反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

中東問題特集記事の参考資料列記。 Ⅱ. 国策としての入植地建設~オスロ合意から20年。東京大学中東パレスチナ研究班~

        Ⅱ. 国策としての入植地建設
  W。今回の引用は、前回の記事の入植地建設は国の庇護と支援のもとにイスラエル政府が進めた国策の定式について、詳しい事実関係、数値を列記することで、その実態を実証している。
今回の淡々とした実証を、活きたダイナミックな事象と受け止めるためには、前回の記事の定式に立ち返り確認することである。
 
ベングリオンが1920 年代に提唱し移民・入植・人口拡散を基本、の安全保障ドクトリン。
 
第三次中東戦争以降にイーガル・アロンが提唱した「防衛可能な国境線」というドクトリン。
W。シナイ半島ヨルダン川西岸、ゴラン高原軍事境界線を死守するのは不可能、と云うことだろう。実際に第四次中東戦争のアラブ側の奇襲攻撃によって、拡大した占領地は防衛できなかった。
 
アリエル・シャロンが提唱した入植地と軍事拠点のネットワークで構成された動的防衛というドクトリンを積み重ねたものであり、←W。西岸地域の現状がコレ。同時に、①の原則、②のリアルな軍事的限界認識を踏まえた動態的戦略が戦争事態の結果③になったので、
>移民と入植の促進、西岸地域への人工拡散の建国以来の原則は、現状に至るも国家基本戦略として、また、イスラエル特殊帝国主義の戦争で得た植民地収奪、としても、不可避となる。

*ゆえに、それら既存のドクトリンからの転換・決別ではなかった。
 
同じ定理の繰り返際になるが、
イスラエル国家建設は、
ユダヤ人の入植とパレスチナ人社会の破壊とアラブ諸国に対する軍事的優位の確立を通じて国家主権を確立しようとする流れ(実践主義)と、
②外交舞台での大国による承認を中心に国家主権を思考する立場(政治主義)の両輪で進められてき
>そのためイスラエル建国以降も、
*W。超重要!移民と入植はイスラエルにおける主権概念と安全保障政策の根幹>であり続けたことを、まず念頭に置くべきである。
 
**********
 
「<2013年7月29日より和平交渉を再開>
イスラエル自治政府側の要求を受け入れ、
パレスチナ人受刑者104人の釈放を4回に分けて行うことを約束。⇔*一方、パレスチナ自治区領であるヨルダン川西岸地区での入植活動も並行して推進。
                                   
*8月13日には、パレスチナ人受刑者釈放と共に、⇔*東エルサレムで新たに入植住宅942戸の建設を承認した。
                                   ↑
8月27日、ヨルダン川西岸・カランディア難民キャンプでイスラエル国防軍パレスチナ人難民が衝突し、パレスチナ人3人が殺害された。
                                   ↓ 
2014年1月10日、イスラエル住宅・建設省は新たに入植地1877戸の建設業者を決める入札を実施すると発表した。
これは安保理決議違反であるが、欧米諸国からの批判に対しても、ネタニヤフ首相は「偽善」と意に介さなかった
    ↑                               
イスラーム聖戦がイスラエルをロケット弾で攻撃し、
    ↓
イスラエルは報復としてガザを空襲した。3月13日も双方の攻撃は続いた。
             ↑
5月15日には、ヨルダン川西岸のイスラエル国防軍支配地域でパレスチナ人によるデモがあり、イスラエル国防軍の弾圧で2人の死者が出た。
~~~
       <パレスチナ挙国一致内閣とイスラエルの反発>
2014年 6月2日、ファタハとハマースは暫定統一政権を発足させた。
アメリカ合衆国、ケリー国務長官がハマースの政権入りに懸念を表明したが、
最終的に「イスラエル国家の承認、テロの放棄、これまで交わされた国際合意の遵守」を条件に、ハマースの政権入りを認めた。
欧州連合EU)、国際連合パレスチナ連立政権発足を支持し、インド、中国、トルコも新政権を承認した
                      ↑
>2014年 6月4日、イスラエル住宅・建設省およびイスラエル土地公社は、入植住宅建設の入札承認を行った。
イスラエルのアリエル住宅・建設相は「パレスチナのテロ内閣発足」への対応だと述べた
*******
(1)参考資料
イスラエルの参考資料   
 
  ジェトロ経済研究所      
A,第7章 イスラエル:社会経済的規範型の移行/ 池田 明史
http://d-arch.ide.go.jp/idedp/KSS/KSS041100_009.pdf 
B、第1章 イスラエル占領地の社会経済構造/ 臼杵 陽
 ジェトロ アジア経済研究所
http://d-arch.ide.go.jp/idedp/KSS/KSS041100_003.pdf
 
(2)参考資料
 
従来のイスラエルと取り巻く環境に対する認識の不十分性を具体的に、指摘すれば、次のようになる。
 
(3)参考資料
B、ホロコースト産業』について
読みやすくした記事は反俗日記2016/2/2(火) 午後 3:23
 
(4)参考資料
 
(5)参考資料
[PDF]第 1章 アラブ世界のイスラム原理主義―その変質 - .日本国際問題研究所
                                        主任研究員松本弘
(6)参考資料
 
(7)参考資料
(8)参考資料
 
W。ヨルダン川西岸のパレスチナ人のIDカードは?
 
「前年からのインティファーダの結果、
7 月に国王が西岸との「法的・行政的」な関係を絶つことを宣言すると、
翌月には首相声明として「1988 年7 月31 日以前に西岸に居住していたすべての住民はパレスチナ国民となり、ヨルダン国民ではない」ことが発表された。」
       6.法的実態――国籍・パスポートの付与から
>その後も現在までパレスチナ人を保護する「パレスチナ国家」は成立していない。
>しかし、実際にはパレスチナ人の多くがヨルダンまたはイスラエルの国籍を得て、国家の庇護を受けている
83 年に西岸住民を法的に区別するための、新しい身分証が導入された。
それがイエローカードグリーンカードと呼ばれる2 種類の身分証である
イエローカード
東岸住民に向けられたもので、彼らがヨルダン国民であり、かつパレスチナ出身であることを示すものである
グリーンカードは、
彼らが西岸の居住者であることを示して、他のヨルダン国民から区別するためのものであった。
これは、彼らが将来のパレスチナ国民となることを示すためのものであったといえる。W。シリアも同じ政策。
 
  現状の西岸、ガザ地区パレスチナ
パレスチナ人は3 つの種類に分けることができる。
1 番目は、ヨルダン国籍保持者のパレスチナ人である。
省略。
2 番目は、グリーンカード保持者である
グリーンカード保持者とはすなわちヨルダン・パスポートの資格者であり、西岸住民はこのグリーンカードの所持を条件とするヨルダン・パスポートの資格者となっている
 
1995 年以降、西岸住民にはヨルダン国民と同じ5 年間有効の通常のパスポートが発給されるようになった。パスポートを持つことは市民権に含まれる主要な権利の一つであり、彼らを部分的にはヨルダン市民として位置づけることも可能であろう
彼らがパレスチナ人であることは、西岸における居住とともに、パレスチナID を持つことで証明されている。
 
3 番目が、トラベル・ドキュメント保持者である
ヨルダン政府は、67 年に避難民としてガザ(エジプト占領地)から逃れてきた人々には2 年間有効のトラベル・ドキュメントを支給している。
彼らは、67 年以前には東岸・西岸のいずれにも居住していないため、ヨルダン国籍は付与されていない。そのため基本的にはヨルダン国家の庇護はなく、UNRWA が保護に当たっている
彼らについては「ステータスをもたない」ことがパレスチナ人であることの証明になっているといえる。
 
******
 
 
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W。重要!「平和と領土の交換」を目指した左派と一般に見なされる労働党政権
パレスチナ人の自治承認占領地内での軍隊の再展開を行ったにすぎず、土地の接収と入植地の拡大を止めることはなかったのである。
そのため、オスロ・プロセスの失敗を、イスラエルパレスチナの「強硬派」の台頭にのみ求めることが妥当かどうか、ということも問題となる。
 
彼らの影響力や物理的繁栄を条件づけてきた外部要因、特にイスラエルの権力中枢の意図や外国勢力の対応を調査せず、
「強硬派」の台頭をことさらに強調することは、責任の所在を曖昧にすることには寄与しても、入植地問題を取り巻く政治的ダイナミズムを解明することにはつながらないだろう。
 
こう云った指摘は、その時点で概要が示されるべきで、オスロ合意後、20年の歳月と事態の推移を観察してからでは、遅きに失した面がある。
 しかし、この内外構造に対してパレスチナ、アラブ側は、考え直す余地があるが、<アラブの春>以降の各国情勢を見ると、相変わらず自然発生的政治軍事の対応が横行し、宗派主義の袋小路に入ろうとしている。

イスラエル政府は、1967 年から1996年までに西岸地区とガザ地区を合わせた計6,071k ㎡のうち3,035k ㎡を接収したとされる。
>これは、西岸地区の74%、ガザ地区の40%に達した。
   
    
W。<C地区設定は1995年9月、オスロ合意Ⅱで決定された>と云うことはA、B地区の統治形態も取り決められた。
 
そして、こうした地域の大部分は、1995 年9 月に締結されたオスロ合意II で、
イスラエルが軍事・治安・行政・建設許認可・都市計画を管理する地域(C地区)に設定されたのである
 
>さらに、入植者に対する対応にもラビン政権の意図が表れた。
 
まず、1994 年のイスラエル政府の試算では、入植者労働人口の45%~70%が公的部門に雇用され、
これに政府の補助金を受け取る宗教施設での雇用も含めると、入植者の約90%が雇用面で国に依存していたが、そうした雇用の大半も温存された。
*また、入植地周辺の土地は入植地の拡張と安全保障に必要であるとされパレスチナの土地利用は引き続き制限され、

入植者とイスラエル軍の権限を法的に保障する1400 に及ぶ軍法も温存された。
*入植者がイスラエル軍の一部として入植地とその周辺を防衛するという「地域防衛」のシステムが残された。
W、重要。例えば軍は、入植者への武器供給を続け、軍事情報や軍事訓練を与え続ける一方、
W、重要!→1995 年時点で占領地のイスラエル警察署に勤務する警察官の3 割を入植者が占めていた。
 
>入植者がパレスチナ人を<逮捕状なしに拘禁>し、<身の危険を感じた場合は発砲することも引き続き許可>された
 
>ラビン首相はさらに、イスラエル高等裁判所や人権団体による占領政策・入植政策への介入を否定する新たな制度も望んでいたという。
イスラエル軍制服組のトップである参謀総長を経験したラビンは、
イスラエル高裁に安全保障上の必要性と被占領地住民の権利を天秤にかけ、占領政策や土地接収の合法性を判断する権限が与えられてきたことに不満を持っていた。
この法的システムが軍隊の行動を制限し、国家安全保障に損失を与えるものであると考えていたからである。
そうした制約に対し、こうした入植者を占領地の保持・管理のために利用する諸制度が、入植者による和平妨害工作パレスチナ人に対する暴力が起こる中、
どの程度修正されずに温存されたのかについては、今後の研究課題である。
 
>地域内にパレスチナ自治区が創設され、イスラエル被占領地で国際的な合意に基づき「安全保障上の軍事行動」を行う権限が保証されれば、
イスラエル軍・占領行政府はパレスチナ人に対する法的責任から解放される。

*加えて、入植地の存在が国際的に承認されれば、イスラエル軍国際法・国内法で行動を制約され、いつか撤退を迫られる占領軍としてではなく、
*入植地のイスラエル国民を守り、同時にパレスチナ人を管理する権限を与えられた合法的な制度として留まることが可能だったのである。
 
>こうした一連の政策の背景には、
パレスチナ人との交渉の進展具合に拘わらず、入植地の防衛を含む安全保障の権限を保持するという、イスラエル政府の意図があった
>これを実現するために、入植地同士の領土的一体性を目指して各入植地は拡大され、
>被占領地に散在する約145の入植地およびパレスチナ自治区内に急行できるように軍基地の再配置とバイパス道路建設が進められ、入植地・基地に上水を提供する水源が接収されたのである。

*そして、こうしたイスラエル政府の意図は、オスロ合意II(95 年9 月28 日締結)に色濃く反映された。
この合意では
イスラエル軍が西岸地区から「撤退」し、ガザ・西岸の領土に対する法的権限がイスラエル軍政府からパレスチナ自治政府に段階的に移行されるとされた
 
*だが実態は、イスラエル軍パレスチナ自治区となる領域から西岸地区内の他の場所へと「再展開(redeployment)」する条件とスケジュールが示されただけであり、
イスラエルによる占領地の再編成、既成事実的な併合、入植者の暴力を止めるための内容は含まれていなかったのである。
>ラビン政権が、リクードの掲げる大イスラエル主義>から決別し、入植地建設に基づく伝統的な安全保障観と建国神話を妥協してでも「土地と平和の交換」を目指したと理解する論者も多い。
>確かにラビン首相は、入植によって主権を拡張できるとする伝統的シオニズムに限界があると述べた。
>だが、オスロ・プロセスは、イスラエル政府と軍にとっては土地の返還と脱植民地化のプロセスではなく、占領と防衛線の再編成および領土の併合を同時並行で進めるプロセスに他ならなかった
パレスチナ人の「自決権」の一部実現と謳われたパレスチナ自治区の創設は、このプロセスの一部に過ぎなかったのである。
他方、一般のパレスチナ人にとってそれは、和平交渉の前提条件を一方的に変更し、「領土的妥協」の名のもとに被占領地の併合と分断を進める労働党政権の意志を示すものであった。

    
 
 
          2.ラビン首相暗殺後の入植政策
*ラビン首相暗殺後の1997 年1 月、労働党のヨシ・ベイリンとリクード党首のミハエル・エイタンとの間で、
パレスチナ人との最終地位交渉に関する国民合意」、通称ベイリン・エイタン合意が結ばれた。
 この合意は、入植地と入植者の権利を保障する国際的合意を獲得しながら、
パレスチナ問題を国家安全保障上の問題へとすり替え、軍事的・領域的に「解決」しようとする、イスラエル左右両派の意図を明確に示している。
 
>まず、この合意の主眼は、被占領地を永続的に支配する必要性について国民的総意が存在することを示し、それによって国内の対立と政治的危機を解決することにあった。
>この合意では、シオニズムの主目的は「イスラエルの地に主権国家を建設すること」にあると述べられた後、
キャンプ・デービッド合意とオスロ合意だけでなく、
1967 年以降のイスラエルによる入植事業も「関係者であれば誰も逃れられない現実を作り上げた」とされた。
*その上で、ラビン労働党政権とペレス労働党政権は、「イスラエルの地におけるユダヤ人とアラブ人の間での平和と良好な隣人関係」を構築するという「戦略的決定」を行ったが、
*この決定がイスラエル国内に対立をもたらしたと指摘した。
 
*そして、こうした対立を解決するために、労働党リクードは、以下の3 つの原則において、「国民/民族の総意」に到達する必要があることに合意したという。

(1)「パレスチナ・エンティティ」の設立を許可する必要がある。
(2)最終地位協定が締結されても、イスラエル国家は、「自らの領土的一体性と、市民とその財産の安全と、イ     スラエルの地と世界における自らの利益に対する、全ての攻撃および攻撃のリスク」を未然に防ぐ能力を保持しなければならない
(3)いかなる合意においても、「イスラエルの地におけるユダヤ人入植地」を放棄することは許されず、入植者のイスラエル市民権およびイスラエルとの個人的・共同体的つながりを保持する権利が保証されねばならない。
 
 
この合意は、上記3原則を確認した上で、入植地とイスラエル国家の領土的一体性を実現するために、入植者の大部分はイスラエルの主権下に置かれ、それ以外の入植者には「イスラエル市民権とイスラエル国家との個人および共同体としてのつながりが保持される」と述べた。
また、エルサレム市はイスラエルの主権下に留まる一方、「パレスチナ・エンティティ」の中心地はエルサレムの境界線外に置かれるとされた。
 
>「パレスチナ・エンティティ」には、これらの条件に従う限りにおいて自決権が認められるが、
>それを「拡大された自治」と見なすか、「国家」と見なすかは、各自の意見に任されるとされ、
イスラエル軍の再展開が終わるまでに最終合意が締結されない場合は、このエンティティの範囲は西岸の50%以下に留まると述べられた
アロンソンは、
ベイリン・エイタン合意を、「イスラエルパレスチナ人との和解を、1967 年6 月に占領した領土における自国の安全保障上の利益を再検討するための原動力としてではなく
むしろ、それを保持するための原動力と見なしている」ことを示すものだったと評価する
>実際、この合意では、入植による違法な既成事実作りを議論のスタート地として、
入植地・エルサレム・水源・国境に対するイスラエルの権限の保持を論じる一方、
オスロ合意で保証されたはずの西岸とガザの領土一体性には触れていない。
また、パレスチナ人という民族的存在には触れず、あくまで「イスラエルの地」に暮らす「アラブ人」が、イスラエル側の条件を全て受け入れた場合にのみ自治を与えるという。
 
*しかも、自決権を「与えられた」場合でも、「パレスチナ・エンティティ」の主権は認められず、エルサレムと難民帰還権に関しては一切の妥協も行われないと述べているのである
 これらが示すことは、
>ベイリン・エイタン合意が締結された1997 年当時、
イスラエルの左右両党が、パレスチナ人の自決権を否定し、占領地の再編成に基づく支配継続を支持する立場にあったということである

労働党リクードにとっては、「パレスチナ・エンティティ」が、「自治区」と呼ばれようが、「国家」と呼ばれ入植地問題から見たオスロ和平プロセスようが構わなかった。
実態としてどのようにエンティティの権利が制限され、イスラエル国家や入植者の権利と利益が保持されるかという点に主な関心があったからである。
 
>ベイリン・エイタン合意でもう一つ注目すべきは、その内容とイェシャ評議会の設立宣言の類似性である。
イェシャ評議会は、民族宗教派の入植運動グーシュ・エムニームを起源とし、被占領地の全入植地を代表する組織として1980 年に作られた。
この評議会は、創設宣言において基本的な方針を表明した。
それは当時、入植者の主流派が総意できる内容として作成された。
その方針とは、以下の通りである。
 
(1)西岸・ガザの土地の「法的地位を確定することを要求」する。
(2)西岸・ガザに「定住したユダヤ人住民の、イスラエルの裁判・司法・行政に従属する住民としての法的地位を確定することを要求」する。
 
(3)「いかなる外国の統治も必ず、イスラエルの地に独立アラブ・パレスチナ国家をもたらし、自らの土地に暮らすイスラエルの民の存在を危険にさらす」ため、
イスラエルの地の一部に、イスラエル以外の主権的統治が創設されることを拒否」する。
 
(4)「国有地と水源は、ユダヤ民族の民族的所有物」であるから、西岸・ガザの統治に外国勢力が参加することを許す提案は拒絶する。
 
ここで着目すべきは、
この宣言の(1)(2)(4)が、オスロ合意とベイリン・エイタン合意に反映されており
(3)についてもパレスチナ人の主権を認めない点で両合意と同じだということである。
イスラエル人ジャーナリストのガディ・タウヴは、(3)がパレスチナ人の自治の可能性をも否定するものだったと述べる。
だが、「主権的統治」という用語が、自治をも否定するものだったのかどうかは疑問が残る。
なぜなら、イェシャ評議会は、リクード政権によって進められたキャンプ・デービッド合意とシナイ半島からの入植地撤収によってイデオロギー的危機に陥ったグーシュ・エムニームが、世俗入植者との同盟を強化し、
領土的妥協に反対する勢力を統合するために設立したものだったからである。
イェシャ評議会の目的は、「イスラエルの地全土にイスラエルの主権を確立する」ことと、イスラエルの一部が他国に譲渡されることを止めることにあった。
>だが他方で、リクードなど世俗政党との同盟関係を強化する上で、キャンプ・デービッド合意で約束された自治案を全否定することもできなかった。
実際、イェシャ評議会のオスロ合意以降の労働党政権に対する立場は曖昧で、評議会内では、労働党政権との同盟関係を復活させ、主流派に返り咲くことで影響力を行使しようという政治判断が常に働いていた。
また、入植者の既得利益を保持するためにもイェシャ評議会では妥協案が常に考慮され、労働党政権に参加する民族宗教派の指導者もいたのである。
こうした類似性を考えあわせると、
>ベイリン・エイタン合意の内容は、ラビン首相暗殺後、労働党リクード、さらには民族宗教派など入植者の立場をそれぞれ否定せずに合意できる落とし所であったと考えられる。
イスラエル軍もまた、1997 年2 月、西岸地区の40-45%の土地を3 つのパレスチナ自治区に指定した上で、
ヨルダン渓谷と入植地を含む残りの55-60%の土地と西岸地区の東西南北を分断するバイパス道路の支配をイスラエルが続けることを提案した。
これもベイリン・エイタン合意と呼応するものだった。
以上を考え合わせると、
>ベイリン・エイタン合意とイスラエル軍提案の内容は、1997 年から現在まで、イスラエルの各政権が越えることのないレッドラインであり続けており、
それを越える意見や政治行動は右派であれ左派であれ、国策や「国民的総意」に反するものと見なされていると考えられる。
パレスチナ自治区内や入植地がほとんどない地域に建設された小規模な入植地が、イスラエル政府によって強制的に撤収される一方で、
パレスチナ人の自決権を認めて入植地・エルサレム・難民などの問題で譲歩を示す左派活動家に対する国内での締め付けが強まっているという昨今のイスラエルでの動向も、それがこれら合意事項に反するものとして理解されていると考えれば、ある程度の説明がつく。
 
>要するに、労働党政権下とリクード政権下での占領・入植政策の違いは、
実践主義と政治主義をいかに戦略的に結びつけるかという点の違いに過ぎず、両政党が目指す大目標の違いが表現されたものではなかったのである。
 
 
         Ⅱ.米国の政策的変化と入植地建設への支援
     1.米国政府の伝統的立場
イスラエル政府の強硬な入植と土地接収に対し、パレスチナ人だけでなく、国連総会でも多くの反対があった。
*だが、イスラエルはそれらの反対を押し切って、「和平」の名のもとに入植地・バイパス道路の建設と土地接収を進めることができた。
それはひとえに、仲介者である米国政府の態度、
特に和平プロセスから国際法の議論と国連の排除を目指すと同時に、占領地の再編成に対して財政支援するという政策に拠るところが大きかった。
~~~~
*米国政府は歴史的に、占領地へのイスラエル人の入植は、アラブ・イスラエル紛争の解決を遅らせる重要なイシューであるとともに、
ジュネーヴ第4 条約などの国際法に違反する行為であると明言し、入植地問題から見たオスロ和平プロセス反対を表明してきた。
 
>例えば、リチャード・ニクソン政権(1969~74 年)
は、
イスラエル政府が東エルサレムの併合を宣言した2 年後の1969 年、国連安全保障理事会で、東エルサレム国際法で定められた占領地であり、
イスラエル政府は占領者としての責務と権利に従って行動しなければならないと明言した。
また、イスラエルには、自国安全保障のため、あるいは占領において喫緊に必要とされる一時的措置を除いては、占領地の現状を法的・行政的に変更する権限はなく、
私有財産の接収・破壊も許されていないとし、東エルサレムの現状を変更する行為は国際法違反であることを確認した。
>1971 年の国連安保理でも、東エルサレム以外での入植地建設に触れ、それがジュネーヴ第4 条約で禁じられた自国民の占領地への移送にあたると明言し、イスラエル政府に国際法順守を求めた。
 
続くジェラルド・フォード政権(1974~77 年)も、
前政権の立場を保持し、入植地は「国際的慣習において違法」であり、国境に関する将来的な交渉の結果を左右することはできないとした。
 
>続くジェームズ・カーター政権(1977~81 年)も同様の立場を保持した。
>1978年のキャンプ・デービッド合意以降も、カーター政権がメナヘム・ベギン政権による入植地建設を止めることができなかったように、
W。重要。米国政府の原則的な姿勢が入植地建設を止める効果を持たなかったことは事実である。
*だが、こうした国際法的な議論は、イスラエル政府が入植政策の立案・実施の際に常に気にしていたことでもあった。

       2.入植地容認から入植地支援へ
こうした最小限の歯止めを取り去って状況を悪化させたのが、
ロナルド・レーガン政権(1981~89 年)であった。
 
*1981年、レーガン政権の国務長官ユージーン・ロストウは、西岸地区の入植地は「違法ではない
*W。決定的!
*すなわち、西岸地区が全ての人々、すなわちアラブ人とイスラエル人のどちらにも開かれていると定めた国連の諸決議において、(入植地は)違法ではない」と述べた。
レーガン政権は、法的議論を軸にする米国の立場を転換させ、入植地が「不必要に挑発的」であるという点のみを問題視したのである。
>1982 年に中東和平の道筋を提示したレーガン・プランも、入植地のためにイスラエルが新たな土地を利用することを支持しないと述べ、
さらなる入植活動はイスラエルの安全保障にとって不必要であり、アラブ側の和平交渉に対する信頼を弱めると指摘する一方で、
>入植地の違法性には一切触れなかった。
*W。こうした入植地問題の焦点を法的次元から交渉という政治的次元へとずらす新たな方策は、米国政府内において、
中東地域における戦略的パートナーとしてのイスラエルの価値が見出され、軍事関係が強化されていく過程と連動するものであった。
 
>続くジョージ・ブッシュ政権(1989~93 年)は
*東エルサレムが占領地であり、入植地建設は「既成事実的な併合」であると述べ、入植地建設の加速が和平の「最大の障害」であると批判した。
>だが、レーガン政権同様、入植地の違法性に言及しないばかりか、
>1992 年8 月には、入植者の「自然増加」に従って入植地を拡大することを容認する合意をラビン政権と結び、米政権の立場をさらに後退させた。
 
>そして、オスロ和平プロセスの立役者とされたビル・クリントン政権(1993~2001 年)は、前政権からさらに立場を後退させた。
>1996 年6 月9 日、米国政府スポークスマンは、入植地問題は、イスラエルパレスチナ関係を「複雑にする問題(complicating factor)」に過ぎず、
*「イスラエルパレスチナ人が、この問題を、もし可能であれば、最終地位交渉の文脈において解決」すべき問題であると述べたのである。

クリントン政権はさらに、入植地の違法性に触れないばかりか、エルサレムの帰属パレスチナ難民帰還権などの重要事項に国連が関与することも拒否し、
米国政府として初めて、
パレスチナ難民帰還権を保証する国連決議194 号を再確認する総会決議に棄権票を投じるようになった
さらに悪いことに、
 
>1996 年7 月、国務長官ワーレン・クリストファーは、ベンヤミン・ネタニヤフ政権誕生の直後、
W。重要。
「我々は、現状に合わせて我々の政策を変更していかねばならないだろうと、私は考えている。
W。(・・・)だが私は、状況が発展していくに従って、新しい(イスラエルの)政権が政府を創設し、自らの政策を作り始めるのに従って、
W。我々の政策をその状況に合わせて変えていくことができるように、状況を開いておきたい」と述べた
これは、和平交渉を進めるための柔軟な政策作りを示唆すると同時に、イスラエル政府が占領地で作る既成事実に合わせて自国の外交政策を変更していくということも示唆していた。
 
>W。重要。
事実、1997 年、成立直後のネタニヤフ政権が、エルサレム南部にブッシュ・シャミール合意に違反する新規入植地(ハル・ホマ)の建設を開始した際、
国連総会は建設差し止めを求める決議を採択したが、米国政府は反対票を投じた。
これは、クリントン政権が、新規の入植地建設にさえ反対しないという意思表明であった
 
>もう一つ、クリントン政権下における立場の後退は、
>W。超重要!後の記述。結果的に制限条項の骨抜きにより、米国援助で入植促進。!
*1990 年にブッシュ政権イスラエル政府に5 年間で10 億ドルの債務保証を与えると約束した合意の問題にも現れた。
>債務保証の当初の目的は、ロシアからの新移民吸収にかかる費用を調達するのを助けるためとされた
ブッシュ政権は当初、シャミール政権に対し、70 入植地問題から見たオスロ和平プロセス入植地建設の即時停止を保証の条件として突き付け、
シャミール首相がそれを拒否したため、合意は締結されないまま持ち越されていた。
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>だが、1992 年にラビン首相が「新規入植地の建設」の停止と、
>入植地にイスラエル政府が投じる費用を保証額から差し引くという条件を受け入れたことで、債務保証が実施されることになった。
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*こうした制限条項は、入植地建設が和平の最大の障害であるという米国政府の立場と、その解決を目指す強い意志を示すものとして国内外に喧伝された。
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>また、イスラエルが譲歩しているからアラブ諸国も譲歩しなければならないというメッセージとしても意図されていたW→ユダヤ系マスコミ資本ハースト傘下[Los Angeles Times, 1992 年8 月12 日]。
ラビン政権にとっては、「土地と平和」の交換原則に基づく和平実現のために妥協する意志があることを示すための宣伝材料となった。
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*超重要。だが、この合意には当初から、イスラエルにとって都合のよい抜け道が用意されていた。
この抜け道のために、制限条項は、労働党政権下の入植地拡大と占領地の再編成を止める手段としては機能しなかった。
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そればかりか、クリントン政権下でこの抜け道が広げられ、
米国政府がイスラエルの入植地拡大やバイパス道路建設を間接的に財政支援する制度へと変えられていったのである。

       3.制限条項の抜け道 W。何か、日韓不平等条約締結過程の韓国側の無知をみるようだ。
    
 
   <合意に設けられた抜け道の1 つ目は>、
イスラエル政府が「安全保障」のために投じる資金は、
>W!たとえそれが占領地に使われたとしても、減額の対象にはならないというものであった
*重要→イスラエル政府は入植地を「安全保障」のためとして建設していたから、<入植地の防衛費や入植者の武装や訓練にかかる費用>は考慮されなかった。
    
 
   <2 つ目の抜け道は>、
*入植地に住んでいてもイスラエル領内に住んでいてもイスラエル政府が支払わなければならない費用は、試算に含まれないということだった。
     W。西岸不動産取得の不在地主イスラエル西岸入植資本への保障。
>例えば、入植地の学校運営費や入植者に支払われる児童手当は、入植者がイスラエル領内に住んでいても政府は支払わなければならないという理由により、債務保証から差し引かれなかった
入植地の教育機関が、入植者の重要な雇用先やサービスの提供元として、入植者人口を増やす要因となっていることは考慮されなかったのである。
    
 
    <3 つ目の抜け道は>、
W。債権保証から差し引かれる金額は、<イスラエル政府の試算に従う>ということにあった
イスラエル政府は、前記2つの項目にどの費用を含めるか公表せずに一方的に決めることができた。
    
 
    <第 4 の抜け道は>
イスラエル政府は、エルサレムゴラン高原の入植地に投じた資金を計算に入れる必要がないということであった
ロバート・ペレトレー国務次官補は当時、
   *東エルサレム*において
イスラエルが入植地建設等を通じて一方的に既成事実を作ることに、米国政府は反対する意思がないと示唆していた。
   *ゴラン高原
についても、イスラエル政府は入植地建設費として5900 万ドルを報告したが、この額が債務保証から差し引かれることはなかった。
    
 
    <第 5 の抜け道は>、
W。重要!
イスラエルが入植地建設・拡大に投じた費用から、
<占領地の再編成のために軍の再展開>や<バイパス道路の建設に投じた資金は減額>するというものであった

>この減額により、イスラエル政府は米国の保証した借入金を占領地の再編成のために投じることが可能となったが、
>それも「和平」の進展に貢献するとして正当化されたのである。
 
>1993 年、ラビン政権は米ブッシュ政権との合意に基づき、年額20 億ドルの債務保証額から差し引かれるべき額を算出・提出した。
  92 年度(92 年10 月1 日~93年9 月30 日)に入植地に投じられた政府資金は、東エルサレムを含めて総額7 億ドルとされた。
だが、米クリントン政権は東エルサレムでの入植地費用を除外し、最終的に4 億3,700 万ドルまで罰則金を減額した。
  続く94 年10 月、クリントン政権は、95 年度に与えられる債務保証20 億ドルから、
イスラエル政府が前年度(93 年10 月1 日~94 年9 月30 日)に入植地建設に投じたとされる2 億1680 万ドルを差し引く決定をした。
イスラエル政府は3 億1000 万ドルを提示していたにもかかわらず、イスラエルが「ガザ地帯での和平プロセス実施費用」として支払ったとされる9,500 万ドルやゴラン高原での入植地建設費は差し引かれたのである。
  翌 1995 年、クリントン政権は94 年会計年度にイスラエル政府が3 億ドルを入植地に支出したと算出した上で、
ガザ地区とエリコ周辺からのイスラエル軍の再展開とバイパス道路建設等にかかった費用として6,000 万ドルを懲罰として差し引いた。
  続く1996 年と1997 年には、
クリントン政権は、イスラエル政府が入植地建設に投じた費用を95 年度に3 億300 万ドル、96 年度に3 億700 万ドルと算出した。
だがそこから、イスラエル政府がエリコ・ガザからの軍の再展開のために投じた費用として、それぞれ2 億4300 万ドル、2 億4700 万ドルを差し引いた。
*結果、債務保証から差し引かれる罰則金は、各年ともに6000 万ドルまで減額された。
>重要!
当時、イスラエル政府による土地接収や入植地建設による占領地の分断と軍事化が進んだことに対し、パレスチナ人民衆の抗議活動が再び活発化し、パレスチナ自治政府も非難声明を出してい
*重要!
入植地問題から見たオスロ和平プロセスにもかかわらず、イスラエルによる占領地の再編成が「和平」と「米国の安全保障」を推進するという説明のもと、制限条項は無意味なものにされていったのである
このように米国政府は、>ラビン政権の要請に応じ、債務保証の使途が旧ソ連からの移民吸収を支援するという当初の目的から外れることを許し
W重要!
イスラエル政府が当時のイスラエルの不安定な政治・経済状況からすると考えられない低金利で資金を調達し、その一部を占領地の併合と軍事的再編成のために利用することを許した。
>米国政府は、和平交渉の仲介役を一方で進めながら、他方ではそれを困難とする入植地建設と占領地の再編成を支援していたのである。
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*10 億ドルの債務保証から入植地に投じられる費用を差し引くという懲罰の制度も骨抜きにし、
イスラエル政府が占領の再編成を進めるための費用を国際市場で安く入手できるようにした
        ↓
債務保証から減額された懲罰金の推移 (単位:億ドル)年
入植地に投じられた資金
イスラエル政府概算)
米国政府による減額最終的な懲罰金額
1992 7.00 2.63 4.37
1993 3.10 2.16 0.94

1994 3.11 0.95 2.16
1995 3.03 2.43 0.6
1996 3.07 2.47 0.6
*さらに、エルサレムゴラン高原を入植地問題の枠組みから外し、イスラエルがそれらの領土を併合していくことを助けた