスを通じ、一方では民族宗教派入植者の行動を制約し、
                        ↓
他方では放置ないしは支援することで、PLO や米国との関係を自らに有利な方向に促し、占領の再編成を進めてきたと考えられる。
                        ↓
だが、「労働党政権は、土地と平和の交換に基づくパレスチナ人との和平を求めていたが、過激な入植者によって妨害された」という説明が一人歩きしてきたため、
両者の複雑な関係についての実証的研究は不足したままである。
その具体的な課題として、現段階では以下の2つが重要と思われる。
                        ↓
>第1は、ラビン政権が入植者を自らの意向に従わせるために作った委員会の役割と効果についてである。
*ラビン政権は1993 年、入植者が特別に政府から受け取る資金援助を減額していくことを決定し、2 つの委員会を設立した。
>同時期、政府から入植地の地方自治体が受け取る資金援助額の基準を決める委員会も発足した。
これらはすべて、ラビン政権の方針に入植者を従わせることが意図されていたという。
*よって、もしこれらの委員会が当初の目的通り、オスロ合意に反対する入植者の行動を抑制・管理する機能を果たしたのであれば、
*ラビン政権に対する入植者の激しい反対行動は単なる政治的アピールに過ぎず、実際はラビン政権の方針に大枠で従っていたと考えることができる。
よって、これら委員会の実態を調査することが、労働党政権と入植者の関係を分析していく際の鍵ととなるだろう。
*同時に、イスラエルの「地域防衛」における入植者の位置づけが、オスロ・プロセスにおいてどのように変化したのか――あるいは、変化しなかったのか――という点も、
ベイリン・エイタン合意の作成段階におけるイェシャ評議会の関与の問題とともに、イスラエル政府・軍と入植者の関係を考える上で重要な論点である。
 
以上2つの課題に加え、
クリントン政権がなぜイスラエルへの借款保証の制限条項に抜け道を作り、入植地建設を資金援助したのかという問題
パレスチナ人に相当の被害をもたらした新たな占領体制の中にPLO自治政府をどのように位置づけるかという問題も、重要な課題である。
*****
>前者については、米国のグローバル化戦略とそれに対するアラブ世界での抵抗
>および米国内のイスラエル・ロビーとイスラモフォビアといった観点から調査が必要である。
 
>後者については、「ヨーロッパ人は、現地人の協力(コラボレーション)なしには非ヨーロッパ的な諸帝国を征服し、支配できなかった」というロナルド・ロビンソンの命題と、
>植民地支配に対する抵抗運動が相互依存的に、
帝国主義と同じ論理に拠って立つナショナリズムと独立国家を生み出しうることを指摘したエドワード・サイードの問題提起に基づく、批判的検討が必要であろう。
******