反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

https://www.udiscovermusic.jp/features/outlaw-and-disorder-country-rebels-1947-2015ハンク・ウィリアムズから始まるカントリー・ミュージックの反逆者たち

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「人が死ぬのを見るためだけに、俺はリノで男を撃ち殺した」。 これはほぼ間違いなく、カントリー音楽史で最も有名な歌詞だ。ジョニー・キャッシュ は後年、「Folsom Prison Blues」を書いている時に受けたインスピレーションについてこう回想している。「ペンを手に取って座りながら、人が誰かを殺す最悪の理由を考えていたんだ。その時、これが頭に浮かんできた」。 カントリー・ミュージックは常にふたつの側面を抱えてきた。ひとつの側面は、クリーンで健全なサウンドだ。これは、ナッシュヴィルで洗練され、大衆向けの娯楽となった。もうひとつは、タフガイ的な側面だ。悲嘆にくれ、打ちのめされ、打ちひしがれ、虐げられた男女が岐路に立ち、誤った道を選択するのだ。しかし、ハリウッドのウェスタン映画と同様に、無法者が最も大きな魅力を備えていることは多い。 騒ぎを起こし、世間の評判も気にせず、権力者に唾を吐きかけ、大騒ぎを起こす者たち。ジョニー・キャッシュ、アーネスト・タブ、ウェイロン・ジェニングス、ジョニー・ペイチェックウィリー・ネルソン 、さらにはアウトロー系カントリーの元祖、ハンク・ウィリアムズなどが、カントリー・ミュージックの真のヒーローだ。」

W。ジョニーペイチェク?

19、テキサスサウンド その4 (アウトローとカウボーイ・サウンド

第4章 アウトローとカウボーイ・サウンド

19、テキサスサウンド その4 (アウトローとカウボーイ・サウンド) – COUNTRY MUSIC

W。動画は省略する。文中に埋め込まれている。完全にジョージジョーンズ調の歌唱、声、リズム。

引用

ジョニー・ペイチェックJohnny Paycheck 1938-2003 オハイオ生、が良い。
If You Think You’re Lonely
I’m The Only Hell My Mama Ever Raise 1975など多くのヒット曲がある。
ペイチェックサルーン(酒場、ホンキートンクと同じ)で絡まれ、そいつの頭に発砲して逮捕された。
裁判に掛けられた。銃砲所持違反くらいの罪でほとんど無罪になったが、彼の歌のせいだろう。憎めない男だ。
「俺はどんどん老いるが頭はさっぱり良くならない」と言う歌、我が身にように感じる。「I Grow Old Too Fast And Smart Too Slow」」

引用

少し若い、ジェミー・ジョンソンJamey Johnson 1975 モントゴメリー、アラバマ生が代表格だが、他のアーティストも素晴らしい。
High Cost OF Living 」はもう悪い仲間とは付き合わないと、夢で誓っている男の話。身につまされる歌だ。」

W.動画省略。

ウィリーネルソン調。ギターの弾き語り、声質など瓜二つ。

歌詞の内容はホンネ。

日本では必ず、放送禁止になるか、自主規制。こういう本音が表に出る所が良い。

   ↓

引用

カントリー歌手とその歌はどこの出身でどこにいようがナッシュビルを向いている。テキサスカントリーサウンドのパパ的存在、ウィリー・ネルソンも初期、10枚ほどのアルバムはナッシュビルの意向であったようだ。
「独自の方向を出していたら、もっと彼の成功は早かった」と、バック・オーエンスは書いていたが。
ウイリー・ネルソンやウィロン・ジェニングスはこの傾向を利用して髭面、長髪、汚れたような黒系の衣装、そして自分のサウンドアウトローとした。
共鳴したジョニー・キャシュ、クリス・クリストファーソンなどが
加わった。
クリスはジョニーの婿だった。自身でヘリコプターを操縦してジョニーの庭に着陸して、の歌のテープを渡したほどの間柄だ。

テキサスはドイツ系移民が多かったそうだ。地名、ルッケンバッハ
Luckenbach でウィロン・ジェニングスWaylon Jennings

ウェイロン・ジェニングス - Wikipedia

が毎年、コンサートをやり人気を集めた。ウィリーとWW2と言うコラボをやった。彼の歌、[Luckenbach Texas] は、
ギターと良い女がいれば、名声はいらないBasic Of Loveが本音という歌だ。 」

ja.wikipedia.org

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ハンク・ウィリアムズから始まるカントリー・ミュージックの反逆者たち

 

 

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引用

「 生まれた時から、ハンク・ウィリアムズには不運が続いた。まず、ハイラムという出生名は、出生証明書で誤記されていた。そして彼は、脊椎骨に先天的欠陥があったが、17歳で落馬したことで、さらにその欠陥が悪化した。彼は7歳でギターを始めた。年長の黒人ミュージシャン、ルーファス・‘ティートット’・ペインにコードや楽曲を習ったため、ハンク・ウィリアムズの曲にはブルースの要素が入っている。賢明なハンク・ウィリアムズは、音楽的な才能以外の点も考慮してバンドを雇った。例えば、ベース・プレイヤーのキャノンボール・ニコルズは、ミュージシャンになる前はレスラーをしていた。ハンク・ウィリアムズの故郷であるアラバマの武骨なクラブで演奏するにも、心強い人物だったのだ。

 

第二次世界大戦によってハンク・ウィリアムズのバンドは崩壊し、ハンク・ウィリアムズもひどいアルコール依存症となった。彼は1930年代後半からラジオ局WSFAでレギュラー・スポットを持っていたが、酩酊状態が多かったため、1942年に解雇された。

大戦後、ハンク・ウィリアムズと妻のオードリーはナッシュヴィルへと居を移し、音楽出版事業経営者のフレッド・ローズの目に留まった。フレッド・ローズをマネージャーに擁したハンク・ウィリアムズは、MGMレコードと契約を結び、すぐさまヒットを連発する。彼が同レーベルからリリースした最初の楽曲「Move It On Over」は、数千枚のセールスを記録した。ハンク・ウィリアムズはルイジアナ州シュリープポートに引っ越すと、ルイジアナ・ヘイライド(ラジオ番組/コンサート巡業団)に加わった。「Lovesick Blues」も大ヒットとなり、カントリー・チャートで16週連続ナンバー・ワンを記録すると、グランド・オール・オープリー出演を果たす。彼の飲酒癖が、カントリー・ミュージックのキュレーターというグランド・オール・オープリーの評判を傷つけるのではと危惧されたが、彼は観客を魅了し、過去最多となる6回ものアンコールを受けた。

 スターとなったハンク・ウィリアムズは、高額のキャラを請求できるようになり、「Wedding Bells」、「I’m So Lonesome I Could Cry」、「Moanin’ The Blues」、「Cold, Cold Heart」、そして不朽の名曲「Hey, Good Lookin’」等、ヒット曲も量産した。スパンコールや音符で飾ったスーツを身に着け、表向きには成功を勝ち取ったハンク・ウィリアムズだったが、心の中は苦悩に満ちていた。彼は背中の痛みを和らげようとモルヒネやアルコールを使用していたほか、酩酊状態でホテルの部屋を荒らしたり、銃で遊んだりするようになった。背中の痛みとアルコール依存症の治療を受けたものの、どちらも治らず、50年代前半には、そのキャリアも私生活もどん底を迎えていた。ハンク・ウィリアムズの結婚生活も破綻し、彼は家と息子(ハンク・ウィリアムズ・ジュニア)の親権も失った。また、グランド・オール・オープリーからも解雇され、自身のバンドすら失ってしまった。

ハンク・ウィリアムズの楽曲はトニー・ベネット等のアーティストにゴールド・ディスクをもたらしたが、ハンク・ウィリアムズ自身のパフォーマーとしての評判は急降下した。コンサート・プロモーターも、泥酔状態でパフォーマンスしてステージから落ちたり、公演自体をすっぽかしたりするハンク・ウィリアムズに愛想を尽かした。

1953年の元旦、オハイオで大きな公演が予定されていたが、猛吹雪で飛行機が飛ばず、ハンク・ウィリアムズは会場まで自分のキャデラックを運転してほしいと、タクシー運転手のチャールズ・カーを雇った。彼は体が温まるようウィスキーのボトルを持ちこむと、後部座席に座った。チャールズ・カーは給油のため、ウェスト・ヴァージニア州オーク・ヒルで車を停めると、ハンク・ウィリアムズが死んでいることに気づいた。警察は、ビールの缶と書きかけの歌詞を後部座席で見つけた。この時、チャートを急上昇していたハンク・ウィリアムズの最新シングルのタイトルは「I’ll Never Get Out Of This World Alive」だ。そのため、ハンク・ウィリアムは自分の寿命が長くないことを知っていたのではないかと推測する者もいる。

およそ2万人が安置公開されたハンク・ウィリアムズの遺体に別れを告げ、死後にリリースされた「Your Cheatin’ Heart」はカントリー・チャートで6週連続首位の座を守った。今日、ハンク・ウィリアムズの生涯と音楽はカントリー界において伝説となっているが、生前のハンク・ウィリアムズは決してみんなから受け入れられていなかったとして、彼の息子

Hank Williams Jr. - Wikipedia

はこれに反発している。「俺の父親のことが大好きだったなんて話をされるのにはもうウンザリだ。ナッシュヴィルの人々は、父を嫌っていたくせに」