(1)ジョン・フォード - Wikipedia1894年 - 1973年のルーツ
アイルランドを侵略し大量虐殺をして、アイリッシュカトリックの土地を取り上げ小作人にしたオリバー・クロムウェル - Wikipediaも欲しがらなかった。ゴールウェイ湾岸地方(地味がやせていて石ころの多い土地)
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ばかりか肥沃な土地いたアイルランド人を追いたてて、このあたりからゴールウェイまでの<地味がやせて石ころの多い土地>に住まわせた。~
「アイルランド西部」
もう一つ言えば、民族言語であるゲール語 - Wikipediaがこの地に残った。
ジョンフォードのフォードという姓は英国系の所為だから紛らわしいが、コレは彼の兄フランシス、フォードの芸名からとった姓で、元々はフィーニィーという列記としたアイルランド特有の姓である。
父の名もジョンであった。
W。資料>
>父ジョンに伯父がいた。
この伯父はジジャガイモ飢饉 - Wikipediaャ~W。重要参考資料アメリカ・ゴールドラッシュとジャガイモ飢饉 ダニーボーイの謎~///ダニーボーイの謎 Danny Boy ドナドナ研究室 - 世界の民謡・童謡ころアメリカに移住し、南北戦争に従軍したり放浪した揚句、下宿屋を営む未亡人と結婚した事によって、小さな幸運をつかんだ。
その伯父の力で、<父ジョン>はアメリカに渡った。
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ジョンフォードの孫、ダンフォードが描いた『ジョンフォード伝』(文芸春秋~W。資料ダン・フォード「ジョン・フォード伝」|コツコツ、しています - アメーバブログ~はメイン州ポートランド市における2つの社会(ヤンキー社会とアイリッシュ社会)について触れている。
ヤンキーたちは何世代にもわたって、アイリッシュを騒々しいだけで何のとりえもなく、喧嘩好きで、年がら年中酔っぱらっているみすぼらしい連中だと見下しながら育っていった。
W。資料アメリカ合衆国における禁酒法 - Wikipedia 引用「アメリカ合衆国史における禁酒法(きんしゅほう、英語: Prohibition)は、1920年から1933年までアメリカ合衆国憲法修正第18条下において施行され、消費のためのアルコールの製造、販売、輸送が全面的に禁止された法律である。「高貴な実験(The Noble Experiment)」(13年10ヶ月19日7時間32分30秒間)とも揶揄された。
<禁酒法の発達>
>「禁酒運動はメイン州において若干の成功を収め、1851年に法律が可決された」
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>これが父ジョンのチャンスになった。彼は闇の酒売りとなって儲け、やがて闇の酒場を作り、カネ回りが良くなった。
やがて同郷の夫人と結婚し高級住宅街とも云うべき場所に住まいを移した。
家は白いペンキの輝くニューイングランド風のモノだった。
ジョンはこの家で生まれたが、ただし父ジョンが程なく元の市中に住みかえたため、育ったのは騒がしいアイリッシュ街だった。
フォードは大学を中退し、西海岸のハリウッドにいって映画製作の下働きをした。
22歳の若さで監督になり、しかも作るものがほとんどあたったため、20代のある時期には巨匠として名声を得た。
名声は彼には害だった。
つまり上品になり、その代償として自我が希薄になった、とダンフォードは云う。
その上にワスプの令嬢と恋をし、結婚した。彼の中の<お里>(アイデンティティ)はいよいよ希薄になった。
若い妻のメアリーは英国のルネサンス期の政治家トマス=モア - 世界史の窓の直系の子孫で、宗教は長老派であり、アメリカの家系は17世紀まで遡ることができ、叔父やいとこの中にはワシントンの高官や六海軍の士官がたくさんいる。
メアリーは、ダンフォードによると『きゃしゃな身体つきの古典的ようし』と品の良さと飾らない明るい性格を持っていた。
元々フォードががらが悪かった。撮影現場でも、俳優たちを所定の位置に就かせるのに、『どうどこっちに来てください』と云ったような言い方をせず、
普段しゃべっている言葉を使っていた。
『サァ来い!抜け作ども、一列に並んで静かにしていろ!
と云う調子だった。こう云うジョンフォードがワスプの典型というべきメアリーとの生活のため
生まれて初めて、寄る辺のない不安におそわれ、この世の迷子になったような気分を味わった。
という。
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<お里>の喪失である。
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>彼の故郷の村はゴールウェイ湾北岸のスピッダル(Spiddle)という村で、~
氷河期が去った後の爪痕とも云うべき希薄な土壌と岩盤の露出の甚だしい寒村である。←W。この辺の地理地質感覚をさりげなく書くところが司馬遼太郎!日本列島にはこう云う地形は少ない。
フォードは、ゴールウェイの町から二輪馬車を雇って18キロ走って、その村にいった(W。地理関係をきっちり抑えている)。
自分の父親の生家がどの家か探すのに苦労したし、どのフィーニーが親類なのか突き止めるために歩き回った
>ソレらの経験は30年後の作品である『静かなる男』で生かされている。←W。そいうシーンがユーモラスに描かれている。
ジョンフォードがアイルランドを訪ねた1922年は国中がテロを含む反英闘争とソレに対する英国の弾圧、更に見境なしの流血で、内戦同然の状態だった。
第1次大戦中にアイルランドでイースター蜂起 - Wikipedia~W。資料、イースター蜂起100年で史上最大の追悼式典、...2016年3月28日 ... 【3月28日 AFP】アイルランドの独立につながった1916年の「イースター蜂起(Easter Rising)」から100年を記念する式典が27日、首都ダブリン(Dublin)で行われ、英国の支配に立ち向かった人々の子孫や世界各地に散らばったアイルランド~ ]
と呼ばれる独立運動が始まり、政治団体である我等自身同盟(シン・フェイン党 - Wikipedia)が結成され、またIRA(アイルランド共和軍) - Wikipediaというゲリラ部隊が英国と銃火を交えていた。
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ジョンフォードが尋ねたスピッダルの村は、ふるさとらしいたたずまいで迎えたわけではなかった。村のほとんどの家は英国警備隊によって焼き払われ、村のほとんどの若者は山の中に逃げ込んでいた。
『マーティーの潜伏場所はどこなんだ』
とジョンフォードは聴いて回った。フォードには英国警備隊の尾行がついて回った。
やがてマーティーはIRA(共和国軍)の大物で、首に懸賞金がかけられていると解った。ジョンフォード描く西部劇の様に劇的だった。
ジョンフォードはどういう<つて>を得たのか、尾行をまきつつ北方の山に行き、マーティーの隠れ家を探し当てて食料と軍資金の差し入れをした。
フードは既にアメリカの知名人だったために英国側も手加減していたのだが、この地にいって2週間後、ついに連行され、英国行きの汽船に無理やり載せられた。
ーー二度とアイルランドにくるな。もし舞い戻ってくれば刑務所に入ってもらわねばならん。
と言われたという。
アイルランドへの旅は、成功と結婚の副産物としてフォードの心中に芽生えた自己喪失の危機感を取り除く上で、すこぶる効果的だった。
フォードはどんなことがあっても身内に流れているアイリッシュの血を忘れることがないであろうという、自分自身の一面に気づいたのだ。
この旅行はフォードにとって大きかった。
先に結婚後の自己喪失と云ったが、そうではなくて、
>アイルランドにおいて生まれて初めて自己を発見したのかもしれない。
また、ここで得た自己を以後の彼の作品で生かしたというような生ぬるいことではないかもしれない。
故郷で得た彼自身の投影もしくは幻影を、その後の作品の主人公に仕立て上げることによって追い求めたのが、彼の創作家としての後半生だったといって良い。
平たくいえば、ゴールウェイの町とスピッダルの村、あるいはマーティーがこもるコニマラ山地などであったあらゆるアイルランド男の性格群から、彼は共通したものや、気に入ったものを引き出して、ソレらに息吹を与えた。
>どうやらアイルランド的な性格というのは、そのまま演劇になる。そういう創作上の秘密をフォードはつかんだといって良い。
>依怙地さ、孤独、病的なほどの目的主義、自己への信仰、他との不調和、勝利への確固たる幻想、無名性と反俗、更には神話的な英雄性といったアイルランド的典型を、例えば「駅馬車」のジョンウェインに与え、他の索引の主人公にも与え続けた。
<ジョンフォードの気になる作品>
-密告者,告発人; スパイ.2情報提供者. -ジポ・ノーラン(ヴィクター・マクラグレン主人公。
まさにはまり役、快演。
「ユダは後悔した―
そして30枚の銀貨を捨てて死んだ―」
そして30枚の銀貨を捨てて死んだ―」
「懸賞金20ポンドを目当てに、警察にフランキーの居場所を売ってしまう。その結果、フランキーは警察から逃亡しようとして射殺されてしまうのだった。
~独立をめざす組織の隊長、ダン・ギャラガー(プレストン・フォスター)は、仲間を売ったこの事件を、組織を壊す行為として重くとらえ、密告者をその晩じゅうに捕まえるように指示する。そして、フランキーの親友であったジポも、密告者を見つけるという条件で組織に復帰することになる。
しかし、20ポンドを得て多くの貧しいダブリン市民に椀飯振舞するジポの姿を見て、組織の幹部バートレー(ジョセフ・ソーアス)らは徐々にジポへの疑いを深めていく。そして、その疑いはジポがケイティに最後の5ポンドを手渡したときには、確固たるものになっていた。その結果、1時から始まった組織の査問で、ジポはついに自分が密告したことを告白してしまう。
ダンの恋人メリー・マクフィリップ(ヘザー・エンジェル)によって、ジポがその場で処刑されるのはひとまず避けられたが、すぐ間もなく処刑されるという直前になってジポは牢から脱出する。そして、彼が逃れ逃れに行き着いた先は、恋人ケイティのところだった。彼が安心してまもなく眠ったのを見て、ケイティはダンのもとへ向かう…。
怒りの葡萄 - The Grapes of Wrath (1940)
P183~P188に載っている。傑作!今回掲載した背景景抜きではこの名映画評論は語れない。ジョンフォードの実作よりも司馬遼太郎の同映画の評論の方が面白いかもしれない。だから。名映画評論なのだろうか。今回は時間の都合で、掲載は無理だった。次回抜粋。
是非載せた置きたいのが、アラン諸島 - Wikipedia
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おそらく、この短編傑作映画がなければ、当地はコレほどまでの観光名所となっていたかどうか怪しい。
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映画ロバート・J・フラハティの監督によるドキュメンタリー映画『アラン』(Man of Aran、1934年)
「主要産業はジャガイモなどの農業と漁業。
岩盤で出来たこの島での農業は、土が風で飛ばされないように畑を石垣で囲み、岩盤を槌で砕き海藻と粘土を敷き詰めて土をつくることから始まった。
手編みのアランセーター(フィッシャーマンセーター)(en)も有名。 交通手段としては、ダブリンからバスもしくは鉄道でゴールウェイまで行き、さらにバスと船を乗り継いで行く。ゴールウェイ近郊のコネマラ空港から小型飛行機で渡ることも可能。又島内には貸自転車と馬車がある。
<映画のストーリー>
アイルランドの西にアランと呼ばれる島がある。この島には土壌がなく、ただ岩石のみから出来ている。そして浪と風とが毎日の様に、この孤島を苛めさいなんでいる。だが、この鳥にも人は住んでいる。極く僅かの数である。何故といって弱い人には此の島には住む事が耐えられぬからである。虎と綽名されたキングと妻のマギーと二人の間の子と、この三人からなる一家族はこのアランの代表典型的な人々である。
夫は一日を浪の上で暮し、妻は畑を耕し、息子は父の業を見習う。春の日の午後、夫は妻を助けて畑を耕した。畑といっても土のない畑である。夫は槌を振って岩を叩き砕く。息子は平らになった岩の上に肥料になる様にと昆布を敷く。で、この間、妻は島中を岩と岩との間に乏しい土を探し集めるのである。そして此処に尊い土で貴重な畑を作る。
>島に夏が訪れると海には鱶の群が現れて来る。この鱶の肝臓を煮詰めて取った油は長い冬に島を照らす唯一の灯の材料となるのである。
目ざした巨鱶の背中に銛を打ち込んだまま荒れ狂う鱶に引きずられて島人の船が二日二晩も海の上を漂う事も珍らしい事ではない。
で、漸く鱶の力が尽きたとなると彼等は妻が大釜を用意している島へ漕ぎ寄せるのである。秋が深まると海は荒れて来る。白い浪頭が岩を噛み、引浪の音が雷の様に響く。
それでもキングは海に出て行く。小さな船は浪に弄ばれる。巌頭では妻と子とは夫の無事を祈りつつそれを眺める。
>やっと夫の船は岸へと帰って来た。だが、その時に船は浪に攫れて行かれる。船を失った漁夫。だが、それが何であろう。夫は無事に帰って来たのだ。命を全うした事は感謝されねばならぬ。
これは自然の恵みの表現なのだ。そうして夫と妻と息子とは家へと帰る。アランの島にはもう冬が近い。